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死に向かう君へ
しおりを挟む「一緒に死のうって、約束をしたんだ」
そう言って俯いてしまったあなたから、俺は目が離せなかった。
*****
別れの日というには、なんとも絵になる天気だった。モノトーンの幕に囲まれた世界に青とも緑とも判別出来ない雲が垂れ、風に吹かれた柔らかい雫が真っ黒いスーツやらワンピースやらを濡らしていく。地面にじわりと沁み込んでいく雨は体感としてはささやかなもので、これなら傘も要らないだろうと纏わりついて離れない線香の香りに背中を向けた。
七つ上の兄が亡くなって、まだ三日と経っていない。数年振りに見る兄の表情は眠るように穏やかで、この人はこんな顔をしていただろうか、と記憶の糸を手繰り寄せても見つからない。
兄が高校を卒業してからは、数えられる程度しか顔を合わせていない。肉親であっても俺は兄のことなど何も知らないのだと、突き付けられた事実に笑ってしまいそうで、向けられた視線に慌てて口元を隠した。
仕事先での上司や大学時代の友人だと名乗る人々の群れに挨拶を返す両親から離れ、一人きりになれる場所を探して当てもなく歩く。新芽の萌ゆる季節はとっくに過ぎ去ったはずなのに、背の高い木々の隙間に蕾は見えない。花の咲かない種類を選んで植えているのか、それとも日当たりが悪くて成長速度が遅いのか。初めて訪れた場所の常なんて分からない俺は、きょろきょろと理由もなく視線を泳がせてしまう。
「……あれ?」
駐車場は敷地の外にあるおかげで、建物の裏手には植物が生え並ぶだけ。ここならば手を合わせに来てくれる人にも会わないだろう。そう思って木々の間を抜けてきたのに、目が眩むほど緑一色に染まった紫陽花を盾にして男が一人、ぼんやりと佇んでいた。
真っ黒に塗りつぶされた、折り目のついた真新しいスーツ。少しだけ猫背になった身体は遠目からでも分かるくらい線が細くて、囲うように大きく生え育った葉っぱに埋もれてしまいそうだ。灰色にも満たない不思議な色を落とした景色の中でも日に焼けていない肌は白く、スーツの黒さや濡れて艶やかに光る緑とのコントラストが目に痛かった。
悲しそうで、口惜しそうで、淋しそうな。伏し目がちになった目尻は雨のせいなのか、それとも別の原因があったのか。僅かに血色を良くしたそこは、深く印象に残っていった。
「あ、の……。大丈夫、ですか?」
一歩を進めるたびに履き慣れない革靴が霧雨にぬかるんだ土を撥ね、成人式で一度着たきりだったスーツを汚していくのが分かる。太腿を大きく伸びた蔦が掠め、地肌までをも濡らしていく。
きっと、母親に叱られるだろう。普段のんびりと優しいばかりの母親が怒ると、誰も太刀打ち出来ないくらいに恐ろしい。彼女の逆鱗に触れてしまうのはなるべく避けたい。そう思うのに、たった一人で立ち尽くしたままの男から逃れることは出来なくて、気が付いたときには声をかけていた。
声色を落として飛び出していった言葉に、男はひくりと小さく肩を揺らす。思わずと言った様子で持ち上げられた瞳は真ん丸に開かれていて、あと三歩で手が届く距離まで詰めていた俺を真っ直ぐに反射した。
黒目の大きな、子どものように澄んだ瞳をしていた。濡れて光る先に映っているものさえ見えて、惹き込まれていくのが自分でも分かる。力強さとはかけ離れているようで、実際はその言葉を表すのに相応しい、宝石にも匹敵してしまう綺麗な瞳。
「あ、えっと、……そうだ、かさ。傘、借りてきましょうか?」
彼の瞳に映った俺は情けないくらいに狼狽えていて、だけれどそれも仕方のないことだと無理矢理に納得させる。
見上げてくる涙に歪んだ瞳も、目尻に滲んだ淡い赤色も、微かに震えている薄い唇も、その全てが何よりも綺麗で、何よりも可哀想で。兄の知り合いだったのならば俺よりもいくらか年上であるはずなのに、どうしても放っておけないと思ってしまう。
「……ぇ?あ、いや、大丈夫」
吐息とともに溢れ出た声は、鼻にかかって高く響いて聞こえるのに、俺の心をひどく揺さぶった。交わっていた視線が静かに逸らされて、伏し目になった睫毛が丸められていた瞳を跡形もなく隠してしまう。猫背になっていた背中が天を向くように伸ばされたのは、この人なりの大丈夫だ、というアピールなのだろうか。
七つも離れていると、知っていることよりも知らないことの方が多くなる。兄の交友関係も、職場での態度も、好き嫌いも、俺は何も知らない。もっと話しておけば良かった、と浮かんでくる後悔よりも、今は兄のためだけにひっそりと静かに涙を流すこの人が羨ましかった。
こんな綺麗な人に慕われていた兄は幸せものだ。そう思わずにはいられなくて、そう思った自分に驚いた。
「君は、垣崎先輩のご家族、で間違いないかな?」
「はい。弟の司です」
葬儀場で両親と並んでいるところを見ていたのだろう。お焼香を待っている列にこの綺麗な人はいただろうか。記憶を辿ろうとして、現実味のない光景に呆然としていたことだけを思い出した。
「垣崎先輩には、入社当時からずっと、お世話になりました。この度は、」
ご愁傷さまです。続けようとした言葉は容易に想像出来るが、ぼろぼろと崩れていく涙のおかげで失敗に終わってしまった。決壊した感情に蓋をすることも叶わず、乱暴に目元を擦っては薄い唇を噛み締める。目尻も下唇も、目の前で肉付きの薄い肩を震わせる彼には似つかわしくないほどに赤く、色を滲ませていた。
「兄とは、親しかったんですか?」
そうじゃないと、死んだ男の肉親を前にして泣いてはくれないだろう。心の内だけでツッコミを入れて、兄にもこうして泣いてくれる人がいたことに安心した。俺も、父親も母親も、今はまだ戸惑いの方が強いから。ふらっと帰ってくるんじゃないかって、白百合に包まれて穏やかに眠る顔を眺めていても思ってしまう。
「先輩とは、……約束を、していたんだ」
「約束……?」
ひとしきり涙を溢して落ち着いたのか、睫毛を揺らした彼はまるでたからものを扱うような丁寧さで声色を落とす。ほんの僅かに口角が緩まり、目尻の赤色が目に見えて濃くなったような気がした。
ぴんと伸ばされていた背中がまた少しだけ丸くなって、見上げてくる瞳には遮るものもなく俺だけが映り込んでいる。だけれど、彼が見ているのは俺なんかじゃない。
それ以上は何も言おうとしない姿に、俺はただそうですか、と返し直すことしか出来ない。兄はこの綺麗な人との約束を破って死んでしまった。この先一生叶うことのない約束は彼の中だけで生きて、事あるごとに蘇っては思い返すのだろう。
「そろそろ、戻った方がいいかな」
「あー、ですね」
ささやかな風が吹いて、また俺たちのジャケットを重く湿らせていく。どれくらいここでぼんやりと言葉を交わしていたのかは分からないが、生い茂る木々に反響して俺を呼ぶ母親の声が聞こえた。
動こうとはしない彼に、俺はお辞儀をひとつ残して背中を向ける。涙の乾ききっていないこの人を一人きりにはしたくないと思っても、なんて声をかけるのが正解なのか分からなかった。
紫陽花の鮮やかな緑を乗り越えて、背の高い木々の隙間に入り込んだところで振り返る。綺麗で可哀想なあの人は黒にも緑にも負けないコントラストで立ち続けていたのに、伏せられた瞳が俺に向くことはもう、二度とない。
涙に濡れた目尻も、噛み締めたせいで腫れてしまった下唇も、揺れる睫毛も。俺は何度だって脳裏に描くのだろう。兄と約束をしたのだと、悲しみと淋しさに満ちた無意識の小さな笑みは、きっと忘れることなど出来はしない。
あんな人に慕われていたくせに、あんな綺麗な人がそばにいたのに。自ら死を選び、全てを投げ捨ててしまった兄に、俺はやるせなさを込めた溜息を吐き出した。
*****
「……」
「……あの?」
向かい合った姿勢のままで、俺は間抜けそのもののようにぽっかりと口を開けて言葉を失くしてしまった。
四年制の国立大学を卒業し、俺が新たに社会人として就職先に選んだのは七つ上の兄が勤めていた会社だった。決め手になるだけの理由はなく、兄が働いているのなら大丈夫だろうという、漠然とした選び方だった。
履歴書を送って、試験を受けて、面接をして、合格通知が届いたのは五月の半ば。兄が亡くなるひと月ほど前で、四十九日が過ぎてからも他の会社を受け直す気にはならなかった。
「期待の新人、垣崎の弟くんだ。指導係はこいつ。数見は元々、垣崎の下にいたからな。仲良くやれよー」
当たり前のことながら兄と同じ苗字で、初対面では間違われるほどに似通った顔で。自殺という憶測や噂の立ちやすい死に様だったのだ、きっと何かしら言われるのだろう。新人いじめ、なんてものに発展しなければいいなぁ、とどこか他人事のように今日を待ち受けていたのに、いざ迎えてみれば拍子抜けするくらい温かく受け入れてくれた。
大変だったなぁ。
あいつには世話になったんだ。
困ったことがあったらいつでも言ってね。
気まずそうな笑みが添えられていることもあったが、予想していた雰囲気とは真逆であることに安堵した。これなら肩肘張らずにやっていけそうだ、と気持ちが持ち上がって、指導係として紹介されたのは二度と会うことはないだろうと思っていた人だった。
数見廉太郎。国語の教科書に載っていそうな名前で指されたのはあの日、雨に濡れて艶やかに光る緑の中、兄と約束をしていたのだと静かに泣いていた人だ。蛍光灯の下でも相変わらず線が細く綺麗で、目尻に赤色が滲んでいないことにそっと息を吐き出した。
「垣崎くん?数見?どうした、二人して」
父親と同い年くらいの浅田営業部長は俺たちを見比べて、何があったのかと不思議そうに顎髭をいじる。目尻に刻まれた笑い皺も、照明の光りを浴びて輝く白髪交じりの髪の毛も、過ごしてきた年月は透けて見えるのに声色だけは随分と若々しい。くたびれた父親と比べてしまいそうになって、この一年弱で急激に痩せ細った背中は首を振ることで追い払った。
「いや、先輩とは兄の、」
「先に、社内を案内してきます」
見上げてきていた黒目の大きな瞳は、不自然さを隠すことも出来ずに睫毛の奥へと逃げてしまう。細かい影が下瞼に落とされ、遮るように吐き出された声色は微かに震えていた。
向かい合っただけのときには何の感情も見せてはいなかった、はずだ。互いに視線を下げるだけの会釈をして、弟だと告げられた瞬間に見せたのは驚きと不安。丸く見開かれた瞳はひび割れてしまったかのようで、一度会っていることを思い出したからなのか、兄の面影を見つけてしまったからなのか。彼の反応からはそのどちらであったのか、読み取ることは容易くない。
俯いたまま踵を返した数見先輩に驚いたのは浅田部長も同じようで、助けを求めた先で眉尻を下げて何も言えないでいた。指導係に引き継ぎをしたらあとはそいつに任せるから、と言われていた以上は遠くなっていく背中を追いかけるより他になくて、顔の前で両手を合わせる部長に頭を下げた。
どんどんと進んでいく彼に追いつこうと小走りになって、一歩分の距離を空けたところで速度を落とす。振り返ることもしなかった先輩だったけれど、俺が後を追えるように歩くスピードは優しいものにしてくれていたらしい。迷いのない足取りに俺はかける言葉も見つけられなくて、カルガモ親子のようにただ、静かに先輩の後ろを歩いた。
通り過ぎていく部屋から漏れるコール音やコピー機の稼働音が響くだけで、俺たち二人を纏う空気は重苦しい。息が詰まるかのような閉塞感を覚えて、気を紛らわそうと意味もなく各部屋のプレートを横目に眺めた。
「僕たちは基本的にこの階以外は使わないから、今日はよく使う場所だけを説明しておきます」
「っあ、はい」
前を向いたままに声をかけられて、伝わってくる声の硬さに瞬きを繰り返した。強張った背中はあの日見たときと同じように軽く丸められていて、上擦った肩が壊れてしまいそうなくらいに薄い。俺以上に緊張しているらしい彼を和ませてあげたいのに、いつもなら滑らかに動く舌も痺れたように乾いたまま。容易く折れてしまいそうな細い身体に、俺は自分の不甲斐無さを痛感させられた。
「ここが資料室。データで纏められているのは五年前からだから、それ以前のものは全部この部屋で保管されてる」
俺が新入社員として配属されたのは営業部で、小規模な会社ながらも取引先は多い。ぐるりと一周した資料室は一人が通れるだけのスペースを空けて、無遠慮に紙の束が押し詰められていた。どこにどの企業資料があるか憶えるだけでも大変そうだ、と恐怖を感じていると、横目で見ていたらしい数見先輩がそっと息を吐き出す気配がした。
「全部を憶える必要はないし、ある程度は区切ってある。安心して大丈夫だよ」
