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雪花に眠る
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秋々する風に拐われる。早い雪がはなに落ちる。憂々と舞う白の間で、ヒナが咲った。
構内のスロープを降っていく。インパチェンス、コスモス、ダリア、バーベナ、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……。楓雨に揺られてキンモクセイが香る。探せど姿を見せないそれで肺を膨らませれば、秋容が顔を覗かせる。挨拶を済ませ、帰り道。落ち葉に足を滑らせながら歩んでいく。
「――ow of it: and so I thank you for your good counsel. Come, my coach! Good night, ladies; good night, sweet ladies; good night, good night」
白菊の歌声が近づき、鳥が発つ。たった一節。それだけで世界が変わった。菊田ヒナ。世界を愛し、世界に愛されている唯一無二の存在。姿を捉えなくとも、意識の全てが彼女に注ぎ込まれる。彼女が太陽なら、私は追い求めるヒマワリ。月なら、ゲッカビジン。誘蛾灯とカメムシ。もっと語彙が足りていたらヒナの素晴らしさを伝えられるのに。愚図な自分に嫌気がさす。
取り巻きのセリフが続く。ああ、駄目。全然なってない。カタコトの英国語に耳を塞ぎかける。声がする方をチラリと見やれば、透き通った青空と散光した凪を閉じ込めた瞳に捕まる。ローズゴールドのリップが弧を描いて、ゆったりと開く。私の名が声となって羽撃いた。まるで特別な呪文のよう。取り巻きの視線なんて気にならない。負け組はそこで地団駄を踏めばいい。私が選ばれたのだ。ハナに支配された脳は快楽物質だけを送り込んでくる。もう一度、羽撃く。
「お疲れ様、ヒナ」
やっとの思いで返事をする。ヒナは依然として優しく微咲んでいる。そして、欲深い憐れな私にも言葉を交わす。
「ええ。そっちもお疲れ様」
(中略)
耽々と進む秒針。快廻する余韻。道逸れなデイジーが聖夜を結んで、バラを飾った。ジュクジュクに熟れきった声が鼓膜を叩く。楽園。その言葉に尽きる。
「むしろ、追放、が似合うんじゃない?」
咲んだ口唇を眺める。紡がれたセリフが耳元を駆けていく。もう何も考えられない。恍惚とした悦楽のままに身体が動く。優しい指先を含んでも、咎める言葉など姿を見せない。むしろ華やかに吹き出して、感想を求めてきた。素直に所感を伝えれば、艶かしく上顎を撫でられる。美指からほろほろと甘味が溢れて、私を誘惑してやまない。もう一度、と強請る言葉が喉に詰まった。
「ねぇ、私のどこが好きなの?」
純真な問が脳を冷やす。好きなところ。改めて聞かれると困ってしまう。まず、美しいところ。髪も瞳も肉体もそうだけど、心の内まで教会の傍に流れる澄んだ川のように美しい。臓物を突き刺すような燦き。目頭を侵食するような温もり。全てを覆い尽くして、喰らって、溶かし切るような華やぎ。それらが私を魅了してたまらない。私だけじゃない。きっと、周囲のニンゲンみんなが思っている。三月はヒナの絵を描きたいと鳴き散らすし、取り巻きの子達も彼女の魅力に犯され尽くしている。浪川さんだって劣等感から病んでいるくらいなのだ。ヒナの美しさは一番に挙げられるほど愛しいところだろう。
あとは、家庭的なところ。以前、得意料理を聞いたら「煮物と汁物」と答えていた。日本人離れした顔立ちからは想像できなかったけれど、後日食べさせてもらった味噌煮は確かに美味しかった。「すごいね」なんて月並みな言葉しか出てこなかったのが恥ずかしいくらい。それと同時に、なんとなく身近な存在のようで心が侵暖した。
それと、あとは、あとは、あとは……──。
次から次へと湧いて出てくる。だけど、それらを言語化できる頭を持っていないから。
「ごめんなさい」
私は、そう言うしかない。
「そう。わかったわ。……ありがとう」
ヒナは優しい声で紡ぐと、また私を全身で覆った。
「兄さんはチーズケーキが好きなの」
