4 / 12
黎明事変 第三章「救い」
しおりを挟む
朝の光は曇っていた。硝子越しに淡く濁り、教室の空気は昨日よりわずかに重い。誰もが眠り足りない顔をしているのに、それを隠すようにいつも通りを演じていた。紅は窓際の席に座り、机に置かれた紙コップの紅茶を見つめていた。
ぬるくなった液面、その薄い琥珀の揺れ。舌の奥には、まだ昨夜の味がへばりつく――金属のような血の匂いと、焼けた空気の痕跡。まぶたの裏では、あの光景が何度も反転し、消えずに残っていた。
――影を斬った。鬼のような爪で。そして、笑っていた。
思い返すたび、胸の奥がひどく冷たくなる。あの“笑い”が本当に自分のものだったのか、それとも何かが自分の内側で別の顔をしていたのか――判別できない。心の奥で、何かがずれたまま戻らない。「見られた」記憶だけが、皮膚の下で疼いていた。
そのとき、紅の机の前に影が落ちた。蓮見が立っていた。制服の袖をきちんと整え、湖面のように静かな瞳だけが朝の光を受け止めて揺れている。その静けさが、なぜか紅には少し怖かった。
「……神原さん。」
声は柔らかいのに、芯が通っている。紅は顔を上げられなかった。呼吸が浅くなる。言葉にすれば、触れてはいけない何かが壊れてしまいそうだった。
「昨日のこと、覚えてる?」
うなずこうとしたが、喉が固まって動かなかった。代わりに、自分の指先を見た。爪の根に、まだ昨夜の赤い光がほんのわずかに滲んでいる。消えない――これは“証”だ。
「……私、あのとき……何をしてたの?」
蓮見は息をひとつ整えて言った。
「あなたは――戦ってた。でも、あれは人間の力じゃなかった。」
紅の肩が震えた。その言葉は、紅が見ないふりをしていたものを静かに照らし出す。まるで、蓮見が鏡をこちらに向けてきたようだった。
蓮見は制服の裾をそっと持ち上げた。腰のあたり、黒革の鞘。そこに祓印刀が静かに眠っている。鋼の線が、朝の光にかすかにきらめいた。
「私は退魔士。祓刀院からこの町に派遣されてきた。理の歪みを鎮めるのが役目。――だから、あなたを監視下に置く。」
紅の胸が痛んだ。それはたしかに正しい判断なのに、どうしようもなく悲しかった。
また“見張られる側”になる……。私は誰かの視線の中でしか、生きられない。そんな考えが、胸の奥で静かにひび割れていく。
「……私が、危険だから?」
蓮見は首を横に振った。
「危険というより――不安定。あなたの中の“何か”が理を揺らしている。でもね、私はあなたを祓いたくない。」
紅は顔を上げた。蓮見の瞳はまっすぐで、そこには恐怖ではなく、痛みに似た優しさが宿っていた。
「共に在るために、見届けたいの。あなたが何者であっても。」
その言葉が、紅の胸の奥にゆっくり沈んでいく。救いではない。けれど、孤独をわずかに和らげる温度だった。
紅はそっと息を吸った。窓の外では朝靄がまだ薄く残り、世界がぼんやりと滲んで形を変えている。誰かに見られているような――それでも、もう逃げたくないような気がした。この人の視線は、優しい。
朝の鐘が鳴った。その音は、厳かに、そして淡く校舎に広がっていった。
◇
午後の理科準備室。
ゆらぐ陽光がガラス器具の影を壁に映し、その波がゆっくりと脈を刻む。
フラスコの中で揺れる光は、液体の表面に微かな呼吸を与え、世界そのものが巨大な観測装置になったように見えた。
御影は黒板の前に立ち、チョークを細い指で転がしていた。
その白が、一瞬だけ鋭い音を立てて黒を裂く。
「――理とは、世界のルールそのもの。すべての事物は理に縛られている。観測されて初めて“在る”と定義される。」
チョークが滑り、三本の線が現れる。現実、余白、そして境界膜。それらは細い糸で結ばれた図にすぎないのに、紅にはその震えが、まるで本物の呼吸のように見えた。
