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一章
一節
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「お前は悪魔だ」
「如何にも。私は悪魔だ」
不遜な態度に頭に血が昇る。クチバシ医者は包帯を巻いた右手を握るとランゲルハンスの鼻骨に見舞う。しかし右手は鼻先数ミリで止まった。いくら力を振り絞っても拳は進まない。大男ランゲルハンスは片手をクチバシ医者の肋が浮き出た薄い胸に掲げた。手は水面に入る如く波紋を広げて胸をすり抜ける。血管、薄い大胸筋、胸骨をすり抜け心臓を捕える。歯を食いしばったクチバシ医者はランゲルハンスの片手を両手で引き離そうとするが離れない。嫌な笑みを浮かべたランゲルハンスは爪を立て、体を持ち上げた。呼吸が浅くなり堪え難い苦痛をクチバシ医者は感じた。
僕は死ぬのか。
濡れた革マスクを涎で汚すが最後の力を振り絞った。苦痛に耐えきれず白眼を剥きそうになりながらも抗い、クチバシ医者はランゲルハンスを睨む。
おやめ、と女の声が割って入った。
ランゲルハンスが手を離すとクチバシ医者は鈍い音を立てて落ちた。激しく咳き込み胸に手を当てがい、声の方を見遣る。そこには背の高い黒衣の美女が佇んでいた。
「冗談だ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。
女はランゲルハンスを睨みつけ歩み寄る。
「二階に怪我人がいるんだろ? 静かにおし。ランゲルハンス、おふざけも度が過ぎるよ。それと鳥マスクのヒョロ吉、悪魔に勝てっこないよ。肉をつけて出直しな」
女は片手に抱いていた子豚と白鳩を床に下ろす。白鳩は包帯を咥えた子豚の背に乗った。彼らは鼻を鳴らすと真っ直ぐ二階へ昇って行った。
女は溜め息を吐く。スリットが深い黒のマンダリンドレスを纏い、ピクシーカットの黒髪で紅い唇が艶やかな女だ。
「アレが呼んだのかね?」ランゲルハンスは問う。
「そうさ。あの娘があんた達を心配して私に鳩を寄越したのさ」
女は天井に気を遣いつつも爪先で物を退かし獣道を作る。天井には乾燥したホオズキを連ねたモビールやナザル・ボンジュウ、ドライフラワーのアジサイ、ドリームキャッチャー、ニンニク等が幾つも麻紐で吊られていた。床にはサイフォンやビーカー、ドライフラワーが投げ込まれたワインの木箱が山積している。ガラクタに埋もれかけたトルコ絨毯にはテーブルがあり所狭しと夕食が並んでいる。ジャガイモのスープ、テリーヌ、シーザーサラダ、カプレーゼ、リエット、イギリスパン、チーズの盛り合わせ。しかし幸福なテーブルには不釣り合いな物が乗っていた。一輪の赤いガーベラを支えるビーカーの底にはエメラルド色の虹彩を輝かせた二つの眼球が沈む。クチバシ医者とランゲルハンスの争いの種だ。
女は木の椅子に腰掛けると脚を組み、テリーヌにフォークを突き刺し口にした。
「いいからお座りよ。スミレガモの肉を使ったのかい? 豪勢だね。今の時期は東でしか獲れないだろう? わざわざ取り寄せるなんて金持ちなこった」
ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑い、大きなカウチに座す。
「相変わらず我が家の主のようだな」隻眼を細めたランゲルハンスはボトルを向ける。
「『元我が家』だから好き勝手させて貰うよ」女が掌を開くと薄張りの白いワイングラスが現れた。ランゲルハンスはそれにワインを注ぐ。
クチバシ医者が呆然としていると女は微笑む。
「紹介が遅れたね。私はキルケー。離れ小島のアイアイエで暮らしている魔女さ。ランゲルハンスとは家族みたいなもんさね」
クチバシ医者は後退る。アイアイエ島のキルケーは神話に登場する、人を獣に変える魔女ではないか。屈強な隻眼の大男と意地の悪い魔女が相手では生きては帰れまい。
「取って喰いはしないよ。動物好きの魔女だからアイアイエ島のキルケーって呼ばれているだけさ。あんたを心配したニエに呼ばれて来たんだ。安心しな」
安堵したクチバシ医者はその場にへたり込んだ。
「それよりもあんた、酷い格好だね。濡れ鼠じゃないか。鳥マスクも濡れ煎餅になってるよ。風呂を貸して貰いな」
キルケーに勧められるがまま、クチバシ医者は風呂を借りた。
バスルームに入るとマスクを外す。医者でもないのに『クチバシ医者』と呼ばれた理由が分かった。ペスト患者を診察するクチバシ医者のマスクを被っていたらしい。
マスクを洗面台に置くと黒い長髪に包まれた顔が鏡に映る。暗く落ち窪んだ眼窩に嵌まった青白く光る大きな瞳が自らを嘲笑する。顔を隠して暮らせればどんなに良いだろうと考えていた事を思い出した。クチバシ医者はフェイスタオルを濡らすと鏡に貼付けた。そして右手に巻かれた包帯を外すと爛れた皮膚が覗いた。
猫足のバスタブには花の香りが漂う白い湯が満ちていた。湯に浸かると腰まで届く長い黒髪が四方に広がる。溜め息を吐き浴槽の縁に頭を委ねると瞳を閉じる。
