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三章
40 養女
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新しく授けられた名を名乗り、ミリヤムは辺境伯とアデリナに向かい丁寧な一礼をしてみせる。
その動きには未だぎこちなさも残るが、丁寧に、綺麗にしようという意識が全身に行き届いた、好感の持てる動作だった。
「……これは……どういうことですか……?」と、擦れる声で言ったのは、ヴォルデマーだった。
夫人の傍で一生懸命な様子で頭を下げている娘を見ながら──彼は呟く。身体は脱力したまま少しも力が入らなかった。己の声すらどこか遠く聞こえる。
先程自分に触れて行った娘が──本当に其処に居るのかが、信じられなかった。
只ただ、ヴォルデマーは──視線の先で深い森の色の衣装を身に纏い、あでやかに舞い戻ったその娘にじっと見入っていた。
視線を逸らしてしまえば──今朝も見た夢のように、瞬きの一瞬で消えてしまうのではないかと……恐ろしくさえあった
そうやって呆然としている彼の傍へ、フロリアン・リヒターがゆっくりと近づいて行った。
ヴォルデマーは、彼が傍まで来たのに気がつくと、つい今まで憤りを感じていた青年にその答えを求め、戸惑いに満ちた瞳を向ける。
「……フロリアン殿……彼女は……貴殿と婚姻を──……その為に領地に戻って行ったのでは──」
その問いに、フロリアンは静かに「いいえ」と、答える。
「領地へは──養女として正式に迎え入れる為に戻りました」
「……」
「お待たせしたことお詫びします」
彼がそう言って頭を下げるのを、ヴォルデマーは未だ信じられない心持ちで見ていた。
フロリアンは顔を上げると、にこりと笑む。
「何せ、当家の養女としてそれなりの礼儀作法くらいは身につけさせなければ外には出せないと父が言うもので。まあ、ご連絡差し上げても良かったのですが……情報が伝わればアデリナ様がどう出られるか、こちらには分かりませんでしたから」
微笑みながらそう告げられたヴォルデマーは、愕然と口の中で「養女……」と、繰り返す。
「……ミリヤムが……リヒター家の……?」
「ええ。養女です。母が言ったとおり、ずっとそういった案はあって」
母達はどちらかというと其方の案を推していた、とフロリアンは苦笑する。
「……」
そんなフロリアンを見るヴォルデマーの顔つきははっきりと戸惑っていた。
勿論それは、願っても無い申し入れなのだと分かっていた。しかし……今、目の前で微笑んでいる青年は、自分に向かって彼女を己の唯一無二の存在とすると、毅然と宣言して行った青年である。それが今──平然と恋敵であるヴォルデマーに、その“唯一無二”の娘との縁組を持ちかけて来ている。その不可解さにヴォルデマーは戸惑った。
「……何故……貴方はそれで……よろしいのですか……?」
「よろしくはありませんよ」
ヴォルデマーが問うと、フロリアンは苦笑してそう答えた。
「勿論、本当は妻として迎える準備をしていたのですよ、私はね」
ベアエールデに赴くまでは、実際その為に多くの策を巡らせていた、とフロリアンは軽快に笑う。
「でも──」
ふと、彼は表情に影を落とし、それでも笑みは消さずにヴォルデマーの顔を見る。
「ミリーはあなたを選びました。だから、仕方の無いことです」
「…………」
その表情にヴォルデマーは胸を刺された。それは、彼の中でそれがとうに決されたことであると物語っているような表情だった。ヴォルデマーの中で、彼に感じていた怒りの全てが消え、何とも言い難い感情に変わる。
フロリアンは穏やかな顔で続ける。
「以前も申し上げたとおり……私はミリヤムにはどうあっても幸せになってもらわなければならないと思っています。本当はその道は自分と歩んで欲しかった。ですが……ミリヤムがそちらの方がよいというのなら阻む事は出来ません。私にはミリヤムを手助けする道しか残されていない……」
「……」
しかし、とフロリアンはアデリナに視線をやる。彼等から少し離れた場所で、伯の隣に居るアデリナは、ミリヤムからの丁寧な挨拶を受け、ヴォルデマー同様戸惑っているようだった。