「理が揺らげば、世界は呼吸を乱す。昨夜の“影”はその結果。余白から滲み出た、未定義の存在――」
紅は思わず息を詰めた。黒い影の残像が瞼の裏でかすかに反転し、胸の奥で“誰かに見られていた”感覚が再び息を吹き返す。――あの夜と同じだ。輪郭の外側から、世界が静かに触れてくる。
「……先生。」
蓮見の声が、空気の層をひとつ変えた。
「あなた、どこまで知っているんですか?」
御影は指を止め、振り返って微笑んだ。
「あなたのことも、その背後に在るものも知っているわ。祓刀院、退魔の技術、人が理に干渉する方法。観理院では、それらは長く議論の対象だったの。」
「観理院……?」
紅が呟く。御影は静かに頷いた。
「理を観測し記録するための組織よ。私は“少しだけ”関わっていた。今は独立して、理の乱れを研究しているの。」
蓮見は眉を寄せ、慎重に言葉を選ぶ。
「じゃあ……あなたも“理”を知っている人、なんですね。」
「知っている。でも“理解している”とは限らない。」
御影の声は柔らかいのに、どこか深い影を落としていた。
「理は、見れば見るほど遠ざかるものだから。」
紅は黙って聞いていた。自分だけが置いていかれていくような感覚。世界が、誰かの言語で書き換えられていくような気配。
御影は黒板に一本の縦線を描き、そこへ数字を記す。
「理には階層があるの。人が住む層を第一層とするなら――」
チョークの音が静寂に溶け、祈りにも似た間が落ちる。
「第二層には“神秘・伝承存在”。理の隙間、未定義の余白を覗ける者たち。彼らは、観測されながらも同時に観測する。だからこそ、恐れられるの。」
紅は思わず自分の手を見る。爪の根が、ごくわずかに赤く光っている。その光が黒板に映る自身の影を、薄く染めていた。
「第三層には“神”がいる。理の構造を定義し、書き換える存在。神とは本来、人が物語にした神ではなく、“観測そのもの”よ。」
蓮見は息をのむ。
「じゃあ……神って、ただ“見ている”存在なんですか?」
御影は小さく微笑んだ。
「ええ。見続ける者。観測し続けることで世界を保つ。けれど、その視線が絶えた瞬間――世界は崩れる。」
教室の空気がわずかに軋む。紅の脳裏で、鈴の音がかすかに鳴った気がした。
――世界が、自分を見ている。
御影はチョークを置き、手についた粉を払った。
「その上位には、名のない層がある。世界そのもの――“観測の器”。私たちは、その最下層を歩いているに過ぎない。」
紅はその図を見上げた。細い線が遠い呼吸のように揺れ、視界の奥で形を変えていく。
「……夢を見るんです。」
自分の声が震えているのがわかった。
「角のある子。綺麗な顔の……美しい少年。“世界が君を呼んでいる”って、そう言ってました。」
御影の目がわずかに揺れた。その瞬間、空気がひとつ沈む。
「美少年の鬼、ね……」
静かな呟き。
「昔話の中にあったはずよ。大江山に住み、源氏の武人に退治されたという鬼――哀しい伝承。」
「……御伽噺、ですか?」
「そう。けれど、記録の残らない話ほど、むしろ“余白の底”に沈んでいる。」
御影は微笑みを戻す。
「夢があなたを選ぶのは偶然じゃない。理は記憶をも持つ。人が忘れたものを、世界が時々呼び起こすの。」
紅は目を伏せる。胸の奥で、また鈴の音が微かに鳴った気がした。
御影の視線が、紅の指先に落ちる。爪の根に宿る淡い赤光――昨夜の名残。その色を見た途端、御影の表情が変わった。
「……その反応は、人間だけでは起こらない。」
紅は息を呑む。蓮見の手が祓印刀へ伸びる。御影は黒板の層の図へ触れながら、静かに告げた。
