偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

43 ヘンリックの助言

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 話の切れ目でフロリアン・リヒターに名を呼ばれ、駆けて行った娘は、ヴォルデマーと手を繋いでアタウルフ達の前に戻って来た。
 ミリヤムは其処で待っていた彼等に「お待たせしました」と言って頭を下げる。その顔はかっかと赤いが、その手をしっかり握りしめたヴォルデマーは決してその手をほどこうとはしなかった。彼は警戒に満ちた目で両親を見ている。
 人々の視線が自分達の手に注がれている事に気がついたミリヤムが、一瞬それを彼の手から引き抜こうとしたが、彼はそれを許さなかった。その固さが更にミリヤムの顔に血を上らせる。(それを遠くから見たギズルフが怯えている。※赤すぎで破裂でもしそうだと思った)

 だが意外なことに──それを見ていたアデリナは何も言わなかった。それどころか、彼女がどこか安堵したような様子を見せていることに、その夫は気がついてる。

 アタウルフは、戻って来た娘と侯爵夫人に向けて語り掛ける。

「それで……此処を離れて侯爵家の養女になった経緯は分かりました。ですが先程侯爵夫人も仰った通り──当家では同族婚を重要視しています。侯爵のお申し入れは分かりましたが──それは我々人狼族にとって重大な問題です。軽々しくお返事は致しかねます」

 その言葉にミリヤムは表情を引き締めて伯を見上げた。其処で彼等は、一方は落ち着き払って、一方は緊張に満ちた表情でミリヤムとヴォルデマーを見ている。
 ミリヤムは思わず己の手を握る大きな手を一瞬強く握った。すると、その手はそれに応え、親指でミリヤムの手をそっと撫で返してくれる。その温かさに勇気付けられながら、ミリヤムはアタウルフに向かって自分の話も聞いて欲しいと懇願を言葉にした。
「申してみよ」と、それを許されたミリヤムは、深呼吸を一つ。緊張を振りほどく。──どう考えても此処がミリヤムの正念場だった。この一月──ミリヤムは彼等を説得する為には自分がどうすれば良いのか、考えに考えてきたのだ。
 だがそれでもやはり最初の言葉は震えた。ミリヤムにとって、彼等は本当は出会う筈の無かった雲の上の存在だったから。


「私も──辺境伯様の種族の明日を思うお気持ちは分かるんです……それは、続いて行く家族達の未来を思うことで……血族が絶え、家族が消えて行くという事は……恐ろしいことですから」

 そう呟きながら、ミリヤムが思い出していたのは己の母の死だ。それを察したヴォルデマーがミリヤムの肩を引き寄せる。
 寝台に横たわった大切な人の手がぽとりと落ちて……どんなに此方が死力を尽くし縋っても、抗うことの出来ない力の前にその人が攫われて行く様は──今でもミリヤムの心に突き刺さっている。──絶望として。

「……たとえ、それが己が見ることの無い未来の話だとしても、もし、血族が消えて行って、その子孫がたった一人この世に残されたら……」

 それは、父も無く、母も無く、兄弟も無く……そうして世に残された己と重なって、ミリヤムの心の中には吹きすさぶような冷たい風が感じられた。その人はまだ存在してもいない人だけれど、でもきっと辛いことだろう、と思った。

「私も、子にも、孫にも、その先の子供達にもこんな思いはさせたくないです」
「…………」

 そう言って伯を見上げるミリヤムの茶色の瞳は、次の世代の為に大地に落とされた樹木の堅果のような輝きを持っていた。アタウルフも、アデリナも侯爵夫人もそれを黙って見つめる。
 ミリヤムはそんな彼等を見返して、「でも」と続ける。

「領主様……それは人狼以外の人々だって同じです。」
「…………」
「この領都には、人狼だけが生きている訳ではありません」

 ミリヤムは、きっぱりと言い放った。

「彼等の事を考える人が、このお城にも、もっと必要なんじゃないでしょうか」
「…………ああ」

 そうかもしれぬと呟く伯にミリヤムは、正していた背筋をもう一度正すように伸ばし、そして彼の瞳を真っ直ぐに射る。

「私なら、その境目に立つことが出来ます」

 その言葉に、アタウルフも、アデリナもぱちぱちと瞳を瞬かせる。

「……境目……? 我々人狼と、他種族の間に立つと?」

 アタウルフの言葉にミリヤムは深く頷く。

「辺境伯様……同じ領民達の間に溝がある事は良いことなのでしょうか? 一部の人はこの人狼優位の社会が生む優劣に価値を感じているかもしれません。でも──この領都は栄えていて、とても良い都です。この先きっと人狼以外の種族の領民の数も増えて行くのでは? そうなった時、私達なんかと、下を向く気持ちを植えつけられた種族人々の心が、その上に立つ人狼の皆さん──領主様達から離れていることは良いことでしょうか」