そんな彼女の様子を見ながら、フロリアンはため息混じりに言う。
「──こちらの奥方様はミリヤムを砦から連れ出し、貴方と引き離そうとなさった」
それを知ったフロリアンは、このままではミリヤムとヴォルデマーの添いたいという希望が叶わぬだろうという確信を強めた。
「……幾らヴォルデマー様の寵愛を受けていようとも、奥方様の反対は致命的です。そんな状態で慣れない人狼社会の真っ只中に、彼女を一人ただ送り出すなどという事は出来よう筈がありませんでした」
そんな事をしてしまえば、たとえその婚姻が成ったとしても、彼女は身分の無い娘としてどんな扱いをされるかも分からない。己が心底妻に欲しいと思った娘を、誰か別の男が側女に据える──そんな事は、たとえ本人がそれで良いと言ったとしても、自分は許せなかった、とフロリアンは言った。
「……ですから私はミリヤムを養女として迎え入れる決断をしました。そうすれば、少なくともミリに身分を授けることができ、彼女には私達侯爵家という後ろ盾が出来る。そして私は家族としていつでもミリに干渉することが出来る訳です。まあ……妻にするよりは簡単な話でしたよ」
そう言いながらフロリアンは苦笑して、懸命に伯とアデリナに語りかけている栗色の髪の娘を眩しそうな目で見た。
「……私は──ミリを自分の妻にして幸せにする自信はあります。でも──多分、それは貴方以上にではない」
その言葉にヴォルデマーは驚いて目を瞬いた。そう口にしながら彼女を見るその男の瞳の中には、明らかに自分と同じ恋慕の情が秘められているとヴォルデマーは思った。それなのに、彼は己に向かって朗らかに笑って見せる。
「ミリをよろしくお願いします、ヴォルデマー様。以前も言いましたが、あの子は大切な子なんです」
「フロリアン殿……」
その眼差しに、ヴォルデマーはしっかりと頷く。
この男の決意とその信頼を裏切ってはならないと、深く深く感じた。
そうしてヴォルデマーが固く頷くのを見たフロリアンは、ほっと安堵したようにため息をついた。
「あとは、ミリと辺境伯様達の話がどうなるか、ですね」
「? ミリヤムと……?」
フロリアンの言葉にヴォルデマーが不安げな顔をしてミリヤム達の方を見た。そちらではまだミリヤムと伯、アデリナ、そして侯爵夫人が真剣な顔で何事かを話し合っている。
「ミリヤムにも何か思うところがあるようです。私達が両領地の和平を盾に取って強引に縁組をさせることは勿論可能だと思いますが、ミリヤムとしてはやはりアデリナ様にも納得して欲しいそうで。ミリは……母親を亡くしているだけに、他者にもそれを大切にして欲しいと思っているようなところがありますからね……」
「……そうですか……」
フロリアンの寂しげな表情に、ヴォルデマーも小さく胸が痛んだ。
「ですから……養女になって此方に嫁ぐという件も、彼女にはやはり少々躊躇いがあったようです。その亡き母に、私を頼むと言い残されていますから。……貴方の元には行きたいが、侯爵家を離れればその約束が守れぬのではと泣いて泣いて……この一月ミリヤムは貴方に会う為に本当に良く頑張っていましたが、一時期はその辺りの葛藤で不安定になったこともあって……」
「……」
フロリアンは悲しげな顔つきをしていたが、直ぐに、じっと己の話に耳を傾けている男を安心させるように微笑んだ。
「でも結局は養女となれば我が家と繋がりが消える事は無いのだと意を決したようで」
ふふふ、と彼は笑う。
「ミリは私に親孝行してくれるとそう誓ってくれました」
「………………、……ん……?」
にっこりと微笑むフロリアンに、一瞬ヴォルデマーが、呑み込めぬという顔をした。彼は怪訝に三角の耳をぱたぱたと動かしている。
「…………親……?」
その顔を見て、フロリアンが更にころころ笑う。
「申し訳ない、フロリアン殿……今──……なんと仰いましたか……? その誰が……誰に孝行を……?」
「ふふふ……」
フロリアンは如何にも愉快そうに、もったいぶった様子で笑い、その形の良い口を開いた。
「ミリは──……“私の”、養女になったのです」
──その瞬間、ヴォルデマーの頭は再び真っ白になった。
「…………………………………………は……?」
