光の群れ星

由佐さつき

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本編

二、

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 六年前の、丁度今くらいの時期。社会に放り出されて四年を迎えていたあの頃は、私史上一番と言っていいほどに疲れきっていた。
 幼い頃から何かに興味を抱くことが全くと言っていいほどになく、物事に対して好きとか嫌いとかいう感情が芽生えることもなかった。少しずつ難しくなっていく学校の勉強も、放課後の校庭で開催されたドッジボールも、友だちに手を引かれて行った秘密基地も、私にとって何もかもが同じで、取り立てて代わり映えはしない。
 自発的に何かをやりたい、この子と一緒にいたい、と思ったこともない気がする。高校二年の秋頃から本腰を入れてやり始めた大学受験も、一生を捧げることになるかもしれない就職先も、五十年後の安定を見据えて選んだに過ぎない。
 友だちや恋人も、幸いと呼ぶべきか、どうしてと疑問を抱くべきか。どちらに分類すればいいのか正しい判別はつかないが、私が望むと望まざると、向こうから寄って来てくれるのが常だった。
 他人からの評価ではあるが顔つきが柔和で親しみやすいし、物事に強い興味を示さないから誰かと喧嘩になることもない。相手からしたら非常に楽で、使い勝手の良い存在だったのだろう。
 きちんと泣き喚いていた赤ん坊の頃から知っている両親は、そんな私に不安を覚えたこともあったらしい。このまま成長しても空っぽの大人になるだけで、お人形さんみたいに意思の宿らない人間になってしまうのではないか。使い勝手の良い駒として捨てられる未来を、まだ舌足らずにしか喋れない幼い私の背後に見たのだと聞かされていた。
 それでも、両親が特に何の行動も起こさずに私が大人になれたのは、小学校の卒業文集が理由だろう。クラスごとに数ページが割り振られているそれは、今もまだ両親の寝室に保管されているはずだ。
 いちページの半分も書かされた自己紹介は埋めるのに大変だったが、そんなものは興味ないともっと人気を博したページがある。それは、子ども特有の残酷さでランキングされた、クラスで一番〇〇なのはというありきたりなコーナーだ。
 大人になったら社長になりそうなのは、芸能人になりそうなのは、一番先に結婚しそうなのは、彼氏もしくは彼女にしたいのは。
 雑多に色々な項目が並ぶ中で、ほとんどのランキングに私の名前が入っていた。文集のいちコーナーを飾る順位は精々三位までしかなかったのに、十種類の中で私の名前は八個。しかもその内の五個が一位で、何による投票かは知らないが、目に見える形で現れた自分の人気具合に驚いた。
 趣味も特技もない、ろくにテレビ番組も流行りのゲームも知らない私が、何故だか友だちだけは多い。両親はそんな私に安心して、そうして、私も私で自分の外面がいかに形成されているのかを実感した。
 何の面白みもない日常は、だけれど他人からしたらひどく順風満帆に映っていただろう。有名な国立大学の理学部にストレートで合格して、就職した会社も絶対安泰だと言われている国内外で有名な企業。同期の中でも給料は良い方だし、1LDKのマンションは無趣味の一人暮らしには広すぎるほどだ。
 誰もが羨むような環境で、私自身もそんな自分に大した不満は感じていなかった。快適な寝床も、美味しいご飯も、積み上げられた仕事も、私には充分過ぎる毎日だと思っていた。
 だけれど、順風だと感じていた四年目にふと、これから先もずっとこんな日々が続くのだと気が付いてしまった。
 休日には部屋の掃除をするか寝るかしかやることはなく、食事の好き嫌いもないから栄養素だけを考えたメニューを繰り返すだけ。高校や大学時代に親しくなった友だちはみんな仕事や趣味に忙しいか、結婚して子どもを授かったか。会わないかと休みの日の予定を聞かれることもなくなって、いつしか誰とも疎遠になってしまっていた。
