117 / 192
116 瀬戸際で
しおりを挟む今度は先程よりも勢いが強く、グステルは、そのまま床に叩きつけられるように転んだ。
倒れた石の床には、さきほどアルマンが配下に乱暴を働いたときに散らばった様々なものが散乱していて。大小さまざま、雑多なもののうえに投げ出されたグステルは、太ももと手のひらにゴリッと食い込むような痛みを感じ、顔を苦痛で歪めた。
同時に片方の足首も捻ったようで、これにはしまったと思った。
虚しいことだが。やはりこうして手加減もなく向かってこられると、男女の力の差が明確になる。
いくら相手が愚かでも、世の中にはこうした暴力で無理やりねじ伏せられてしまうことが多々ある。──悔しいが、それが現実であった。
しかしだからこそ気持ちで負けてはおしまいだと、グステルは奥歯を噛み締めてアルマンを睨んだ。
「っ小娘小娘とおっしゃいますけどね……! 小娘でもものは考えますし、多少なりと道理だってわかります!」
気丈に発するが、途端、アルマンが噴き出した。
男は床のうえに下した娘を、勝ち誇った顔でじろじろと眺め、愉悦に浸って嘲笑する。
「道理⁉︎ ガキが道理だと⁉︎ 笑わせるな、野垂れ死にし損ねた小娘が! 何が道理だ!」
しまいには、アルマンは顎を上げて大笑い。
公爵家の娘を名乗ったグステルを侮辱するため、わざと大袈裟にふるまっているのだろう。腹を抱えてヒステリックに笑い、背を曲げた男の視線は床に落とされた。
その一瞬を、グステルは見逃さなかった。
アルマンが自分から視線を外した瞬間、グステルは、後ろ手にさっと床の上を探った。するとすぐに固い感触が指に触れて。ハッとした彼女は、それを手のうちに隠した。
その動きに気がついたのが、言葉もなく彼女を見ていたロイヒリンだった。
呆然とそこにいた男は、グステルが床の上にはわせた手でつかみ、背の後ろに隠したものを見て咄嗟に声を上げる。
「ぁ……あ──ア、アルマンさん!」
「あ?」
ロイヒリンの声に、アルマンが笑いを収めて視線を下ろす。
おそらくその存在をすっかり忘れていたのだろう。縛られたまま、床にひざまずいている男の顔を見て、アルマンは片眉を上げた。
「なんだロイヒリン、今更命乞いか?」
「も、もうやめてください! まだ子供も同然ですよ⁉︎」
ロイヒリンは必死な顔で懇願した。
彼は不安で仕方なかったのだ。
すっかり頭に血がのぼったアルマンの行動もそりゃあ恐ろしい。しかしそれ以上に。
このままでは、目の前で思い詰めたような顔をしている少女が……せっかく父である公爵と再会したのであろう令嬢が何か無謀なことをしでかしそうで恐ろしい。
ロイヒリンには分かっていた。父親のもとへ向かったはずの彼女がここへ駆けつけたのは、きっと自分を救うためだ。
「っアルマンさん! どうか冷静になってください! 閣下のお嬢様です!」
傷つけるなんてどうかしていると叫ぶロイヒリンに、しかしアルマンはやはり鼻を鳴らす。
「知ったことか。身の程も考えず、この俺に噛み付いてきたこいつが悪い。……待っていろロイヒリン。この小娘の次はお前だ。ここまで見られたからには生かしてはおけん。悪く思うなよ」
言ってアルマンは薄く笑った。嘲笑う男の持つ刃がロイヒリンに向き、短刀を突きつけられた商人が絶句して──
その光景に、グステルは突き動かされた。
──これは前世でのことだ。
そのとき、“ユカ”という名前だったグステルは、夫だった男の浮気相手に、包丁で襲われたことがある。
子供と一緒に公園で遊んでいる時のことだった。
鬼女のような形相で襲いかかってきた女に戦慄しながらも、彼女はこう強く感じた。
『自分が死んでも──この女を殺してでも、この子を守らなければ……!』
その時感じた覚悟は、恐怖とともに魂に深く刻み込まれて。アルマンが振りかざした白刃がそれを蘇らせていた。
自分がどうにかしなければと強く思い詰めた。
ロイヒリンも、アルマンの子供も。絶対に死なせるわけにはいかないと思うと、動悸が激しくなって。
自分のせいで誰かを死なせるわけにはいかないと思うと、とても立ち止まっていられなかった。
……この時もし、グステルが機敏に動くことができれば。まだ彼女の心にも余裕もあったかもしれない。
しかし、くじいた足の痛み具合から、彼女は自分がもうそう動けやしないのだと感じていた。
ならば、ためらっている場合ではない。
