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四、親父と自分の鬱話
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彼らの話によると、ここはチルアウト・ゾーンと呼ばれる地域で、特定の国家はなく、山や平地を含む広大な土地に街や都市が点在しているという。貿易等は個々の街同士の交流で行われ、全てを統制し統治する機関のようなものは存在しない。はるか紀元前の、文明が発祥して間もない頃の地球みたいだな、と一樹は思った。だが都市の中には、かなり科学文明が発達し、星まで行けるロケットを開発したところもあるという噂もあると聞き、妙に思った。誰もこの地域全体を支配しようとは思わないのだろうか。
自分たちの世界では、国という単位が個々の街や都市を支配統治しており、なぜならそのほうが人の行き来や交易、科学の発達なんかにとっていろいろと便利だから……と話すと、彼らは「それは気がつかなかった! さすがはカズキさまの住んでおられるお国だ! 素晴らしい!」などと、また拳を握ってガッツポーズで感動していた。もしや余計なことを言ってしまったんじゃないか、と不安になった。
音楽に詳しい一樹は、チルアウトという単語を知っていた。彼は行ったことがなかったが、ダンス用のテクノ・ミュージックが掛かるクラブハウスなどで、踊りつかれた客が休憩室で体を休める際に、BGMとして掛かっているスローテンポの曲のことを、「チルアウト」というらしい。「チル」は「冷ます」みたいな意味で、熱くなった体を冷やすための穏やかな音楽だったのだが、いつしかそれがヒーリングものの音楽として、一つのジャンルになった……とかいう経緯だったと思う、たぶん。
この場所が、そんな「癒し」を意味するようなところなのかは、今のところ分からない。だが、最初に出会った彼らの気のよさを見ると、ここがそんな名前で呼ばれているのも分かる気がした。一緒にいるだけでリラックスできて気分がよくなり、なにか口笛を吹きたくなるような自由な気ままさ、楽しさすらわいてくるのだ。これは一樹にとって、かなりのカルチャーショックだった。
「人間は信用するな、気をつけろ。深入りは禁物。なぜなら、彼らは表向きは柔らかく接してきても、基本的には、お前を傷つけるものだからだ」
これが、彼の持つ人間一般に対する目であり、世間と相対するときの基本的姿勢、心構えだった。
「こんな素敵なテントまで貸してくれて、ほんといい人たちね」
布団の上にうつ伏せに寝て、枕に両ひじをつき、組んだ両手の上にあごを乗せた桃香が、投げ出した両足を交互に上げ下げして、機嫌よく言った。テントの隅に下がるランプの、薄オレンジの淡い光に照らされた顔は、本当に幸せそうに見えた。こんなときに、よくこんな顔が出来るなと感心したが、向かいで布団に座る一樹も、今までになく気分が落ち着いて、いつものこわばった口元はすっかり緩み、甘い気持ちにすらなっていた。
「簡易トイレまで持参してるとはなぁ。おかげで助かったよ」
一樹は笑い、振り向いて向こうを見た。見える薄暗いテントの幕の先には彼らの高級車があり、その隣に張っているもう一つのテントの中に、あの黒服の元ギャングたちが、白雪姫の小人たちのように仲良く眠っているはずだ。ちなみに、車の向こう側に、もう一つの小さいテントがあって、中に白いプラスチック製の簡易トイレがある。
彼らは食事も分けてくれた。自分たちの世界にある「焼き飯」と同じものが飯ごうに入っていて、火にかけて出してくれた。肉と野菜もあった。飲み物もウーロン茶に似たものがポットに入っていた。彼らは気さくで、食事中にバンジョーのような楽器をひいて地元の歌まで披露し、まるで遊びにきているかのようで、桃香と二人してなごんだ。それは陽気なカントリーのような妙な歌だったが、日本語だったのがまた妙だった。この異国の地で、外国人にしか見えない人たちが日本語を話しているのが、そもそもおかしいのだが。
