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偽装の心理 5

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「座ってもいいかな?」

鳴海は憮然として言った。



この氷山遊という心理学者に対して、

ウマが合わないというか、

相性が合わないと感じずにはいられなかった。

彼女のどことなく人を見下したような、

他人をまるで実験動物を見ているような、

そんな態度が気に食わなかったのかもしれない。



「どうぞ、あちらにあります」

氷山遊は紅茶のカップを口に運びながら、

目でその場所を指し示した。

見ると、部屋の隅に数脚のパイプ椅子があった。

だが、鳴海は動かなかった。



彼女の言葉を無視するかのように突っ立っていた。

二人の間に流れる不穏な空気を察してか、

河井が慌てたようにパイプ椅子を取りにいく。



彼はそれを広げると、大げさな動きで座った。

その隣でまだ仁王立ちしている鳴海の袖を引っ張る。

鳴海は不承不承といった感じで、パイプ椅子に腰を下した。

鳴海は腕を組んで、だんまりを決め込んでいる。



「私、暇じゃないんですけど」

氷山遊が、鳴海の目を覗き込むようにして言った。



「は?」

鳴海は口をあんぐりと開けた。



「後輩の河合君が、どうしても意見を聞きたいっていうから、

  研究論文を書かなければならない貴重な時間を割いてるんです」



氷山遊はそう言いながら、白衣のポケットに手を忍ばせた。

出されたその手には、銀紙に包まれた、小さな丸いものがあった。

彼女はその銀紙を剥いた。それはマカデミアナッツチョコだった。

細く長い指先で、小さな口にそれを押し込んだ。

陶器のように滑らかな頬が小さく膨らむ。



そうしている間にも、彼女の大きな両の瞳は鳴海を見据えていた。

鳴海もそれを睨み返す。



その時、鳴海の心情には本人の自覚もなく、

この氷山遊という女性心理学者に対して、

無意識にも対抗意識に似た感情が芽生えていたのだった。

彼女はハイヒールを履いていたが、

それを加えても長身の鳴海の肩ほどしかない

小柄な女性に見えた。



年齢も親子ほどに離れているに違いない。

有名な心理学者かどうか知らないが、

こんな小娘にやり込められてたまるか、

というような男としての意地もあったのかもしれない。



「貴重な研究論文ね。お偉い学者先生は、

  小難しいものを書いてるんでしょうな」

鳴海は口角を捻じ曲げて、皮肉たっぷりに言った。



「犯罪心理学に置ける無意識下にある

  悪の意識と道徳的知的障害についての考察」



まるでコンピューターが答えるように、

氷山遊は平坦な声音で言った。

それを聞いて、鳴海はさっぱりわからないといった様子で、

目を白黒させた。



暖房は効いているはずなのに、

底冷えさえ感じさせる場の空気にたまりかねて、

河井が声を上げた。



「氷山先輩、鑑識課の報告書持って来たんですけど・・・」

河井は立ち上がりながらスーツの内ポケットから

折りたたんだ書類を取り出すと、彼女に差し出した。

再び腰を下した河井を鳴海が横目でジロリと睨む。



「オレの許可もなく、署内の書類を・・・」

鳴海の苦言に、河井は苦笑いで返した。



氷山遊は、その報告書をペラペラと捲りながら目を通していたが、

あるページでその手が止まった。

彼女の瞳は瞬きもせず、

そのページを凝視しているのを鳴海は見逃さなかった。



彼女の口の中で転がされていた

マカデミアナッツチョコの動きが止まる。

彼女は一通り読むと、河井にその報告書を返した。



氷山遊は一点を見つめていた。

その目はもう鳴海に注がれてはいなかった。

というより、虚空を見つめているようだった。



鳴海はそんな彼女の瞳を注視していた。

そこで彼は意外なものを見て、

胸の鼓動が早まるのを禁じえなかった。

彼女の目が少し潤んでいるような気がしたのだ。



彼女は何かに気づいたのだ。

 だが、いったい何を―――?

