温もり

緑苔ピカソ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

温もり

しおりを挟む
 普段あまり飲まない缶ビールを手にすると、思い出してしまう事がある。







 それは僕が中学生だった頃の話だ。

 修学旅行1日目の夜。僕は隣で眠っていた男の子を起こさぬ様に、ホテルの部屋をそっと抜け出した。

 それは大人しい少年であった僕にとって、人生きっての大冒険であった。あずみに呼ばれなければ絶対にあんな事はしていなかっただろう。

 その日、生徒は1部屋につき1人か2人で宿泊する決まりで、彼女はたまたま1人で泊まる方だった。だから僕という暇つぶしを事前に用意しておいたのだ。

 あずみの部屋に入ると、Tシャツにショートパンツ姿の彼女がベットの上で膝を抱えていた。そして無言で僕を睨み付ける。

「遅い」

「だって、先生の巡回が怖かったから」

「こんな時間まで回ってくる訳ないじゃない」

 彼女は長い黒髪を揺らして冷蔵庫の前に降り立ち、缶ビールを2本取り出した。

「本当に飲むの?」

「今更何よ」

 確かにそういう約束ではあった。思い出作りにビールでも飲もう、と。



 僕とあずみはただの幼馴染みだった。最も、彼女は僕を幼馴染みとさえ認識してはいないだろう。

 命令に何の疑問も持たない、従順な手下。そんなところだ。



 僕はあずみと同じベットの上に座った。彼女は黙って僕に缶を手渡す。ふたり同時にプルタブを開けた。

「糞みてぇな修学旅行に乾杯」

「乾杯」

 彼女の口が悪いのはいつもの事だった。その上彼女が一番嫌いな“学校行事”というものに参加している最中なのだ。僕にそれを咎めようとする良心は無い。

 僕も彼女も、一気にその未知の液体を呷った。初めてちゃんと口にしたビールは、当然の様に苦くて不味かった。

「センコーも今頃飲んでんのよ、これ。初日お疲れ様でしたー、とか言ってさ。ああ反吐が出る」

「僕らだって飲んでるじゃないか」

「あたしらの夜会とは意味合いが違うのよ」

 そう言って彼女は口の端を持ち上げた。

「あいつらは自分を労う為に飲む。あたしとあんたはそういうセンコーに中指立てる為に飲んでんだから」

 あずみは実際に中指を立ててみせた。彼女は見た目が大人っぽいだけに、こういう言動が際立って子供くさく映ってしまう。

 けれど、何だかんだ言って彼女が僕と過ごす時間を楽しんでくれているという事が、たまらなく嬉しかった。



 あずみはクラスの中でも飛び抜けて美人だけれど、他人と関わろうとしない性格のせいで男も女も誰一人近寄れなかった。

 唯一小学校から仲の良かった僕が彼女と喋っているのを、皆羨望の眼差しで見ていた。

 そんな事もあって、いつしか僕はこの美しい少女を、特別な存在として認識していた。







「この国は腐ってる」

 あずみは吐き捨てる様にそう言った。どうやら酔っているらしい。

「あたしとあんたで、この国変えてやろう。革命起こしてやろうよ」

「あずみがそうするって言うのなら、僕に拒否権は無いだろうね」

「分かってるじゃない」

 彼女は機嫌良く笑った。小馬鹿にした様な笑い方ならこれまで幾度も見てきたけれど、こんな満面の笑みは中々見られない。

「ずっとその笑顔でいるといいよ。そしたら友達も出来るし、恋人も出来る」

「あたしの事言ってんの?」

「そうだよ」

「ばーか。あたしは独りでいたいからこういう生き方してんのよ。長い付き合いなのにそんな事も知らないの?」

「独りでいたいなら何で今日僕をここに呼んだんだよ」

「……あんた相当酔ってるわね」

「うん。酔ってる。吐きそうだ」

「そう。頼むからここでは吐かないで」

 あずみは僕を心配する様子など一ミリたりとも見せなかった。僕はトイレへ向かった。







 水が轟音を響かせながら吐瀉物を流していく。

 僕は閉めた便座の蓋を眺めながら、その音をぼんやりと聞いていた。汚れ一つ無い、真っ白な蓋だった。

 やがて水の音が止んだ。それでも僕はドアに背を向けて、その場に立ち尽くしていた。



 ここで整理を付けておきたかった。僕とあずみというふたりの関係に。

 僕は何かと優柔不断で、自分の手に負えない事は放り出してしまうたちの人間だった。その行動によって不利益が生じる前に、いつもあずみが物事の白黒をはっきりさせ、僕を救ってくれた。