跳ねた蛍光灯の白さは、銀ラックの影になった先輩のところにまでは届かない。空気を揺らす穏やかな吐息だけを残した姿に、纏っていた硬さも薄れている気がした。良かった、と胸を撫で下ろしていると、さっさと次に移動する背中を小走りに追いかける羽目になった。
資料室の次は企画部で、その次は簡易的な給湯室。男子トイレを横切ったすぐに会議室が二つ向かい合っていて、扉の横に取り付けられたプレートには何故かゆるいテイストで動物が描かれていた。
「ねこと、……きりん?」
トイレに近い側の会議室に描かれていたのはやたらと胴の長いネコで、気の抜けそうなゆるさながらも一目で判別出来た。けれど、その向かい側に鎮座するイラストには首を傾げ、辛うじて縦に長く伸びた姿にキリンだと仕分けをする。幼稚園児でももう少し分かりやすいキリンが描けるだろうと思える仕上がりに、俺はただ場違いな可愛らしさに疑問符を浮かべるしかない。
「あぁ、それはうちの部長作」
「えっ!?」
「子どもでももっと上手く描けるだろうって、社長が面白がってプレートにしたんだ」
説明してくれる声に驚いて振り返ると、数見先輩が呆れたように眉尻を下げて笑っていた。他の階にある会議室には別の動物が描かれていて、いつかは営業部のプレートもこのゆるいイラストになるんじゃないかと、淡々と話す口元はどことなく嬉しそうに見える。
さっきまでは父親と同じくらいの、声色の若い楽しい上司だとしか思っていなかったのに、たったこれだけの情報で印象ががらりと変わってしまった。白髪交じりの髪の毛を後ろに流し、顎髭を整えた浅田部長がこれを描いたのか。上手いとも下手とも言えないゆるいイラストを真面目に描く部長も、それを面白がって会社のプレートに使ってしまう社長も、俺が思っているよりもずっと癖が強いのかもしれない。
見つめ合うかのようにはめ込まれたネコとキリンを写真に撮るかどうか迷って、パンツのポケットが空になっていることに気が付いた。どこかのタイミングで鞄に入れてしまったのだろう。名残惜しさを感じて何度も二つを見比べていると、先輩が口角を僅かに上げたまま頼めば描いてくれるよ、と教えてくれる。
「……もしかして、描いてもらったんですか?」
「……ノーコメントで」
浮かべていた笑みが消え、視線さえも逸らされてしまったけれど、それが何よりの答えだった。この綺麗な人がわざわざ部長にゆるい動物を描いてくれ、とお願いしたのかと思うと、見た目とのギャップに面白くなってしまう。
何を描いてもらったのだろうか。気になって尋ねようとすると、何かを察したのか先輩は背中を向けて歩き出してしまった。もうこの話は終わりだと言外に告げられていて、俺はもう一度向かい合う動物を眺めて、速度を上げた先輩を追った。
「一番使うのは資料室と、猫の会議室くらい。あとこの階にないのは……、あぁ。喫煙所くらいか」
営業部の部屋から一番遠い資料室から順を追って案内してもらったけれど、狭い部類に入るだろうビル内では三十分もかけずに終わってしまった。足りなかったところはないか、と立ち止まって考えている数見先輩に気付かれないように見下ろして、癖の全くない黒髪から覗く目尻に思いを馳せる。
拳一つ分ほど低い身長は腰の位置が高く、細さも相俟ってモデルだと言われても信じてしまいそうなスタイルの良さだった。傷みの知らない艶やかな髪の毛も、薄いけれど重さのある長い睫毛も、考えるときの癖なのだろうか、顎先を撫でる整えられた丸い爪も、数見先輩を飾る全てが輝いて見える。綺麗で、今すぐにでも消えてしまいそうな儚さも滲ませていて、眩しくて知らず目を細めてしまう。
あの日と同じだ。目が離せなくて、放っておけなくて、気が付いたときには声をかけてしまっている。約束をしたのだ、と二度と届くことはない何処かに視線を這わせ、微笑みを隠そうとする声色のぬるさに、口惜しくなる。
どんな約束を交わしたのだろうか。聞いても答えてはくれないだろう。兄の名前が出されたときの、深く傷付いたような数見先輩の表情が蘇る。部長作のイラストのことは嬉しそうに話してくれるのに、兄については希望が見えなかった。
「……垣崎?」
伏し目になった睫毛の影を見つめていたはずの視線は、いつの間にか地面に向かって落ちていたらしい。覗き込んできた先輩の瞳が蛍光灯の光りを反射して、何が映っているのかも分からないくらい眩しかった。
「っ、すみません!えっと、」
「いや、別に大丈夫だけど……。喫煙所の場所がちょっと遠くて、出来れば後回しにしたいんだけれどいいかな?」
真っ直ぐに見上げてくる黒目がちな瞳は俺を映していたけれど、そこは凪いだ水面のように静かだ。兄の名前に向けていた緊張も、俺に対して向けていた強張りも溶けていて、何も映してこない穏やかさを湛えていた。初めて会ったのが兄のお葬式だったから感情が剥き出しになっていたけれど、本当の数見先輩は全然違うのかもしれない。
もっと知りたい。もっと話したい。ふわりふわりと積もっていく感情は柔らかくて、弾力のある周りは指先で押しても弾けることのないように思えた。
「吸わないんで、大丈夫ですよ」
大学のゼミで仲の良かった数人がヘビースモーカーだったおかげで喫煙の経験はあるが、自分から好んで煙草を買おうと思ったことはなかった。友人に付き合うたびに染みついてしまう煙の匂いを両親が良く思わないこともあって、もう一年は喫煙スペースにも立ち寄っていない。
多分、行かないんで。両手を振って大丈夫だと軽く告げると、数見先輩は睫毛を震わせて可能な限りに見開いてみせた。
「先輩?」
「……そこは、似ていないんだね」
ぽつりと、こぼれ落ちた言葉に喉の奥で二酸化炭素が逆流する気がした。誰と比べているのかなんて聞かなくても分かる。兄は成人を迎える前から吸っていて、それは死んでしまうその日まで変わっていないだろう。薄ぼやけた煙の奥で、兄がじっと俺を見つめていた。
告げられた言葉に二の句が続けられなくて、噛み締めた奥歯が軋んで痛い。握った両の手のひらには爪が食い込んで、じりじりと焼けるような痛みを訴えてくる。
「数見先輩は、兄と、」
「ごめん、何でもないよ」
自分が何を言いたいのかも決まっていないのに、流れていく言葉を止めることが出来ない。遮るように吐き捨てられた声色は静かで、逸らされた瞳の奥に潜む感情がどういうものなのか、俺にはよく見えなかった。
あからさまに兄の話題を避けられてから数時間。一周するだけの社内ツアーから戻った俺は部長の顔が碌に見れなくなって不思議そうな表情を向けられたりはしたが、無事に午前中の仕事を終わらせることが出来た。外回りに同行するのは来週から始めるらしく、今日はひたすらにパソコンとの睨めっこばかりだった。
数字の入力自体は簡単なこととは言え、仕事としての作業は慣れていない。固まった腰をゆっくりと伸ばし、視界に浅田部長の横顔が入ったところで腹筋に力を入れる。あのかっこいいおじさんがゆるいネコやキリンの絵を描いたのだと、思い出すだけで一週間は余裕で笑えてしまう。
お昼はどうしようか。この会社はどの部署も等しく十二時から休憩に入るらしく、一階にある食堂はすぐに満席になってしまうのだと教えられた。食べに出掛けるにも会社近くにどんな店が並んでいるのかも分からず、だったら、と狭い室内を見渡す。
仕事を教えてもらっている間中ずっと、数見先輩は俺と目線を合わせないようにしていた。兄の話題を頑なに出そうとしないのは、無意識に比べてしまったことへの罪悪感だろうか。似ていることは幼い頃から言われ続けてきて、俺自身はさほど気にしていない。両親に辛い思いをさせていることには嫌気もさすが、何でも出来る自慢の兄に似ていると言われるのは自慢だった。
それに、数見先輩とは仲良くなりたいと思うのだ。兄という共通点はこの会社にいる人がみんな持っているけれど、あの人はどこか別なのだと本能が告げている。あの日、霧雨に濡れる彼を見てから忘れられない。綺麗で、可哀想で、いつでも消えてしまえそうな儚い人。何に惹かれているのかは分からないが、先輩後輩として気軽に話せるようになりたかった。
昼休憩を一緒に過ごせれば、プライベートな会話も色々と出来るだろう。どうしてこの会社に入ったのかであったり、趣味のことであったり、休日の過ごし方であったり。少しでも数見先輩のことが知りたくて、今は兄とした約束のことなんて忘れておくことに決めた。
俺の席は出入り口に一番近い端っこで、数見先輩は部長に近い奥まったところだ。人の少なくなったデスク周りに視線を向けて目当ての人物を探すと、小さなトートバッグを手にした先輩が部屋から出ようとしているところだった。
食堂か、外に出るのか。彼の向かう先など知らない俺は、慌てて財布とスマホを鞄から引っ張り出した。扉の隙間からするりと出て行ってしまった先輩を足早に追いかけて、今日はあの薄い背中ばかりを見ている気がするな、と苦笑を漏らす。
エレベーターを待つ人の波を抜けて、一番遠い資料室の前を横切った背中が消えていったのは非常階段だ。閉まりそうになる扉を引くと、ビルの隙間を流れてきた風に前髪が揺れた。茶色い錆の浮かんできた階段は踏みつけるたびにか細い音を鳴らし、数見先輩が向かっている先を教えてくれる。
営業部があるのはこのビル最上の五階で、上に残っているのは屋上だけだ。
「出れるんだ……」
くるくると向きを変えて靡いてくる風に抗って、小さくなる足音を追いかける。フェンスが四方を覆う屋上にはすぐにたどり着いて、左隅で座り込む先輩の影が淡く映った。今日は曇っているおかげで風は強いが、屋根のない屋上ではこれくらいの方が過ごしやすいだろう。
扉代わりにもなっているフェンスの一部を押すと、金属の擦れる音が遠くまで響いていく。きぃきぃと金網が覚束なく揺れて、鍵の掛からないそれに一抹の不安を覚えた。
「数見先輩!」
隅っこで体育座りをしていた先輩はフェンスを押す音で気が付いていたみたいだが、俺だとは思わなかったのか真っ直ぐに見上げてくる瞳が丸く形を変えていく。瞬きさえも忘れてしまった真ん丸い瞳が可笑しくて、堪らなくなった俺は立場も忘れて吹き出してしまった。
「そんな驚くことですか?」
「……ここは、人気がないから」
羽織っていたジャケットが風に揺れて、耳に掛けていた前髪が先輩の白い肌を隠す。状況をなかなか飲み込めずに箸をケースごと落としてしまった彼に、転がってきたシンプルなそれを拾い上げて渡してやる。視線を逸らせないまま受け取った様子に、俺は笑いの尾が引いてくれずにもう一度笑った。
「いつもここなんですか?」
薄い身体を折り曲げた先輩の前にはストライプ模様のバンダナを下敷きに弁当箱が置かれていて、俺は隣に座りながら問いかけた。自分で作ったのか、それとも誰かに作ってもらったものなのか。聞きたいことが次々と溢れてきて、弁当箱から視線を移した先で未だ驚いたままの先輩に首を傾げた。
鍵がないということは、誰にでも開放されている屋上なのだろう。人気がないとは言っていたが、自分以外がやってくることはそんなに珍しいことなのだろうか。
丸い瞳が何度も睫毛を鳴らし、ぼんやりと見返してくる理由に見当が付かない。何だろうか、と口を開こうとして、それよりも先に数見先輩の視線がそっと伏せられた。
「そう、だけど……。君は、どうしてここに?」
「先輩と一緒に食いたくて、追いかけてきました」
先輩の視線はコンクリートの上に落ちていると分かっていても、敢えてにこにこと深く笑って見せた。小動物が影から顔を覗かせるようなゆっくりさで数見先輩の視線が上がり、垂れた眉尻がどうして、と困惑を形作っている。それにも俺はどうしたものか、と笑って、真似るように立てていた両膝を崩した。
「でも君、何も持ってきてないよ」
「それは、そのぉ……。まさか屋上とは思ってなくて、ですね……」
痛いところを突かれてしまった。右手には財布を、パンツのポケットにはスマホを。それだけしか持っていない俺に、先輩は腕時計を確認してからまた、困惑と心配を混ぜ込んだ視線を上げる。
「コンビニ、歩くと十分はかかるよ」
諭すように吐き出された言葉に、思い出したのは駅の近くで見かけた青い看板だ。そう言えば、あそこ以外にコンビニの前を通った記憶はない。高低差も様々なビルはいくつも見上げてきたが、スーパーマーケットの類も見ていなかった。エレベーターに乗り合わせた女性社員たちは揃ってビニール袋を提げていたことまで思い出して、にこやかに先輩へと向けていた顔が下がっていく。
コンビニまで行って帰ってきたらそれだけで昼休憩のほとんどが終わってしまうだろう。先輩と話すような時間は残されていなくて、爪の甘さにただ項垂れるしかない。
「明日!数見先輩は明日もここですか?」
「まぁ、うん。大体は屋上で食べてる、けど……」
「じゃあ、明日からここで一緒に食べてもいいですか?」