そう語る顔は無の感情を宿していた。チーズ、砂糖、ヨーグルト、生クリーム、レモン汁。よく混ぜられた液体に溶かしたゼラチンを入れる。いくら大切な兄とはいえ、誕生日用に手作りケーキを用意するなんて。カショカショ。サッサク。トロリ。羨望と共にかき混ぜられていく。
「重いわね」
「え?」
「気持ちが入りすぎよ。……後で濾すから別に良いけど」
なんとなく恥ずかしくなってボウルに集中する。情けなく謝罪すれば、穏やかな声が赦を落とす。珍しく咲みを見せてくれないヒナが分からない。言葉にすら感情が籠っていないようだ。ただ、穏やかなだけの雪のように、降ってくる。心が寒くて、身体が冷たくて、手の先が震え出す。高嶺の花がどんどん遠く離れていく。闇く底のないコッカリと空いた大口に堕ちて逝くような感覚に苛まれる。広いキッチンにため息が響く。
「ごめんなさい。ちゃんと説明しないと、分からないわよね」
ヒナがいつも通りの声色で言う。困ったような咲み。柔らかな玉手が伸びて、私の頬を包んだ。
「泣かないで」
呟きながら頬骨をなぞる。その仕草にだんだんと心が落ち着いていく。
(中略)
振針の命じるまま躍る彼女の髪。川面に浮かぶ白たちがうたう。私の名を溢す声は甘く清い。懇々。冷たい花に熱が灯る。恋しい瞳を追いかけるように手を伸ばせば、存外にあっけなく届いた。純潔が香って、淫らに跳ねる。触れた瑞々しい桃にため息を吐く。重なった微熱を味わいたくて口を開けど、声が出ない。ただただ口から薄い霧が溢れるだけ。冷たい指先に熱が移っていく。ほのかな快楽が背を撫でる。瞬間、震えた肩を労わるようにヒナの声が落ちた。柔らかな艶声に短く返す。
「ううん、平気」
可愛げも何もない私をヒナは咲って愛でる。愛でて、そして、彼女の色に染めてくれる。きっとこの先もずっと。ヒナの口唇が私のそれに重なる。淡い水音が天上へと誘う。もう追放されることはないだろう。舌先が離れていく。もう未練はない。冷たい足元を誤魔化すようにもう一度、温度を重ねた。大丈夫。怖くない。幸せだよ。そう囁いたのはどちらだろう。ヒナの空から小雨が零れた。
「それじゃあ、いこっか」
「うん」
「……ねえ、私のどこが好きなの?」
「全部。あなたの何もかもが愛しくてたまらない」
「そう。……私もあなたが愛おしくてたまらないわ、スミレ」
愛を語り合う私たちの間で青紫の花弁が踊る。あなたとの永遠に希望をのせて。
枯れたイチョウが、二人を飾った。
構内のスロープを降っていく。インパチェンス、コスモス、ダリア、バーベナ、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……。楓雨に揺られてキンモクセイが香る。探せど姿を見せないそれで肺を膨らませれば、秋容が顔を覗かせる。挨拶を済ませ、帰り道。落ち葉に足を滑らせながら歩んでいく。
「――ow of it: and so I thank you for your good counsel. Come, my coach! Good night, ladies; good night, sweet ladies; good night, good night」
白菊の歌声が近づき、鳥が発つ。たった一節。それだけで世界が変わった。菊田ヒナ。世界を愛し、世界に愛されている唯一無二の存在。姿を捉えなくとも、意識の全てが彼女に注ぎ込まれる。彼女が太陽なら、私は追い求めるヒマワリ。月なら、ゲッカビジン。誘蛾灯とカメムシ。もっと語彙が足りていたらヒナの素晴らしさを伝えられるのに。愚図な自分に嫌気がさす。
取り巻きのセリフが続く。ああ、駄目。全然なってない。カタコトの英国語に耳を塞ぎかける。声がする方をチラリと見やれば、透き通った青空と散光した凪を閉じ込めた瞳に捕まる。ローズゴールドのリップが弧を描いて、ゆったりと開く。私の名が声となって羽撃いた。まるで特別な呪文のよう。取り巻きの視線なんて気にならない。負け組はそこで地団駄を踏めばいい。私が選ばれたのだ。ハナに支配された脳は快楽物質だけを送り込んでくる。もう一度、羽撃く。
「お疲れ様、ヒナ」
やっとの思いで返事をする。ヒナは依然として優しく微咲んでいる。そして、欲深い憐れな私にも言葉を交わす。
「ええ。そっちもお疲れ様」
(中略)
耽々と進む秒針。快廻する余韻。道逸れなデイジーが聖夜を結んで、バラを飾った。ジュクジュクに熟れきった声が鼓膜を叩く。楽園。その言葉に尽きる。