記憶を整理しようとするがこの家に来るまでの短時間の記憶しかない。何故この島に居るのだろう。湯をすくい、顔に掛けると記憶を整理する。
「如何にも。私は悪魔だ」
不遜な態度に頭に血が昇る。クチバシ医者は包帯を巻いた右手を握るとランゲルハンスの鼻骨に見舞う。しかし右手は鼻先数ミリで止まった。いくら力を振り絞っても拳は進まない。大男ランゲルハンスは片手をクチバシ医者の肋が浮き出た薄い胸に掲げた。手は水面に入る如く波紋を広げて胸をすり抜ける。血管、薄い大胸筋、胸骨をすり抜け心臓を捕える。歯を食いしばったクチバシ医者はランゲルハンスの片手を両手で引き離そうとするが離れない。嫌な笑みを浮かべたランゲルハンスは爪を立て、体を持ち上げた。呼吸が浅くなり堪え難い苦痛をクチバシ医者は感じた。
僕は死ぬのか。
濡れた革マスクを涎で汚すが最後の力を振り絞った。苦痛に耐えきれず白眼を剥きそうになりながらも抗い、クチバシ医者はランゲルハンスを睨む。
おやめ、と女の声が割って入った。
ランゲルハンスが手を離すとクチバシ医者は鈍い音を立てて落ちた。激しく咳き込み胸に手を当てがい、声の方を見遣る。そこには背の高い黒衣の美女が佇んでいた。
「冗談だ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。
女はランゲルハンスを睨みつけ歩み寄る。
「二階に怪我人がいるんだろ? 静かにおし。ランゲルハンス、おふざけも度が過ぎるよ。それと鳥マスクのヒョロ吉、悪魔に勝てっこないよ。肉をつけて出直しな」
女は片手に抱いていた子豚と白鳩を床に下ろす。白鳩は包帯を咥えた子豚の背に乗った。彼らは鼻を鳴らすと真っ直ぐ二階へ昇って行った。
女は溜め息を吐く。スリットが深い黒のマンダリンドレスを纏い、ピクシーカットの黒髪で紅い唇が艶やかな女だ。
「アレが呼んだのかね?」ランゲルハンスは問う。
「そうさ。あの娘があんた達を心配して私に鳩を寄越したのさ」
女は天井に気を遣いつつも爪先で物を退かし獣道を作る。天井には乾燥したホオズキを連ねたモビールやナザル・ボンジュウ、ドライフラワーのアジサイ、ドリームキャッチャー、ニンニク等が幾つも麻紐で吊られていた。床にはサイフォンやビーカー、ドライフラワーが投げ込まれたワインの木箱が山積している。ガラクタに埋もれかけたトルコ絨毯にはテーブルがあり所狭しと夕食が並んでいる。ジャガイモのスープ、テリーヌ、シーザーサラダ、カプレーゼ、リエット、イギリスパン、チーズの盛り合わせ。しかし幸福なテーブルには不釣り合いな物が乗っていた。一輪の赤いガーベラを支えるビーカーの底にはエメラルド色の虹彩を輝かせた二つの眼球が沈む。クチバシ医者とランゲルハンスの争いの種だ。
女は木の椅子に腰掛けると脚を組み、テリーヌにフォークを突き刺し口にした。
「いいからお座りよ。スミレガモの肉を使ったのかい? 豪勢だね。今の時期は東でしか獲れないだろう? わざわざ取り寄せるなんて金持ちなこった」
ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑い、大きなカウチに座す。
「相変わらず我が家の主のようだな」隻眼を細めたランゲルハンスはボトルを向ける。
「『元我が家』だから好き勝手させて貰うよ」女が掌を開くと薄張りの白いワイングラスが現れた。ランゲルハンスはそれにワインを注ぐ。
クチバシ医者が呆然としていると女は微笑む。
「紹介が遅れたね。私はキルケー。離れ小島のアイアイエで暮らしている魔女さ。ランゲルハンスとは家族みたいなもんさね」
クチバシ医者は後退る。アイアイエ島のキルケーは神話に登場する、人を獣に変える魔女ではないか。屈強な隻眼の大男と意地の悪い魔女が相手では生きては帰れまい。
「取って喰いはしないよ。動物好きの魔女だからアイアイエ島のキルケーって呼ばれているだけさ。あんたを心配したニエに呼ばれて来たんだ。安心しな」
安堵したクチバシ医者はその場にへたり込んだ。
「それよりもあんた、酷い格好だね。濡れ鼠じゃないか。鳥マスクも濡れ煎餅になってるよ。風呂を貸して貰いな」
キルケーに勧められるがまま、クチバシ医者は風呂を借りた。
バスルームに入るとマスクを外す。医者でもないのに『クチバシ医者』と呼ばれた理由が分かった。ペスト患者を診察するクチバシ医者のマスクを被っていたらしい。
マスクを洗面台に置くと黒い長髪に包まれた顔が鏡に映る。暗く落ち窪んだ眼窩に嵌まった青白く光る大きな瞳が自らを嘲笑する。顔を隠して暮らせればどんなに良いだろうと考えていた事を思い出した。クチバシ医者はフェイスタオルを濡らすと鏡に貼付けた。そして右手に巻かれた包帯を外すと爛れた皮膚が覗いた。
猫足のバスタブには花の香りが漂う白い湯が満ちていた。湯に浸かると腰まで届く長い黒髪が四方に広がる。溜め息を吐き浴槽の縁に頭を委ねると瞳を閉じる。
記憶を整理しようとするがこの家に来るまでの短時間の記憶しかない。何故この島に居るのだろう。湯をすくい、顔に掛けると記憶を整理する。
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