ぐるぐると低い音を鳴らしてくる腹を終業時間まで無視することは出来そうになくて、せっかくここまで追いかけてきたのに、と唇を噛む。指導係が数見先輩になることも、彼が弁当派だったことも知らないのだから当然ではあるが、感じてしまう口惜しさに明日こそは、とリベンジの炎を燃やす。
俺の勢いに最初こそは驚いていたものの、続いていく言葉に先輩の眉間に皺が寄っていく。拒絶の色こそ見えない表情に気圧されそうになりながら、俺はじっと彼の言葉を待った。
「さっきも言ったけど、風が強くて人気がないから、僕以外は来ないと思うよ?」
柔らかく刻まれた皺は、ここで食べる理由が分からないために浮かんだものだった。自分と一緒に食べたいのだという考えにはどうしてもたどり着かないのか、先輩は言外に食堂や外で別の誰かと一緒に食べることを勧めている。
だけれど、俺は数見先輩と仲良くなりたいのだ。そりゃあいつかは浅田部長だったり、同期の子だったり、他の誰かと食べることも視野には入れているけれど、今は先輩と喋りたい。数見先輩のことが知りたかった。
「大丈夫です。数見先輩と一緒に食べたいんで」
回りくどい言い方はせずに、真っ正面から伝えてやる。俺の言葉に何度も瞬く先輩は小動物のように幼く見えて、ゆるいテイストのネコやキリンがよく似合うように思えた。
「……別に、僕は良いけど」
雲に覆われて微かになった光りが先輩の長い睫毛に届き、瞬くたびに星が散っていくようだった。目映い心地がして、それを誤魔化すように笑みを深くする。細めた視線の先で先輩はひたすらに戸惑いだけを浮かべていて、拒絶されなかったことに安心した。
「じゃあ、今日は適当に食べてきます」
ぐるりと腹の虫が音を上げるから、離れ難い先輩の隣から立ち上がる。見上げてくる瞳は視線を追うようについてきて、逸らされた首が白くて細い。
失礼します、とひとつ頭を下げて、俺は先輩に背中を向ける。いつも屋上で食べていること、自分かご家族かの手作り弁当を持参していること。仕事以外に知れたのはたったこれだけだったが、勝手に取りつけた明日の約束に俺の心は浮足立つ。
明日は何を話そうか、先輩の何が知れるだろうか。フェンスにかけた手のひらをそのままに振り返ると、数見先輩の視線はすでに弁当箱へと落ちている。手渡したケースから丁寧に箸が取り出され、両手に握り込んで顔の前で合わされた。
いただきます。開いた距離のおかげで数見先輩の声なんて聞こえはしないのに、俺は確かにその音を聞いた気がした。
*****
境目なんてないと錯覚させるほど深く、広い青空から降り注ぐ光は眩しい。遮るものがないせいで真っ直ぐに届いてくる黄金とも、灰白とも判別つかない色は数見先輩の痩せた頬を強調させた。
昨日宣言した通り、昼休憩の鐘が鳴ると同時に席を立った先輩の後ろ姿を追って俺も屋上へと上ってきた。本当に来るとは思っていなかったのか、先輩は少しだけ瞳を丸めて見せたが、俺が隣に腰を落ち着けても何も言ってくることはない。紺色の布地にストライプ模様が踊ったバンダナを広げる指先が微かに震えていて、社内ツアーをしてくれた最初に戻ったみたいだった。
「お弁当、先輩が作ってるんですか?」
一段目には雑穀米、というのだろうか。赤茶色に炊けたお米がふっくらと敷き詰められていて、真ん中には胡麻が散っていた。二段目には定番の卵焼きと焼き鮭、ピーマンと混ざっているオレンジと茶色は人参と、あとはなんだろうか。彩りに添えられているブロッコリーとミニトマトが可愛らしい。
「うん、まぁ、簡単なものばかりだけど」
「いやいやいや、めっちゃ美味そうですよ」
生き生きとした野菜の緑と赤に鮭の香ばしいピンク、輝くような卵の黄色が弁当箱に隙間なく詰まっていて、見ているだけで口内に唾液が溜まっていく。俺が今日の昼食として買っていたのは総菜パン一つとおにぎりが二つ。コンビニでは美味しそうに見えたそれらも、色鮮やかなお弁当の前では霞んで見えてしまう。
不服を申し立てるように腹の虫がぎゅるりと鳴って、俺は沈めるようにジャケットもネクタイも巻き込んで腹を撫でさする。明日はもう少し、昼食らしいものを選んでみよう。
正座をした数見先輩は両手に箸を挟んだまま手のひらを合わせ、僅かに唇だけを動かした。声色も、吐息さえも見えない行為だったけれど、小さく丸められた背中に丁寧さが浮かんでいる気がする。昨日も見た光景にやっぱり、と頷いて、俺も手のひらを合わせた。
「……美味しいか、分からないけれど」
数見先輩が作ってきたお弁当と、俺の買ってきた昼食と。何度か視線を巡らせていた先輩は、弁当箱の蓋に卵焼きを一切れ乗せてそっと差し出してきた。綺麗に巻かれた黄色が目映いくらいに輝いていて、俺はどういうことかと顔を持ち上げる。先輩の視線はどこか遠くに逸らされていたけれど、風に煽られて露わになった耳朶が赤くなっていた。
「いらなかったら、」
「いります!食べたいです!」
僅かに寄せられた眉間の皺が慣れていない様を表しているようで、俺は慌ててひっこめられそうになった弁当箱の蓋を受け取った。細めに切られていた卵焼きは焦げのひとつもついていなくて、どの角度から見ても完璧に仕上がっている。いただきます、と上擦ってしまった声色が幼くて、昂った心臓が煩い。
一口に全部押し込んで、舌先に広がった甘さに目を開いた。焼き鮭と並んでいたせいで和風の味付けになっているのかと思っていたが、砂糖とみりんの甘さが優しく広がっていく。慣れないパソコン作業に疲弊した心が解されていくようで、真っ直ぐに結んでいた口角がゆっくりと上がっていく。
「先輩、これ、美味しいです」
なんて言えばこの感動が伝えられるのか分からなかった。食事なんてある程度美味しく腹が満たされればそれでいいと思っていて、二十二年の人生で好き嫌いを区別したこともない。それなのに、先輩の作った甘い卵焼きは美味しくて、心が綻んで、何よりも好きだと思った。
「甘いけど甘すぎなくて、美味くて、何かを食って初めて好きだって思いました」
窺うようにじっと見上げていた先輩の瞳を真っ直ぐに見返して、俺は浮かんだ言葉をそのまま形にしていく。太陽の光を浴びた先輩の瞳は黒目が大きくて、長い睫毛に黄金も灰白も反射して綺麗だった。
誰かに自分の料理を食べさせることに慣れていないのか、不安そうにしていた先輩は俺の言葉を聞いて強張っていた肩から力を抜いていく。皺を刻んでいた眉間は平らに伸び、睫毛の影が落ちた頬は少しだけ赤らんでいるようにも見える。上手く言葉には出来なかったけれど、先輩にはちゃんと伝わってくれたらしい。
「そう、か。美味しかったなら、良かった」
先輩はそれ以上言葉を続けることもなく、正座を崩してお弁当に向き直った。体育座りのように抱えた膝の上、乗せられた弁当箱は子ども用なのか手のひらに収まってしまいそうなくらい小さい。細めに切った卵焼きをもう半分に切って、随分と小さくなった黄色い柔らかな塊を口に運んだ。
静かに食べ始めた先輩に倣って、俺もおにぎりに手を伸ばす。パッケージが上を向いていた明太子を選んで、表記された順番に添ってビニールを剥がしていく。海苔を巻き込まずに三角形を取り出して、俺は三分の一ほどまで噛みついた。
「……食堂なら、同期の子もたくさんいるんじゃないの?」
一口目を飲み込んで、二口目に噛みつこうとしたところで僅かに硬さを帯びた声色が響いた。先輩の声は鼻にかかったような高さがあるせいか、緊張で震えているのがよく分かる。仕事を教えてもらっているときの方がもっと流暢に喋ってるんじゃないかってくらいの覚束なさで、俺は反比例の如く先輩への親しみが増していった。
「いやぁ、別に。騒がしいのはそんなに得意じゃないんで。それに、」
友人は多い方だと思う。大学生の頃は何人かで固まって行動していたし、馬鹿なことをして騒いだり、リーダーの真似事をしてみたり。先生に頼って、友人に頼られて、常に笑っていた気がする。だけれど、そんな時間を楽しみつつも一人で本を読んでいるときの方が好きだった。
絶版になったハードカバーを図書館で探し、好きな作家が新刊を出せば本屋に走る。小さな頃からの習慣は沁みついていて、風の流れさえ聞こえてしまいそうな静かな場所に腰を据えている方が安心した。
「……それに?」
唯一の趣味に思考を飛ばしていると、ささやかな声が耳に入り込んでくる。感情を押し殺したような平坦な響きだったのに、横目に捉えた先輩の瞳は翳りを帯びていた。
「それに、……お礼が、言いたかったんです」
青空の下で、不人気の理由にもなっている風が強く、冷たく吹き込んでくる。耳朶に掛かった先輩の真っ黒い髪の毛を掬って、ワックスで軽く固めていた俺の短い髪の毛をかき乱す。生糸みたいな髪の毛のせいで視界は塞がれているはずなのに、真っ直ぐに向けられた先輩の瞳が隠されることはなかった。
言うべきか、言わざるべきか。露骨に避けようとして、自分で墓穴を掘って、後悔して。昨日だけでその全てを見てしまったから、躊躇いが胸の内で生み出されてしまう。だけれど先輩と仲良くなるためには、緊張せずに話してもらえるようになるには、兄の話題は避けられるものじゃない。
また、背中を向けられるかもしれない。声色も瞳の奥もひび割れさせてしまうかもしれない。それでも、と奥歯を噛み締めて心を決める。
「兄ちゃんのお葬式で、先輩が泣いてくれたから。だから、……ありがとうございます」
多分、ちゃんと笑えていたと思う。先輩の瞳がどんどんと丸く大きくなって、眉間には深く皺が刻まれる。どうしてお礼を言われているのか分からないと、表情でその全てを物語っていた。避ける以外の反応が返ってきて良かった、とひとまずは胸を撫で下ろした。
何年も会うことのなかった兄が果たしてどんな人であったのか、俺は結局何も分かっていない。だから、家族じゃない誰かでも、兄のために泣いてくれているのが嬉しかった。
あの日、紫陽花が咲き誇る緑に囲まれて先輩が泣いてくれて、俺はようやく兄が死んでしまったことを実感した。思い出せるのは見上げた先で淋しそうに微笑む兄の姿で、目線が真っ直ぐに交わったことがない。遠い存在になっていた兄が、数見先輩の流す涙に濡れてようやく、目の前まで降りてきた。
薄っぺらい背中を丸めて、細い指先を手のひらに食い込ませて、緑にも青にも取れる世界の中で先輩の目尻は真っ赤に色を付けていく。ただ過ぎていくだけだった兄の死が、現実味を抱えて襲ってきた。
「兄ちゃんとはずっと会ってなかったんで、寝てる顔見てもいまいち、こう、本当にもう会えないんだって実感がなかったんですけど。先輩が泣いてくれて、惜しんでくれて、それでようやく俺も理解出来たんです」
ありがとうございます。
もう一度笑って告げると、先輩は今度こそ泣いてしまいそうなくらい表情を歪ませて、見せられはしないと言わんばかりに俯いてしまった。頬にかかる髪の毛が風に掬われていくおかげで、硬く引き結ばれた口元がよく見える。
頬を、耳朶を、首筋を。掠めていく髪の毛先を嫌がるように先輩は何度も、何度も繰り返し首を振った。
「僕は、そんな。お礼を言われるような、こと、なんて……」
握り締めた箸がかしり、痛みを訴えるように軋んで、コンクリートの上へと落ちていく。からからと流れに沿って転がり、俺の真新しい革靴の側面に当たって止まる。手元からすり抜けた箸にも気が付いていないのか、先輩は幼い子どものように首を振り続けていた。
先輩と後輩。上司と部下。兄と数見先輩の間にあったのはそれだけの関係性であったのか、それとももっと、友人と呼べるほどの近しい距離感であったのか。出会ったばかりの俺には何ひとつ分かりはしない。それでも、兄のために泣いてくれたのが先輩で良かった、とすんなり思えてしまった。
「俺にとってはすごく、嬉しいことだったんで。良かったら受け取ってください」
俺の指導係に数見先輩がついてくれたことこそが、兄からの餞別のように感じてしまう。それは流石に恥ずかしいから告げることはしないけれど、先輩と話せるようになったことも、ちゃんとお礼を伝えられたことも、俺には何よりも嬉しいことだった。
膝を抱えて俯いていた先輩の頭が、誘われるようにゆっくりと上がっていく。伏せられていた瞳は迷うようにあちらこちらに彷徨ってはいたが、引き結ばれていた口元からは力が抜け、掠れた吐息が聞こえてくる。
「僕は、ただの後輩でしかなかったけれど。力になれたのなら、良かった、かな」
ゆらゆらと風に吹かれていくように揺れていた瞳が、ゆっくりと怯えを残しながらも俺の方に焦点を定めていく。お礼を言われたことに対する驚きも、兄の話をすることへの躊躇いも、色んな感情を混ぜ込んだ瞳は淡く澄んでいて、涙で濡れているより何倍も綺麗に見えた。
「あの、先輩」
空気に触れ続けているおにぎりは乾燥して、先輩の膝で食べられるのを待っている卵焼きも硬くなっているかもしれない。きっと本来の美味しさを失くしてしまっているだろう。それでも、今言わなければいけないと思った。