 けれど、この問題だけは僕が判断を付けなければならない。僕は彼女の手下なのか、それ以上の存在なのか。

 彼女は中学を卒業したら、僕の代わりになる人間を見つけ出そうとするのか。それとも、僕の代わりになる人間なんていないのか。



 トイレの蓋と顔をつきあわせて必死に考え込んでいると、ふいに外から奇妙な音がした。

 木が軋む様な音だった。ギイギイ、ギイギイ、と。

 あずみが何かしているのだろうか。僕は音を立てずに鍵を開き、少しだけドアを開けて室内を覗いた。

 彼女は椅子の上で何かをしていた。本来なら尻を乗せる筈の所に腹を預け、背もたれに腕を回し、ぎゅっと握り締めてバランスを取っていた。

 どういう目的でその体勢を取っているのか。中学生の僕がそれを想像するのは容易だった。

 椅子の角に陰部を擦り付けて、オナニーしている。恐らく彼女は、その行為を家でもしていたのだろう。

 顔には苦痛を滲ませながらも、一生懸命に腰を振り快楽を求めている。あのあずみが。

 僕は理解が追いつかなかった。彼女が既に“女”になっていたという事にも、今ここでするにはあまりにもリスクの高いそれを、平然と行っているという事にも。

 彼女は声一つ上げずに体をくねらせ続け、やがて満足したのか静かに椅子から離れた。

 その時の彼女の表情を、僕は鮮明に覚えている。他人を寄せ付けない厳しさがどこかに消え失せた、甘くとろける様な雌の顔――

 だが、僕はそれを長くは見ていられなかった。彼女はすぐに布団に潜り込んでしまったのだ。

 僕はしばらく、トイレから出る気にはなれなかった。

 あずみはもう寝てしまったのだから、さっさと自分の部屋へ戻れば良かったかも知れない。だが、ミニテーブルの上に置かれたビールの缶や、あずみが酔って無茶苦茶に乱したシーツをそのままにしておく訳にはいかなかった。

 数分後、あずみが小さな寝息を立て始めたのを確認し、僕はようやくトイレを抜け出した。

 部屋の掃除だけして、自分の部屋に戻ればそれで良かった。けれど、その時僕は痛い程勃起していた。

 どうにかしてこれを収めないとと思った。僕はふと、あずみの寝顔に目を走らせた。

 安らかで、神秘的なまでに清潔だった。触れてはいけないものの様に思えた。

 けれど彼女のせいで、僕は自分でも収拾の付かない程に興奮している。僕はズボンとトランクスを下ろし、いきり立つペニスを椅子の角に近付けた。

 椅子に触れてみると、僅かに彼女の温もりを感じる。僕はそこに左手を置き、右手でペニスを擦った。

 その時の僕にとって、興奮する材料はあずみそのものでは無かった。彼女が確かに、そこにクリトリスを擦り付けていたという事実だった。

 彼女の温もりが、段々と彼女の女性器そのものに触れているかの様な錯覚を生み出す。彼女が股を広げ、僕にそれを触らせているという幻想……

 僕は彼女の膣に精子を撒き散らした。それは部屋の薄明かりに照らされ、ぼんやりとオレンジ色に光っていた。

 ベッドからあずみの寝息が聞こえてくる。そうだ、彼女は寝ていたのだ。僕が精液を掛けたのは、ただの革張りの椅子だ。

 言い様の無い虚無が僕を襲った。僕はティッシュで椅子を拭き、ビールの缶を窓から外の茂みへと投げ捨て、ベッドのシーツを整えた。

 そして、何事も無かったかの様に自分の部屋へ戻った。







 その後も、僕は今まで通りにあずみと接していた。

 だがそれも中学までの話だ。高校へ進学すると、彼女からの連絡はぱったりと途絶えた。

 型通りの高校生活を送る中で、僕は不意にあずみが恋しくなり、彼女の家へ行ってみた事がある。

 けれど、彼女は僕に何の連絡もせず引っ越していた。

 彼女は今、どこにいるんだろうか。都会への憧れが強かったあの子の事だから、僕と同じ様に上京したのだろうか。

 そしてあの夜の行為は、僕に見せつけるつもりでやったのだろうか。本当は僕が絶頂した時も、彼女は眠ってなどいなかったのかも知れない――

 今となっては、全てが藪の中だ。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...