ランゲルハンス島奇譚(1)「天使は瞳を閉じて」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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二章

七節

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 一週間経ったがランゲルハンスは姿を現さない。それでもニエは愛しい男をカウチで待っていた。入れ違いになるのを恐れて外出しなかった。大好きなクラブサンも弾く気になれなかった。腹と背がくっつきそうな程空腹を覚えても何も口にしなかった。空腹過ぎて一匙口に入れるだけで吐き気を覚えるからだ。

 心配したクチバシ医者とフォスフォロが家を訪ねたが笑顔で帰した。主の不在時に男を家に上げたくなかった。話を聞いたキルケーが来ても大丈夫だ、と微笑みやり過ごした。

 しかし我慢が限界に達した。先生に会いたい。強い想いが余計な詮索をしたくないと言う理性を打ち砕いた。ランゲルハンスの魔術の痕跡は既に消えた。痕跡から師を追うのは不可能だ。思案したニエは床に散らかしたワインの木箱の一つから地図を出し、広げた。

 先生は私に嘘を吐かない。言葉の数が足りなくても一度として私に嘘を吐いた事はない。

 ニエは思い出した。クチバシ医者が『今年も山に籠る』としか聞いていないと話した事を。毎年ニジマスの燻製を提げて帰宅するランゲルハンスの事を。

 地図から山を探した。この広大な島に山数が少ないのは幸いだった。しかし四方にあるので数日では全てを捜索出来ない。捜索地を絞る。鉱山を除外すると一つだけ残った。西の山だ。ニエは西の山へ向かう為に支度をした。