「よかったら、俺の知らない兄ちゃんのことを教えてくれませんか?」
なんでそんなことを思ったのか、なんで先輩にそんなことを頼もうと思ったのか。避けられないことに舞い上がってしまった思考では何が正解か分からなかった。上司も後輩も友人も参列するお葬式の中、泣いてくれたのがこの人だけだったからだろうか。
「……え?」
驚きと躊躇いに沈んでいた瞳が、今は純粋な困惑で濡れていた。瞬きをするたびに長い睫毛が震え、下瞼に落ちた影が形を変えて歪んでいく。
「先輩のことも、先輩と親しかった兄ちゃんのことも、もっと知りたいです」
また、風が真っ黒い髪の毛を攫って俺たちの視界を遮ってしまう。ひとつ、ふたつと強く吹きすさぶたびに悲鳴のような音が木霊して、俺の告げた言葉が掻き消されてしまうようだ。
「……どうして、僕?」
「えっ?どうして、って……。俺が、先輩と仲良くなりたいから」
不揃いな前髪が先輩の瞳を隠してしまって、真っ直ぐに向けられている視線が交わらなくなる。淡々と溢された声色は不鮮明で、辛うじて拾えた疑問符に俺は頬を掻いた。
葬儀場からは死角になった紫陽花の中で静かに泣いていた先輩と、自分で作った卵焼きの感想に頬を赤く染める先輩と。比べなくても気になってしまう面影に、俺は偽りのない気持ちをそのまま伝えた。
「……僕で、いいのなら」
風が靡いて、頬にかかった髪の毛を残らず掬っていく。ちりちりと隙間から見えた瞳にはあの日見た悲しみも口惜しさも淋しさも。全てが等しく塗られているように見えて、俺はぐっと奥歯に力をこめた。
*****
「それで、そのまま捕まえちゃうんですよ」
「へぇ、急展開だね」
「でしょ!?俺ちょっと悔しくて」
春の終わりらしい薄ぼやけた光が降り注ぐ中、俺と数見先輩は錆の浮かんだフェンスを背に昼食を食べていた。今日も先輩はお弁当を手作りしていて、ざるそばを買っていた俺はアスパラのベーコン巻を分けてもらっている。プラスチック容器の黒とそば粉の灰と、申し訳程度に添えられた葱の緑が踊る簡素な場所で、こんがりと茶色い焼き目は食欲を殊更に刺激する。
届く陽射しも吹き込む風も、遮るもののない屋上は聞いてはいたけれど本当に人気がなくて、ひと月が経った今でもやってくるのは俺たち二人だけだった。
最初は緊張して身体を強張らせていたり、逃げるように視線を遠くに追いやったり、俺の顔を極力見ないようにしたりしていた先輩も、二週間を過ぎる頃には少しずつでも慣れてくれたのか、ぽつりぽつりと話をしてくれるようになった。
二十六歳になったばかりで、ひな祭りの日に生まれたのがなんとなく恥ずかしいこと。高校を卒業してからは変わらずに一人暮らしを続けていて、家事全般は何でも出来るということ。テレビの横に小さなサボテンを置いていること。
それから、兄とはよくこの屋上で話していたことも教えてくれた。
名前を聞くことさえ避けていた兄のことを先輩から話題に出してきたときは、大袈裟なまでに声を荒げて先輩をびっくりさせてしまった。食べようと楊枝に刺していた唐揚げを落とし、ぽっかりと広がった目も口も、先輩に指摘されるまで動かすことが出来ない。
現実に戻ってこれたのは、先輩の吐息を吐き出すような笑い声が聞こえたからだ。ささやかに漏れてくる息が軽くて、無意識に俺も肩に力が入っていたことを知る。その日からは俺も先輩も、気を楽にして話せるようになった。
「垣崎さんも読書家だったみたいだけれど、感想は聞いたことないから新鮮」
数見先輩はほうれん草ともやし、それからちりめんじゃこを混ぜたおひたしを箸で掬い、想い出に微笑む口内へと放り込む。兄の話をひとつずつゆっくりと重ねていく内に、先輩の浮かべる表情が柔らかくなり、普段よりもずっと喋るようになった。あの霧雨の中で見せた、消えてしまいそうな儚さは今の先輩からは見つけられない。こうして笑いながら兄の話が出来るようになるとは思っていなかったから、口元に指先を当てて笑ってくれる先輩にひどく安心した。
「そうなんですか?結構オススメとか教えてくれましたけど……」
「僕が読書に馴染みなかったから。……あの辺りかな、黙々と読んでいたよ」
数見先輩の日に焼けていない白くて細い指先が向けられたのは、ちょうど屋上の真ん中辺りに位置していた。わざわざそんなところを選ぶ意図が分からなくて、疑問符の浮かぶ視線を先輩に向けても首を傾げられる。
屋上で一緒に過ごしていた兄は静かで、落ち着いていて、表情もあまり変わらなくて。聞くたびに知らない一面が増えて、俺の知っている兄とは別人なんじゃないかと思えてしまう。
「俺が本好きになったのは、兄ちゃんの影響なんです」
小学生だった俺にとって、高校生の兄は誰よりもかっこよくて、賢くて、頼りになる存在だった。博識で俺の投げかける質問にはなんだって答えてくれたし、泣き虫だった俺を何度も笑わせてくれた。賑やかな輪の中心には兄がいて、周りにいる人たちみんなを楽しませる。兄よりもかっこいい人なんていないと信じて、兄のようになりたいとさえ思った。
俺は兄の背中を追いかけるように本を読んで、いつしかそれが自分自身の趣味になっていた。ジャンル問わずに読み進めていたのが功を奏し、雑学に割り振られるだろう知識もたくさんついて、学校で話す内容に困ることもなくなった。
やっぱり兄はすごいんだ、なんて。連絡先も知らない兄を慕う気持ちは増していき、記憶の中だけで存在感は大きくなる。
だけれど、実際の兄は俺の見てきた人物像とは離れたところにいて、先輩の言葉を聞いても上手く想像出来なかった。社内にいるときはいつも笑っているような明るく、頼りがいのある先輩であり部下であったらしいが、屋上で二人きりになると途端に言葉数が減る。数見先輩に苦手意識を向けていたわけではないらしくて、だったら先輩だけが見てきた兄の方が本当の姿だったのだろう。
「聞けば聞くほど、知らなかった兄ちゃんを発掘しますね」
喫煙所まで行くのが面倒だからと、数見先輩の嫌がる横で煙草を燻らせていたことも。みんなの前では格好付けてブラックコーヒーばかりを選んでいたくせに、実際は近くのコンビニに売っているいちごミルクにハマっていたことも。先輩から教えてもらわなければ知り得なかったことばかりで、遠いとばかり思っていた兄の背中がぐん、と一気に近くなった。
「明るく振る舞っている理由は聞かなかったけれど、無理をしている様子ではなかったよ」
めんつゆに浸したそばを啜り、フェンスに凭れて煙草を咥える兄を思い描いてみた。巻き上がった風が後ろに撫でつけた髪の毛を擽り、覚束ない煙がベールを引く薄ぼやけた青空に消えていく。遠くを眺める兄は喋らずとも男の色気を醸し出しているようで、そんな姿を数見先輩はずっと横目に見つめている。
風の流れによっては煙が先輩の元にまで届いてしまって、煙草臭いと眉間に皺を寄せる姿を、兄はどんな感情で笑い、宥めすかしたのだろうか。
隣を盗み見ると、数見先輩はアスパラに歯を突き刺しているところだった。ぽきり、小気味いい音が吹き込んでくる風に逆らって、屋上全体に広がっていく。弁当箱に視線を落とした先輩の頬には睫毛の影が落ちていて、瞬きのたびに白っぽい光りが散っていく。
長い睫毛が持ち上がって、丸い瞳と交差する。見られていると思っていなかったのか、先輩は何度か瞬いてから少しだけ頬に赤色を滲ませた。
「……なに?」
数見先輩は言葉数が少ないせいで近寄りがたく見えるが、接してみると表情が細かく変わって分かりやすい。今だって見られて恥ずかしいのだと、食べにくいから見ないでくれと、揺れる睫毛が如実に訴えている。風に攫われていった横髪のせいで、真っ赤に染まった耳朶がよく見えた。
「いや、なんでもないです。これ、いただきます」
赤くなっている、だなんて、指摘してしまうと先輩はきっと逃げ出してしまうだろう。見えていた耳朶を隠し、丸めた背中を向け、二度と先輩の作ったおかずを分けてくれないかもしれない。
折角ここまで話せるようになったのだ。それだけは避けたくて、麺に埋もれてしまいそうなアスパラを割り箸に挟んだ。量をあまり食べない先輩が作るおかずはどれも小さめに纏められていて、俺だったら一口で飲み込めてしまう。
アスパラのしっかりとした歯ごたえと、ベーコンの塩味が舌を刺激する。塩胡椒だけで味付けられているはずなのに、胃と心は満足感でいっぱいになった。
「やっぱり、先輩の作るご飯が一番ですね」
薄味にしているのは太らないように気を付けているからだと前に言っていたが、コンビニ弁当では味わえない優しい舌触りに、俺の口角はいつだって自然と上がっていく。母親も料理上手な部類ではあると思うが、こんなにも美味しいと思ったのは、次も食べたいと願ったのは、先輩の手料理が初めてだった。
「こんなの、普通だよ」
「こんなのでも、普通でもないですよ。先輩はすげぇんです」
流された視線の先に無理矢理入り込んで、困惑に刻まれた眉間の皺を人差し指で解していく。褒められ慣れていないらしい先輩はいつもなんてことないと笑って見せるが、実家暮らしの俺からすれば全てがすごいと称賛を与えるに等しいものだ。いくら先輩が否定してこようが、困ったように視線を逸らそうが、俺は先輩をすごいと称えることをやめたりはしない。
刻まれた皺がなくなって、今度は仕方がないな、と言わんばかりの苦笑が降ってくる。俺が感じて、先輩に受け取ってほしかったすごいは宙ぶらりんのままに思えるが、これ以上反論してくる様子はなくて、眉間に押し当てていた人差し指を下ろす。
数見先輩は弁当箱の二段目に残っていた海苔入りの卵焼きをプラスチック製の容器に放り込み、自分は残りの雑穀米に箸を入れる。これまでも具材入りの卵焼きは分けてもらっていたが、海苔が入っているのは初めて食べる。どんな味がするのだろうかと浮足立つ心が抑えきれなくて、本日三度目になるいただきますを先輩に向けた。
*****
「やぁ、っと、晴れた!」
「ふっ、そんなに屋上で食べたかったの?」
今年の梅雨は六月に入る前から始まって、先週は毎日のように雨を降らせていた。そのおかげで数見先輩と並んで昼食を取ることも出来ず、味が濃いだけのコンビニ弁当を腹に溜める日々だった。
がしゃりと、フェンスに凭れて両手を広げる俺に、先輩は膝を抱えて小さく笑うだけ。最初に比べると笑ってくれる回数も随分と増えてはいたが、こうして俺が喜んでいる理由に自分がいるとは思ってくれない。正直に言おうかと少しだけ迷って、きっとおかずを分けてくれるからとか、そんなところに落ち着く気がしてやめた。
深い青一色に塗られた空の真ん中で、光を届けてくる太陽は眩しい。ネクタイを締めていると汗ばんでくる快晴に、俺はジャケットもネクタイも脱ぎ捨てて胡坐をかいた。
夏になっても日に焼けることがほとんどないらしい先輩も流石に暑かったのか、ネクタイを緩めて伸びてきた横髪を耳にかける。第一ボタンを外したおかげで露わになった首筋が細くて、降り注ぐ光をきらきらと反射した。そうなると余計に肌の白さが分かって、俺は訳も分からず暴走する心臓を抑え込む。
「今日も、美味しそうですね」
ストライプ模様の上に二段の弁当箱を広げた先輩の手元を覗き込んで、伏し目になった横顔から視線を外す。下瞼に落ちる睫毛の影がくっきりと線を刻んでいて、いつもの何倍にも速くなった心臓を抑えられる自信がない。ばくばくと耳の奥で鳴り響く音が煩くて、身体じゅうが熱くて仕方がなかった。
初めて会ったときから変わらず、先輩はずっと綺麗だ。男性を褒める表現としてあまり一般的ではないのだろうが、かっこいいとかイケメンとか、日常にありふれた言葉は先輩に似合わない。綺麗という言葉は、先輩を表すために生まれた言葉のようにも思えてしまう。
重めに整えられた前髪のせいで分かりづらいが、伏し目になったとき下瞼に陰る睫毛が長い。女性社員から羨まれるほどに肌は白く、きめ細やかな質感はそれそのものが発光しているかのようだ。一つひとつの所作が丁寧で、何かを雑に扱っているところなんて見たことがない。俺が仕事上でミスをしてしまっても苦笑を漏らすだけで、最後まできちんと付き合ってくれる。
「そう?いつもと同じだよ」
効率が良くて浅田部長を始め、色んな人から頼りにされている。大体のことは数見先輩に聞けば分かるから、と一つ年上の男性社員に言われた通り、きっと指導係が行う以上のことを教えてもらっていた。
毎日作ってくるお弁当も、帰宅してからの自炊も、先輩は当たり前の日課だと欠かすことをしない。実家暮らしの俺は掃除も洗濯も料理も母親任せで、全部を一人きりでこなしていく先輩はすごいと手放しに褒められるべきだと思う。それなのに先輩はいつも当たり前だから、と言葉を濁してしまうのだ。
