ランゲルハンス島奇譚(1)「天使は瞳を閉じて」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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二章

十二節

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 山小屋で遣い魔に起されたフォスフォロはランゲルハンスの言伝を聞いた。朝日を顔に浴びても尚眠る人魚を起こし、遣い魔を先導に下山した。麓で待機していたケンタウロスに乗馬すると疾駆させ、北の海まで人魚を送り届ける。

「また会いに来ても?」砂浜に佇むフォスフォロは岸辺に座す人魚に問う。

 唇を尖らせ黙していた人魚は口を開く。

「……またお菓子持って来るなら構ってやっても良いわよ」

「ははっ。グラシャス。じゃあ次は甘いワインと焼き菓子を持って来るよ」

 フォスフォロは右手を差し出した。人魚は素直に右手を握り、二、三度振って離す。

「じゃあ、また」フォスフォロは踵を返すと待たせていたケンタウロスに跨がった。

「ずっと待っているから」フォスフォロは言い放つとケンタウロスを促し砂浜を後にした。

 腕を組んだ人魚は遠ざかる影を眺めて鼻を鳴らした。彼女は目許を微かに綻ばせていた。

 下馬したフォスフォロはランゲルハンス宅のドアを叩いた。少し間を置いてドアが開く。招じ入れたのは頬を染めたニエだった。彼女の左薬指には大粒のダイヤモンドの指輪が燦然と輝く。フォスフォロは親指を立てウィンクを投げた。ニエは更に頬を染め俯いた。

「あまり妻を揶揄うな。朝からそんな調子だ。髪と顔の境目が分からない。西の山のように真っ赤だ」キッチンに佇むランゲルハンスは振り向きもしない。

 料理に勤しむ家主にフォスフォロは歌いつつ歩み寄る。

「炎となって消えよ、サラマンデルよ! ざわめきて流れ寄れ、ウンデーネよ! 隕石の美しさに輝け、ジルフェよ! 家事の手だすけをせよ。インクブス! インクブス! ってね。君は何処に居たんだ?」

「鉱山だ」ランゲルハンスは火に掛けた鍋を木べらでかき回す。

「あ、そう。鉱山ね。『山に籠る』には違いない」

 視界の端でフォスフォロはニエの左手を見遣るとランゲルハンスの背を叩く。

「隅に置けない男だな。俺の時も探すのを手伝ってくれよ」

 ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑うと火を止める。鍋の中身を小さな土鍋に移し、蓋をすると牛と豚のミトンを二つフォスフォロに差し出した。

「クチバシ医者に渡し給え。妻とはぐれて雨の中落とし穴に落ちていた。いつも早朝から外に出ているが今日は出て来ない。寝込んでいるようだ」

 フォスフォロはミトンを見つめて思案したが受取った。

「今は俺が適任かもな。見舞いしてから帰るよ。この一カ月楽しかった。グラシャス」ミトンをはめ土鍋を持ったフォスフォロは踵を返す。

 片手でドアを開けたフォスフォロが振り返るとニエが便箋を白鳩の脚に結んでいるのが見えた。ドアを優しく閉めフォスフォロはクチバシ医者の家へ向かう。

 合鍵を使って家に入る。ランゲルハンスの予想通りクチバシ医者は寝込んでいた。首筋から大量の汗を流しているのでガーゼのパジャマは水分を含む。呼吸が荒いがそれでもマスクを外さずに横たわっている。

「やれやれ。頑固だな」口で牛のミトンを外すとテーブルへ放り、その上に土鍋を置く。

 目を覚ましたクチバシ医者は頭をフォスフォロに向ける。

「……無事で良かった。心配してた。自分だけ山を降りてずるいと思って」

「馬鹿だな。病人のくせに人を心配して。本当にお人好しだ」フォスフォロは微笑むと豚のミトンで蓋を開けた。湯気が昇りトマトの香りが部屋に広がる。

「リゾットだとさ。食べて早く元気になってくれ」フォスフォロはミトンを外した手でクチバシ医者のマスクを軽く叩いた。

「ありがとう」

「じゃあ帰るよ。手紙を書く。色々頼みたい事もあるからな」フォスフォロは踵を返す。

「待ってくれよ」

「何だい?」フォスフォロは振り向いた。

 徐に上半身を起したクチバシ医者がピューロを指差す。そこには太った金貨の袋がある。

「やっぱり部屋代なんて受取れないよ。こんなの受取ったら友達じゃない

「友達が増えて嬉しいよ。だけどこれは置かせてくれ。頼みたい仕事があるんだ。依頼料だ」フォスフォロは笑う。

「本当か?」

「本当だ。俺が君に嘘を吐いた事があるかい?」

「沢山嘘を吐いてきたじゃないか」クチバシ医者は鼻を鳴らす。

「それは友達じゃなかったからさ。友達には嘘吐かないよ」

「本当か?」

「本当だ」

 クチバシ医者は手を差し伸べた。フォスフォロは手を強く握ると離した。

「時々遊びに来るよ。また泊まらせてくれ」鍵を掲げるとフォスフォロは階段を下った。

 家を出ると眉を下げ二階の窓を見上げるユウが居た。彼女は大きな帆布のトートバッグを肩に下げている。バッグからはタオルや氷嚢、体温計が垣間見える。片手には見覚えがある便箋が握り締められていた。先程ニエが白鳩の脚に結びつけた物だ。

 フォスフォロは声を掛けた。

「クチバシ医者は自分で食事出来ない程弱ってる。優しく食べさせてくれるかい?」

 頬を桃色に染めたユウは頷くと家に入った。

 晴れ渡る秋空を仰ぎ、フォスフォロはジャケットを肩に掛けケンタウロスのタクシー営業所へ向かう。耳を澄ますと甲斐甲斐しく世話を焼く声がクチバシ医者の家から微かに聞こえた。
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