その長い長い沈黙に、フロリアンは珍しく声を立てて笑った。そんな彼を呆然と見つめながら、ヴォルデマーは目を点にしたまま瞬いている。
その動きには未だぎこちなさも残るが、丁寧に、綺麗にしようという意識が全身に行き届いた、好感の持てる動作だった。
「……これは……どういうことですか……?」と、擦れる声で言ったのは、ヴォルデマーだった。
夫人の傍で一生懸命な様子で頭を下げている娘を見ながら──彼は呟く。身体は脱力したまま少しも力が入らなかった。己の声すらどこか遠く聞こえる。
先程自分に触れて行った娘が──本当に其処に居るのかが、信じられなかった。
只ただ、ヴォルデマーは──視線の先で深い森の色の衣装を身に纏い、あでやかに舞い戻ったその娘にじっと見入っていた。
視線を逸らしてしまえば──今朝も見た夢のように、瞬きの一瞬で消えてしまうのではないかと……恐ろしくさえあった
そうやって呆然としている彼の傍へ、フロリアン・リヒターがゆっくりと近づいて行った。
ヴォルデマーは、彼が傍まで来たのに気がつくと、つい今まで憤りを感じていた青年にその答えを求め、戸惑いに満ちた瞳を向ける。
「……フロリアン殿……彼女は……貴殿と婚姻を──……その為に領地に戻って行ったのでは──」
その問いに、フロリアンは静かに「いいえ」と、答える。
「領地へは──養女として正式に迎え入れる為に戻りました」
「……」
「お待たせしたことお詫びします」
彼がそう言って頭を下げるのを、ヴォルデマーは未だ信じられない心持ちで見ていた。
フロリアンは顔を上げると、にこりと笑む。
「何せ、当家の養女としてそれなりの礼儀作法くらいは身につけさせなければ外には出せないと父が言うもので。まあ、ご連絡差し上げても良かったのですが……情報が伝わればアデリナ様がどう出られるか、こちらには分かりませんでしたから」
微笑みながらそう告げられたヴォルデマーは、愕然と口の中で「養女……」と、繰り返す。
「……ミリヤムが……リヒター家の……?」
「ええ。養女です。母が言ったとおり、ずっとそういった案はあって」
母達はどちらかというと其方の案を推していた、とフロリアンは苦笑する。
「……」
そんなフロリアンを見るヴォルデマーの顔つきははっきりと戸惑っていた。
勿論それは、願っても無い申し入れなのだと分かっていた。しかし……今、目の前で微笑んでいる青年は、自分に向かって彼女を己の唯一無二の存在とすると、毅然と宣言して行った青年である。それが今──平然と恋敵であるヴォルデマーに、その“唯一無二”の娘との縁組を持ちかけて来ている。その不可解さにヴォルデマーは戸惑った。
「……何故……貴方はそれで……よろしいのですか……?」
「よろしくはありませんよ」
ヴォルデマーが問うと、フロリアンは苦笑してそう答えた。
「勿論、本当は妻として迎える準備をしていたのですよ、私はね」
ベアエールデに赴くまでは、実際その為に多くの策を巡らせていた、とフロリアンは軽快に笑う。
「でも──」
ふと、彼は表情に影を落とし、それでも笑みは消さずにヴォルデマーの顔を見る。
「ミリーはあなたを選びました。だから、仕方の無いことです」
「…………」
その表情にヴォルデマーは胸を刺された。それは、彼の中でそれがとうに決されたことであると物語っているような表情だった。ヴォルデマーの中で、彼に感じていた怒りの全てが消え、何とも言い難い感情に変わる。
フロリアンは穏やかな顔で続ける。
「以前も申し上げたとおり……私はミリヤムにはどうあっても幸せになってもらわなければならないと思っています。本当はその道は自分と歩んで欲しかった。ですが……ミリヤムがそちらの方がよいというのなら阻む事は出来ません。私にはミリヤムを手助けする道しか残されていない……」
「……」
しかし、とフロリアンはアデリナに視線をやる。彼等から少し離れた場所で、伯の隣に居るアデリナは、ミリヤムからの丁寧な挨拶を受け、ヴォルデマー同様戸惑っているようだった。
そんな彼女の様子を見ながら、フロリアンはため息混じりに言う。
「──こちらの奥方様はミリヤムを砦から連れ出し、貴方と引き離そうとなさった」
それを知ったフロリアンは、このままではミリヤムとヴォルデマーの添いたいという希望が叶わぬだろうという確信を強めた。