グステルは、ロイヒリンを嘲笑っているアルマンに襲いかかった。
一気に距離を縮め、後ろ手に握っていたものをその男めがけて振り上げる。
グステルの手のうちで、それは鈍い光をたたえて鋭利に輝いた。
手のひら大の、グリーンのガラスの破片。
部屋のはじに置いてあった酒瓶が、先程アルマンが配下を突き飛ばした拍子に割れて、そのかけらが一つグステルの足元にまですべってきていた。
焦燥感のあまり、思わず破片を握りしめた手のひらには血が滲んだが、不思議と痛みは感じなかった。
気がついたロイヒリンが何かを叫んだ。
しかしその制止は、グステルの目には入ってこなかった。
怒りのあまりか、必死のあまりか。その瞬間、すべてのものが無音に静まり返っていた。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
彼女の瞳が捉えるのは、急な反撃に驚き、のけぞったアルマンの顔。
男はギョッとして、咄嗟に持っていた短刀をグステルに向けた。
残忍な輝きが自分の顔に迫る様子が、やけにゆっくりと見えた。
ひるむな、
ためらうな。
そう己に命じ、グステルはアルマンの身体に狙いを定め、思い切り腕を振る。
この無慈悲な男にわずかでも一矢報い、痛みという枷を与えることができたら。その少しの時間で、協力してくれたロイヒリンや、この男の子供が難を逃れることができるのなら。
たとえここで死んでも本望だと思った。
多分、その思いは“あの子”に重なっていて。
おかしな話だが、これで、あの子を救えるのだと、どこかで思ってしまっていた……。
「っアルマン!」
振りかぶった手からは血のしずくが方々に飛び散った。
だが、その刹那のことだった。
グステルの脳裏に、ある声が蘇る。
──絶対に危険なことはしないでください……!
そう言って、今生の別れのように悲痛に顔を歪めていた青年のことを思い出した。
その瞬間、グステルはハッと自分の過ちに気がついて愕然とする。
捨て身でも、絶対にこの男を下すと心に誓ったが。
自分がを狂おしいほどに“あの子”を守りたいと願うのと同じく、自分が死ねば悲しむ人がいるのだと。当たり前のように思えることを、彼女はこの間際で初めて実感した。
──悲しませてしまう!
怒りに満ちていた心に、その想いが突き刺さる。
冷静でいたつもりが、頭に血が上りすぎていた自分を悟り、グステルは息を呑んだ。目の前に、白い輝きが迫っていた。
「っ!」
咄嗟に身をよじり、辛く床のうえに倒れこんだ。
危うく顔面を貫かれるところをかろうじて避けたが、それでも差し出された刃を避けきれず、頬にチリ……ッと、焼かれるような痛みを感じた。
しかし息をつく間もなく、そこへ気のふれたような怒号が降り注ぐ。
「ペテン師が! 死ね!」
「!」
アルマンの振りおろした刃が、黒衣を貫いた。
147
あなたにおすすめの小説
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
婚約破棄された悪役令嬢の心の声が面白かったので求婚してみた
夕景あき
恋愛
人の心の声が聞こえるカイルは、孤独の闇に閉じこもっていた。唯一の救いは、心の声まで真摯で温かい異母兄、第一王子の存在だけだった。
そんなカイルが、外交(婚約者探し)という名目で三国交流会へ向かうと、目の前で隣国の第二王子による公開婚約破棄が発生する。
婚約破棄された令嬢グレースは、表情一つ変えない高潔な令嬢。しかし、カイルがその心の声を聞き取ると、思いも寄らない内容が聞こえてきたのだった。
転生しましたが悪役令嬢な気がするんですけど⁉︎
水月華
恋愛
ヘンリエッタ・スタンホープは8歳の時に前世の記憶を思い出す。最初は混乱したが、じきに貴族生活に順応し始める。・・・が、ある時気づく。
もしかして‘’私‘’って悪役令嬢ポジションでは?整った容姿。申し分ない身分。・・・だけなら疑わなかったが、ある時ふと言われたのである。「昔のヘンリエッタは我儘だったのにこんなに立派になって」と。
振り返れば記憶が戻る前は嫌いな食べ物が出ると癇癪を起こし、着たいドレスがないと癇癪を起こし…。私めっちゃ性格悪かった!!
え?記憶戻らなかったらそのままだった=悪役令嬢!?いやいや確かに前世では転生して悪役令嬢とか流行ってたけどまさか自分が!?