 テレビをザッピングしても気になるような番組はなく、ベランダに近い窓際で晴れた空を見上げていたら一日が終わる。こんなつまらない人生が、あと五十年も待っているのかと思うとぞっとした。何の変哲もない笑顔を貼り付けて、惰性で生き続けた先に何があるというのだろうか。
 生きている理由はないが、死のうと意気込むほどの気力もない。淡々と過ぎていく毎日に、自分とは何ともしょうもない命だな、と自嘲が浮かんだ。
 だけれど、そんな私の人生に終止符を打ってくれた人物がいた。まるで救世主のような優しさで、まるで信仰する神のような力強さで、私のしょうもない命に輝きが湧き上がる。この方に出逢うために私は今までずっと生きてきたのだと、てらいもなくそう思えたのだ。
 それは、四年目に入ったばかりのゴールデンウィーク。社会人になって丸三年が経ったが、趣味もなく気軽に連絡を取っている友だちや恋人もいない私は、心から進んで休日出勤に立候補していた。大型連休の半ばにある平日は当たり前に仕事ではあるが有休にしている社員もいるのに、午前中だけとは言え休日に自ら出社したいと望む私は入社当時から稀有に映っていたのだろう。
 昭和の日も、こどもの日も、振替休日も。赤く印字されている祝日に漏れなく出勤している私は、無理はしていないかと人事部からの呼び出しを受けてしまう。それほど、祝日に進んで出勤してくる行動を理解されなかった。
 給湯室で噂話に花を咲かせている数人の会話を聞いてしまって知ったのだが、私は何故か完璧人間だと思われているらしかった。何でも持っていると社内の人間に思われている私が休日出勤しているのは、最近別れてしまった恋人のことを忘れるためらしい。この時点で完璧人間ではないのでは、と疑問に思いもしたが、吐き出す先を実際の私は持ち合わせていない。
 ただ家にいてもやることはなく、だったら出勤して仕事をしていた方がマシだと思ったから以上の理由はないのだが、それを一から説明するのも面倒くさい。受け流すようにやんわりと笑って、深くを尋ねさせないようにすることには慣れている。だが、慣れているからと言って疲れないわけではない。
 ゴールデンウィークだけじゃなく、お盆も年末年始も誕生日も、やることがないから出勤していた。そうするしか時間が埋められないから仕方なくで、仕事も苦痛に感じないだけで好きというほどの熱意はない。
 これが定年退職するまで続くのかと思いながら、今にも雨が降ってきそうな曇り空の下を歩いていた。
 十二時になった途端に退勤していった同僚の背中を眺めながら、持ち込んでいたコンビニ弁当を自分のデスクで広げる。一人前の量をきっかり一時間も掛けて食べ、使ったマグカップを洗って給湯室に置く。街を歩いているだろう人の多さを予想して嫌気がさしながら職場の電気を消し、エアコンの電源やゴミ箱の埋まり具合を確認して会社に鍵を掛ける。
 一年目から変わらず、休日出勤のときに最後まで残っているのはいつも私だった。何かトラブルが起こっても進んで首を突っ込むおかげで、デスクの引き出しには食べもしないお菓子がたくさん詰まっている。
 あまり天気が良くないからか、都内の中心部だというのに予想していたよりも人通りが少ない。平日の通勤ラッシュ時間の方がすれ違う人数は多いかもしれないな、とは思うけれど、それでも時間潰しのためにゆっくりと歩く私は色んな方の迷惑になっているらしい。足早に歩いていく学生らしい数人組に振り返られ、眉根を寄せられてしまった。
 少しでも人の少ない場所を通って帰ろう。そう思っても、通勤路しか歩かない私には寄り道する場所も散歩に相応しい抜け道も分からない。さて、どうしようかと道端に寄ってぐるりと周囲を見渡すと、丁度ぽっかりと空いた隙間から狭い路地が見えた。
 時間は必要ないくらいにあるし、迷ったとしても放置しがちのスマートフォンはきちんとジャケットの内ポケットに収まっている。行ってみようかと気まぐれにも近い感覚で、三十階以上はありそうなビルに挟まれた薄暗い路地へと向かった。