「神原さん。あなたは――鬼の血を継いでいるわ。理に触れたときだけ反応する、“第二層”の血。」
紅の胸が跳ねた。蓮見の瞳に、一瞬だけ影が落ちる。
「恐れることはない。鬼といっても、伝承の怪物ではない。世界の余白に“触れる者”――それが本来の意味よ。」
御影は紅にまっすぐ視線を向ける。
「“世界が君を呼んでいる”、そう言われたのなら、世界があなたを求めているのね。それは恐怖でもあるけれど――"進化"の兆しかもしれない。」
御影は口元に笑みを浮かべる。
"進化"――そんなものを望んだ覚えはない。世界の視線に晒されて、なぜだかこうなってしまっただけ。御影の笑みを受け止める術を知らず、目線を逸らすように俯いた。
◇
放課後の街。夕日が淡く雲を照らす。
紅と蓮見は、並んで歩いていた。
「昨日の夜から、町がおかしいの。靄がかかってる……」
紅が小さく呟く。蓮見は首を傾げた。
「靄?」
「見えないの? そこ、ほら……あの向こう。」
蓮見には何も見えなかった。ただの空気。けれど、紅の目には確かに見えている。光の粒が滞り、空気が不自然に折れ曲がる場所。
「……余白が、滲んでる。」
蓮見は息をのんだ。理の歪みは、痛みのように肌でわかる。見えなくても、世界の底で何かが軋んでいる。
「行ってみよう。」
やがて、夜の帳が降りる。理の呼吸が、わずかに乱れていく。町外れの廃ビル街。かつて事務所や倉庫だった建物が、無秩序に並んでいる。割れた窓硝子が月光を歪め、壁に貼られた古い看板が、風もないのに軋んだ。
人通りはない。あるのは、冷えたコンクリートと、使われなくなった時間の匂いだけ。路地裏に入った瞬間、空気が変わる。
「……ここ。」
紅が足を止め、ゆっくりと息を吸い込む。蓮見には、やはり何も見えない。だが、紅の瞳は一点に焦点を結んでいた。光の粒が淀み、建物と建物のあいだで、現実の縫い目が静かに緩んでいる。
「理が……ほつれてる。」
紅の声は、わずかに震えていた。蓮見は腰の祓印刀に手を添える。黒革の鞘は冷たく、内側で微かな光が応えた。
刃は理を修復するための器。だが同時に、それは“消す”ための道具でもある。
路地の奥で、空き缶がひとつ転がった。誰も触れていないのに、金属音だけが遅れて響く。
「行こう。」
その一言を境に、二人は、路地の先へ踏み込んだ。音が消える。風が止み、足音が地面に届かなくなり、世界そのものが、わずかに水面の底へ沈んだように歪んだ。空気が、ぬるい。湿った水を肺に流し込むような重さが、胸にまとわりつく。
――そこに、“いた”。
影ではない。形を持たない人の名残、声と記憶だけが寄り集まったような存在が、透明な靄の奥で、呼吸するように蠢いている。
最初に動いたのは、足元に転がっていた空き缶だった。誰も触れていないのに、乾いた金属音を立てて転がり、次の瞬間、見えない力に引きずられるように宙へ跳ね上がる。
「――来る!」
蓮見が低く声を落とし、同時に祓印刀を抜いた。刃が白く閃く。振り下ろされた瞬間、空気の中に一本の線が走った。音はない。けれど確かに、何かが断たれた感触があった。
空き缶は、まるで操り糸を失った人形のように、勢いを失って落下し、軽い音を立てて地面を転がった。続けざまに、路地の隅で砕けていたガラス片が震え出す。
月光を反射しながら、無数の破片が刃物のように宙を舞う。
「紅、下がって!」
蓮見は一歩踏み込み、今度は横一文字に祓印刀を振るった。
白光が、空間そのものを撫でる。次の瞬間――舞い上がっていたガラス片が、一斉に力を失った。
軌道を描いていた破片は、重力を思い出したようにばらばらと落ち、足元のアスファルトに散乱する。操っていた“意思”だけが、空中から剥がれ落ちた。
紅は息を呑む。……祓うというのは、こういうなのかと。
