ランゲルハンス島奇譚(1)「天使は瞳を閉じて」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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一章

十二節

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 クチバシ医者が目覚めたのは海中だった。ペスト帽を外しベストの間に挟み、光差す海面を目指す。水を掻く手や水を打つ脚が軽いと感じた。彼の左手の小指にはアクアマリンの指輪が燦然と輝く。

 海面から顔を出すと島の砂浜が見えた。白木の十字架の近くに誰かが居る。顔を出したまま泳ぎ海から上がった。重力が働き濡れた服が肌に纏わり付いて体が重い。クチバシ医者はベストからペスト帽を取り出すと被った。袖や裾を絞りつつ白木の十字架に近付く。乾いた砂には水滴の跡が生まれた。

 白木の十字架の前では背を向けた人魚が尾を曲げて座し項垂れている。

「おい」

 声を掛けた瞬間、人魚は両肩を上げて振り向いた。胸の前で手を組んでいる。

「驚かさないでよ!」人魚は血色の瞳で睨むと組んでいた手を解いた。

「誰の墓なんだ?」

「……シュリンクスの墓よ。遺体が無いから彼女の遺品の葦笛が入ってるだけ」
「祈っていたのかい?」

「だったら何よ!」

 クチバシ医者は重力に慣れない体を引きずると人魚の隣に座した。

「君に貸した布あっただろ? パーンの布」

 人魚は豊かな胸の間から布を取り出すとクチバシ医者に渡した。

「これが何よ」

「墓に埋めてやろう。いつも彼女達が一緒に居られるようにって」

「……死んじゃったんだ」人魚は血色の瞳を潤ませる。

 空に向かって慟哭する人魚にクチバシ医者は慌てて声を掛ける。

「記憶を取り戻して現世に帰ったんだよ! シュリンクスもパーンより先に帰ってたんだ。だからいつまでも一緒に居られるようにって笛と一緒に布を」

 クチバシ医者のマスクに強烈なビンタが一発飛んできた。

「紛らわしい事言わないでよ!」

「ごめん」

「良かった。現世に帰れたのね。幸せになるといいわね」人魚は溜め息を吐く。

「うん。でも人魚は寂しくないのかい?」

 人魚は血色の三白眼でクチバシ医者を睨んだ。クチバシ医者は怯んだ。

「……そうね。寂しくないと言えば嘘になるかもね。アタシって食いしん坊でしょ。名無しの魂や魚以外食べないけど皆怖がって近付かないの。でもパーンは友達になってくれた」

 クチバシ医者は頷いた。

「アタシの背に乗って島とアイアイエ島をよく往復したわ。その内シュリンクスも友達になってね。楽しかったわ。……気が遠くなる程生きていても友達を失うのは報えるわね」

「ニエやキルケーは? 彼女達は友達じゃないのかい?」

「ニエが友達の訳ないでしょ。あの子や悪魔とは不俱戴天よ。アタシのご飯をかっ攫うんだもの。キルケーは話し相手って感じかしらね」

「そっか」

「それよりもパーンの布を埋めるんでしょ」人魚は十字架の手前の砂を掘り起こす。

 クチバシ医者もそれを手伝う。小指に嵌めたアクアマリンの指輪が輝く。

「アンタいい指輪持ってるじゃない」手を休めない人魚は顎で指輪を示す。

「これ? カロンって女の人に貰ったんだ」クチバシ医者は左手を掲げて指輪を見せる。

「アケロン河の渡しのカロンね。何? 遠距離結婚でもする気?」

「なんでさ?」

「アクアマリンって航海のお守りなのよ。アンタ、水脈に乗って帰ってきたでしょ。そのお守りだろうけど、幸せな結婚を象徴する意味もあるのよ。好かれたかもね」

 砂を掘り進めると葦笛の先が覗く。人魚は丁寧に周りを掘る。葦笛の姿がはっきり見えるとクチバシ医者は隣にパーンの布を置いた。そして二人で砂を被せる。

「まさか。『夫になれ』ってマスクを剥がされて顔見られた。だけどお断りされたよ。その時に貰ったんだ」クチバシ医者は溜め息を吐いた。

「余っ程好みじゃない顔だったのね。童貞には縁遠いけどお詫びにくれたのかもね。大事に持ってなさいよ」

「うるさいな」

 砂を被せるとパーンとシュリンクスがいつまでも一緒に居られるよう祈りを捧げた。

 人魚の背に乗ったクチバシ医者はアイアイエ島まで送って貰うと彼女と別れた。

 屋敷に入り『ただいま』と呟く。木の階段を慌ただしく下る足音が聞こえたかと思うとステンドグラスのドアを開け放ったキルケーに抱きつかれた。彼女は肩を震わせていた。

「無事で帰っておいでだったんだね」顔を上げないキルケーから鼻声が聞こえる。

 クチバシ医者はキルケーの背に右手を回して軽く叩いた。

「心配かけてごめん。ただいま」

 開け放たれたステンドグラスのドアからニエとランゲルハンスも姿を現した。ニエがクチバシ医者の左手を取る。

「ただいま」クチバシ医者はニエと握手を交わした。

 壁に凭れ腕を組んだランゲルハンスは唇の端を少し上げて笑う。

「おい」クチバシ医者はランゲルハンスを睨む。

「何かね?」

「全てお前が企んだ事なんだろう?」

「さあね」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。

「喰えない奴だな。それよりも助けてくれ」クチバシ医者はキルケーの背を叩いた。

 ランゲルハンスがキルケーを呼ぶと我に返り離れた。彼女は鼻先を赤くして目を腫らしていた。

「やだね私ったら。でも心配したんだよ。外に居た魂が急にランゲルハンスの眼窩に飛び込むし、あんたが冥府に残るとか言うし、ベッドに横たわらせたあんたの体が霧散するんだもの。もう帰って来られないかと思ってたんだよ」

「心配かけてごめん」

「心配するのが家族さ。聞きたい事が沢山あるけどまずは風呂だ。その胡麻汚しの体を何とかしないとね。これ以上屋敷を歩かれると流石の私も怒るよ」

 壁にかかった楕円の大鏡でクチバシ医者は姿を確認した。海水に濡れた服には白い砂が沢山ついていた。彼は大人しく風呂場に案内された。

 風呂から上がってバスローブを羽織ると一階のサンルームへ通された。キルケーが淹れた紅茶を飲み動物達に囲まれ、四人で話をした。

 クチバシ医者は冥府での経緯を伝えた。ランゲルハンス達は道が閉ざされるまでの事は知っていた。しかし以降の事は知らなかったようでクチバシ医者が戻れないと絶望していたらしい。クチバシ医者は指輪を見せた。ランゲルハンスは石の意味を知っていたようで『大事にしろ。時々細君に会いに行き給え』と揶揄った。『言われなくとも。友達だからね』とクチバシ医者は睨んだ。

 大方の出来事を話すとクチバシ医者は椅子の背凭れに体を預けた。緊張の糸が解けて眠気に教われる。疲れた。

「二階のベッドでお眠りよ」キルケーが優しく揺さぶる。

「ん……動きたくない」クチバシ医者は頭を横に振った。

「静かな方がいいね。リビングに居るからね。よくお休み」クチバシ医者にブランケットを掛けたキルケーはランゲルハンスとニエ、動物達を連れ立ちサンルームを後にした。

「うん……お休み」

 クチバシ医者の瞼は自身の重みに耐え切れず瞳を覆った。

 午後の柔らかな日差しを受けるサンルーム。外のハーブが生い茂る庭では二尾の魂が仲睦まじそうに回り、安らかに眠るクチバシ医者を窓から見守っていた。



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