 あの報告書を読んだだけで、

 何に気づいたというのだ?



鳴海はそんな疑問を、ストレートにぶつけてみた。



「何かわかったんじゃないのか?」

氷山遊に返事は無かった。

ただ彼女を取り巻く雰囲気が、元の冷徹なものに戻っただけだった。

口の中のマカデミアナッツチョコを噛み砕く音だけが聞こえる。

だが、鳴海は構わず話を続けた。



「衣澤康祐は漫画家を目指していた。

  それもデビュー目前まできていたんだ。

  やっと夢がかなうかもしれない直前に、

  自殺なんてするとはオレには思えないんだ。

  だが、他殺だと仮定すると、本人に抵抗の後がまったくない。

  それでますますわからなくなった。

  何でもいい。何かわかったなら、教えてくれないか?」



「漫画家?」

氷山遊の瞳が、一際険しい光をたたえて煌いた。



「ああ、彼は上京してから日記をつけていた。

  オレもまだ全部読んだわけじゃないが、

  何かのヒントになるかと思って、持って来た」



そう言うと鳴海は、

傍らに置いてあった大きな紙袋を持ち上げた。



「デスクの上に置いておいてください。

  後で読んでみますから」

彼女の言葉を聞いて河井が突然、立ち上がった。



「そ、それじゃ先輩、捜査に協力してくれるんですね!」

と、すっとんきょうな声を上げる。



「ええ、とても興味深い事件だわ。だから協力させてもらう」



彼女のセリフを聞いた鳴海は。思わず血色ばんだ。



「興味深い?」



今度は鳴海が立ち上がる番だった。

彼は氷山遊に詰め寄った。

額には血管がレリーフのように浮き彫りになっている。



「あんた、何言ってんだ?一人の若者が死んでるんだぞ。

  それを興味深いとは。

  あんたには人の心ってものがないのか!」



鳴海に怒鳴られても、氷山遊の表情は微動だにしなかった。

それどころか、そんな鳴海に対して、

蔑すむような視線さえ投げかけている。

また慌てたのは河井だった。



「鳴海さん、落ち着いてください。

  今日はこれで引き上げましょう。

  氷山先輩、何かわかったら連絡よろしくお願いします」

河井はペコリと頭を下げると、

まだ激高している鳴海の腕を掴んで、部屋を出た。



二人が出て行った後、

氷山遊は紅茶がすっかり冷めているのに気づいた。

白衣のポケットから、マカデミアナッツチョコの包みを取り出し、

銀紙を剥いて口へ放り込むと、すぐに噛み砕き始めた―――。



研究室棟を出ると、外は雪が舞っていた。

鳴海はコートの袖に腕を通そうとしている河井に向かって、

しょげたように言った。



「悪かったな、河井。

  オレとしたことが、つい頭に血がのぼって・・・」



「まあ、鳴海さんの気持ちもわかりますが、

  相手はあのユングの娘ですからね。

  他人の心を観察し分析する、根っからの心理学者ですよ。

  なにしろ冷静沈着が服を着ているような女性ですから―――」

河井も苦笑している。



「報告書を見たあの時、

  涙を浮かべたような気がしたんだがな・・・」



鳴海がポツリと言った。



「はあ?誰のこと言ってるんです?」



「彼女だよ。ユングの娘」



河井は驚きと否定のない混ぜになった表情を浮かべると、

ワンテンポ遅れて呆れたように笑い出した。



「それは無いですよ。絶対。

  彼女に涙なんて、真冬に夏が来てもありえないですね」



そうだな。オレの勘違いか―――。



とはいえ、もしかしたら

真冬に夏日が来ることもあり得ることかもしれない、

という考えが鳴海の頭をよぎったが、口にはしなかった。



鳴海徹也はダウンジャケットを羽織ると、

襟を立てながら星の無い空を見上げた。

その星々の代わりに、無数の粉雪が煌 きらめいていた。
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