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嫉妬と過去 3
しおりを挟むせっかく二年をかけて、少しずつ水を入れ替えてきれいにしようとしていた池に、また無情にヘドロを投げこまれた気分だった。
池の底が見えかけていた水は、再びあっけなく濁ってしまい、ロアナは、またなのか、と、落胆。
でも、仕方ないのかもしれない。噂という一種娯楽のような話題は、薄くありながらも、人々の意識に根深く残り続ける。そう簡単には消えてはくれないものなのかもしれない。
それは、大抵いつも忘れかけたころにやってきては、こうして彼女の上向いた心を打ち据えてくる。
訊ねてきた相手が、これまでとは違い、王子だったというだけのこと。ロアナは、もうなれた、と、自分を奮い立たせようとしたが。蘇ってきた記憶は彼女の心に重くのしかかる。
また、それを責められるのだろうか。
あの人たちが、自分をずっと許さないみたいに。
「……は……い」
かろうじてロスウェルに頷いて見せながらも、ロアナの目は明らかに揺れている。
その青ざめた顔を、ロスウェルはじっと見ていた。
まるでロアナの反応を測っているみたいだった。
ヘルダーリン家とは、ロアナが王宮に勤める前に働いていた貴族の一家。
彼女は、もとはその家の娘に仕えていて、その娘が王宮に勤めに出るときに、付き添う形で一緒に入宮した。
その令嬢が言ったのだ。
『妹のようなロアナを、邸に残していけない』と。
当時まだその邸に入って間もなかったロアナは、令嬢の申し出に、言葉を失くすほど感動した。
その頃彼女は、兄弟のつくった借金返済のために働きに出されたばかりの頃だった。
学費が払えずロアナが町民学校をやめると、兄はすぐに彼女を追い出すように働きに出した。それがヘルダーリン家だ。
実の兄弟たちからは労働力としかみなされず、自分の存在価値や居場所すら見失いかけていた少女は、思いがけず与えられた令嬢の親身な言葉に心の奥底まで温められた。
だからこそ、彼女は令嬢についていこうと思ったし、ずっと彼女に尽くしたいと思った。城下街しかしらないロアナにとっては、王宮など計り知れない別世界に感じたが、それでも、自分を案じてくれる人のそばならば、それが、自分の新しい希望になるような気がした。
──でも。
それが、あまりにも青い決断だったのだと、今のロアナにならわかる。
王宮に入ると、令嬢はロアナを置いて、早々にそこを去った。
彼女は王宮を去っていくとき、まるで別人のような目でロアナを見た。
あれだけ優しかったまなざしは、拒絶の毒に満ち、『自分の身に降りかかった不運は何もかもお前のせいだ』と彼女を呪っているようだった。
その目にも、向けられる罵倒にも、耳も心もするどく切り刻まれたことを思い出して、ロアナは思わず身をこわばらせる。
心の支柱にしていた人からの強い敵意は、若い彼女をひどく怯えさせた。信じていたものが覆され、天地もひっくりかえってしまったように感じた。
取り残されてしまった王宮という特異な場所で、右も左もわからなくなって。何を信じていいのかもわからなくなった。
と、目の前の青年が言った。
「あれ? 気を悪くさせちゃった? 大丈夫? 顔色が真っ青だよ?」
その声に、ロアナはハッとする。
一瞬、感覚が過去に戻ってしまっていた。
「ごめんね、そんなつもりはなかったんだけど」
顔を上げると、目の前の青年は少し顔を傾けて彼女を見ている。
あっけらかんと謝って見せる顔は、わざとらしいと分かっていて、あえて分からないふりをしているように見えた。
ロアナは、その瞳のなかにある好奇心が怖くて目を伏せる。
この方はどこまで知っているのだろうかと考えると、急に今立っている地面すら頼りないもののように感じて、手のひらにはひんやりした汗がにじみ出た。それをごまかすように、拳を強く握りしめる。
「いえ……そんなことは……大丈夫です」
「そう? よかった。わたしはただ、あの堅物のウルツに気に入られている子がどんな子なのか気になっただけだよ」
「気、に……?」
その発言には、ロアナが戸惑いを見せる。
言われていることに、心当たりがすこしもない。
自分が、あの厳しい顔ばかりの王子に気に入られているような要素が、どこかにあっただろうか。先日からの一連の出来事を思い出しながら、困惑を見せる娘に、ロスウェルはとても愉快そうだった。
そんな青年を見たロアナは、なんだかとても胸裏がもやもやした。
彼の意図がつかめない。
ヘルダーリン家のことも、これまではイアンガードの庇護下に入ってからは、その一件を持ち出してくる人間はいなかった。
そもそもロアナはそう目立つ存在ではなく、あまり人々の噂にのぼるような娘ではなかった。
それなのに、その側妃の王子と対立しているらしい王子が、こうしてわざわざこうして自分の経歴について尋ねに来るとは。ヘルダーリン家の名前を持ち出してきたということは、その令嬢が王宮を去ることになった一件のこともきっと彼は知っている。
嫌な予感がした。その家名と、ウルツの名前を同時に出してくることに何か作為的なものを感じる。
ロアナは冷たいものに首筋をなでられた気がして、たまらず言った。
「そんな、恐れ多いことでございます。ウルツ殿下にはご親切にしていただきましたが、わたくしは粗忽者ゆえご迷惑をおかけするばかりでございました。殿下にお気に召すようなことは、何ひとつできていなかったと自覚がございます。その……昨晩のことがどうロスウェル殿下の目に映ったのかは分かりませんが、ウルツ殿下はけしてわたくしめを特別にお引き立てなどはなさっていません」
固い言葉に、ロスウェルが、あれ、という顔。
「つまり君は、“ひいき”されていないって言ってるの?」
その問いかけに、ロアナは一生懸命に頷いている。彼女の反応を見た青年は、ふぅん、と、考えるそぶり。
アゴに指をかけて、じろじろと自分を測っている青年に。ロアナはエプロンの前で固く握りしめた両手をさらにきつく握りながら言った。
「あ、あの殿下……それでその……ヘルダーリン家とのことは、あまり触れ回らないでいただけると……」
「ん?」
困り果てたという顔でそう懇願されたロスウェルは、「ああ」と、にんまり口角を持ち上げる。
「もちろん。わたしは君みたいなかわいい子の頼みは断らないよ」
端正な顔に愉悦を広げながら調子よく笑って、ロスウェルはさも当たり前のように「──でも」と続ける。
ロアナも、それを予感していた。
「君も、わたしのために何かしてくれるんだよね?」
その押し付けるような笑顔の問いかけには。ロアナの喉は、大きな石がつまってしまったかのように何も返すことができなかった。
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