ここの気候は、寒くも熱くもなく本当に快適だった。たまに風も吹くが気持ちいいばかりで、外にいると、クーラーかなんかで温度調節してるんじゃないか、と思うほどである。
「ほかに俺たちみたいな人を見た、って言ってたよな」
一樹が言うと、桃香は穏やかな顔のまま枕に目を落とした。
「そうね。次の街で降ろしたっていうから、そこに行けば会えるかもね」
そして目をあげ、大きな宇宙みたいなきらめく瞳で彼を見つめた。
「一樹くんっ」
「えっなに、どうしたの」
「ふふっ、あの人たちが車から出てきたとき、よく冷静でいられたわね」と、身を起こして座りなおす。「ほんと、かっこよかったよ」
「誉め殺しはもう、やめてくれ」
また赤くなって右手でさえぎるが、嬉しそうではある。
「ああ、でもそうだな。どういうわけか、不安はあっても、あのときは変なくらい落ち着いてた。たぶん、桃香のおかげだよ」
「えっ、私の?」と、少しきょとんとする。
「うん、後ろに桃香がいたから、怖くなかったんだ。一人だったら、きっとビビって何も出来なかったと思う」
「そんなことないと思うけど」
まつげを伏せ、ぽつりと言う。
「一樹くんなから、きっと一人でも出来たよ」
「……」
急に彼の顔が暗くなったので、桃香も笑みが消えた。
「あいつらが本当に悪人だったら、手も足も出なかったよ」
生真面目に言う一樹。
「俺、喧嘩もしたことないし。たんに運がよかっただけさ。ぜんぶ運だよ。俺の力じゃない」
「運だって才能よ。こんな場所へ来て――って、私のせいだから、えらそうに言えないけど……」
いったん目をふせてから、また続ける。
「ちょっと変わってるけど、あんなに親切な人たちに出会って、助けてもらえて。本当なら野垂れ死んでたかもしれないのに、こうしてご飯まで食べて、布団で寝られるなんて。ほんと、世界一、運がいいわよ。こんな運がついてくるなんて、すごい才能じゃない」
言われて、一樹は皮肉な笑みを浮かべた。
「……俺の親父、ピアノ弾いてたんだ」
「えっ、そうなの?」
いきなり言われて、きょとんとする桃香。
「俺の親父だけあって不器用で、ピアノ弾くしか能がないくせに、結婚して子供を二人も作ってさ。まあお袋とは好きで一緒になったと思うけど、当然、生活は大変でさ。それでも親父、ピアノじゃ食えないから、ほかに必死にバイトして、生計を立ててたよ。
で、どうしてやりくりしたんだか、自分の車を持っててね。だもんだから、慣れないトラックの運ちゃんまでして、すぐ辞めて帰ってきたりして、お袋に愚痴ばっか言われて、それでだんだん酒の量が増えていってさ。結局、お袋は愛想つかして俺と弟を連れて出て行っちゃったんだけど。
で、俺は親父のその背中を見て、これは運転免許なんか取っちゃ絶対にダメだって思った。それだけじゃない、ちょっとでも仕事が出来たり、才能があると、俺は徹底的に利用されて、骨までしゃぶられて使い捨てられるぞ、と恐怖した。はっきりそう自覚はしなかったけど、たぶん子供心にそう思ったんだと思う」
桃香は、次第にけげんな顔になりながら、ずっと聞き入っている。彼がいったん口を切ると、風が外からテントの幕を静かに撫でる音がした。
「……それで、気がついたら俺、何も出来ないダメな奴になってた。勉強もダメ、運動もダメ。でも、なんでダメなのか、自分じゃ分からないんだよ、体が勝手にダメになっていくから。お袋に利用されたくなかったからだ、ってのは、あとで考えて分かったことだ。