「……幾らヴォルデマー様の寵愛を受けていようとも、奥方様の反対は致命的です。そんな状態で慣れない人狼社会の真っ只中に、彼女を一人ただ送り出すなどという事は出来よう筈がありませんでした」
そんな事をしてしまえば、たとえその婚姻が成ったとしても、彼女は身分の無い娘としてどんな扱いをされるかも分からない。己が心底妻に欲しいと思った娘を、誰か別の男が側女に据える──そんな事は、たとえ本人がそれで良いと言ったとしても、自分は許せなかった、とフロリアンは言った。
「……ですから私はミリヤムを養女として迎え入れる決断をしました。そうすれば、少なくともミリに身分を授けることができ、彼女には私達侯爵家という後ろ盾が出来る。そして私は家族としていつでもミリに干渉することが出来る訳です。まあ……妻にするよりは簡単な話でしたよ」
そう言いながらフロリアンは苦笑して、懸命に伯とアデリナに語りかけている栗色の髪の娘を眩しそうな目で見た。
「……私は──ミリを自分の妻にして幸せにする自信はあります。でも──多分、それは貴方以上にではない」
その言葉にヴォルデマーは驚いて目を瞬いた。そう口にしながら彼女を見るその男の瞳の中には、明らかに自分と同じ恋慕の情が秘められているとヴォルデマーは思った。それなのに、彼は己に向かって朗らかに笑って見せる。
「ミリをよろしくお願いします、ヴォルデマー様。以前も言いましたが、あの子は大切な子なんです」
「フロリアン殿……」
その眼差しに、ヴォルデマーはしっかりと頷く。
この男の決意とその信頼を裏切ってはならないと、深く深く感じた。
そうしてヴォルデマーが固く頷くのを見たフロリアンは、ほっと安堵したようにため息をついた。
「あとは、ミリと辺境伯様達の話がどうなるか、ですね」
「? ミリヤムと……?」
フロリアンの言葉にヴォルデマーが不安げな顔をしてミリヤム達の方を見た。そちらではまだミリヤムと伯、アデリナ、そして侯爵夫人が真剣な顔で何事かを話し合っている。
「ミリヤムにも何か思うところがあるようです。私達が両領地の和平を盾に取って強引に縁組をさせることは勿論可能だと思いますが、ミリヤムとしてはやはりアデリナ様にも納得して欲しいそうで。ミリは……母親を亡くしているだけに、他者にもそれを大切にして欲しいと思っているようなところがありますからね……」
「……そうですか……」
フロリアンの寂しげな表情に、ヴォルデマーも小さく胸が痛んだ。
「ですから……養女になって此方に嫁ぐという件も、彼女にはやはり少々躊躇いがあったようです。その亡き母に、私を頼むと言い残されていますから。……貴方の元には行きたいが、侯爵家を離れればその約束が守れぬのではと泣いて泣いて……この一月ミリヤムは貴方に会う為に本当に良く頑張っていましたが、一時期はその辺りの葛藤で不安定になったこともあって……」
「……」
フロリアンは悲しげな顔つきをしていたが、直ぐに、じっと己の話に耳を傾けている男を安心させるように微笑んだ。
「でも結局は養女となれば我が家と繋がりが消える事は無いのだと意を決したようで」
ふふふ、と彼は笑う。
「ミリは私に親孝行してくれるとそう誓ってくれました」
「………………、……ん……?」
にっこりと微笑むフロリアンに、一瞬ヴォルデマーが、呑み込めぬという顔をした。彼は怪訝に三角の耳をぱたぱたと動かしている。
「…………親……?」
その顔を見て、フロリアンが更にころころ笑う。
「申し訳ない、フロリアン殿……今──……なんと仰いましたか……? その誰が……誰に孝行を……?」
「ふふふ……」
フロリアンは如何にも愉快そうに、もったいぶった様子で笑い、その形の良い口を開いた。
「ミリは──……“私の”、養女になったのです」
──その瞬間、ヴォルデマーの頭は再び真っ白になった。
「…………………………………………は……?」
その長い長い沈黙に、フロリアンは珍しく声を立てて笑った。そんな彼を呆然と見つめながら、ヴォルデマーは目を点にしたまま瞬いている。
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