偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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二章

16 脱衣所、ルカス襲来、ヴォルデマーの反撃

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「……お前……何やってんだ……」

 冷たい声が投げられて、ミリヤムは一瞬ぎくりと背を丸めた。

 それは脱衣所でヴォルデマーの背をブラッシングしていた時だった。
 照れ照れと、その黒い、まだ少し湿り気の残る艶やかな背に木柄のブラシを何度も行き来させていると、そこへ突然ルカスが現れた。
 軽い装いのルカスは戸口に立ったままミリヤムとヴォルデマーを凝視している。
 ミリヤムはまずいと思いながらも、すいっとルカスから目線を逸らす。ヴォルデマーは平然として僅かに視線を上げただけだった。

「……ブラッシング、ですけども?」
「ブラッシング、だと……?」

 その答えにルカスが眉間に皺を寄せる。ヴォルデマーはその様子を思春期の娘の素行に目を光らせる父、もしくは母親のようだ、と内心で思う。

「こうして丁寧に梳いて行った方が美しい毛流れになるんですよ」

 ミリヤムは出来るだけ冷静にそう言ったのだが、勿論それでルカスが誤魔化されることはなかった。ルカスは余計に視線を険しくする。
 
「……俺が聞きたいのはお前がどうして男性隊士用の風呂場に堂々といて、砦長様に馴れ馴れしくしているのかだ! 外でやたら強いじいさんがデッキブラシを振り回してると思ったら……お前の差し金か!」

 ルカスは憤怒の表情ですぐさま二人の傍までやって来てミリヤムの腕を強く引いた。

「ちょ、まだブラッシング終わってない……」
「駄目だ。失礼致します長様」

 ルカスは棘を忍ばせたような視線でヴォルデマーに目礼すると彼の傍からミリヤムを引き離した。そして改めて二人へ交互に視線を送り、さっと顔色を変える。

「……おいまさか……一緒に……」
「入ってないっ」

 ミリヤムは眉間に力をいれたまま不満そうに口を尖らせた。

「わたくしめはお世話させて頂いただけです」

 しかしルカスは疑い深い目でじろりとミリヤムを睨んだ。

「……その様な雰囲気には見えなかった。ミリヤム、お前……曲りなりにもフロリアン様に嫁ぐんだぞ!? フロリアン様に知れたらどうするつもりだ!? 気安く他の男に近づくんじゃない!」
「……」

 ルカスの言葉にヴォルデマーの切れ長の目が僅か細められる。

「……ルキ」

 ミリヤムは今度は困ったような顔つきでルカスを見上げた。

「私、坊ちゃまには……嫁ぎませんよ……?」

 その言葉にルカスは目を見張り、耳を疑った。

「……何言ってるんだ……お前、何言ってる!? フロリアン様に請われておいて……」

 唖然とした表情は「あり得ない」と言外に語っている。ルカスもまさかミリヤムが、これまでずっと主を偏愛と呼べるまでに慕っていたこの娘が、よもやフロリアンの意に沿わぬなど思ってもみなかったのだ。それもただ請われたのではない。膝をついて願われたのだ。「結婚してくれるか」と。
 勿論既にルカスにもミリヤムがヴォルデマーを慕っているらしい、という話は耳に入っている。だがそれでも尚、まさかミリヤムがフロリアンに従わないなどとは夢にも思わなかった。これまで何を置いてもフロリアンを優先してきた娘である。おそらくミリヤムの幼少期からを知るリヒター家の誰もが皆、ミリヤムの今の言葉を聞けば同様の反応を見せただろう。
 ルカスは戸惑いを隠せない顔でミリヤムを見た。

「……お前、一体どうしたんだ……頭でも打ったのか? フロリアン様のご意向なんだぞ……? 分るか? フロリアン様だ、お前が変態的に熱愛しているフロリアン坊ちゃまだぞ!?」
「わぁかってますよ! ……分ってるんですけど……」

 ミリヤムは一瞬煙たそうにルカスを睨んで、だが直ぐに困ったような表情で、それでも何かを決意して真っ直ぐに幼馴染の顔を見た。

「ルキだから言いますけど……私ヴォルデマー様のことが好きなんです」
「お前……っ」

 その言葉にルカスが顔を顰める。ミリヤムも顔を歪めた。

「不忠者になってしまうのは死ぬほど辛いです……でも好きの種類が違うって分ったんです。坊ちゃまとヴォルデマー様に感じるものとは違います。坊ちゃまは天使です、でもヴォルデマー様は……その……なんていうか……」

 少し赤くなって己の指を弄び始めた娘に、ルカスは駄目だと首を振る。

「一時の感情に流されるな、辺境伯がどんな家柄か分っているのか? お前とはつり合いが取れるはずがない……添えるはずがないだろう! フロリアン様に申し込まれたからと言って思い上がっているんじゃないだろうな!?」
「そんな事……! 別に結婚しなくったってこうしてお傍にいられるし……」
「何を馬鹿な……そんな不安定な立場になって、男には何の責任も負わせないつもりか!? それでお前の将来の何が保障されるんだ? 愛か? そんな不確かなものでお前を囲む我等が納得するとでも? お前は大人しくフロリアン様に従え!」
「えーいこのっ……! 責任とか保障とかそんなもの望んでないわい!! 自分の食い扶持くらい自分で何とか出来るわい!! 女の逞しさ舐めるなよ!!」
「なんだと……すぐ穴に落ちるくせに!!」
「落ちるけどっ!!」