でもヘンリエッタ・スタンホープなんて知らないし、私どうすればいいのー!?
と、とにかく攻略対象者候補たちには必要以上に近づかない様にしよう!
前世の記憶のせいで恋愛なんて面倒くさいし、政略結婚じゃないなら出来れば避けたい!
だからこっちに熱い眼差しを送らないで!
答えられないんです!
これは悪役令嬢(?)の侯爵令嬢があるかもしれない破滅フラグを手探りで回避しようとするお話。
または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。
小説家になろうでも投稿してます。
こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
死に戻ったら、私だけ幼児化していた件について
えくれあ
恋愛
セラフィーナは6歳の時に王太子となるアルバートとの婚約が決まって以降、ずっと王家のために身を粉にして努力を続けてきたつもりだった。
しかしながら、いつしか悪女と呼ばれるようになり、18歳の時にアルバートから婚約解消を告げられてしまう。
その後、死を迎えたはずのセラフィーナは、目を覚ますと2年前に戻っていた。だが、周囲の人間はセラフィーナが死ぬ2年前の姿と相違ないのに、セラフィーナだけは同じ年齢だったはずのアルバートより10歳も幼い6歳の姿だった。
死を迎える前と同じこともあれば、年齢が異なるが故に違うこともある。
戸惑いを覚えながらも、死んでしまったためにできなかったことを今度こそ、とセラフィーナは心に誓うのだった。
転生したら悪役令嬢だった婚約者様の溺愛に気づいたようですが、実は私も無関心でした
ハリネズミの肉球
恋愛
気づけば私は、“悪役令嬢”として断罪寸前――しかも、乙女ゲームのクライマックス目前!?
容赦ないヒロインと取り巻きたちに追いつめられ、開き直った私はこう言い放った。
「……まぁ、別に婚約者様にも未練ないし?」
ところが。
ずっと私に冷たかった“婚約者様”こと第一王子アレクシスが、まさかの豹変。
無関心だったはずの彼が、なぜか私にだけやたらと優しい。甘い。距離が近い……って、え、なにこれ、溺愛モード突入!?今さらどういうつもり!?
でも、よく考えたら――
私だって最初からアレクシスに興味なんてなかったんですけど?(ほんとに)
お互いに「どうでもいい」と思っていたはずの関係が、“転生”という非常識な出来事をきっかけに、静かに、でも確実に動き始める。
これは、すれ違いと誤解の果てに生まれる、ちょっとズレたふたりの再恋(?)物語。
じれじれで不器用な“無自覚すれ違いラブ”、ここに開幕――!
本作は、アルファポリス様、小説家になろう様、カクヨム様にて掲載させていただいております。
アイデア提供者:ゆう(YuFidi)
URL:https://note.com/yufidi88/n/n8caa44812464
(本編完結)無表情の美形王子に婚約解消され、自由の身になりました! なのに、なんで、近づいてくるんですか?
水無月あん
恋愛
本編は完結してます。8/6より、番外編はじめました。よろしくお願いいたします。
私は、公爵令嬢のアリス。ピンク頭の女性を腕にぶら下げたルイス殿下に、婚約解消を告げられました。美形だけれど、無表情の婚約者が苦手だったので、婚約解消はありがたい! はれて自由の身になれて、うれしい! なのに、なぜ、近づいてくるんですか? 私に興味なかったですよね? 無表情すぎる、美形王子の本心は? こじらせ、ヤンデレ、執着っぽいものをつめた、ゆるゆるっとした設定です。お気軽に楽しんでいただければ、嬉しいです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない
魚谷
恋愛
伯爵令嬢イザベラは多くの男性と浮名を流す悪女。
そんな彼女に公爵家当主のジークベルトとの縁談が持ち上がった。
ジークベルトと対面した瞬間、前世の記憶がよみがえり、この世界が乙女ゲームであることを自覚する。
イザベラは、主要攻略キャラのジークベルトの裏の顔を知ってしまったがために、冒頭で殺されてしまうモブキャラ。
ゲーム知識を頼りに、どうにか冒頭死を回避したイザベラは最弱魔法と言われる付与魔法と前世の知識を頼りに便利グッズを発明し、離婚にそなえて資金を確保する。
いよいよジークベルトが、乙女ゲームのヒロインと出会う。
離婚を切り出されることを待っていたイザベラだったが、ジークベルトは平然としていて。
「どうして俺がお前以外の女を愛さなければならないんだ?」
予想外の溺愛が始まってしまう!
(世界の平和のためにも)ヒロインに惚れてください、公爵様!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる