ランゲルハンス島奇譚(1)「天使は瞳を閉じて」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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四章

四節

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 翌日も午前休だったのでローレンスは双子を起こすと自室へ案内した。ドアを解錠するとコーヒーの香りが出迎える。どうやらイポリトが帰っているようだ。ローレンスは双子に『僕の友達が帰ってるからはしゃがないようにね』と言い聞かせてリビングへ向かった。

 リビングの革張りの黒いソファでは苦悶の表情をしたイポリトが座したまま眠っていた。コーヒーテーブルには空のウィスキー瓶が置かれ、ビーフジャーキーの空袋から屑が落ちていた。マグからは湯気が昇る。

 ローレンスは風呂の支度をした。背凭れに体を預け眠る厳つい男を双子は見つめた。しかし何かに気付いたユウはリュウに耳打ちした。二人はブランケットを探しに部屋を忍び足で歩き回る。ブランケットを見つけたリュウはイポリトの膝にかけた。

 支度を終えたローレンスが戻ると、ブランケットが掛けられたイポリトを双子は見つめていた。ローレンスは双子を褒め、風呂場に案内した。イポリトは三人の後ろ姿を薄目を開けて見送った。

 今日も『なんで』を連発するユウをローレンスは言い包めてタオルを巻かせた。双子の頭を洗うとリビングに戻る。ソファでイポリトが携帯電話を眺めていた。

「気を遣わせたみたいでごめんね」ローレンスは久々に顔を合わせる相棒に微笑む。

 イポリトは舌打ちするとブランケットを投げつけた。

「だからガキは好かねぇんだ」

 ローレンスは失笑した。イポリトはキッチンへ向かうとコーヒーを淹れた。

「朝帰りとはご苦労なこった」イポリトは茶渋がついたマグを差し出す。

 ローレンスは礼を述べるとマグに口を付けた。

「一度だけ目を瞑ってやる。だがこれ以上事を起すな。俺の立場が危うくなるどころか悪魔の島さえ危うくなる。それにじいさんが壊れちまう。今回が最初で最後だ」イポリトはローレンスを睨みつけた。

 ローレンスは足許を見つめていたが瞳を閉じて頷いた。イポリトは舌打ちする。

「あー、説教なんざ性に合わねぇ! 終わりだ、終わり! それにしても初めて女と寝たんじゃねぇか? やるなぁロリコンじじい」

「きっ君みたいに如何わしい事なんかするものか!」ローレンスは頬を染める。

「ほう、性愛が如何わしいとな。エロスに対して不敬じゃねーか。有性生殖の生物たぁ優れた子孫を残そうと繁殖するもんだ。それの何処が如何わしい?」

「君は子孫を残すよりも過程を楽しんでるだけだろう!」

「そうさ。だから普通の女を泣かさねぇよう、その手の商売のおねーちゃんや脚の閉じが緩いおねーちゃんに世話になってんだ。この世に生まれ落ちたからには美味い酒を浴びるように飲む! 綺麗なおねーちゃんを抱く! 質の良い眠りをとる! これ程の娯楽があるかってんだ。じいさんはその殆どに背を向けてんだ。僧侶じゃねーのに損な男だよ全く」