 二人はにらみ合うような顔で向き合った。険悪なわけではない。二つの意志がぶつかり合ってお互い引く気がないという風だ。それはまるで兄妹喧嘩のようである。

「……ルカス・トラウトナー」

 そこへ静かな声がかけられた。呼ばれたルカスは睨むようにしてその深みのある声の主を振り返った。

「……なんでしょうか、長様」
「責任を取らぬつもりはない」

 あからさまな敵意にもヴォルデマーはなんら表情を変えなかった。

「私が欲しいのは、その者がその者らしく気ままな姿で私の傍にいることだ。その顔に影を落すようなことは、しない」
「……貴方様がそのおつもりでも、高貴な獣人血統の御家門が二人の仲を許しますか? 貴方がたにとって血統とは我等人族よりもより重い意味がある筈」
「……」

 それでどうやってミリヤムを影に置かぬ存在に迎え入れるのだというルカスに、ヴォルデマーは一瞬黙する。
 それはもう何度も耳にしたことのある理だった。
 ヴォルデマーら獣人族達が永い年月をかけて築き上げてきたその理は、種族を守る為のものだ。異種族婚が珍しくなくなってきた昨今、時代の流れに押し流されて、混血し種族の境が曖昧になって絶滅した種族も少なくない。特に自由に生きる市井の者達においてはその傾向が強かった。
 代々の辺境伯が厳しく一族に純血同士の婚姻を強いてきたのは、統制と結束の固い貴族階級間だけでも血を絶やさぬようにする為だ。そうやって人狼族達は今も絶える事無く生きている。
 それを思うとヴォルデマーの心に重圧が掛かるのは致し方のないことだった。

「……確かに、許されざることかもしれぬ……」
「ヴォルデマー様……」

 ヴォルデマーがため息をつくとミリヤムが心配そうに傍に寄ろうとしたが、ルカスは彼女の腕を離さなかった──から、ミリヤムはルカスの眼鏡をさっと取り上げる。

「!? おい!」
「ふん」

 そしてぽいっと投げ捨てられる眼鏡。視界を奪われたルカスの手の力が一瞬緩んだ隙にミリヤムはヴォルデマーの傍に駆け寄った。

「っな、ミリヤム!!」
「いーっだ!! ヴォルデマー様……私、別に混血しなくていいですよ?」
「ミリ!?」

 ルカスに思い切り可愛くない顔を見せてから、ミリヤムは難しい顔をしているヴォルデマーの傍に膝をついて寄り添った。

「……ミリヤム……?」

 ミリヤムはからりと明るい顔で見上げる。

「それが許されないというのなら。ヴォルデマー様を困らせるって言うのなら子供は授からなくてもいいんです」
「……」

 そうやって一緒にいることも出来る、……と言ってしまってから、ミリヤムは、はたと気がついた。今の言葉は貰われる前提の嫁発言ではなかったか。

(あれ……私、ヴォルデマー様に求婚され、たっけ……?)

 そこまではまだだった気がして、己の先走りに顔が一気に上気する。

「う……」
「……」

 汗をかきかき俯いた娘を、ヴォルデマーは愛しげに見下ろしていた。重苦しい気持ちがあっという間に掻き消えて。その不思議さにヴォルデマーは心の中でため息をついた。それがその赤い顔の娘のお陰なのだとは勿論ヴォルデマーにも分っている。
 愛しいから癒されるのか、癒されるから愛おしいのか、こんな感情があるのだな、としみじみ思った。

「……ミリヤム」

 ヴォルデマーは黒い指を伸ばしゆっくりと彼女の赤くなった頬を撫でた。
 促されるように顔を上げたミリヤムはヴォルデマーが金の瞳を和らげて微笑んでいることにほっとしているようだった。が──……

「子は欲しい」

 ヴォルデマーは真顔でさらりとそう言った。

「っ!?」
「っ!?」

 直球にも程があるその言葉に、幼馴染コンビが揃って目を見張り仰け反っている。特にミリヤムは余程驚いたのか衝撃に凍り付いている。
 だがヴォルデマーは尚も続ける。

「沢山欲しい」

 きっぱりと、生真面目な顔で。

「駄目か」

 じっと見つめるとミリヤムが呻く。

「うう……や……いえ、その……そ、そ、そうです、か……」
「うむ」
「たくさん……そ、そうか……たくさんか……」
「……」

 ミリヤムは見る見る赤くなっていく。汗が滴り落ちている。
 ヴォルデマーはそんなミリヤムに真摯な顔で微笑む。

「ミリヤム……ルカス殿の言うとおり問題は多い。だが私はお前に望む。ずっと傍にいて欲しい」
「ヴォルデマー様……」
「許されえぬかもしれぬが、私は何かを捨てることになるかも知れぬが……それでもお前の顔に影無く居られる様に尽くす。道はあるはずだ。私がお前を好いたように、私の家族にもきっとお前を好ましいと思う者がある」
「それって……ええと……」

 戸惑ったような表情のミリヤムに、ヴォルデマーは愛しげにその髪を撫でる。

「問題があるからと言ってもう先延ばしにするのは嫌でな」

 そう苦笑し、尚も戸惑った顔のミリヤムに「分らぬのか?」と困ったように笑う。

「我、ヴォルデマー・シェリダンは、ミリヤム・ミュラー、お前に……結婚の申し込みをしている」
「…………」
「…………」
 
 ミリヤムはぽかんと口を開いた。
 そしてそれを間近で見ていたルカスもまた、己が主の恋敵から受けた一撃に、一瞬継ぐべき言葉を失ったのだった……




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