 ビルの裏口もゴミ捨て場もない路地は、ただ薄暗いだけのコンクリートに挟まれた、何の変哲もない道だった。すれ違うほどの道幅はないけれど、行き止まりにはなっていない。この先に繋がっているのが何処なのか、知っている人は通るだろうけれど、わざわざ選ぶこともないのだろうなと思えるような細さだ。
 通り抜けるビルの外側は何度も見たことがあるけれど、中にどんな企業が入っているのかは知らない。私がいつも通る通勤路から見ると裏手に当たるこの先の通りの名前も、地図アプリを出していない今の私には分からなかった。
 狭い路地を通り抜けた先、横に伸びる道は三人ほどが並んで歩けるくらいの広い道幅がある。セール中と看板の出た古着屋やヨーロッパ調の雑貨屋、お洒落な喫茶店が並んだ通りは若いグループやカップルなどが冷やかしていて、私のような無趣味な人間には場違いなように思えてしまう。
 一本しか変わらないおかげか、左側を見ると百メートルほど先に車の走る大通りが見えて、迷子になる心配はなさそうだと安心する。何となく覚えのある視線を感じるような気もするが、話し掛けてくるような暇な人間はいない。邪魔をされないのであれば散歩がてらもう少し歩いてみようかと、目に入った雑貨屋と喫茶店の間にある、これもまたぎりぎり二人が並んで通れるくらいの細い路地へと入った。
 こちらはさっきとは違い、コンクリートの壁ばかりが聳え立っているわけではなく、この狭い路地もれっきとした道路に当たるようだ。数メートル歩くたびに店の出入り口が見え、身体を薄くして対向してくる人たちとすれ違った。
 美容院に洋服のセレクトショップ、怪しい看板は占いの館と書かれている。テレビや雑誌のいちコーナーを飾る星座占いを信じているわけでもない私には、占星術と明記されている店に若干の恐怖を抱いてしまう。こういったところに行く人なんているのだろうか、と立ち止まってまじまじと看板を眺めていると、店のある二階から降りてきた女性と目が合ってしまった。
 気まずさを覚えてすぐに歩き出し、スーツ姿ではあるがいかにもな買い物客の振りをする。クッキーの甘い香りが漂ってきて、何となく小腹が空いてきた気持ちになったところで、ガラス張りになったひとつの店が視界に映った。
 一階建ての、こじんまりとした建物だ。奥に長い作りになっている中は見晴らしが良かったが、ぽかりと何もない空間に首が傾いてしまった。何かを販売しているというよりは、馴染みの全くない画廊に近い印象を受ける。だが、白く塗り潰された壁に絵が掛けられているような雰囲気はない。
 ぼんやりと中を眺めていると、おそらく出入り口になるのだろうガラスにポストカードが貼られているのに気が付いた。早足に歩いていると見逃してしまいそうな小さなそれには、詩展と書かれている。絵のようにカラフルな着色がされていないから遠目では見つけられなかっただけで、壁には多くの詩が展示されているのだろう。
 詩に限った話ではないが、架空の世界を書いた小説や先人の知恵が詰まった自叙伝など、授業以外で文章を読んだことはない。小学生の頃にあった読書感想文は宿題だからと課題図書の中から選んで読んでいたが、自発的に書店や図書館に行った記憶もない。
 読んでみればそこまで苦も無く時間は潰せるかもしれないが、そもそも膨大な量の書籍の中から一冊を選ぶことが出来ないだろう。読みたいものがないから、何を読めばいいかが分からない。本を扱う場で働いている人に質問しようにも大前提のものがないので、迷惑を掛けるくらいならと聞かずに立ち去る未来が見える。
 今までも、これからも。誰かに押し付けられでもしない限り、読書など縁遠い世界だ。
 興味があるかと問われると、欠片も湧いていないと答えるのが正直な感想だ。詩の良し悪しは分からないし、言葉の背景を想像して何かを受け止められるとも思えない。国語の授業で詩を読んで作者の気持ちを答えよ、という問題に取り組んだことはあるはずだが、私がそこで何と答えたのかはさっぱり覚えていない。