だが――それで終わりではなかった。
路地の奥で看板が弾丸のように引き剥がされた。
金属が悲鳴を上げ、固定具が千切れ、看板は回転しながら一直線に飛来する。避ければ背後の建物を砕き、直撃すれば、人の身体など容易く潰す質量。
「――っ!」
紅は地面を蹴った。考える前に、体が動いていた。距離が潰れる。世界が、前へ引き寄せられる。踏み込みと同時に、爪が振るわれる。衝撃が、波となって空間を走った。
――鈍い音。
看板は正面から裂け、鉄板が歪み、支柱がねじ切れ、質量そのものが意味を失って崩れ落ちる。砕けた鉄片が地面に叩きつけられ、火花が一瞬だけ散った。
紅は着地し、息を荒く吐いた。考えてるより前に、体が動いていた。血が熱い。胸の奥で、何かが歓声を上げている。
消えかける理性の端で、紅は奥に潜む靄を見た。
人の形に似た、半透明の塊が、ゆっくりと震えていた。
輪郭は定まらず、大人の腕のようにも、幼い背中のようにも見える。触れれば崩れそうで、それでも確かに“在る”。そこから、風に溶けるような声が滲み出る。
――いたい。
――さむい。
――こわい。
言葉というより、感情そのものが音になったような響きだった。
その瞬間、蓮見の動きが止まった。祓印刀を構えたまま、呼吸が胸の奥で詰まり、刃を包む白光が、わずかに揺らぐ。
これは、……苦しいだけの存在。
理の歪み、世界を蝕む原因。祓えば、正しく消える。祓えば、理は戻る。しかし――それは、”これ”を消すことだった。刃は、下ろされなかった。
「……これ、人間なの……?」
紅の震える問いに、蓮見は答えられない。胸の奥で、信じてきた“正義”が、ぎしりと軋む音を立てて歪んでいく。
紅は、爪を握りしめた。喉の奥が焼ける。斬りたい衝動と、斬ってはいけないという理性が、胸の内で正面から衝突する。
「祓えば、理は戻る……」
蓮見の声は、かすれていた。
「でも、その瞬間――この声の主は、消える」
紅は首を振った。
「……消したくない」
その言葉は、答えではなく、拒絶だった。
蓮見は、ゆっくりと刀を下ろした。その所作は、戦闘の終わりではなく、誰かの前で膝を折る動きに近かった。
靄の中の人影は、抵抗することなく、少しずつ輪郭を失っていく。斬られたのではない。祓われたのでもない。ただ、力を失い、世界に溶け戻っていく。
空気が、戻る。
宙に浮いていた物が地面へ落ち、遮断されていた音が、遅れて世界へ帰ってくる。
――理が、静かに沈静化していく。
紅は膝に手をつき、荒い呼吸を吐いた。爪は、まだ熱を残していた。壊すこともできた。壊さなかった――その事実だけが、重く残る。
蓮見は、祓印刀を見つめたまま、震える声で呟いた。
「……祓うことが、救いじゃないなんて……」
紅は顔を上げる。
蓮見の横顔は、どこか遠くを見つめていた。信じてきた正義が、音もなく崩れていく、その瞬間を。
夜風が、二人のあいだを通り抜ける。
鈴の音が、微かに鳴った。
それは、世界がもう一度、呼吸を思い出した合図のようだった。
◇
夜が、ゆっくりと明けはじめていた。紅と蓮見は、公園のベンチに並んで座っている。夜露が肌に触れ、冷たさが制服の裾にじんわりと染み込む。わずかに残った靄が風にほどけ、世界が少しずつ色を取り戻していった。
「……理の歪み、消えたね。」
紅が、ぽつりと呟く。
「ええ……でも、きっと、また起こる。」
蓮見は膝を抱え、ぼんやりと空の端を見つめていた。夜と朝の境界が揺れ、世界が再び呼吸を始める気配が漂っている。
そのとき――遠くで、始発電車がレールを鳴らした。
静まり返っていた空気が、わずかに震えた。紅はその音を聴き、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