 そんな折にクチバシ医者が家を訪ねた。アンゴラ地のモスグリーンのショールを羽織ったニエを見た彼はダリアの花束とプリンを渡した。

「あれ? 何処に出掛けるの?」

 地図に記載された西の山をニエは指差す。

「山? もしかして悪魔を探しに行くの?」

 憔悴し切った顔でニエは頷いた。

「手伝うよ。ニエがこんなになるまで放っておくあいつを許せないしね」

 気のいい返事にニエは心から感謝を示し微笑する。

「一つお願いがあるんだ。このプリン食べてからにして。このまま歩くと倒れちゃうよ」

 プリンを急いで食べるとダリアを活けて白い帆布のリュックサックを背負った。ケンタウロスを呼ぼうと白鳩を飛ばした所にクチバシ医者の家を出たフォスフォロと鉢合わせた。

「お。やつれた姫が出て来たな。何だい? 大げさな荷物背負って」フォスフォロは白い箱を片手に抱えている。

「悪魔を西の山まで探しに行くんだ」クチバシ医者が答えた。

「うーん……ハンスも隅に置けないなぁ。しかしあいつもいい大人で魔術師だから身動き取れない訳じゃないと思うな。もう少し待ってみたらどうだい?」

 ニエは首を横に振る。

「もう少しなんて待ってたらニエがミイラになっちゃうよ」クチバシ医者は眉を下げた。

 フォスフォロはニエを見遣る。ランゲルハンスの側に居た時の彼女は頬が赤みがかり唇も艶やかで、茜色の髪もしなやかに流れていた。しかし今は見る影も無く荒んでいる。

「女の子から笑顔を取り上げるなんて許し難いな。音沙汰なく放るのはいただけない。俺も手伝うよ。用があるから待っていてくれないか?」フォスフォロはウィンクを投げた。

「また今日も諦めずに行くのか?」

「まあね。ケンタウロス呼んでるし、直ぐ戻るさ」

 折よく来た尾花栗毛のケンタウロスに跨がると海岸までの道を疾駆した。

「今日もプリンの箱抱えてご機嫌伺いなんてマメだな」クチバシ医者は独りごちた。



 尾花栗毛のケンタウロスはものの数分で海岸までフォスフォロを連れて来た。軽やかに下馬したフォスフォロは頼んだ。

「直ぐに戻るから待っていてくれないかい?」

 ケンタウロスは鼻を鳴らすと顎で海岸を示した。

「ははっ。グラシャス。恩に着るよ」

 ケンタウロスの腕を叩いたフォスフォロは砂地をブーツで踏みしめ、白い箱を抱え海へ向かう。秋の海は風が吹きすさび曇天と呼応したように鈍色に染まっていた。

「お魚ちゃん、居るんだろ? 出て来てくれよ」フォスフォロは海へ叫ぶ。

 しかし人魚が顔を出す事はなく、返事の代わりに響くのは波の音だけだった。

「ま、会いたくないのは分かってるさ。今日もお菓子あるから食べてくれよ」

 砂浜に白い箱を置いたフォスフォロは背を向けケンタウロスの許へと戻る。

 海面から顔だけ出した人魚はその様を覗いていた。

「……アイツ、いつもはもう少し粘るくせに今日は諦めが早いじゃない」

 仏頂面の人魚は潜ったかと思うと砂地に上がり白い箱を開けた。プリン二つと木彫りの小さなスプーンが二本入っていた。

「いつも二つ入っているのよね」人魚は溜め息を零す。

「君と二人で食べようと作ったからさ」

 人魚が振り返るとフォスフォロが顔を覗いていた。言葉を失った人魚は動く事もままならなかったが、やっとの思いで言葉を発した。

「なんでいるのよ!?」

「フェイントで振り返ったら君が居たからさ」フォスフォロは微笑んだ。

 人魚は溜め息を吐く。

「あ、そう。逃げたら感じ悪いから言うけど……毎日お菓子持って来てくれてありがとう。ちゃんとキルケーと一緒に食べてるわよ」

「どういたしまして」満面の笑みを向けたフォスフォロは立ち上がり踵を返した。

「え。ちょっと、何処行くのよ?」

 立ち止まったフォスフォロは振り返る。

「急いで戻らなきゃ。クチバシ医者は山に柴刈りにニエは川に洗濯に」

「話が見えないわよ。きちんと説明しなさいよ」

 人魚はプリンを取り、突き出した。それを受取ったフォスフォロは隣に座して共にプリンを食べつつ詳細を話した。

「……そう。あの娘も大変なのね。気持ちは分かるわ」人魚は瞳を伏せる。

「だから戻って捜索の手伝いしないと」フォスフォロは立ち上がった。

「手伝うわ」

「え?」

「手伝ってやるって言ったの! あの娘や悪魔やアンタに借りを借りっ放しなのが嫌なだけ! 変な誤解しないでよね!」

「ありがとう」

 舌打ちした人魚は胸の谷間から取り出した丸薬を飲んだ。脚を生やした彼女はフォスフォロと共にケンタウロスに跨がった。

 クチバシ医者とニエは店の前の赤いベンチに座してフォスフォロの帰りを今や遅しと待っていた。西の山へ向かう為に呼んだケンタウロスも二頭、既に来ている。彼らも暇を持て余し腹巻きから花札を取り出し賭博をする。

 地平線の彼方からこちらに駆け寄る影が見えた。

「遅い!」クチバシ医者は影に叫ぶ。

 影は直ぐにケンタウロスとフォスフォロになり、ベンチの前で停止した。クチバシ医者が眼にしたのは彼らだけではなかった。フォスフォロの前には脚を生やした人魚が居た。軽やかに下馬したフォスフォロは人魚の足に両手を差し出しそれを踏ませて下ろした。

「なんでここに?」クチバシ医者は人魚に問う。

「借りを返しに。手伝うわ」人魚はフォスフォロにジャケットを着せられる。

 微笑んだニエは頭を下げた。

「アンタ、酷い顔してるわね。惚れた男に会うのよ。少し化粧しなさい」胸の谷間から魚柄のピルケースを取り出すと薬指で薄紅をすくい、ニエの唇に塗る。薄紅を差されたニエは笑顔になった。いつもの優しい雰囲気を纏った彼女に戻った。

「そうよ。笑いなさい。男はね、笑顔の女が一番好きなのよ」

 クチバシ医者とフォスフォロは互いを見合わせて笑った。

 花札に興じるケンタウロスに出立を知らせると、ニエは葦毛のケンタウロスに軽やかに跨がった。フォスフォロも人魚を尾花栗毛のケンタウロスに乗せて自らも跨がる。

 クチバシ医者は戸惑った。乗馬した記憶なんてない。しかしこれ以上遅れさせる訳もいかず青毛のケンタウロスのあぶみに足を掛ける。彼は軽やかに乗馬した。

 まさか鈍臭い自分が乗馬出来るとは。嬉しくなったクチバシ医者は背筋を伸ばし両脹ら脛でケンタウロスの腹を圧迫した。

 失笑したケンタウロスが振り返る。

「お客さん、馬に乗っていなさったね? 俺ぁ馬じゃねえから扶助は要らねえよ」

「馬なんて乗ってたの? 意外ね」フォスフォロの背後で人魚が悪戯っぽく笑う。

「知るもんか。記憶なんて無いのに。だけど自然に乗れるなんて驚いたよ」

 クチバシ医者は手のやり場に困った。手綱がない。ケンタウロスの裸の上半身に触れていいものなのだろうか。

「じゃあひとっ走り行きますぜ。お客さん、肩によぉく掴まってておくんなさいよ」

 青毛のケンタウロスは常歩し次第に駈歩し、荒れ地を後にした。
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