 言葉や文章に何かしらの感情や思考が巡るとは思えなかったが、出入り口だろうガラスを押したのは文字通りに「何となく」という思いからだった。家に帰っても適当に夕飯を準備して風呂に入るくらいしかやることがなく、無限にも思える時間を消費するには材料が足りていない。
 だったら、何の感想を抱かなくても此処に入って時間を潰しても良いはずだ。あまり広い空間ではない、三面の壁に展示されている詩の数は決して多くはないだろうが、それでも一時間ほどは無駄に有り余る時間を埋めてくれるだろう。
 ガラスを押して、さて入ってみようと思ったのになかなか扉が開かない。どうしてだ、とぐるりとあちこちを見渡していると、建物の中から少し年上くらいに見える黒縁眼鏡の男性がこちらに向かってきた。
 ふと目が合ってしまって会釈を互いに交わしたが、男性が向かったのは目の前で区切られているガラスではなく、私の隣で仕切られている部分だった。
「すみません、実はこっち側なんですよ」
 天井部分まで続く大きなガラス面ではなく、地面から百センチほどの高さで切り込みが入っている低いガラス部分が外側に向かって開く。しゃがみ込んで困ったように笑う男性は、半身で扉を押さえてくれている。出入り口を間違えた恥ずかしさから立ち去るべきかとも考えていたのに、これでは入るしか選択肢が残っていない。
「ありがとうございます」
 午前中は出勤していたからか、反射で出てきた愛想笑いに男性はほっとしたように目尻を下げる。そのまま抑えていてくれるらしい男性の横を、腰を曲げて中腰のまま通って中に入った。
 僅かにクッキーの甘い香りが漂っている。外を通ったときに嗅いだ食欲をそそる香りは、やはり小腹の隙間を痛感させてくる。思わずごくりと喉奥を鳴らしてしまったが、その音は響くことなく白い壁に吸い込まれていった。
 受付とポップの置かれている小さなテーブルの前で、ガラス扉を押さえていてくれた男性に入場料の五百円を払う。
 この料金が高いのか低いのか私には判断が出来ないが、一冊の本の値段を思うと安いような気持ちになる。昔は漫画も四百円以内で収まったのに、と財布を握り締めている先輩の声を聞いたことがあったのだ。
「どちら向きに回ったらいいですか?」
 A3くらいのポスターから、ポストカードサイズまで。所狭しと並んでいる詩は貼られている紙ごとにまとまっているのだろうが、読んでいく順番などの指示は特に示されていない。縦書きなのだから右に貼られている詩から読んでいけばいいのか、それとも何かしらの特別な順番があるのか。
 振り返って黒縁眼鏡の男性に聞くと、二度三度と瞬いてからにこりと微笑まれてしまう。
「連作のものはないので、どれから読んでいただいても大丈夫ですよ」
 場違いな質問だっただろうか、と窺うようにじっと見つめていると、男性は微笑んだまま立てた人差し指をふらふらと揺らした。それが「どれから」の言葉に繋がっているのだと気が付いて、私は軽く頭を下げてから展示物へと視線を戻す。
 壁に掛けられているもの以外はなく、端っこの台にいくらか紙の束が置かれている。あれは所謂グッズだろうと結論付けて、人のいない左側へと足を向けた。
 偶々ではあるだろうが、壁際の左端に作家紹介のポストカードを見つけた。イラストも写真も使われていない、文字だけのシンプルなものは一見すると作品のようで、途中まではそれが紹介文だとは分からない。
 さらりと文章を追いかけると、年齢は私よりもひとつ下だった。貼られている作品は全てこのすばるという作家が書いたものらしく、ホームページやSNSのリンクは書かれていない。
 個人でのこうした展示会は年に一回のペースで開催されているらしく、今回のテーマは「星」。私は天体にも興味がなくて、初っ端から読めるかどうか不安になってしまった。
 入場料も払っているのだし、とりあえず順番に読んでいってみよう。作家の心や背景を理解出来なかったとして、私が今此処にいるのは暇潰しでしかないのだ。あとで誰かと感想を言い合うわけでも、テストで作家の気持ちを答えなければいけないわけでもない。気楽に文字を追えばいいと、このときはそれくらいの気持ちでいた。