「それが、すごいんですよ」
小さめに巻かれた卵焼きをもう半分に切り分けた数見先輩は、俺の言葉に遮られて箸を下ろしてしまった。一口も食べられていない弁当箱には唐揚げの茶色も、卵焼きの黄色も、キャベツの黄緑も、ミニトマトの赤も。彩りも栄養も考えられたおかずが丁寧に詰められていて、これを当たり前で片付けてしまう先輩が悲しかった。
「別に……、こんなこと、」
「こんなことじゃない。当たり前にしてきた、先輩の努力の結果ですよ」
コンビニで買ってきた添加物まみれの焼き鮭弁当と、たった一口でも満たされた気持ちになれる先輩手作りのお弁当。二つを見比べて、腹の中に住み着く虫が反応するのは先輩の膝先で食べられるのを一途に待っている小さなお弁当だ。
元々食べることに興味がなく、好き嫌いの判別も出来なかった。何となく、美味しかったらいい。その程度で食事をしてきた俺にとって、先輩の作るおかずはどれもこれも美味しくて、他の種類も食べてみたくなって、何をもらっても好きだと感じた。好きな食べものを聞かれると、これからは数見先輩の作るご飯だ、と答えてしまうだろう。
分けてもらったおかずを頬張って美味しいと伝えたとき、気まずそうに視線を逸らせていた先輩も、ふた月と少しが経った今では控えめに笑ってくれるようになった。褒められて照れくさいのか、視線は絶対に合わせようとはしてくれないが。
「……、今日は、これ、あげる」
どうやったら褒め称える言葉を素直に受け取ってくれるのだろうか。どうやったら、先輩はすごいんだって伝わるのだろうか。焼き鮭を解す箸も止めたまま考えていると、黒胡麻が散る白米の上にこんがりと揚げられた唐揚げがひとつ、ころりと転がってきた。
最近では俺が物欲しそうに見つめているからなのか、毎日のようにおかずを分けてもらっている。お返しに何か、と弁当を傾けたところで先輩が受け取ってくれたことはなく、いつももらうだけになっている。
横髪をかけているせいで、先輩の赤に滲んだ耳朶がよく見える。背筋を伸ばし、パソコンに向かっている凛とした表情とは違う。あの日、紫陽花の緑に囲まれて雨粒を浴びていた数見先輩に近い、ひび割れて消えてしまいそうな。俺が守ってやりたいと願わずにはいられないような。心臓をぎゅっと掴まれたかのような痛みに、俺はなんとか誤魔化そうと分け与えられた唐揚げを摘まんだ。
「んっ、うま!生姜……、塩も?めっちゃ合いますね、これ!」
揚げ物は前日に作っているのだと聞いていたが、冷めても歯を立てた途端に溢れてくる肉汁も、舌を刺激する生姜と塩のアクセントも、飲み込むのが勿体ないと感じるほど美味しかった。噛み締めるたびに幸せな心地に浸かって、口角がゆるゆると綻んでいく。ごくり、と最後の一欠けらまで飲み込んで、身に染みる幸福感に息を吐き出せば羽根を掠めるようなささやかな音がした。
「ふふっ。垣崎さんも、この唐揚げが一番好きだった」
口元を手の甲で隠して、小さく微笑んだ数見先輩はひどく可愛らしかった。そっと細められた視線の先には唐揚げが一つ残っていて、垣崎さん、と兄を呼ぶ声色の軽やかさに眩暈がする。
この二ヶ月余り、数見先輩とは色んな兄の姿を共有した。俺が知っていた兄と、先輩の見つめていた兄は真逆と言っていいほど違っていて、こういうときはどうだった、と答え合わせをするように話すのが楽しかった。兄にとって譲れない境界線があって、数見先輩はその内側に入った貴重な存在だった。
先輩と後輩。上司と部下。それ以外にも友人とか、名前のつく関係性でありそうだとは思っていたが、たったひとつ、考えていなかった可能性が浮かんできた。
兄と数見先輩が付き合っていた、という可能性だ。兄は仕事中も、友人と楽しく喋っているときも、誰かの中にあるイメージに従っているようだった。煙草を咥えている姿が様になる。ブラックコーヒーを飲んでいそう。いつも笑っていて、輪の中心で軽口を言っている。怒らず、明るく軽く。記憶の中にいる兄も、よく俺の頭を撫でで笑っていた。
だけれど、数見先輩の前ではその仮面が剥がれ落ちていた。
煙草の吸い口を噛んで他人に煙を向けるのは無作法だし、期間限定のいちごミルクは販売終了になるまで毎日買っていた。喋ることがなければ無理に口を開かず、何も考えていないよう表情で遠くを見つめることが多かった。
先輩の語ってくれた兄を、俺は一度も見たことがない。精々煙草を吸っている姿を遠目に見かけたことがあるくらいで、ずっと、兄は明るくお喋りでいつも笑っていて、物静かとはほど遠いところにいるものだと信じ込んでいた。
本当の兄を見ていたのは数見先輩だけで、兄も先輩にだけは本当の部分を曝け出していた。俺たち家族にも見せていなかった姿を、先輩だけが知っている。
「……先輩は、兄ちゃんと付き合ってたんですか?」
ぐるりと渦巻いた可能性に、呆然と隣を見つめた。誰も知らない兄を見つめ続けていた先輩を、兄にもおかずを分け与えていた先輩を、無意識に俺と兄を比べている先輩を。
緊張に喉が渇いて、飛び出した声色は硬くひび割れていた。水が飲みたいと思っても、強く握り締めた手のひらから力を抜く方法が分からない。
掠れてしまった俺の問いかけに、数見先輩は長く薄い睫毛を揺らして僅かに首を傾けて見せた。言葉の意味を捉えきれていないように瞳を丸めた姿はどこか幼くて、何て返されてしまうのか見当もつかない。渇いた喉を潤わせるように生唾を飲み込んで、思った以上に響いた喉の音に冷や汗を流した。
「付き合う、って、どうしてそんなことになったの?」
本当に分からない、と表情にものせて答えてくれる先輩に、身体じゅうを駆け巡っていた気持ち悪さが薄れていくのを知った。眉間に寄った皺が、真っ直ぐに見上げてくる丸い瞳が、先輩の言葉に嘘が隠れていないことを語ってくれる。
先輩と後輩。上司と部下。数見先輩の柔らかく綻んだ口元からそれ以上の関係性を想像してしまったが、それは見事に邪推となってくれた。勝手に焦って怖くなって、これじゃあまるで恋をしているみたいじゃないか。
兄と深い関係になかったと聞いて、俺はどうして安心したのだろうか。付き合っていたのだと突き付けられることを恐れ、渦巻く可能性を否定したくて躍起になったのだろうか。どうして、不思議そうに見上げてくる先輩の瞳に俺だけが映っていると喜んでいるのだろうか。
そこまで考えて、漸く俺は自分の心を知った。気付いてしまえば簡単で、俺は数見先輩のことが好きだった。男同士だとか、上司と部下だとか、そういうのを全て取り外して、ただ数見廉太郎という存在が好きだと思った。
気付いていなかっただけで、緑とも青ともとれる靄が落ちた世界の中、静かに涙を流していた先輩を見つけたときから好きだったのだろう。所謂、一目惚れというやつだ。
兄を想ってひっそりと泣いてくれた姿が印象に残ったのも、先輩と仲良くなりたくて屋上まで追いかけてきたのも、手作り弁当のおかずを分けてもらって嬉しくなったのも、全部先輩が好きだったからだ。俺と兄との共通点に微笑んで、果たされることのない約束を抱えている先輩に、口惜しくなったのだ。
すとん、と。万有引力の法則に従って落ちていく林檎のように、柔らかいものに当てた刃を真っ直ぐ突き立てるように、先輩が好きだという事実はささくれもなく俺に落ちてきた。俺が数見先輩を好きになるのは当たり前のことで、どうして今の今まで気付かなかったんだろうって不思議にさえ思えてくる。
「垣崎……?どうか、」
「俺じゃ、駄目ですか?」
聞いたまま何も答えない俺に困ったのだろう、先輩は顔の前で左の手のひらを左右に振って見せる。見上げてくる瞳には心配の色が滲んでいて、視線の先にいるのが俺だという現実に心臓がひとつ、大きく跳ねた。
考えることも出来ずに飛び出していった言葉には俺も驚いて、だけれど後悔も反省も浮かべる余裕はない。だって、本当にそう思ったのだ。数見先輩の中で深く刻まれてしまった兄の存在に勝てるかどうかなんて、確率としては小指の爪ほどもないかもしれない。それでも、俺はこの人が好きだった。
他人のために泣いてしまえる先輩を笑顔にしたい。凛と立ち続けている先輩を支えられるような大人になりたい。当たり前だと割り切ってしまう先輩を癒して、すごいのだと分かるまで何度も何度も伝えたい。
自覚した途端に溢れ出す感情に、身体じゅうを巡っていた血液が沸騰し、汗腺から馬鹿みたいに汗が吹き出してきた。
「先輩。俺、数見先輩のことが好きです」
握り込んだ手のひらが汗に滑って気持ち悪い。ばくばくと大音量を奏でる心臓が煩くて、耳の奥がきん、と詰まってくる。こめかみを一筋の汗が流れ落ちていって、きっと顔じゅうが真っ赤に染まっているだろう。
飾り気なく二人の間に落ちていった言葉は、強まった風に掬われて何処か遠くへと攫われていく。何度も瞬きを繰り返す先輩の様子から届いてはいることに安心して、俺は深く息を吸い込んだ。
「兄ちゃんとどんな約束をしてたのかは知らないし、言いたくないんだったら聞きません。でも俺は、先輩の隣にいたい。一緒に笑って、一緒に泣いて、生きていたいです」
隣り合っていた姿勢から、視線が深く混じり合うように正面へと移動する。先輩は何を言われているのか理解しきれていないみたいで、俺の動きに合わせて視線を移していくだけ。ぼんやりと見開いたままの瞳も、白い歯がちらりと見える唇も、固まったまましばらくは動きそうになかった。
紫陽花に囲まれて消えてしまいそうな先輩に、手を伸ばしたかった。抱き締めて、消えてしまいそうな儚さにあなたはここにいるのだと言って聞かせたかった。流れ落ちていくだけの涙を拭って、大丈夫だと手を繋ぎたかった。優しいこの人を守って、強張った表情を綻ばせてやりたかった。
たったそれだけのことだったのに、気付くまでこれだけ掛かってしまった。汗で滑ってしまう手のひらに爪を立て、何も紡げなくなった先輩を真っ直ぐに見つめた。
「……出来る、の?」
「えっ、なにが、」
「セックス。男同士なのに、君は出来るの?」
固まっていた先輩がゆっくりと唇を動かして、はっきりと言いきった言葉に俺は意味もなく呼吸を浅くした。綺麗という表現がしっくりとくる先輩には似つかわしくない直接的な言葉選びに、俺は先輩の言いたいことが掴めなかった。
セックスという言葉に恥ずかしくなって赤くなることも、怖気づいて青くなることも出来ないまま、俺は見上げてくる先輩の瞳を見つめ返した。少しだけ真ん中に寄せられた眉根も、微かに揺れる瞳の奥も、引き結ばれた口角も。先輩が怯えているものの正体が、何ひとつ分からない。
「……俺は、出来ますよ」
「っ、試してもいないのに、そんなこと、」
「じゃあ、試してみますか?」
数見先輩のことが好きだと自覚したのはついさっきで、先輩で抜いたことも、そういう想像をしたこともない。だけれど、抱けると思った。線の細い身体が快楽にくねり、きめ細やかな真っ白い肌が赤く色付いていく。見たこともない先輩の姿を脳裏に描いて、腹の奥が茹るような熱を灯した。
自分から聞いてきたくせに、先輩の晒された耳朶は痛そうなくらい赤く染まっている。奥歯を噛み締めて、定まらない視線に俺まで恥ずかしさが込み上げてくるようだ。
「今日の、夜。……空けておいて」
全身に移っていく熱さにどうしようかと悩んでいると、通り過ぎていく風に乗って微かな声色が届いた。掠れて、ところどころに消えてしまった言葉は捉えづらく、なのに浸透するかのように鼓膜を響かせる。誘い文句としては使い古された台詞に、流れる空気さえ止まった気がした。
先輩は言いたいことを全て吐き出したのか、半分も減っていない弁当箱をバンダナに包み、振り返ることもなく屋上から逃げていった。遠ざかっていく薄っぺらい背中に声をかけることも出来ず、告げられた言葉を何度も復唱した。
「夜、空けとけって、……っえ!?」
兄ばかりを見ている先輩に口惜しくなって、俺のことも見てほしくて、自覚したばかりの感情をぶつけてしまった。無理矢理に抱いて、先輩の気持ちを無視するようなことはしたくないはずなのに、腹に灯った熱は冷める様子を見せない。
身体じゅうを巡っていく熱さも、重くなった腹の底も、手のひらを滑らす汗と同じようにどんどんと増えていく。この後も仕事は残っているのに。夜のことばかりを考えて何も手に付かないだろうな、とどこか冷静な頭で思った。
残業も不始末もなく、なんとか無事に今日を乗り越えた十七時十五分。終業のチャイムが鳴り終わるよりも先にやって来た先輩は俺の戸惑いも見えているだろうに、人差し指の第二関節で机を何度か叩くだけで何も言ってはくれなかった。
パソコンの電源を落として、出しっぱなしだったメモやらボールペンやらを鞄に突っ込んで、周りへの挨拶もおざなりに遠くなっていく背中を追いかける。入社初日と同じように緩められた歩幅に、優しいのか強引なのか分からなくなって、いっそ笑ってしまった。