異形の声でも、理の軋みでもない。ただ、現実の音。世界が戻ってきた音だった。
「私たち、何をしてるんだろうね。祓うことも、助けることもできないなんて。」
紅の声は、草の匂いとともに風に溶けた。
蓮見は少し間を置いて、静かに口を開く。
「……ねえ、神原さん。……いや……紅」
呼びかけた声は、いつになく柔らかかった。
「祓うことって、ずっと正しいと思ってた。世界を守るために、必要な行為だって。でも……今日、少し分からなくなったよ。」
二人の影のそばで、朝露がぽたりと落ちる。その小さな現実の音が、この夜が終わったことを静かに告げていた。
紅が、蓮見を見る。夜明けの光が、彼女の横顔を淡く染めている。制服越しに、祓印刀の痕がかすかに浮かんでいた。
「“祓う”って、正しさと同じ言葉だと思ってた。でも、祓うたびに世界は少しずつ静かになって……声が、減っていく気がするの。
あの“たすけて”の声も、理の乱れも。もしかしたら、それも世界の一部だったんじゃないかって。」
紅は息を呑んだ。その言葉が、心の奥の柔らかい場所に触れる。
「……それでも、祓わないと現実は壊れるんじゃないの?」
蓮見は、小さく首を振った。
「壊れるのが怖いから、祓う。でも、“怖い”って、悪いことなのかな。恐怖って、生きている証だよ。世界だって、私たちだって、きっと“揺らぎながら在る”ものなんだと思う。」
紅の瞳が揺れる。
心臓の奥で、誰かが小さく頷いた気がした。……怖いまま、在ってもいいのだろうか。
その問いは、まだ言葉にならないまま、胸の底に沈む。
「……あなたは、怖くないの?」
蓮見が問う。
紅は、しばらく黙ってから答えた。
「怖い。でも、恐怖を拒絶したくない。そうしないと、何も分からない気がするから。」
沈黙。
風が吹く。
夜の匂いと、朝の匂いが交ざる。
二人は同時に空を見上げる。雲の向こうで、夜明けの光が世界を縫い始めていた。
蓮見の唇が、かすかに動く。
「……祓うことが、正しさじゃないなら。私は、何を信じていけばいいんだろう。」
紅は、その言葉を受け止めるように、ゆっくりと顔を上げた。
「――信じるんじゃなくて、見届けるのかも。」
蓮見が、目を瞬いた。
紅の声は震えていた。けれど、その震えの奥には、確かな熱があった。
「壊したいのも、怖いのも、全部“在る”ってことだと思うから。」
蓮見は何も言わなかった。ただ、その言葉を胸の中で繰り返す。
世界は、揺らぎながら在る。祓うよりも、見続ける勇気を持つこと。
公園を渡る風が、二人の髪を撫でた。朝の光が差し込み、灰色の空が淡い青へと変わっていく。
それはまるで――新しい理が、静かに息をしているようだった。
◇
深夜。
御影玲瓏は、自室の机に向かっていた。モニターに流れる理の波を示す線が、呼吸のように揺れている。電子の光が、瞳の奥で脈打っていた。
その傍らに、ひとつの鈴が置かれている。古びた銀色。ほとんど音を失って久しい、小さな器。
御影は指先でそれを弾いた。音は鳴らない。けれど、空気がわずかに震え、壁の向こうへ波紋が走る。
その中心で、蝶のような黒い影が羽を震わせた。影は実体を持たず、理の余白に浮かんでいる。世界の“裏面”を漂う観測の残響――それが、彼女の“窓”だった。
「理視(りし)――起動。」
御影の声に応じるように、影が淡く光を帯びる。世界の裏側が、静かに開いた。
夜の公園。
ベンチに座る、ふたつの影――紅と蓮見。
御影は片目を閉じる。視界が反転した。もうひとつの世界が、瞳へ流れ込んでくる。現実が溶け、余白の呼吸が視神経を満たす。音はなく、ただ理の律動だけが聴こえていた。