 今は少数派に抑えられている彼も、何れそうではなくなるかもしれない。そうなった時、その不満は何処へ行くのか。
 ミリヤムの問いかけにアタウルフは小さく頷いて、僅かにため息をついた。

「……勿論それは私にも分かっている。だが、幾ら領で一番上に立つ者でも、思うままにならぬものがある。それが民の心だ。……人狼達の心に根付いた優越感や疎外心には私も長く苦心している。取り除こうと両者間の融和を図ってみてもそれはなかなかに難しい」
「はい……」

 それはミリヤムにも分かった。他人を動かすのは難しい。それはベアエールデの汚れた砦に一人立ち向かったミリヤムにも良く分かっている。この大きな領の上に立ち、様々な問題の上に立つ彼の苦心はミリヤムの非ではない筈だった。何かを選ぶたびに、何かを犠牲にしなければ成り立たないという難しい問題を、きっと彼は数多く治めて来ているのだ。
 でも、とミリヤム。

「諦めずに働きかけ続ける事がだけがそれを解決する唯一の道だと思うんです。閣下の血族存続の使命と、領民の皆さん達の調和を両立させる為には」

 ミリヤムは言い募る。

「私が混じる事で確かに人狼の血は薄まります。だけど──私を迎え入れて下されば、それは領主様の領民の調和を図ろうとするお心を広く知らしめるきっかけになると思います。前例が無い事だからこそ、人狼以外の人々も閣下が自分達の事を本気で考えて下さっていると知ることが出来るんじゃないでしょうか」
「…………」

 アタウルフはミリヤムの言葉にじっと聞き入っていた。
 ミリヤムは繋がれた手を握り直し、ヴォルデマーの金の瞳を見上げた。

「私はヴォルデマー様の隣で生きて行きたいです」

 そう言うと、そこに柔らかで静かな微笑みが帰って来る。それに安堵して、そしてミリヤムはアタウルフとアデリナに視線を戻した。

「だから──その為ならば、どんな看板を掛けられたって、利用されたって良い。何か建前が必要なら従います。それが領民の融和の為になるならいっそ光栄です。私は喜んで、その為に尽くします」

 
 その娘の微笑みに、辺境伯夫妻は暫し沈黙した。
 それぞれの中でその言葉に潜思して、その己等の前で手を取り合う二人の様子をよくよくと見た。

「…………ふむ」
「……あなた……」

 伯のその腕に、アデリナが跪いてそっと手を置く。アタウルフがその瞳を見ると、彼女は息子と同じ金の瞳にありありと戸惑いを滲ませていた。
 娘の言葉にはしっかりとした意思があって。揺らがぬのだと決意したような視線には見違えるような強さがあった。それが今──アデリナの、息子の深い悲しみの前に揺さぶられていた心を追い討ちするように揺らしている。

 アタウルフはそんな妻の心情に気がついて──娘の隣に立つ息子に目をやった。
 ヴォルデマーは娘に寄り添い、伏せ目がちにその顔を見つめている。

──なんと幸せそうな顔だろうか、と、アタウルフは思った。

 己の父も母も未だそれを許すとは一言も言っていないのに、息子の顔はありありと語っていた。その娘の言葉だけがあれば充分なのだと……


「…………」

 伯は静かな視線を娘に戻した。深く探るような瞳にミリヤムが表情を引き締める。

「……だが、それは本当に実現可能だろうか。その重さにお前は耐えられるのか? お前が養子に入った侯爵家の方々は何れ此処を去り、領にお戻りになられるだろう。後ろ盾から遠く離れた場所で、お前はその境目の重さに耐えられるか? 此処には様々な思惑を持つ者達が集っている。慣習を正義と考える高官、領都の法に明るくないお前を利用しようとする者もあるだろう。領民とて、正しい事ばかりを言ってくるとは限らぬ。その調和はけして言う程簡単なことではない。新参者のお前が理想を容易く成し遂げられるような甘い場所だと思うか?」

 伯の重い言葉に背後でフロリアンと侯爵夫人が心配そうな顔でミリヤムを見ている。

 だが

 アタウルフの言葉にミリヤムは──軽やかに、「耐えます」と、もう一度微笑んだ。
 
 そのあまりにあっさりした様子にアデリナは呆気にとられていた。伯は噴出して。そして彼は一刀両断のもとにそれを否と決する。軽んじすぎていると、愛に目が眩んで冷静な判断を欠いている、と、彼がその要求に拒絶を突きつけようとした時──