 星座の元になっている神話を絡めた作品や、ただ淡々と単語を並べただけのようなシンプルな作品。関連性は無いと受付の男性が教えてくれたが、それでもやはりひとつの同じテーマがあるからか、素人の私が読むとどことなく繋がっているような心地になった。
 丁寧で、繊細な言葉運びに見える。初めて見るような難しい単語もあって首を傾げてしまったが、そういったものには最後に小さく注釈が加えられていた。ただ自分の感情を綺麗な言葉で纏めているのではなく、受け取る側の人間もいるのだとちゃんと分かっている人だと思う。
 東京都の二十三区内で生まれて、進学した大学も就職した会社も同じく二十三区内の私は、満天の星空というものを見たことがない。見上げた先はいつだって真っ黒に塗られていて、僅かばかりの光さえ見えたことはなかった。
 それなのに、目の端で真白に輝く星がある。流星群のように何色なにいろにも筋を伸ばす星が、天の川を形成する何万何億の星が、そこかしこで光っている。
 ああ、これが。これが、満天の星空か。
 そう思って見上げた先には、真白に輝く蛍光灯があるだけだ。今はまだ昼の三時を過ぎた頃だし、小雨が降り出してきそうな分厚い雲が広がっている。それなのに、確かに私にはいくつもの輝く星が見えていた。
 ぱちぱちと何度も睫毛を揺らして、今自分が何処に立っているのかを再確認する。そうしないと足元がふらついて、今にも倒れてしまうと思った。
 たった一行しかない短い詩も、小さな文字が改行もなしに隅々まで敷き詰められた長い詩も、美しい光に縁取られて光って見える。
 綺麗で、眩しくて、苦しくて。授業で現代詩を読んだことは何度かあるけれど、こんなにも胸いっぱいに広がったのは初めてだ。
 ゆっくりと、亀のような足取りで横に滑っていく。数人いたお客さんは一気に捌けてしまったのか、建物の中には私と、受付にいる黒縁眼鏡の男性と、その方と親しげに話している男性の三人しかいない。その男性もスタッフなのか、黒縁眼鏡の男性と知り合いであるのか、展示を眺める様子はなかった。
 それなら、とゆっくりとしか動かない歩調を早めることはしない。一つひとつを覚えるようなスピードで進んでいって、最後の一面に入ったところで完全に足が止まってしまった。
 五行ほどの、今回見てきた中では短い部類に入る詩が、目の前にある。難しい言葉が使われているわけでも、十人が十人とも綺麗だと指摘する言葉を選んでいるわけでもない。どちらかというと重苦しい雰囲気を纏っていて、雨空に晒されて芯まで凍えるような淋しい詩だ。
 もっと華々しい作品はたくさんあって、もっと胸が切なく苦しくなる作品もたくさんあって、それを私は何ともない振りをして過ぎてきた。上手い下手も、良し悪しも分からない私ではあるけれど、すごい作家なのだろうなと勝手に思うくらいのことしかしていない。覚束ない足取りも、だけれど転ぶような酩酊感までは誘っていない。
 それなのに、じわじわと湧いてくる熱に視界が滲んできてしまった。ぽつりぽつりと星が浮かぶ満天の夜空のように、完璧に配置された単語が読み取れない。鼻の奥がつんと痛くて、喉の通りが急に悪くなった。
 涙が溢れてきたのだと、気付いたときにはもう遅かった。頬を伝って落ちていく塊は、おそらくコンクリートの床に水玉模様を浮かび上がらせているだろう。一粒落ちたら次の一粒が、そしてそれも落ちたらまた新しい一粒が。溢れて止まらない涙が、次々に水玉の模様を増やす。
 あれは、私に向かって書いてくれている。すばるという星の名前を持った詩人が、私のために書いてくれている。探していた温もりは、此処にあったのだ。
 ぼろぼろと好き勝手に流れていく涙を、ジャケットが濡れるのもお構いなしに袖口で拭った。すばるさんが私を思って書き綴ってくれた文字を、一秒でも長く見つめていたい。