あの、おん――あいつは、人間は利用して使い捨てるもんだと思っていた。あれの母親がそうしたから、自分も自動的にそうなってただけでさ。
しかも俺にとって致命的なのは、お袋には小さい頃から父親がいなくて顔も知らず、そのまま父親なしで大人になって、結婚してガキを作っちまったことだ。そうなると当然、長男の俺に、奴の受けた人生の負債が全部かかってくるんだ。早い話、俺を自分の父親にしようとしたんだよ、あいつは」
「そっ――そんなこと――」
驚いて思わず言いかけたが、彼は苦笑してさえぎった。
「不可能だよな、まともに考えたら。だけど、それをあいつはやろうとした。
俺は小さい頃から立派な容姿してたから、お袋の期待がとんでもなかったんだ。朝から晩まで顔を見るたびに、『カズは私の希望の星だ』とか、『絶対に立派になれ』って、しつこく呪文みたいに言われてね。本当にうんざりしたし、お袋といて安心したことなんて、ただの一度もなかった。風邪ひいたときさえ、看病されるのが、なんか怖かったくらいだ。
そして期待され、炊きつけられるほどに、俺はその真逆になっていった。テストで悪い点取ったり、学校でいじめにあってるのを、担任が良かれと思って親に教えたりさ。でも、俺がそういうかっこ悪いことをしたとわかると、奴はいつもキレて俺を罵ったり張り倒すんだが、こっちは体が身を守るために自動的にやってるから、どうしようもない。
まあ、それでもマシだったんだよ。もし期待通りに出来ちまったら、それは単にお袋の人生の恨みをあがなうためのもんだから、奴の思いつく限りの大変なことを次々に際限なくやらされて、終いには殺されたんじゃないかな。だって俺に何をさせようが、あいつにはしょせん関係ないことなんだから。俺は、あいつの単なる代わりで、あいつじゃなかったんだから。
要するに、本当はあいつが自分ですべきことを、俺がやらされそうになって、無意識に嫌がって反抗してただけなんだ。俺を思い通りにさせたところで、どこまで行っても満足するわけないのにさ。
でも、あいつもそれしか出来なかったんだ。そうするしか知らないからさ。使い捨てられたことしかないのに、どうやってまともに子育てできるんだって。あいつは、なにか問題が起きると、すぐ『仕方がない』って言うのが口癖だった。
だから俺は子供の頃から、何をされても運命だと思うことにしたんだ。必然的にそうなるシステムなんだから、逆らっても無駄だって。さっき言った、まさにそれは『運』なんだって。
まあ、そうは言っても、殴られりゃ痛いし、バカにされりゃ悲しいわけだから、子供じゃ身が持たないから、できるだけ何も感じないようになっていった。学校でも、朝から晩までぼうっとしてるし、体からイライラや不満がにじみ出て緊張してるわけだから、そんな不快な奴はいじめに遭って当然でね。小学校から高校まで、ずーっと惨めだった。今の大学は教室に縛られなくて済むから、少しはマシだけど。
それに、俺は自分ではまるでそう思わないけど、どうも見た目がいいらしくてさ。生まれてから今までに十回以上もそう言われたってことは、たぶん本当にそうなんだろ。
で、学校ではイケメンがひどい目にあうと、すごく喜ばれるんだよ。だから教室じゃ、バカにされるわ蹴られるわ、俺のほうも人の役に立ったことないから、これは冗談だ、遊びなんだと自分に言い聞かせて、ニヤけながらやられてたな。ほら、いじられキャラっているだろ。完全にいじめだったけど、建前はそういうことになってた。そうして俺は、自分を虫けら以下の存在に落とすことで、クラスの男どもの自尊心を高め、教室に貢献してたんだ」
「で、でも、クラスには女子だっていたでしょ?」
「女は敵だよ」
ついにらみ、あわてて目をそむける。