紅の姿が、遠い夢の中のように揺れている。肩のあたりで赤い光が脈打ち、理の乱流が、まだ彼女を包んでいた。
だが――崩壊はしていない。
「……安定している。」
御影は、ごく小さく息をついた。
「鬼の血を……制御しはじめている。ならば、層を超える可能性がある。」
唇に、冷たい笑みが浮かぶ。
それは純然たる歓喜――理を“理解する”ことを超え、理と“同化する”ための衝動だった。
「進化の予兆。人が、観測される側から観測する側へ移行する。」
御影は息を吸い、胸の奥に微かな熱を感じる。かつて誰も見たことのない世界。神が存在証明を人に委ねた、空白の領域。
そこへ至るためなら、自分の肉体すら不要だと――彼女は、本気でそう思っていた。
モニターに映る紅の輪郭が、微かに滲む。瞳の奥で光が渦を巻いた。
その色は夜明けの色――光が映り込んだだけにすぎない。
けれど、御影にはそれが“理の啓示”に見えた。
「観測と実在が融合する。世界は、次の段階へ進むわ。」
指先が、机の鈴を撫でる。金属の冷たさが皮膚に染み、感覚の境界が、ゆっくりと曖昧になっていく。
「――やはり、あなたが鍵。神原紅。あなたの進化が、世界を新しい理へ導く。」
御影は、再び鈴を弾いた。今度は、音が鳴った。
それは耳には届かないほどの微音だったが、余白の底で、確かな波紋が広がっていく。
窓の外で風が起き、カーテンが、わずかに揺れた。
理視の像が、ふっと消える。闇の中に残ったのは、鈴の、かすかな残響だけ。
――その響きの奥で。
“何か”が、
彼女を見返していた。
ぬるくなった液面、その薄い琥珀の揺れ。舌の奥には、まだ昨夜の味がへばりつく――金属のような血の匂いと、焼けた空気の痕跡。まぶたの裏では、あの光景が何度も反転し、消えずに残っていた。
――影を斬った。鬼のような爪で。そして、笑っていた。
思い返すたび、胸の奥がひどく冷たくなる。あの“笑い”が本当に自分のものだったのか、それとも何かが自分の内側で別の顔をしていたのか――判別できない。心の奥で、何かがずれたまま戻らない。「見られた」記憶だけが、皮膚の下で疼いていた。
そのとき、紅の机の前に影が落ちた。蓮見が立っていた。制服の袖をきちんと整え、湖面のように静かな瞳だけが朝の光を受け止めて揺れている。その静けさが、なぜか紅には少し怖かった。
「……神原さん。」
声は柔らかいのに、芯が通っている。紅は顔を上げられなかった。呼吸が浅くなる。言葉にすれば、触れてはいけない何かが壊れてしまいそうだった。
「昨日のこと、覚えてる?」
うなずこうとしたが、喉が固まって動かなかった。代わりに、自分の指先を見た。爪の根に、まだ昨夜の赤い光がほんのわずかに滲んでいる。消えない――これは“証”だ。
「……私、あのとき……何をしてたの?」
蓮見は息をひとつ整えて言った。
「あなたは――戦ってた。でも、あれは人間の力じゃなかった。」
紅の肩が震えた。その言葉は、紅が見ないふりをしていたものを静かに照らし出す。まるで、蓮見が鏡をこちらに向けてきたようだった。
蓮見は制服の裾をそっと持ち上げた。腰のあたり、黒革の鞘。そこに祓印刀が静かに眠っている。鋼の線が、朝の光にかすかにきらめいた。
「私は退魔士。祓刀院からこの町に派遣されてきた。理の歪みを鎮めるのが役目。――だから、あなたを監視下に置く。」
紅の胸が痛んだ。それはたしかに正しい判断なのに、どうしようもなく悲しかった。
また“見張られる側”になる……。私は誰かの視線の中でしか、生きられない。そんな考えが、胸の奥で静かにひび割れていく。
「……私が、危険だから?」
蓮見は首を横に振った。
「危険というより――不安定。あなたの中の“何か”が理を揺らしている。でもね、私はあなたを祓いたくない。」