「悪かったな。……僕は君程立派な男じゃないしそんな風に人生を楽しめないよ」

「慰めがあの双子って訳か」

「……うん」

 溜め息を吐いたイポリトは腕を組む。

「せめてあの娘っ子が長生きしてくれたらなぁ。ファックしてじいさんのガキが出来て、俺も監視から外されて万々歳なのになぁ」

「そんな事になってたまるものか! 僕は人間を悲しませたくないし、子供に死神をやらせたくはない!」

「ほう。相手があの娘である事を否定しねぇな。やっぱ唾つけてんじゃねーか。ありゃ大層な別嬪になるぞ。気だてはいいし死神面を恐れねぇ勇気ある娘っ子だ」

 ローレンスは頬を染めると黙した。

「なんだぁ? 図星か?」

 俯いたローレンスは居心地悪そうに口をもぞもぞ動かしていたが言葉を発した。

「……実は昨夜、プロポーズされて、首を縦に振っちゃったんだ」

「やっぱりロリコンじじいじゃねぇか」

 ローレンスが溜息を漏らすと、風呂場から双子が彼を呼ぶ。入浴を終えたらしい。

「奥方が上がったようだな。押し倒すんじゃねぇぞ、ロリコン」イポリトはローレンスの背を叩く。ローレンスは赤面したままイポリトを睨みつけると風呂場へ向かった。



 その日は帰りが遅くなる、と双子に伝えたが夕方には家路についた。ウールの黒いコートを着たローレンスは店から出ると鼻の頭と耳の先を染めて雪道を注意深く歩いた。大通りの街灯と店の光が降り積もる小雪と人々を照らす。仕事帰りの大人達は色とりどりの傘を差して家やパブ、バールを目指す。道を行き交う人々の間を両手に荷物を提げたローレンスは縫うようにして歩く。すれ違い様に老齢のご婦人に荷物を当ててしまった。彼は謝った。ご婦人は顔を見ると少し驚いた。しかし彼が提げていた玩具屋の紙袋に視線を落とすと『パパは大変ね』と微笑んだ。ローレンスは会釈し、アパートへ続く脇道を歩いた。

 アパートへ近付くと真向かいの元酒屋のシャッターが半分上がっていた。明かりが漏れている。ローレンスは立ち止まった。孫娘が帰ってから一度としてシャッターは上げられなかった。今にして上がっているなんてどういう事だろう。いよいよ酒屋が潰されて新しい店舗になるのだろうか。

 ローレンスは思い出した。イポリトが女を連れ込みステュクスも混んでいて、行く当てなくアパートの前に座っていると酒屋の老人が声を掛けてくれた。店内で酒を酌み交わした。孫娘の幼い頃の話をうんざりと聞かされた。遠方に嫁いだ孫娘の話をする度に老人は幸せそうに笑った。想い出深い酒屋が無くなるのは寂しいが仕方が無かった。ローレンスは踵を返しアパートへ向かう。しかし立ち止まった。

 何処からかローレンスを呼ぶ声がする。『おにいちゃん』とユウとリュウの声が響く。ローレンスは辺りを見回す。

「おにいちゃん」もう一度ローレンスは呼ばれた。

 アパートを見上げると声の出所を捕えた。四階のベランダからユウとリュウが手を振っていた。彼らは水色のマフラーを互いの手に巻き付けている。二人は積み重ねられたガラクタに乗り、フェンスから身を乗り出している。

 短い悲鳴を上げたローレンスは『そこから動かないように』と怒鳴った。二人は顔を見合わせる。余裕無く叱るローレンスの心情がただ事で無いのを察し、降りる事にした。

 ベランダでもぞもぞと動く双子を見てローレンスは再度命じた。しかし双子はこれ以上ベランダに留まってローレンスを怒らせては悪いと考えた。

 言う事を聞いてくれないなら一刻も早く部屋に行くべきだ。ローレンスは荷物を投げ捨てアパートへ駆け込もうとした。

 事は一瞬だった。身を乗り出していたユウはバランスを崩す。マフラーを手に巻き付けていたリュウ諸共フェンスを乗り越え落下した。ローレンスの前で軽い嫌な音が響く。四階にいた双子が落ちていた。言葉を失ったローレンスは双子に駆け寄る。二人の息は浅い。体から抜けた魂が太い尾を引いて宙に浮いていた。

 何をしてやれる訳でも無く、彼らの頬に触れた。するとコートの内ポケットに入れた携帯電話が振動する。青白く光る瞳から涙を流し、顔をしかめた彼は電話を取る。液晶には双子の氏名と画像、そしてエリュシオン送りである事が記載されていた。

 彼は歯が砕けそうな程噛み締めると小雪が舞い降りる空へ咆哮する。涙で視界が阻まれると決意した。匿名で電話を掛け救急車を呼ぶ。携帯電話を握り潰すと双子の魂の尾を体から切り離した。光り輝く二尾の魂を愛しげに見つめるとベストに入れる。そして荷物を拾い四階の部屋に上がり彼らに買い与えた物や私物を回収し、裏口から河へ向かった。

 大通りに出ると救急車が青色灯を回転させ、アパートへ向かう。大通りからやって来た野次馬がざわめく。救急隊員の足音や無線が鳴り響く中、静かなのは雪の音だけだった。

 即日にローレンスの行為は明るみに出た。彼と監視役であるイポリトはハデスに呼びつけられた。ローレンスは当面の停職処分を、イポリトは半年の減給処分を言い渡された。二度も冥府の最高神に逆らうなど前代未聞だった。かつて主神ゼウスがプロメテウスを罰したように永遠に値する刑罰をローレンスに与えるべきだとハデスは考えた。しかしローレンスは既にその刑罰を受けている。この先も直系の子孫を残さぬのならば人の世が続く限り職務を全うせねばならない。直ぐに職務復帰させては問題を起こすと考えたハデスは頭を冷やす期間を設けた。

 停職処分などどうでも良かった。ハデスに睨まれてもローレンスはユウとリュウの魂を想い続けた。人間から、そして彼らの死から少しでも離れられるなら不老不死の自分の腑を鷲に喰われても構わないとさえ思っていた。ハデスから解放されたローレンスはあの事故の日に双子に渡すつもりだった水色の双子のドラゴンのぬいぐるみを日がな一日抱いて過ごした。ベランダから寒空を眺めるのが日課になった。日に一度は摂っていた食事を止め、睡眠もせずに双子や死神の仕事を考え続けた。艶やかな美しい黒髪から脂気が抜ける。痩躯は更に儚くなり眼の周りも黒ずむ。カッターシャツとジーンズを着ただけのローレンスは寒空の下で白い息を吐き、裸足でベランダのウッドチェアに体を預けて死を待つ。しかし神である彼は死ねなかった。

 減給されて商売女を抱けなくなったイポリトは苛立ち、唇を噛み過ぎて血だらけになった。彼は心を失ったローレンスを見る度に舌打ちした。監視役着任当時に戻ったようなローレンスの姿を見てられなかった。出勤前に料理をベランダのウッドテーブルに置いたが帰宅しても料理は手つかずのままで凍っていた。彼は青銅の像のように冷えきったローレンスを部屋に入れた。そんな日々が年明けても尚続いた。

 その日もローレンスはベランダのウッドチェアに体を預け寒空の下、景色を眺めた。眺めると言うよりも瞳に灰白色の空を映すだけだった。しかし彼の瞳が僅かに動いた。淀んだ瞳が捕えたのは向かいの建物のエントランスから出て来た女だった。鳥かごを提げた女はウェーブが掛かった茜色の髪を緑色のゴムで無造作に結わえていた。

 彼女は鳥かごを置くと白い息を吐きつつシャッターを上げる。新しい店舗が現れた。大きな窓からは色彩豊かな花達が咲き誇る様が覗く。ガラスには『ギルロイ』と赤字でペイントされていた。酒屋の外装はそのままだ。女は店舗を解錠するとドアを開け放ち、鳥かごを提げて中へ入った。

 ローレンスはその日、身を乗り出して店舗を眺めた。帰宅したイポリトにフェンスから引き剥がされるまで眺めていた。イポリトの話によると花屋の女主人は酒屋の老人の孫娘らしい。仕事帰りに立ち寄ったイポリトが女主人と話していたのはローレンスも眺めていたので知っていた。若くして結婚した彼女は亭主の田舎で花屋をやっていたそうだ。しかし夫婦生活が巧くいかず離婚して老人の許へ帰ろうとしていた矢先に老人が亡くなった。首都に戻った彼女は相続した遺産と元亭主と分割した財産で花屋を開いたそうだ。

「良かった。おじいさんの店が守られて」ローレンスはあの日以来、初めて口を開いた。

「なーにが『良かった』だ。世話焼かせやがって」イポリトはローレンスの頭を叩く。

「……ごめん。君に沢山迷惑を掛けた。遅くまで仕事があるのに僕の面倒見てくれて」

 イポリトはローレンスの額を指で弾く。

「ぶぁーか。俺はじいさんの監視役だ。じいさんがビーフジャーキーみてぇに干涸びたらどやされるのは俺だ。これ以上迷惑掛けたくなけりゃガンガン飯を喰え。少し太れ」

「……うん」

「あの双子の為にもな」イポリトは鼻を鳴らすと自室に入った。
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