「女なんて、男よりもっとひどい。……いや、桃香は別だよ。ていうか、あの女――お袋が酷かっただけで、ほかの子には関係ないんだ。でも俺は、女といえばあいつしか知らないから、教室でもどこでも、女はみんなそう見えてもしょうがなかった」
「だ、誰も君に話しかけなかったの? 信じられない」
目を丸くして言い、つい「その顔で」と続けそうになってから続ける。
「だって、誰も見てないときだったら、関係ないじゃない。私がいたら、絶対に君をほっとかないよ。君みたいな子が、そんな目に遭わされてたら――」
「前も言ったろ、女は怖がって寄ってこないんだよ。俺からはいつも人を警戒させる暗いオーラが出てる。俺ほど人生から虐待されて、恨みつらみばかり心の底に濃縮させて溜めこんでるアブない奴はいないよ。君も、これ以上関わらないほうがいい。
感じるだろ、俺の周りには見えない壁がある。要するに、俺の全面にお袋が壁になって張りついてるのと同じで、誰もこの中にいる俺を見ることはないんだ。そうやって、ずっと生きてきたんだ」
そこで背を向けて、うつむく。肩が少しずつ震えてくる。鼻声になる。
「お、おかしいな。小さい頃はさ、殴られても、泥を食わされても平気で笑ってたのに。最近は、ほんと弱くなったよ。こ、このぐらいで、なんで、こんなに……」
すすり泣きが聞こえると、桃香は思わず彼を後ろから肩を抱きしめていた。その体はほのかに温かいが、肌は石のように硬くこわばっていた。人間だというのに、まるで電池切れ寸前のロボットが、体内の奥の一点から健気にわずかな熱をともしているようだった。
桃香は見る見る涙せんが崩壊した。その後ろ髪に濡れた頬を寄せると、一樹は力なくしゃくりあげた。
「ごめん、こ、こんなかっこ悪いとこ見せて……」
「いいよ、もう、いいよ……」
桃香も泣きながら、慰めるように言った。
「もう、ぜんぶいいんだよ。心配しないで。私がいるから。今はこうして、ずーっと君のそばにいるから……」
「ほ。ほんとうに……?」
「うん」
それきり、言葉はなくなった。一樹はただ、うつむいて泣き続け、桃香はそのわななく肩を、後ろからしっかりと抱きしめて泣きじゃくった。
泣き濡れる二人を、ランプの淡い光が優しく照らし、テントの幕に二人の影が揺らめいていた。それは一つになって見えた。
自分たちの世界では、国という単位が個々の街や都市を支配統治しており、なぜならそのほうが人の行き来や交易、科学の発達なんかにとっていろいろと便利だから……と話すと、彼らは「それは気がつかなかった! さすがはカズキさまの住んでおられるお国だ! 素晴らしい!」などと、また拳を握ってガッツポーズで感動していた。もしや余計なことを言ってしまったんじゃないか、と不安になった。
音楽に詳しい一樹は、チルアウトという単語を知っていた。彼は行ったことがなかったが、ダンス用のテクノ・ミュージックが掛かるクラブハウスなどで、踊りつかれた客が休憩室で体を休める際に、BGMとして掛かっているスローテンポの曲のことを、「チルアウト」というらしい。「チル」は「冷ます」みたいな意味で、熱くなった体を冷やすための穏やかな音楽だったのだが、いつしかそれがヒーリングものの音楽として、一つのジャンルになった……とかいう経緯だったと思う、たぶん。
この場所が、そんな「癒し」を意味するようなところなのかは、今のところ分からない。だが、最初に出会った彼らの気のよさを見ると、ここがそんな名前で呼ばれているのも分かる気がした。一緒にいるだけでリラックスできて気分がよくなり、なにか口笛を吹きたくなるような自由な気ままさ、楽しさすらわいてくるのだ。これは一樹にとって、かなりのカルチャーショックだった。
「人間は信用するな、気をつけろ。深入りは禁物。なぜなら、彼らは表向きは柔らかく接してきても、基本的には、お前を傷つけるものだからだ」