 全ての言葉を尽くしても褒めきれない詩を、脳裏に刻んで溢れ落とさないようにするためには、一刻も早くこの涙を止めるしかない。
 どうにかしたいと思う気持ちは人一倍にあるのに、拭っても拭っても溢れてくる生ぬるい液体は際限を知らない。眼球そのものが溶けて雫になって落ちてしまうんじゃないか、なんて。そんな夢みたいな空想が頭に浮かんで怖くなった。
「よかったら使ってください。駅前で押し付けられたやつなので」
 ぐずぐずと成人した大人がみっともなく涙を溢し、ジャケットの袖口に顔を埋めている様は側から見ても滑稽に映るだろう。少なくとも他にスタッフらしき二人の男性が同じ空間にいるのだし、ガラス張りの室内は外から容易に見えてしまう。
 情けないと悔いる感覚を抱くことに加えて、今の状況は迷惑を掛けてしまっているはずだ。すばるさんの詩を最後まで読んで、混んでいなかったらもう一周したい気持ちもある。冷たくなった袖口からまだ滲んでいる視線を展示物に向けたそのとき、すぐ隣から声が掛けられた。
 普通なら避けてしまいそうな客を相手に、優しい気配りを見せるこちらのスタッフは随分と優秀なのだな。
 そんな感想を抱きつつも自身の幼稚さや格好のつかなさが恥ずかしくて、頭を下げる振りをして俯いたままに差し出されたポケットティッシュを受け取った。
「……ぁ、りがとう、ございます」
 近寄ってくる足音も、隣に並ぶ気配もしなかった。突然降って湧いたような声に驚かなかったわけでもないが、囁くような小さな声量は展示会場だからという配慮とはまた違うものも含まれているだろう。情けないなと羞恥の心を自覚していても、差し出されたティッシュを素直に使う以外は出来そうにもなかった。
 聞こえてきた声色は、扉を開けてくれた黒縁眼鏡の男性のものではない。だったら、さっき受付に目を向けたときに見えたもう一人の方だろう。ある程度の距離があったから顔までは見えなかったが、私が気を使わないで済むようにと嘘をついてくれていた。
 渡されたポケットティッシュに挟まれていた広告の紙は、この辺りでは店舗を出していないカラオケ店のもの。私の住むマンションからは五分足らずで行けるから名前は知っているが、遊び盛りの大学生でも利用しないマイナー店だ。
 そういった場所に行くことはないから新しく出店された可能性もあるにはあるだろうけれど、電車通勤の私が今日も昨日も受け取っていないのだから低いだろう。
 すでに熱を持って腫れぼったくなった目元に、もらったティッシュを押し付ける。じわじわと指先に人肌の温度が移ってきて、溢れてばかりの液体がいまだに大量であることが分かってしまった。
「好きなんですか?この詩人」
 立ち去った雰囲気はなかったから近くにまだいるのだろうとは思っていたが、まさか会話を続けられるとは思ってもいなかった。作品を前に泣き出した客がいれば体裁が悪いから、とそれくらいの認識で相違はないだろうに、この人は律儀に話し掛けてしまうのか。
 受付の男性に声を掛けられたときには残っていた外面が、目の前に飾られているたったひとつの詩を前にぐらぐらと崩れてしまっている。止まらない涙を抱えて愛想笑いをするのは厳しいし、さっさと逃げるには後ろ髪を引かれるものが多い。
 心のうちだけで天秤をかけ、みっともないところを見られていたとしても取り繕うことはしようと背筋を伸ばす。失礼だと分かりつつも流石に相手の顔を見据えて話すことは出来ないが、取り引き先の会社員でもないのだからと勝手に許してもらう。
「いえ、今日たまたま前を通ったので。でも、そうですね、」
 正面に綴られた短い詩を見つめ、ちかちかと眩しくなった視界にそっと瞼を伏せた。テーマ通りに瞼の裏にいくつもの星が散っていて、たとえ目を閉じたとしてもその神々しいまでの輝きはなくならない。
 上手い下手も、良し悪しも、授業や試験以外で文章というものを読もうとしなかった私には分からない。それでも、すばるさんがかき集めたほんの僅かな星々は、私の中に確かな運河を作ってしまった。