「むしろ、追放、が似合うんじゃない?」
咲んだ口唇を眺める。紡がれたセリフが耳元を駆けていく。もう何も考えられない。恍惚とした悦楽のままに身体が動く。優しい指先を含んでも、咎める言葉など姿を見せない。むしろ華やかに吹き出して、感想を求めてきた。素直に所感を伝えれば、艶かしく上顎を撫でられる。美指からほろほろと甘味が溢れて、私を誘惑してやまない。もう一度、と強請る言葉が喉に詰まった。
「ねぇ、私のどこが好きなの?」
純真な問が脳を冷やす。好きなところ。改めて聞かれると困ってしまう。まず、美しいところ。髪も瞳も肉体もそうだけど、心の内まで教会の傍に流れる澄んだ川のように美しい。臓物を突き刺すような燦き。目頭を侵食するような温もり。全てを覆い尽くして、喰らって、溶かし切るような華やぎ。それらが私を魅了してたまらない。私だけじゃない。きっと、周囲のニンゲンみんなが思っている。三月はヒナの絵を描きたいと鳴き散らすし、取り巻きの子達も彼女の魅力に犯され尽くしている。浪川さんだって劣等感から病んでいるくらいなのだ。ヒナの美しさは一番に挙げられるほど愛しいところだろう。
あとは、家庭的なところ。以前、得意料理を聞いたら「煮物と汁物」と答えていた。日本人離れした顔立ちからは想像できなかったけれど、後日食べさせてもらった味噌煮は確かに美味しかった。「すごいね」なんて月並みな言葉しか出てこなかったのが恥ずかしいくらい。それと同時に、なんとなく身近な存在のようで心が侵暖した。
それと、あとは、あとは、あとは……──。
次から次へと湧いて出てくる。だけど、それらを言語化できる頭を持っていないから。
「ごめんなさい」
私は、そう言うしかない。
「そう。わかったわ。……ありがとう」
ヒナは優しい声で紡ぐと、また私を全身で覆った。
「兄さんはチーズケーキが好きなの」
そう語る顔は無の感情を宿していた。チーズ、砂糖、ヨーグルト、生クリーム、レモン汁。よく混ぜられた液体に溶かしたゼラチンを入れる。いくら大切な兄とはいえ、誕生日用に手作りケーキを用意するなんて。カショカショ。サッサク。トロリ。羨望と共にかき混ぜられていく。
「重いわね」
「え?」
「気持ちが入りすぎよ。……後で濾すから別に良いけど」
なんとなく恥ずかしくなってボウルに集中する。情けなく謝罪すれば、穏やかな声が赦を落とす。珍しく咲みを見せてくれないヒナが分からない。言葉にすら感情が籠っていないようだ。ただ、穏やかなだけの雪のように、降ってくる。心が寒くて、身体が冷たくて、手の先が震え出す。高嶺の花がどんどん遠く離れていく。闇く底のないコッカリと空いた大口に堕ちて逝くような感覚に苛まれる。広いキッチンにため息が響く。
「ごめんなさい。ちゃんと説明しないと、分からないわよね」
ヒナがいつも通りの声色で言う。困ったような咲み。柔らかな玉手が伸びて、私の頬を包んだ。
「泣かないで」
呟きながら頬骨をなぞる。その仕草にだんだんと心が落ち着いていく。
(中略)
振針の命じるまま躍る彼女の髪。川面に浮かぶ白たちがうたう。私の名を溢す声は甘く清い。懇々。冷たい花に熱が灯る。恋しい瞳を追いかけるように手を伸ばせば、存外にあっけなく届いた。純潔が香って、淫らに跳ねる。触れた瑞々しい桃にため息を吐く。重なった微熱を味わいたくて口を開けど、声が出ない。ただただ口から薄い霧が溢れるだけ。冷たい指先に熱が移っていく。ほのかな快楽が背を撫でる。瞬間、震えた肩を労わるようにヒナの声が落ちた。柔らかな艶声に短く返す。
「ううん、平気」
可愛げも何もない私をヒナは咲って愛でる。愛でて、そして、彼女の色に染めてくれる。きっとこの先もずっと。ヒナの口唇が私のそれに重なる。淡い水音が天上へと誘う。もう追放されることはないだろう。舌先が離れていく。もう未練はない。冷たい足元を誤魔化すようにもう一度、温度を重ねた。大丈夫。怖くない。幸せだよ。そう囁いたのはどちらだろう。ヒナの空から小雨が零れた。
「それじゃあ、いこっか」
「うん」
「……ねえ、私のどこが好きなの?」
「全部。あなたの何もかもが愛しくてたまらない」
「そう。……私もあなたが愛おしくてたまらないわ、スミレ」
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