これが、彼の持つ人間一般に対する目であり、世間と相対するときの基本的姿勢、心構えだった。
「こんな素敵なテントまで貸してくれて、ほんといい人たちね」
布団の上にうつ伏せに寝て、枕に両ひじをつき、組んだ両手の上にあごを乗せた桃香が、投げ出した両足を交互に上げ下げして、機嫌よく言った。テントの隅に下がるランプの、薄オレンジの淡い光に照らされた顔は、本当に幸せそうに見えた。こんなときに、よくこんな顔が出来るなと感心したが、向かいで布団に座る一樹も、今までになく気分が落ち着いて、いつものこわばった口元はすっかり緩み、甘い気持ちにすらなっていた。
「簡易トイレまで持参してるとはなぁ。おかげで助かったよ」
一樹は笑い、振り向いて向こうを見た。見える薄暗いテントの幕の先には彼らの高級車があり、その隣に張っているもう一つのテントの中に、あの黒服の元ギャングたちが、白雪姫の小人たちのように仲良く眠っているはずだ。ちなみに、車の向こう側に、もう一つの小さいテントがあって、中に白いプラスチック製の簡易トイレがある。
彼らは食事も分けてくれた。自分たちの世界にある「焼き飯」と同じものが飯ごうに入っていて、火にかけて出してくれた。肉と野菜もあった。飲み物もウーロン茶に似たものがポットに入っていた。彼らは気さくで、食事中にバンジョーのような楽器をひいて地元の歌まで披露し、まるで遊びにきているかのようで、桃香と二人してなごんだ。それは陽気なカントリーのような妙な歌だったが、日本語だったのがまた妙だった。この異国の地で、外国人にしか見えない人たちが日本語を話しているのが、そもそもおかしいのだが。
ここの気候は、寒くも熱くもなく本当に快適だった。たまに風も吹くが気持ちいいばかりで、外にいると、クーラーかなんかで温度調節してるんじゃないか、と思うほどである。
「ほかに俺たちみたいな人を見た、って言ってたよな」
一樹が言うと、桃香は穏やかな顔のまま枕に目を落とした。
「そうね。次の街で降ろしたっていうから、そこに行けば会えるかもね」
そして目をあげ、大きな宇宙みたいなきらめく瞳で彼を見つめた。
「一樹くんっ」
「えっなに、どうしたの」
「ふふっ、あの人たちが車から出てきたとき、よく冷静でいられたわね」と、身を起こして座りなおす。「ほんと、かっこよかったよ」
「誉め殺しはもう、やめてくれ」
また赤くなって右手でさえぎるが、嬉しそうではある。
「ああ、でもそうだな。どういうわけか、不安はあっても、あのときは変なくらい落ち着いてた。たぶん、桃香のおかげだよ」
「えっ、私の?」と、少しきょとんとする。
「うん、後ろに桃香がいたから、怖くなかったんだ。一人だったら、きっとビビって何も出来なかったと思う」
「そんなことないと思うけど」
まつげを伏せ、ぽつりと言う。
「一樹くんなから、きっと一人でも出来たよ」
「……」
急に彼の顔が暗くなったので、桃香も笑みが消えた。
「あいつらが本当に悪人だったら、手も足も出なかったよ」
生真面目に言う一樹。
「俺、喧嘩もしたことないし。たんに運がよかっただけさ。ぜんぶ運だよ。俺の力じゃない」
「運だって才能よ。こんな場所へ来て――って、私のせいだから、えらそうに言えないけど……」
いったん目をふせてから、また続ける。
「ちょっと変わってるけど、あんなに親切な人たちに出会って、助けてもらえて。本当なら野垂れ死んでたかもしれないのに、こうしてご飯まで食べて、布団で寝られるなんて。ほんと、世界一、運がいいわよ。こんな運がついてくるなんて、すごい才能じゃない」
言われて、一樹は皮肉な笑みを浮かべた。
「……俺の親父、ピアノ弾いてたんだ」
「えっ、そうなの?」
いきなり言われて、きょとんとする桃香。
