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139 白猫
妙に堂々と「にゃん」といった人の声は、低く、優しく、グステルの心に触れた。
その声を聞いた瞬間、彼女は我に返る。
身体にまとわりついていた呪縛が雪のように溶け、恐怖に塞がれていた耳が音を取り戻した。
恐る恐る顔を上げると、まるい、白猫の顔がそこにある。
最初は何かわからず驚いたが……。
食い入るようにそれを見つめているうちに、グステルの心を占領しようとしていた何かは、すっとそこから離れていった。
あれだけ耳をつんざくように響いていた喚き声も、もう聞こえない。
毒気が抜けていくような、なんともいえない感覚に放心していると。不意に、硬く握りしめていた手に誰かがそっと触れる。
視線をやると、自分を抱えているヘルムートが、開いた彼女の手に、持っていた白猫のぬいぐるみを乗せた。
──愛らしい、白猫のぬいぐるみ。
そのさしたる重さもないものの重みを感じ、痛いほどに張り付いたようになって閉じていた喉が、やっと、開いた……。
「……この、子……」
掠れ声でいったグステルを、ヘルムートは、じっと黙って見つめている。
彼女は、すぐに思い出した。
これは、彼女が作ったものだった。
ぬいぐるみ職人として、これまで、数え切れないほどのぬいぐるみを作ったけれど。
グステルは、この特別な白猫のことは、しっかりと覚えていた。
そもそも、グステルがこの世界でぬいぐるみを作って生計を立てていこうと決心したのは、家出をする前の彼女が、この子を作り上げた経験があったからこそ。
当時、親に無理に課さられていた淑女教育などとは、比べ物にならないほどの没頭と達成感とを味わい、この道なら、多少の困難があっても良いものを作るために突き詰めていけると感じた。
そのきっかけとなったこの白猫のことを、グステルが忘れるはずがなかった。
今よりもずっとずっと小さかった手で、ひと針ひと針ぬいあげた。
試行錯誤の末に完成させた、記念すべき作品。
その思い入れのある、この子を、自分がなぜ手放したのかは……すぐに思い出すことができたのだ。
丸い顔に三角の耳。ふっくらした胴体にはぴょこぴょこと細長い手足が縫い付けられている。
特にバランスにこだわった黒い糸のつぶらな瞳が、グステルに年月を超えて訴えかけてくる。
──彼が、あの子なんだよ、なんで気がつかなかったのさ。
ちょっと生意気そうなイメージが重なるのは、彼女の飼い猫ユキが重なるからだろうか。
「…………」
呆然とぬいぐるみに見入っていたグステルは、ゆっくりと、自分を膝に抱き上げている青年に視線を移す。
青年は、柔らかく微笑んでいるが……これはきっと、彼女を安心させるためのもの。端々には、心配そうな感情が滲んでいて。その表情を見たグステルは、自分の中に埋もれていた記憶が、次第に鮮明になっていくのを感じた。
──あの時、広い王宮の中で、幼い妹を心配し、途方に暮れたような顔をしていたきれいな顔の少年。
(そうだ……)
グステルは、愕然と息を呑む。
(そうよ……あの子は……“ラーラのお兄さん”だった……!)
ヒロインの存在や、自分の行く末暗い運命に気を取られ、すっかり忘れてしまっていた。
そんな自分に気がついたグステルは、なんだか急に泣きたくなった。
渡された白猫は、今でもとてもきれいだった。布製の猫は、さすがに十年余りの年月を感じさせたけれど、それでも大事にされていることがよくわかった。
出会いの時に渡したものを、今でもこうして大事にしてくれているということは、それだけの想いが彼の中にあるということで。
(それなのに……私は……)
そんな大事なことを、今の今まですっかり忘れていた自分が情けなく、ひたすら、ヘルムートに申し訳なかった。
そして、ただただ──彼との再会が嬉しい。
グステルの頬に、ぽろぽろと涙の粒がすべり落ちていく。
いろんな感情が混ざり合い、グステルは、この世界にきて初めて人前で嗚咽した。
駆けつけてくれたヘルムートに何かいいたかったが、言葉が喉に詰まって出てこない。
まるで、これまでずっと『自分は精神は還暦過ぎなのだから』と、日常で流さずに溜めた涙が、今一気に、すべて流れ出てきてしまったようだった。
白猫を手に、ぎゅっと握りしめて涙していると。その肩を、ヘルムートが抱きしめてくれる。
全身で守ろうとするように、強く温かく包み込まれたグステルは、かつてない安心感を覚えて、なんだか余計に泣けてしまった。
そして、改めて痛感する。
この感情を、“本物のグステル”に上書きされて、消されるわけにはいかないと。
混乱が去ると、なんだか子供のように泣いてしまった自分が恥ずかしくなってきて。グステルは、少しいたまれない気持ちでヘルムートの腕の中にいた。
彼女が泣いている間、ヘルムートはずっと何もいわずに付き合ってくれた。
彼の腕の中ですべての涙を出し切ったグステルは、次第に落ち着きを取り戻し、自分を取り戻し──……。
今度は逆に、この密着に、落ち着かぬ気持ち。
あたりはすっかり日が暮れて、周りの民家や商店の明かりが灯り始めた。
(……ぅ……ど、どうしよう……)
グステルは、ヘルムートになんと声をかけたものかと悩んだ。
薄暗い路地に二人きり。しかも、グステルはヘルムートの膝に乗っているわけで。これは、彼女としては、非常に、気まずい。──色々と、シュチュエーションに流され、ヘルムートに魅了されて。彼に迫りかけた前科もあるゆえに。
そして何より今、本当は、彼にもっともっと近づきたい。抱きしめられていてもなお、それよりももっとずっと深く。
(──だあっ‼)
グステルは、羞恥のあまり心の中で一人悶絶した。
この歳で、あんなに幼児のようにわんわん声を上げて泣いておいて、その直後。
(っ節操がないにもほどがある!)
もしここで、彼女が見た目通りの年齢の娘だったら感情のままに振舞ったかもしれない。
だが、いい大人として、これ以上取り乱すわけにも、ヘルムートに迷惑をかけるわけにも、熱情に流されるわけにもいかなかったグステルは、悩んだ挙句、思い切って切り出すことにした。
このままでは懐の深いヘルムートが、朝までここで自分に付き合ってくれそうな気がする。
「す……すみません、あの、ヘルムートさ──」
ま、とグステルが緊張しながら言いかけた時。
そこへ、表通りのほうから誰かの気配が近づいてきた。その誰かは、静かな路地に、怒号と不安を振りまきながら、やってきた。
「あいつらめ……覚えておれよ……! メントライン家への狼藉は──! ス、ステラ! どこだステラっ! 兄の元へ戻ってこいぃっ‼」
「あ」
非常に情緒不安定でやってきたのは、グステルの兄、フリード。
大男は、怒りながら物陰に頭を突っ込み、嘆きながら置いてあった木箱を持ち上げ……どうやら必死で妹を探している。と、その目が路地の奥に向いた時、兄を見ていたグステルと彼の目がバッチリ合う。
妹を発見した途端、兄の目は、大きく喜色を浮かべ──……が、次の瞬間、その心底心配していた妹が、薄暗い場所で男に抱きしめられているのに気が付くと、兄の目はあらんかぎりにギョッとした。
「っうぉい⁉︎ き、き、貴様ぁ! な、何をやっているっっっ⁉︎」
力一杯叫んだ兄の悲鳴のような声が、夜の街に、響き渡った……。
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