ジャケットを羽織っていても細さが見える背中に追いついて、互いに言葉を失くして仄暗い道を歩いていく。まだ十七時を過ぎたばかりだと言っても、随分と陽が長くなった。人工的な真っ白いコンビニの光りも、点いたばかりの柔らかな居酒屋の灯りも、暗くなりきれない世界では目に入れても痛くない。
「これ、どこ行ってるんですか?」
歩くスピード自体は決して速いものじゃないのに、緊張で鼓動が強くなっていくのが分かる。耳の奥底で響き続ける血流の音が煩くて、自分が発したはずの声にさえ反応が出来ない。
風の強い屋上で、真っ直ぐに届いてくる太陽の光を浴びて、先輩と何を話しただろうか。俺はあのとき、先輩に何と言われたのだろうか。俺の記憶違いでない限りは、セックスが出来るかどうかの話の延長ではなかっただろうか。
思い出すだけで手のひらに汗が溜まって、喉がからからに渇いていく。無理矢理に飲み込んだ唾液が予想よりも大きく響いて、慌てて確認した先輩の後ろ姿はさっきと何ひとつ変わらない。
焦っているのは、戸惑っているのは、期待しているのは。果たして、俺だけなのだろう。先輩の考えていることが想像も出来なくて、速くも遅くもない歩幅に足が縺れてしまいそうだ。何も答えてくれない背中は、軽く指先で押せば壊れてしまうくらいに細い。
十分か、十五分か。じんわりとこめかみに汗が滲んできたところで先輩の足が左に折れ、輪郭の強くなった背中が眩しいだけの光りに吸い込まれていく。コンビニの光りよりも仄かに優しく、居酒屋の灯りよりもはるかに余所余所しい照明に視線を上げると、見えてきたのはどこにでもあるようなビジネスホテルだった。
「……へぁ?」
漏れた吐息は言葉としての役割を全うしてはいなくて、渇いた舌がぴりぴりと痛みを訴える。自動扉の向こうへと消えていった先輩に迷いはなかったようで、阻まれたガラスの先で小首を傾げて振り返ってみせた。
追い抜いていったサラリーマンに反応したセンサーがガラス扉を開け、怪訝な視線を向けてくるふくよかなおじさんに後押しをされて先輩の元まで小走りで駆けつけた。どうして、と開こうとした唇は、追いついた俺に満足して背中を向けた先輩に遮られてしまう。
数見先輩が部屋を取っている最中も、二人きりになったエレベーターの中でも、耳鳴りのように昂り続ける心臓のおかげで碌に先輩の顔が見れなかった。
セックス、ビジネスホテル、ダブルルーム。
ぞわり、と。背骨の表面を得体の知れないものに撫でられて、身体じゅうを鳥肌が伝っていく。指先が痺れて、熱いも寒いも境界が薄れてしまった。
節の目立たない真っ直ぐで白い指先がドアノブを握り、開かれていく扉の唸りがゆっくりと再生される。暗闇に消えていく先輩の足取りはしっかりと地についていて、軽やかにさえ見えてしまった。ごくり、ともう一度生唾を飲み込んで、握り締めた手のひらをそのままに彼の背中を追いかけた。
「あ、の、先輩、これ、」
どうして、なんで。聞きたいことは山ほどあるはずなのに、飛び出してくるのは言葉になりきれなかったものばかり。背中を向けて動かない先輩はここで何をするつもりなのか、解かった上で俺を連れてきたのだと思うと舌が上手く回らない。
「これって、その、せんぱい、」
「……試すんでしょ?」
たったの数歩、されども数歩。空いていた距離は先輩の大きな一歩でなくなり、俯いたおかげで旋毛がよく見える。羽音のようなささやかさで溢された言葉を拾うのに精いっぱいで、先輩の手のひらが俺に向いていたことなんて、二の腕を掴まれるまで少しも気が付かなかった。
ジャケットの上から爪を立てられて、柔らかい生地に阻まれているはずなのにぴりぴりと痛みが背筋を這う。先輩の持っていた鞄も、俺が居心地悪く握っていたリュックも、勢いに任せて床へと転がってしまった。離してくださいとも言えず、驚いて固まった身体は強引に引っ張られてふかふかに整えられたベッドへと沈んでいく。
「ちょ、先輩!」
衝撃に目を瞑って、このままじゃ駄目だと慌てて睫毛を震わせて、起き上がろうと思ったところで先輩に押さえつけられた。太腿に乗り上げてきた先輩は体重をかけないようにしているのか見た目通り軽くて、覆い被さってきても白色蛍光灯がそこかしこに光りを落とす。逆光になって先輩の表情は拾えないが、肩にかかっている手が小刻みに震えていた。
「ほら、はやく」
か細く揺れる声が、じんわりと汗ばむ室内に浮かんでは消えていく。安っぽい光りのせいで先輩の輪郭だけが強調されているのに、俺にはまるで先輩が泣くのを堪えているかのように見えた。
数見先輩のことは好きだ。気付いたのはほんの数時間前だけれど、先輩の存在が俺の中でどんどんと際限なく大きくなって、これからも鮮明な色を放っていくのが分かる。今まで付き合ってきたのは女性ばかりで、自分が同性を好きになるだなんて欠片も思ってなかったけど、先輩だけは特別なのだと確信している。
好きで、大切で、ずっと一緒にいたい。先輩の隣で一緒に笑っているのが俺であればいいとは思うけれど、だからって今すぐセックスがしたいとは思わない。先輩に俺のことを好きになってもらって、恋人になって。そうした段階を踏んだ先には抱きたいと思うが、それはもっと未来の話でいい。
何に突き動かされて、先輩は暴走しているのだろうか。勢い余った告白が先輩にどう届いたのかさえ分からなくて、早くこの体勢をどうにかしたい。無理矢理に引き剥がすことも出来るけれど、なんだかそれだけはやっちゃいけない気がする。
どうしようかと悩んで、見上げていた視線をぐるりと部屋中に彷徨わせる。無地のカーテンが外の暗闇を遮り、転がっていった二つの鞄の内ひとつは、ジッパーが閉まっていなかったのか中身がぶちまけられている。一度だけ見かけたことのあるシンプルなペンケースにメモ帳、クリアファイルに挟まれているのは今度取引する会社の情報だろうか。
毎日のように隣で見ているストライプ模様のバンダナに、真っ白い包装紙。プレゼントには見えない袋状のものが気になって瞼を細めてよく見てみると、表面には処方箋の文字が踊っていた。
一回一錠、他の薬との併用はお控えください。枠外に書き込まれているのは医者の言葉なのか、赤字でどうしても眠れないときだけ、と書かれている。
「……先輩、睡眠薬って、どうして、」
そこまで読んでしまえば、それがどんなときに服用する薬なのか嫌でも分かってしまう。どうしてこんなものを先輩が、仕事用の鞄に潜ませているのか。愕然としたままに漏れた声は硬く尖っていて、知らず非難するような色を含んでいた。
肩に乗っかる力が戸惑うような動きを見せて、このタイミングだ、と腹筋に力を込めて上半身を起こした。太腿の上に乗っていた先輩とは拳一つ分ほどの距離で向かい合う形になったが、逃げられないように腰に手を回して囲い込むようにする。
「……あれは、その、」
「あんなの、先輩らしくないですよ」
仕事に向かっている先輩はかっこよくて、姿勢を正している横顔は何よりも綺麗で、分けてもらったおかずを美味しいと褒めると照れるところは可愛らしい。穏やかな雰囲気のわりに表情は豊かで、冗談にも苦笑いを残して付き合ってくれる。上司には信頼され、部下からは頼られ、当たり前のことを当たり前に出来る才能を持っている。それが俺の知る数見廉太郎だった。
日に焼けることを知らない真っ白い肌に隈がこびりついているところなんて見たこともないのに、睡眠薬だなんて必要ない。そう思って感情のまま吐き出した言葉に、先輩の薄い身体が大きく震えた。
「っ、らしいって、僕は、君が思っているような人間じゃない!」
「せ、先輩……?」
「……僕は、君に好いてもらえるような人間なんかじゃない」
俯いていた顔が勢いよく持ち上がり、人工的な照明がきらきらと何かを反射する。それが何か気が付く前に、先輩の目尻に大粒の涙が浮かんでいるのが見えた。頬に滲んだ血色の良い淡いピンクも、降り注いでくる真っ白い光りも、澄んだ雫は等しく反射してしまう。
我を忘れた叫び声に、俺は何も言葉を返せない。引き攣れた感情に、俺は先輩のことを何も分かっていないのだと思い知らされる。泣いてほしくないのに、ただ笑っていてほしいだけなのに、今先輩が泣いているのは俺のせいなのだ。
囲うように先輩の腰に回していた腕を解こうとして、だけれど引き寄せられた眉根が痙攣している様子に思わず抱き込む力を強くしてしまった。拳一つ分の距離がゼロになって、鼻先が擦れ合う。涙に濡れた長い睫毛と、俺の大して長くも短くもない睫毛が絡まってしまいそうだ。
「それでも、俺は先輩が好きです」
窺うように覗き込んで、俺はどうか伝わりますようにと願いを込める。腕の中で薄っぺらい身体が小さく震えて、先輩の溢した熱い吐息が唇にあたる。
「……一緒に死のうって、約束をしたんだ」
滑らかな頬の上を一粒の涙が伝って、縮まった二人の間に落ちていく。睫毛を下ろしていく先輩の声色に心臓が止まりそうな心地になって、それでも俺はゆっくりと囁かれる声に集中しようと瞳を閉じた。
*****
「僕には、ずっと何もなかった」
小さい頃から他人と接するのが下手くそで、特出した才能も持っていない。器用貧乏と表現出来るほど何でもこなせるわけでもなく、ただ毎日を淡々と過ごしていた。
得意なことも、好きで続けたいこともない。両親が共働きで子どもに興味がなかったおかげで一通りの家事は出来るようになったけれど、それも生きていくための手段でしかない。僕には何もないのだと、悲劇のヒロインぶって泣くこともしなかった。
家から歩いて行ける距離に新設された高校に進学し、大学は父親の母校でもある国立に決めた。努力しなくても合格出来るラインの学科が経済だけで、特に興味はなかったけれどそれはどの学科にも当てはまる。実家からも通える距離ではあったけれど、母親の勧めで一人暮らしをすることになり、それだけが少し面倒臭かった。
就職した今の会社も、数社申し込んだのちに受かったのがここだけだったから。まさか営業部に配属されることになるとは思っていなかったけれど、仕事に慣れた今ではそれさえどうでもいい。
好きも嫌いも、得意も不得意も、希望も絶望もない。流されていく先に興味はなくて、虚しさを感じても涙が溢れてくることもない。趣味も特技もない自分を恥ずかしく思っても治す方法は分からなくて、自分は何よりも空っぽなのだと自覚した。
「ただ、生きているだけだった。だから、死にたかった」
何も積もることのない胸の裏っ側を曝して、懐いてくれている後輩の眉間に刻まれていく皺の深さに申し訳なさを覚える。僕にとっては本当になんてことのない、昔から背負ってきた事実を話しているだけ。辛さも淋しさもないはずなのに、痛みを隠そうともしない垣崎に僕まで泣きたくなってきた。
「だけどね、先輩と約束をして、ほんの少しだけ、楽になったんだ」
指導係となった垣崎先輩の後ろで挨拶を繰り返し、緊張に火照った身体を冷まそうと屋上で風に当たっていた初夏と呼ぶには早すぎる、四月の終わり。フェンスの隙間から覗く景色は春らしい霞に覆われていて、曖昧に広がる世界が心地良かった。
ビルをすり抜けて吹き込んでくる風は冷たくて、熱の灯る頬を撫でていくたびに心の全てが落ち着いていく気がする。強すぎる風に、霞の降り積もる日常に、別れを告げられたらどれだけいいだろうか。そんなことばかりを願ってしまうのに、死ぬ勇気は到底湧き上がってこない。生きるも死ぬも他人任せで、僕だけだったら何ひとつ決められないことに悲しくなった。
「……フェンス、錆びてるから危ないぞ?」
何もないから生きていたくなくて、何もないから死んでしまいたくて、どんなきっかけもないから決心がつかない。日常と何処か遠くを区切るようにひっそりと網を張るフェンスを握り締めて渦巻く感情に蓋をしようとすると、ふと響いてきたのはさっきまで聞き続けた低い声。自分以外の声に驚いて視線を巡らせると、いつもとはどこか雰囲気の違う表情を浮かべた垣崎先輩がいた。
「あ、の……」
「死にてぇの?」
垣崎先輩の印象はとにかく明るくお喋りで、周りをよく見ている人だというくらい。入社以来一番お世話になっているけれど、仕事以外で喋るのは未だに苦手で、昼休憩も一緒に過ごしたことはない。
誰もが彼を慕って、仲良しで、垣崎先輩を囲うように出来た輪を遠くで見かけることはよくあった。だけれど二人っきりの空間で、対面で声をかけられたのは初めてでどうしたらいいのかが分からない。つっかえながらもどうにか話をしようとしたけれど、普段とは全く違う静かで、穏やかな声を前にして止まってしまった。
「……そう、ですね」