「俺の親父だけあって不器用で、ピアノ弾くしか能がないくせに、結婚して子供を二人も作ってさ。まあお袋とは好きで一緒になったと思うけど、当然、生活は大変でさ。それでも親父、ピアノじゃ食えないから、ほかに必死にバイトして、生計を立ててたよ。
で、どうしてやりくりしたんだか、自分の車を持っててね。だもんだから、慣れないトラックの運ちゃんまでして、すぐ辞めて帰ってきたりして、お袋に愚痴ばっか言われて、それでだんだん酒の量が増えていってさ。結局、お袋は愛想つかして俺と弟を連れて出て行っちゃったんだけど。
で、俺は親父のその背中を見て、これは運転免許なんか取っちゃ絶対にダメだって思った。それだけじゃない、ちょっとでも仕事が出来たり、才能があると、俺は徹底的に利用されて、骨までしゃぶられて使い捨てられるぞ、と恐怖した。はっきりそう自覚はしなかったけど、たぶん子供心にそう思ったんだと思う」
桃香は、次第にけげんな顔になりながら、ずっと聞き入っている。彼がいったん口を切ると、風が外からテントの幕を静かに撫でる音がした。
「……それで、気がついたら俺、何も出来ないダメな奴になってた。勉強もダメ、運動もダメ。でも、なんでダメなのか、自分じゃ分からないんだよ、体が勝手にダメになっていくから。お袋に利用されたくなかったからだ、ってのは、あとで考えて分かったことだ。
あの、おん――あいつは、人間は利用して使い捨てるもんだと思っていた。あれの母親がそうしたから、自分も自動的にそうなってただけでさ。
しかも俺にとって致命的なのは、お袋には小さい頃から父親がいなくて顔も知らず、そのまま父親なしで大人になって、結婚してガキを作っちまったことだ。そうなると当然、長男の俺に、奴の受けた人生の負債が全部かかってくるんだ。早い話、俺を自分の父親にしようとしたんだよ、あいつは」
「そっ――そんなこと――」
驚いて思わず言いかけたが、彼は苦笑してさえぎった。
「不可能だよな、まともに考えたら。だけど、それをあいつはやろうとした。
俺は小さい頃から立派な容姿してたから、お袋の期待がとんでもなかったんだ。朝から晩まで顔を見るたびに、『カズは私の希望の星だ』とか、『絶対に立派になれ』って、しつこく呪文みたいに言われてね。本当にうんざりしたし、お袋といて安心したことなんて、ただの一度もなかった。風邪ひいたときさえ、看病されるのが、なんか怖かったくらいだ。
そして期待され、炊きつけられるほどに、俺はその真逆になっていった。テストで悪い点取ったり、学校でいじめにあってるのを、担任が良かれと思って親に教えたりさ。でも、俺がそういうかっこ悪いことをしたとわかると、奴はいつもキレて俺を罵ったり張り倒すんだが、こっちは体が身を守るために自動的にやってるから、どうしようもない。
まあ、それでもマシだったんだよ。もし期待通りに出来ちまったら、それは単にお袋の人生の恨みをあがなうためのもんだから、奴の思いつく限りの大変なことを次々に際限なくやらされて、終いには殺されたんじゃないかな。だって俺に何をさせようが、あいつにはしょせん関係ないことなんだから。俺は、あいつの単なる代わりで、あいつじゃなかったんだから。
要するに、本当はあいつが自分ですべきことを、俺がやらされそうになって、無意識に嫌がって反抗してただけなんだ。俺を思い通りにさせたところで、どこまで行っても満足するわけないのにさ。
でも、あいつもそれしか出来なかったんだ。そうするしか知らないからさ。使い捨てられたことしかないのに、どうやってまともに子育てできるんだって。あいつは、なにか問題が起きると、すぐ『仕方がない』って言うのが口癖だった。
だから俺は子供の頃から、何をされても運命だと思うことにしたんだ。必然的にそうなるシステムなんだから、逆らっても無駄だって。さっき言った、まさにそれは『運』なんだって。