 差し出されたポケットティッシュが私だけに向かっていたのと、この目の前で輝いている短い詩は同じ。これは、すばるさんが私だけに書いてくれたもの。
 そこには上手いも下手も、良いも悪いも関係ない。私のための星がそこにあるのだから、心を動かし焦がれるのは致し方ないというものだ。
「この方が私の星だったのだな、と」
 また涙が滲んできて、もらったティッシュで目元を抑える羽目になる。ぬくもりが届くほどの近い距離で微かに漏れてしまったような吐息を聞きながら、私は飛び出そうになる呻きを喉奥で噛み殺す。嗚咽おえつがのぼってくるほどに泣いているなど、出来れば誰にも気付かれたくはない。
 今まですばるという詩人に出逢えなかった人生を悔やんでしまいそうになるが、今だからこそ出逢えたのだという確信もある。趣味も特技も、好きも嫌いもなく、ただなんとなくの心地で生きていられた去年までの私であったなら、何かも分からないこの空間に入ろうと思うこともなかっただろう。
 社会人四年目のゴールデンウィークの、怠惰に休日出勤を済ませてきた今の私だからこそ、すばるさんの詩に出逢うことが出来た。
 「星」というテーマで書かれた詩だからこそ、目の前で、瞼を伏せたその奥で、輝くたった一人の人物を見つけることが出来たのだ。
 つるりと、最後に一筋の涙が右頬を伝い、コンクリートの上に水玉模様を作る。濡れた睫毛に照明が当たって眩しい気もするが、それさえもすばるさんの詩を彩っているに過ぎないのだと思う。
 立ち去る気配のない隣にもう一度頭を下げ、残りの詩を読んでいく。最後に飾られていたのは詩というよりはどちらかというと俳句の形になっていて、胸を一陣の風が通り過ぎていくような爽快さを残していった。
 もう一周しようと思っていたけれど、この短時間で取り込んだ言葉の数々が胸に詰まって狂おしいくらいの激情を呼んでいる。生まれてからずっと凪いだままだった私には重く苦しくて、一度帰宅してから咀嚼する必要があると強く思った。
 受付台にも置かれていた展示案内のポストカードには、ゴールデンウィーク中は毎日開いているのだと書かれている。また明日も午前中は出勤しているし、社内で適当に潰していた時間を全て此処に充てれば、もう少しこの空間を堪能出来るはずだ。
 今日は物販コーナーに置かれているグッズを購入させていただいて、家でじっくりと読み込めばいい。SNSの類はやっていないみたいだが、ネットで検索すれば色々な情報を仕入れることだって出来るだろう。すばるさんに対しての造詣を深くした状態でまた言葉を受け取れば、感じるものもまた違ってくるのではないかと考えるとぐっと胸が重たくなった。
 物販コーナーには薄い詩集と、飾られていた短い詩のポストカードが五種類。全てひとつずつ手に取って受付に行けば、黒縁眼鏡の男性が困っているような、安心しているような、そのどちらも含んでいるような。そんななんとも曖昧な笑みを浮かべていた。
 不思議に思いながらもどうしたのかと問い掛ける気持ちはなく、透明で少し硬いビニール袋に入れてくれたグッズを受け取る。良かったらこれも、と展示案内のポストカードとすばるの名刺もいただいて、この日は大人しく帰路に着いた。
 入ってきたときと同じように中腰でガラス扉をくぐり、軽く振り向いた先で二対の視線を見とめて慌ててお辞儀をした。本当はこのまま通り抜けるつもりだった細い路地を、来た方角に向かって歩く。暇潰しをする必要は無くなったし、今は一刻も早く帰って購入した詩集やポストカードを眺めたい。
 何の理由もなかった命に、すばるさんが光を照らしてくれた。ぐっと奥歯を噛み締めておかないと今にも叫んでしまいそうで、こんなにも自分の命を実感したのは生まれて初めてのことだ。
 無意識に早くなってしまう歩調が、最短時間で私を駅まで引き連れていってくれる。やはり駅前ではカラオケ店のティッシュ配りはなく、自由気ままにゆったりと歩く人々の群れだけが広がっていた。

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