同僚に囲まれて楽しそうに笑っているときとも、営業職に慣れない僕を元気づけるように見つめてくるときとも違う。何を考えているのか分からないほどに凪いでしまった瞳に、真一文字に引き結ばれた口角。寄越してくる視線の冷たさにも憶えはなくて、だからこそ馬鹿正直に答えてしまった。
先輩の言う通り、死ねないと分かっていても死にたかった。何もないこの世界から飛び出して、全てに終わりを告げたかった。希望で、救いで、願いで。叶えられることはないのだと、覚束ない笑みが零れていく。
「ふーん。……じゃあさ、」
真っ直ぐに視線は交差しているはずなのに、先輩が何を考えているのかが分からない。透き通るような茶色い瞳は光を反射して、何も映し出そうとはしていない。仕事中でもここまではならないと思うほどフェンスを握り締める右手のひらには汗が滲んでいて、ばくばくと昂っていく心臓が苦しい。
どんな言葉が続いていくのか、すとんと表情の抜け落ちた垣崎先輩からは読み取れなくて、見つめ続ける先で焦れたようにゆっくりと唇が動いていく。
「一緒に、死んであげようか」
階段を上ったすぐの場所にいる先輩と、屋上の真ん中辺りで立ち尽くす僕と。距離にしたら十メートルくらいは離れているだろうに、耳元で囁かれたかのような力強さで、胸を鷲掴みにされたかのようなくすぐったさで、先輩の言葉は僕の元へと響いてきた。
指先が痺れて、かしゃりとフェンスが鳴る。びりびりと光が明滅しているのは、誰にも見せられない僕の奥底だ。
「……じゃあ、ぜひ」
なんて、答えたらいいのだろうか。思考の奥深くでは当たり障りのない、冗談で済ませるにはどうすればいいのかが巡っていく。だけれど気が付いたときにはもう、先輩の言葉を肯定するだけの言葉が二人の間を舞っていた。
風が吹いて、垣崎先輩の綺麗に整えられた髪の毛が緩やかに巻き上がる。オールバック気味に後ろへと撫でつけられた髪型は男らしい顔つきの先輩に似合っていて、ほど良く筋肉のついた身体が羨ましかった。
僕の返事には何も返してはくれなくて、だけれどそれこそが何よりの返答だと思った。屋上にはよく訪れているのか、先輩はフェンスに凭れられないぎりぎりの場所で胡坐をかき、内ポケットに入れていた煙草を取り出す。携帯用の灰皿とライターはパンツのポケットに押し込められていて、こういうところは雑なんだな、と笑ってしまった。
「これが、垣崎先輩とした約束。一緒に死ぬための、約束だよ」
それからは毎日のように屋上でも顔を合わせていた。指導係として半年ほど後ろをついて回っていた時期が終わって、僕が一人で取引先に出向くようになっても変わらない。二人だけの空間は和やかで、初めて見る先輩の姿がどんどんと増えていった。
いつも明るくお喋りな先輩は、僕と二人きりのときだけは口数が少なく穏やかだった。僕と同期の女性社員が淹れてくれるブラックコーヒーを飲んでいるが、本当は苦手なのだと困ったように笑って見せる。隠すようにポケットから取り出されるのは近くのコンビニで売っているいちごミルクで、ギャップの強さに呆れてしまったこともある。
吸わない僕に向かって煙草の煙を向けてくる茶目っ気も、お弁当のおかずを狙ってすぐ隣にやってくる可愛げもあるのに、遠くを見つめる瞳の冷たさはいつも同じだった。本当の先輩が何処にいるのかは分からないけれど、知る必要はないと興味のない振りをした。
一緒に死のうと言ってきたくせに、それ以降そんな話をしたことはない。僕にとって都合の良い夢でも見ていたのだろうかと思って、だったらそれでもいいと思う。
垣崎先輩の中で僕に投げた言葉は冗談で、次の日には忘れてしまう程度のものだったかもしれない。それでも僕はその言葉で随分と楽に生きられるようになった。終わらせてくれる存在がいるのだと、結局は他人任せでしかないことを考えて、縋りつける先に安心した。
いつか本当に、先輩と死ねたらいい。そんなことを考えていた、初夏に差しかかりそうな蒸し暑いあの日。垣崎先輩は脈絡もなく突然、どんな死に方がしたいか、と聞いてきた。
「死に方?」
「そ。数見はなんか、これがいい、って決めてるのある?」
煙草本来の味がするのだと自慢げに話していた銘柄を一本咥えて、ふわりと舞い上がっていく煙の先で先輩が薄く笑う。重いタールを選んでいるくせに吐き出す煙は一本線を描いていて、先輩は自殺なんかじゃなく煙草に殺されそうだと思った。
「別に……。でも、電車とかの接触事故は嫌ですね」
「へぇ、なんで?」
「なんで、って。色んな人に迷惑がかかるから」
接触事故、人身事故。死を選ぶ行為そのものに迷惑がかかるのだから、なるべくその迷惑の矛先が他人に向かなければいいと思う。朝の通勤時に電車が遅れて迷惑を被るのは一人、二人の話ではない。
僕の視線を真っ直ぐに受け止めて、先輩はまたへぇ、と至極興味がなさそうに返事をした。それからはあれでもない、これでもないと言い合って、答えが出せないまま昼休憩は終わってしまった。
なんてことのない、ふと思い出したから話題に出してみただけ。太陽を遮る雲一つない晴れ空の下でするには些か物騒でも、僕たちの間にそんな遠慮は存在しない。だから、僕は何も気にしていなかった。
「だけど、先輩はその次の日の朝、電車に飛び込んで亡くなった」
僕が真っ先に否定した死に方で、一緒に死のうと約束をした先輩が死んでしまった。
いつも通りに出社して、先輩がなかなか来ないから会議が出来なくて、無断欠勤なんて珍しいなぁと浅田部長と話していたときだった。駅職員からの電話を取った事務の女性社員が飛び込んできて、僕は開いていたメモアプリに意味のない羅列を並びたてた。
その日、僕はどうやって仕事をこなして、家に帰ったのか一切の記憶がない。ベッドとちゃぶ台が並んだ狭い部屋で、気が付いたら包丁を握り締めて座り込んでいた。ジャケットのボタンは全部ついていて、前を向いた切っ先が小刻みに震えている。この前の休みに研いだばかりの包丁は僕の骨なんて簡単に切ってみせるだろうと、冷静に考えてしまった自分に怖くなって、それ以来その包丁は一度も使えていない。
一緒に死のうと約束した人に、僕は勝手に置いていかれた。昨日のあれは相談なんて明確な形は取っていなかったはずで、予兆と呼ぶには他人行儀なもの。遺書は見つからなくて、垣崎先輩が一人で死ぬことを選んだ理由は分からない。
分かっているのは、僕に伸ばされていたはずの選択肢が消えてしまったことだけだ。その事実にどうしたらいいのか分からなくなって、死にたくて死にたくて仕方がないのに死ねなかった。お風呂でじっとりと全身から湧き出た汗を流して、布団に潜り込んだらすぐに眠れてしまう。食欲はなかったけれど、それでも僕は生きていた。
起きて、着替えて、出社して。昨日までと同じ日々をこれからも繰り返して、何もない毎日に身を預ける。耐えられる自信は欠片もない。僕は先輩に置いていかれはしたけれど、後を追うことは許してもらえるだろうか。
「本当に分からなくて、困っていて。そんなときに出逢ったのが、君だよ」
何百もの百合の花に囲まれて、先輩は笑っていた。小さな額縁の中で口角を上げる垣崎(かきざき)保(たもつ)の姿は誰もが慣れ親しんだもので、二人きりのときに見せる表情を知っていても先輩が笑っていることに安心した。
先輩が何を思っていたのか分からなくて、死んでもいいのか分からなくなって、そんなときに声をかけてきたのが君だった。弟だという君は先輩とよく似ていて、だけれど笑ったときの皺は少しも似ていない。楽しそうに笑う君を見ていると僕までひどく楽しいような気がして、思わず笑ってしまうのがいつまで経っても慣れてくれない。
君を見るたびに先輩を思い出してしまうくせして、先輩とは違う一面が深く印象に残っていった。先輩は僕のお弁当からおかずを奪っても、美味しいだなんて感想は言わなかった。ヘビースモーカーだった先輩からは煙草の苦い香りしかしないのに、君からは柔軟剤の優しい香りが漂ってくる。
本当は、先輩のことが知りたかっただけ。先輩がどうして僕との約束を破って一人勝手に死んでしまったのか知りたくて、僕の知らない先輩を知れば分かると思って、君とここで会おうと決めた。それだけの理由だったはずなのに、いつからか君自身に会うことが目的になっていた。
君の話を聞くのが好きだ。君の笑った顔を見るのが好きだ。卵焼きなんて簡単に作れるのに、すごいすごいって美味しそうに食べてくれる君が好きだ。
僕にとって料理も掃除も洗濯も、当たり前に出来なければいけないことだった。生活をする上では必要なことで、得意も不得意もない。当たり前のことだと思っていたのに、君は何度も何度も褒めてくれる。当たり前なんかじゃない、すごいことなんだよ、って、何度も僕に教えてくれた。
照れくさくて、恥ずかしくて、だけれど本当は、嬉しかった。君に食べてほしくて、また美味しいって笑ってほしくて、適当に晩ご飯の残りものを詰めていたお弁当を頑張るようになった。馬鹿みたいに浮かれて料理本を買ったりして、家でそれを眺めている時間が楽しかった。
最初は、垣崎先輩のことが知りたかったから。だけれど君と話しているうちに、君が笑ってくれるおかげで、先輩のことを思い出すことが減った。その代わりに君が、垣崎司が、僕の中で大きくなった。
君の隣で、君と一緒に、笑っていたいと思ったんだ。死にたいとばかり考えていた僕が、君と一緒に生きてみたいと、そんなことを思ってしまったんだ。
*****
ビジネスホテルのベッドの上で、数見先輩がぽつりぽつりと語ってくれた内容に驚いて言葉が何も出てこなかった。兄と先輩の間には何かがあるのだろうと、付き合っているのかもしれないとまで思っていたけれど、死ぬ約束だなんて。欠片も考えていなかった内容に、俺は渇いた舌に無理矢理唾液を溜めた。
「僕は、君が知っているよりもずっと情けなくて、臆病で、空っぽだ」
抱き締めたままの姿勢で、先輩は薄い身体を小さく震わせて言った。褒められることに慣れていないのだと思っていたけれど、根本的な部分を取り違えていたらしい。先輩は褒められることも、俺に好かれることも怖がっているのだ。自分はそんな存在じゃない、自分には勿体ないと言い聞かせて、向けられる好意を自ら遠ざけている。
腰に這わせた手のひらに力が入って、思わず中身の詰まってなさそうな身体に指を滑らせてしまう。つらり、とベルトの上を走っていく指先がくすぐったかったのか、先輩はひくりと喉を鳴らした。
「っ、きみ、は。君には、もっと相応しい人がいる。僕なんかじゃなくて、もっと、君に幸せを与えられる人がいるはずだ」
上擦った声を懸命に抑えて、囲い込んだ腕の中から見上げてくる目尻には涙が浮かんでいる。表面張力に守られた雫は下瞼を赤く染めていくだけで、なかなか落ちていこうとしない。
何の説明もなしに連れこまれたビジネスホテルで乗り上げられたのは、俺に諦めてほしかったからだろうか。自分と同じ身体を持っている現実を見せて、こんなつもりじゃなかったと言わせたかったのだろうか。
「……兄ちゃんとのことは、正直驚きました。俺は死にたいって思ったことがないので、それ以上のことは何も言えません」
真っ直ぐに向けられた瞳が蛍光灯を反射して、瞬きのたびにきらきらと透明の光りが散っていく。紫陽花の緑に囲まれて泣いていた先輩は兄を思い描いていたけれど、今は俺だけを想ってくれている。
兄と交わした約束に縋って生きてきた数見先輩が、俺と生きる未来を考えてくれていた。相応しいだとか、勿体ないとか、そんなものは関係ない。今はただ、先輩が俺だけを見てくれていることが嬉しかった。
「でも、先輩が好きなことに変わりはありません。俺の話を最後まで聞いてくれて、美味しいって最初に言った卵焼きが絶対にお弁当に入っていて、どんなことにも笑ってくれる優しい先輩が、大好きです」
本は課題で出たものを読んでいた程度だと言う先輩が、俺が結末まで全部喋ってしまう本のタイトルをメモしてくれているのを知っている。初めて先輩に一口分を分けてもらって美味しいと何度も感動を伝えた卵焼きは、バリエーションを豊富にして毎日お弁当を彩るようになった。俺の言葉を憶えて、次に活かそうと頑張ってくれる先輩は誰よりも優しくて、他人想いで、かっこいい。
先輩よりも相応しい人だなんて、俺はこれから先絶対に現れないと思う。そりゃあ先輩が同性なんて無理だ、と嫌悪を示すのなら諦めもつくが、先輩も俺を好きでいてくれている。熱烈な告白を聞いて手放せるほど、俺は聖人君子に出来ていない。
「ねぇ、先輩」
涙を堪えているせいかほんのりと薄桃色に染まった頬を両手で包み込み、親指の腹で表面張力を保つ雫を払ってやる。きらきらと靡いて散っていく液体は何よりも澄みきっていて、いっそ舐めとってしまえば良かったと思った。