まあ、そうは言っても、殴られりゃ痛いし、バカにされりゃ悲しいわけだから、子供じゃ身が持たないから、できるだけ何も感じないようになっていった。学校でも、朝から晩までぼうっとしてるし、体からイライラや不満がにじみ出て緊張してるわけだから、そんな不快な奴はいじめに遭って当然でね。小学校から高校まで、ずーっと惨めだった。今の大学は教室に縛られなくて済むから、少しはマシだけど。
それに、俺は自分ではまるでそう思わないけど、どうも見た目がいいらしくてさ。生まれてから今までに十回以上もそう言われたってことは、たぶん本当にそうなんだろ。
で、学校ではイケメンがひどい目にあうと、すごく喜ばれるんだよ。だから教室じゃ、バカにされるわ蹴られるわ、俺のほうも人の役に立ったことないから、これは冗談だ、遊びなんだと自分に言い聞かせて、ニヤけながらやられてたな。ほら、いじられキャラっているだろ。完全にいじめだったけど、建前はそういうことになってた。そうして俺は、自分を虫けら以下の存在に落とすことで、クラスの男どもの自尊心を高め、教室に貢献してたんだ」
「で、でも、クラスには女子だっていたでしょ?」
「女は敵だよ」
ついにらみ、あわてて目をそむける。
「女なんて、男よりもっとひどい。……いや、桃香は別だよ。ていうか、あの女――お袋が酷かっただけで、ほかの子には関係ないんだ。でも俺は、女といえばあいつしか知らないから、教室でもどこでも、女はみんなそう見えてもしょうがなかった」
「だ、誰も君に話しかけなかったの? 信じられない」
目を丸くして言い、つい「その顔で」と続けそうになってから続ける。
「だって、誰も見てないときだったら、関係ないじゃない。私がいたら、絶対に君をほっとかないよ。君みたいな子が、そんな目に遭わされてたら――」
「前も言ったろ、女は怖がって寄ってこないんだよ。俺からはいつも人を警戒させる暗いオーラが出てる。俺ほど人生から虐待されて、恨みつらみばかり心の底に濃縮させて溜めこんでるアブない奴はいないよ。君も、これ以上関わらないほうがいい。
感じるだろ、俺の周りには見えない壁がある。要するに、俺の全面にお袋が壁になって張りついてるのと同じで、誰もこの中にいる俺を見ることはないんだ。そうやって、ずっと生きてきたんだ」
そこで背を向けて、うつむく。肩が少しずつ震えてくる。鼻声になる。
「お、おかしいな。小さい頃はさ、殴られても、泥を食わされても平気で笑ってたのに。最近は、ほんと弱くなったよ。こ、このぐらいで、なんで、こんなに……」
すすり泣きが聞こえると、桃香は思わず彼を後ろから肩を抱きしめていた。その体はほのかに温かいが、肌は石のように硬くこわばっていた。人間だというのに、まるで電池切れ寸前のロボットが、体内の奥の一点から健気にわずかな熱をともしているようだった。
桃香は見る見る涙せんが崩壊した。その後ろ髪に濡れた頬を寄せると、一樹は力なくしゃくりあげた。
「ごめん、こ、こんなかっこ悪いとこ見せて……」
「いいよ、もう、いいよ……」
桃香も泣きながら、慰めるように言った。
「もう、ぜんぶいいんだよ。心配しないで。私がいるから。今はこうして、ずーっと君のそばにいるから……」
「ほ。ほんとうに……?」
「うん」
それきり、言葉はなくなった。一樹はただ、うつむいて泣き続け、桃香はそのわななく肩を、後ろからしっかりと抱きしめて泣きじゃくった。
泣き濡れる二人を、ランプの淡い光が優しく照らし、テントの幕に二人の影が揺らめいていた。それは一つになって見えた。
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