 ミリヤムがにんまりと笑った。

「!?」

 その満面の笑みの、弧を描いた口がなんとも強かそうで。アデリナに続きアタウルフも寸の間目を丸くする。
 その状況下でのその笑みは、あまりにも不可解だった。普段は殆ど動揺することの無い伯が戸惑っている。

「……な、ん……」
「ええ、ええ幾らでも耐えますとも」

 ミリヤムはうんうんと頷きながら言った。

「私めは生まれからしての生粋の仕事人間ですから、職務と思えば生きる為と思って大抵ことは成し遂げます。おまけに実母にも変態的だと恐れられたほどに好きな人に対してはしつこいです。ヴォルデマー様の為になら如何様にも」

 おほほほとわざとらしく笑う娘に、アタウルフもアデリナも無言で怪訝そうな表情を浮かべている。
 そんな二人に、「でも」とミリヤムは続ける。

「私めは小さき者ですから、自分を過信しすぎてはいません。幾ら此処で私が声高に“頑張ります”と叫んでも、確かな確証でもなければ辺境伯様もアデリナ様もきっと頷いては下さらないと分かっています。こんなに大きな領都ですもの。こんな小娘一人に行き成り何かを預けられる御方は居ないです。だから──助けていただこうと思って」
「…………ほう……助け……ではそれは誰に? ヴォルデマーにか? それとも領民とでも?」

 ええ、と言いながら、ミリヤムはけれど違う、と首を振る。

「……ヘンリック先生が教えて下さったんです。サンルームに私を連れ出して下さった時──私を助けてくれる人がいるかもしれないと」
「……ヘン、リック……?」

 その名にアタウルフもアデリナも解せぬという顔をする。

「ヘンリック先生はそれが誰かとハッキリした事は教えて下さいませんでした。でも……あの時確かに、“わしのように重荷を下ろした方の中には”と仰っいました。……“この様な歳になると若い頃とは物の見え方も違ってくる”からとも」
「……」
「私はそれは誰だろうかと考えました。私に味方してくれるということは私の事をご存知の方なのかなと思いましたし、もしくは、ヴォルデマー様をとても大切に思っておられる方かなと……ヘンリック先生が“この様な歳になると”と仰るくらいですから、それは先生と同じくらいのご年齢の御方だという事になります。それでいて辺境伯様とアデリナ様の反対の前にも、私達の助けになる程の力をお持ちの方は……一体どなただろうと……」

 ヘンリックが言う、その“重荷”が、その時二人で話していた“血統存続問題”であることは想像だに固くない。

「だとしたら、それは──以前はその方が“血統存続”について頭を悩ませる立場であった、という事でしょう?」

 侯爵邸に戻った後、そうヘンリックの言葉を思い出した時、ミリヤムはある一つの閃きに思い当たった。それまでの砦の生活の中で、不思議だと思った解がその時得られた様な気がして──


「だから──私は侯爵家のお邸からその方にお手紙を書いたんです」と、ミリヤムは微笑む。
「……まさか」

 その導きにアタウルフが、はっとした様な顔をミリヤムに向ける。アデリナの頭には暫らく前に自分が砦で反発してみせた灰の毛並みのその姿が思い浮かぶ。

 そんな二人の顔にミリヤムはにっこりと微笑み返すと、己の背後の侯爵夫人とフロリアンを振り返る。するとそれを受けた二人も微笑んで、傍の衛兵達に後方にある謁見の間の扉を開くように命じた。

 戸惑ったような辺境伯夫妻、成り行きを見守るギズルフ、そしてミリヤムの隣で手を繋ぐヴォルデマーの視線がその扉に一斉に集まる。────と……

 その扉が開くのと同時に、くつくつと笑う密やかな声がその静まり返った謁見の間に響く。

 その声にアデリナが虚を突かれる。
 開かれ行く両開きの扉の真ん中に……その人物は堂々と立っていた。
 それを人々が目にした瞬間、謁見の間を驚きが満たした。息を呑む音が重なり合い、辺境伯家の一同も衛兵達も同様に目を丸くしている。






「────やあ、やっと出番かな?」

 


 その人物は笑う。

 それは────
 
 



 ベアエールデのお風呂番、兼、少年隊士用隊舎の管理人の一人、
 ミリヤムが最初の最初、ぷるぷると震える手で薬を飲んでいたのを手助けした──……灰色のロルフ爺だった。





 ロルフは機嫌のいい調子でおどけて見せる。

「さあて、皆の衆、爺さんのご帰還じゃ」




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