目尻に赤色を滲ませて、ただ真っ直ぐに見上げてくる先輩の瞳が強くて、綺麗だった。あの日見つけてしまった、消えてしまいそうな儚さは何処かに飛んでいき、目の前にあるのはなにものにも侵されない強さ。眩しくて、目映くて、俺は意識して瞬きを深くした。
「先輩は気付いてますか?さっきの、盛大な告白だったって。あんたに、俺の大好きな人にこれだけ愛されてる俺って、誰よりも幸せものだと思いません?」
睫毛が震えて、自分がどれだけ笑っているのかがよく分かる。だって、俺は充分幸せだ。あんたに愛されているって嫌でも分かって、俺を想って泣いてくれて、それで幸せをもらえないだなんて、俺は冗談でも言いたくない。
俺は、先輩に愛されて幸せです。この喜びがどうにかして伝わればいいのに。そう思っていると先輩には正しく伝わったのか、弾いたはずの涙が次から次に溢れてきて、拭っても拭っても間に合わない。
「ぼく、ぼく、は、今でも、死にたいよ。だけど同じくらい、君のとなりにいたい」
死にたさと、生きたさと。相反する心を前にして幼子のように泣きじゃくる先輩を、全力を懸けて守りたいと思った。
火照って小さく震えている身体を壊さないように抱き寄せて、心臓同士を溶かすようにくっつける。鼓動を速くしているのは俺の心臓か、それとも数見先輩の心臓か。一番に近寄った薄っぺらい身体に、俺の好きだって気持ちが沈めばいいのに。
「俺も、先輩とずっと笑っていたいです。……ねぇ、先輩。約束をしませんか?」
「っ、やく、そく?」
一生叶うことのない約束を抱えていた先輩は、その言葉を聞くだけで肩をびくつかせた。それを宥めるように背中を何度も撫でて、強張った身体から力が抜けたタイミングで続きを口にする。
「そう、約束。俺、先輩の作ったオムライスが食べたいです」
重ねていた心臓を剥がし、鼻先をこするような距離感でにっこりと笑って見せる。他愛もない約束なんてそこら中に転がっていて、その一つひとつを叶えている間は生きていられるような気がする。俺にはこんなことくらいしか出来ないけれど、少しでも先輩が楽しく生きてくれればそれでいい。
「おむ、らい、す……」
「あの、くるっとした、オムライス!ってやつ。先輩の作ったのが食べたいです」
俺にご飯の美味しさを教えてくれたのは、間違いなく数見先輩だ。食べられたらなんでも良かったのに、美味いも不味いもないと思っていたのに、先輩の作るおかずが美味しくて、こんなのが毎日食べられたら幸せだろうなって思ったのだ。
お願いします。声色に乗らないまま言葉を繋げれば、先輩はあちらこちらに視線を泳がせた後で、ゆっくりと頷いてくれた。頬を染める赤色は涙に火照ったせいではないと、俺は勝手に自惚れておくことにする。
「じゃあ、約束」
「……うん、約束」
鼻先をくっつけたまま、俺たちは小指を絡ませる。二度、三度と揺り動かすだけの真似事はすぐに終わってしまったけれど、先輩の表情はどこか晴れやかなものになっている。
これからは小さな約束を繰り返して、隣り合って笑っていたい。そうなれるようには頑張っていくしかなくて、俺は決意を込めて口角を上げた。
*****
「ひっ、んぅ、ん、」
「こら、傷になっちゃいますよ」
身体と同じように薄い唇がぽってりと腫れ、隙間から漏れる声を隠すように前歯が下唇に食む。上擦ってしまう声が恥ずかしいのだと全身を真っ赤に染める数見先輩は可愛いものだけれど、この綺麗な身体のどこにも傷なんか作ってほしくない。
繋がった部分からぐちゅり、と生々しい水温が響くたび、先輩は小さく息を漏らして喘いだ。いつもより高く掠れた声を俺はもっと聞いていたいのに、比例するように強くなっていく力に下唇は僅かに血を滲ませる。
動かしていた腰をゆるりと止めて、唇の端から真ん中にかけて親指を這わす。見え隠れする並びの良い前歯を撫で、ゆっくりと押していけば熟れた舌がちらりと見えた。
「だって、こんなはしたない声……」
燃えるように熱くなった口内に指先を入れて、歯列をなぞるように動かしていく。犬歯を、奥歯を、上顎を。緩くこすりつけるたびに先輩は身体を跳ねさせた。
初めて見る数見先輩のはだかは、想像していたよりもずっと艶やかで、煽情的で、少しでも力を込めると壊れてしまいそうに脆かった。薄っすらとあばら骨の浮いた腹も、筋肉の隆起が見て取れない二の腕も、俺の半分しかないんじゃないかと心配になる太腿も。照れもなく潔くシャツを脱ぎ捨てていく先輩を前に、本当に抱いてもいいのかと俺は呆然と立ち尽くしてしまった。
それを横目に確認した先輩はどこか不機嫌そうに眉根を寄せ、ビジネスホテルに連れて行かれたあの日と同じように、先輩が普段使っているベッドに押し倒してきた。あの日と違うのは最初から太腿に体重が掛けられていたことと、見下ろしてくる意地の悪そうな笑みがはっきりと見えてしまったことくらいか。
先輩の家に呼ばれて、先輩が作ってくれた昔ながらのオムライスを食べて、明日は土曜日だからと泊まらせてもらうことになって、それから、それから。
セックスだなんて、いつでも良かった。数見先輩の隣にいて、一緒に笑えたらそれだけでよくて、肉体的な繋がりなんていつか、そんな雰囲気になったら、くらいにしか思っていなかった。
だけれど、俺を見下ろしてくる先輩の瞳には淋しさが詰まっているように見えて、胸の奥底がぎゅうぎゅうと締めつけられる。腹筋の力だけで起き上がった俺はその勢いのまま薄い唇に齧りついて、熱くなっていく口内に舌を投げ入れた。
童貞ではないらしいが、それでも決して行為に慣れているとは言い難い先輩の反応は一つひとつが可愛らしくて、守ってあげたいような、意地悪してみたいような、よく分からない気持ちにさせた。くっきりと浮き出た鎖骨に歯を立てて、平たい胸の小さな尖りを舐り、まぁるい臍を舌で突く。俺が触れるたびに嫌々をする子どものように身体を揺らし、喉を逸らす姿に劣情を煽られた。
先輩も俺と同じように男同士のやり方は調べてくれていたみたいで、解そうと後孔の周りを撫でると何故か柔らかくなっていた。思わず漏れ出た吐息に先輩は涙を滲ませたまま大丈夫だと頷いて、堪らなくなった俺は何度も繰り返し先輩に唇を落とす。
準備をしてくれているといっても、受け入れる側の先輩が怖くないわけがない。逃げをうつ舌を掬い上げ、先端に歯を立てたり吸い上げてみたり。呼吸を奪うような激しいものじゃない。先輩を安心させるように何度も口付けると、強張っていた肩から少しずつ力が抜けた。
緩く勃ち上がった先輩のものを手のひら全体で包み、反対の左手で準備してくれていたローションを開ける。冷たい質感を手のひらで揉んで温めて、閉ざされるはずだった秘部に塗り込んでいく。
人差し指を入れて、次は中指を。つぷり、と少しずつ沈んでいく先輩の中は熱くて、狭くて、早く一つになりたいと思考が鈍っていく。薬指まで増やしたところで恥ずかしさが限界に達したのか、ぼろぼろと泣きながら急かしてくる先輩の声に俺は身体を起こした。
逸る心臓を宥めるようにゴムをつけ、その大きさに顔を引き攣らせる先輩を抱き締める。ぐずぐずに溶かした後孔に天を向いた雄を何度か擦りつけ、ローションで滑りの良くなったそこにゆっくりと沈めていった。先輩も最初は痛みや圧迫感に息を詰めていたが、前立腺を掠めた瞬間からは吐き出す声色に甘さが混じる。
全てを沈め込むときには先輩の身体から力が抜け、涙に濡れる瞳は快楽を映し出していた。今ではもうお互いに一度は果てて、腰をくねらす先輩の痴態に我慢出来なかった俺がもう一度はめ込んだまま勃たせてしまったところだ。
「聞かせてよ。俺だけしか聞けないんだからさ、」
もっと聞きたい。耳元で囁いた言葉に、深々と挿入した先の壁がひくりと震える。腸内が先輩の恥ずかしさも期待も興奮も混ぜ込んだかのように蠢いて、気持ち良さが背骨を這い上がっていく。ぐ、と詰まらせた喉奥が唸って、涙に濡れてきらきらと光る瞳がゆっくりと細められた。
「んっ、ねぇ、かきざき、」
息が上がって、舌っ足らずになった先輩が懸命に言葉を繋ぐ。初めてで俺の全部を受け入れてくれた先輩は相当に疲れているだろうに、向けられた視線はどこまでも優しい。
汗の浮かんだこめかみや首筋に舌を這わせるごとに先輩の薄っぺらい腹が震えて、絡ませ合った口内は火傷してしまいそうなくらいに熱くなっている。
「ちゃんと、きもち、いぃ?」
目尻から耳朶へ、指先を滑らせていく。真っ新な耳朶の手触りが気持ち良くて、軟骨の硬いところから少しずつ下へと移動する。僅かな刺激も敏感に拾ってしまう初々しい身体が可愛くて、耳朶に首筋に鎖骨にと移していけば掠れた声が聞こえてきた。鼻に抜けたような声は聞き馴染みがなくて、問われている内容と合わさって腹の底が滾るようだった。
男を受け入れるなんて初めてで、俺も勝手が分からなくて、先輩に無理だけはさせたくないと思っていた。それなのに、頬も目尻も赤く染め上げ、不安そうに眉根を寄せて見上げてくる先輩を見てしまうとそんな決意も揺らいでしまう。
挿入したまま馴染ませるように動かさなかった自身を前立腺に押し当て、喉を逸らして善がる先輩の細い身体を押さえつける。ごりごりと肉のぶつかり合う音が部屋に響いて、骨の感触がする腰を掴んでいた指先が汗で滑ってしまう。
「ぁあ、あ!や、もうやぁ、とま、てぇ……!」
「全部、持ってかれそうなくらい、ちゃんと、気持ちぃ、よ!」
触っていない先輩の雄から力を失くした白濁がとろとろと流れ落ちてくる。へっこんだ腹に溜まっていくぬるい液体にどちらのものか分からない汗が飛んで、容赦なく締めつけて包み込んでくる中に俺も限界を悟った。
そう言えばゴムを変えていなかった。先輩から出ていきたくなくて、ずっとこの柔らかい中にいたくて、抜かなかったのが仇になってしまう。弾けるぎりぎりのところで締めつけてくる腸壁から抜き、先輩の太腿に擦りつけるようにして果てた。
昂った熱を荒い呼吸で落ち着かせ、余韻で小刻みに震えている先輩の隣に身体を沈める。二人して吐き出す息が熱いままで、絡まっていく視線の穏やかさに笑ってしまう。はだかのまま向かい合って笑っている図はどこか間抜けに映るだろうが、こうしていられる時間は心地良い。
「からだ、大丈夫ですか?」
「んぅ?まぁ、多分、きっと……?」
腹を撫でる姿にどこか痛むのだろうかと声をかけてみるが、ぼんやりと意識を飛ばしている先輩の答えは曖昧なものでしかない。無理をさせてしまった気しかしないが、今は先輩の言葉を信じておこう。
「ねぇ、先輩。またオムライス、作ってくださいね」
さすっている方とは逆の手のひらを掬って、火照ってもなお白さを残している甲に唇を落とす。気障ったらしい仕草に馴染みなんてなかったが、約束をするように、先輩の心に誓うように、言葉を浸透させたかった。
材料がちょうど揃っているから、という文句で今日は数見先輩の自宅に招いてもらった。本当は今日のために材料を揃えてくれたのだろうが、照れ隠しにそう言ってしまうしか出来ない先輩に微笑ましくなる。
ふわふわと際限なく浮き上がってしまう心を押さえて、先輩の後ろについてきて、案内された1DKに足を踏み入れたときは嬉しさに自然と口角が上がってしまった。テレビの横に置かれている小さなサボテンも、丁寧に整頓されたキッチンも、先輩が教えてくれた日々の欠片が転がっている。なんだか無性に嬉しくなって、小さな蕾の膨らんだサボテンに挨拶をしてしまった。
リクエスト通りの、一枚の薄焼き卵に巻かれたオムライスは懐かしい味がして、でもこれまで食べたどのオムライスよりも美味しくて、何度だって食べたいと思った。美味しいか、と何度も感想を聞いてくる先輩に何度も美味しいと伝えて、幸福さのあまり表情筋の全てが垂れてしまう。
今度は半熟に仕上げたオムライスが食べたいし、ハンバーグとか肉じゃがとか、先輩の作るものはなんだって食べたい。それに、休みの日に二人で出掛けたり、家でだらだらと無駄な時間を過ごしてみたり、先輩とはなんだってしてみたいと思う。
「……うん。今度は、ケチャップじゃなくてデミグラスソースにしてみようか」
横向きになった先輩のこめかみに、きらきらと光りを反射する透明な雫が一粒落ちていく。だけれど数見先輩はどこか幸せそうで、柔く微笑んでくれたことに嬉しくなって俺も笑ってしまった。
小さな約束を、何度も何度も繰り返していこう。兄のように一緒に終わらせてしまう約束をするんじゃなくて、一緒に笑って生きていくための約束を、たくさんたくさん積み上げていこう。
掬った手のひらを解いて、互いの小指を絡め取っていく。優しく込めた指先の力に、返ってくる強さがあった。
視線が交差して、ゆっくりと唇が近付いていく、神様の存在なんて信じていないけれど、俺は先輩に。先輩は俺に。二人で生きていくのだと、誓いを立てた。
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