紅は顔を上げた。蓮見の瞳はまっすぐで、そこには恐怖ではなく、痛みに似た優しさが宿っていた。
「共に在るために、見届けたいの。あなたが何者であっても。」
その言葉が、紅の胸の奥にゆっくり沈んでいく。救いではない。けれど、孤独をわずかに和らげる温度だった。
紅はそっと息を吸った。窓の外では朝靄がまだ薄く残り、世界がぼんやりと滲んで形を変えている。誰かに見られているような――それでも、もう逃げたくないような気がした。この人の視線は、優しい。
朝の鐘が鳴った。その音は、厳かに、そして淡く校舎に広がっていった。
◇
午後の理科準備室。
ゆらぐ陽光がガラス器具の影を壁に映し、その波がゆっくりと脈を刻む。
フラスコの中で揺れる光は、液体の表面に微かな呼吸を与え、世界そのものが巨大な観測装置になったように見えた。
御影は黒板の前に立ち、チョークを細い指で転がしていた。
その白が、一瞬だけ鋭い音を立てて黒を裂く。
「――理とは、世界のルールそのもの。すべての事物は理に縛られている。観測されて初めて“在る”と定義される。」
チョークが滑り、三本の線が現れる。現実、余白、そして境界膜。それらは細い糸で結ばれた図にすぎないのに、紅にはその震えが、まるで本物の呼吸のように見えた。
「理が揺らげば、世界は呼吸を乱す。昨夜の“影”はその結果。余白から滲み出た、未定義の存在――」
紅は思わず息を詰めた。黒い影の残像が瞼の裏でかすかに反転し、胸の奥で“誰かに見られていた”感覚が再び息を吹き返す。――あの夜と同じだ。輪郭の外側から、世界が静かに触れてくる。
「……先生。」
蓮見の声が、空気の層をひとつ変えた。
「あなた、どこまで知っているんですか?」
御影は指を止め、振り返って微笑んだ。
「あなたのことも、その背後に在るものも知っているわ。祓刀院、退魔の技術、人が理に干渉する方法。観理院では、それらは長く議論の対象だったの。」
「観理院……?」
紅が呟く。御影は静かに頷いた。
「理を観測し記録するための組織よ。私は“少しだけ”関わっていた。今は独立して、理の乱れを研究しているの。」
蓮見は眉を寄せ、慎重に言葉を選ぶ。
「じゃあ……あなたも“理”を知っている人、なんですね。」
「知っている。でも“理解している”とは限らない。」
御影の声は柔らかいのに、どこか深い影を落としていた。
「理は、見れば見るほど遠ざかるものだから。」
紅は黙って聞いていた。自分だけが置いていかれていくような感覚。世界が、誰かの言語で書き換えられていくような気配。
御影は黒板に一本の縦線を描き、そこへ数字を記す。
「理には階層があるの。人が住む層を第一層とするなら――」
チョークの音が静寂に溶け、祈りにも似た間が落ちる。
「第二層には“神秘・伝承存在”。理の隙間、未定義の余白を覗ける者たち。彼らは、観測されながらも同時に観測する。だからこそ、恐れられるの。」
紅は思わず自分の手を見る。爪の根が、ごくわずかに赤く光っている。その光が黒板に映る自身の影を、薄く染めていた。
「第三層には“神”がいる。理の構造を定義し、書き換える存在。神とは本来、人が物語にした神ではなく、“観測そのもの”よ。」
蓮見は息をのむ。
「じゃあ……神って、ただ“見ている”存在なんですか?」
御影は小さく微笑んだ。
「ええ。見続ける者。観測し続けることで世界を保つ。けれど、その視線が絶えた瞬間――世界は崩れる。」
教室の空気がわずかに軋む。紅の脳裏で、鈴の音がかすかに鳴った気がした。
――世界が、自分を見ている。
御影はチョークを置き、手についた粉を払った。
「その上位には、名のない層がある。世界そのもの――“観測の器”。私たちは、その最下層を歩いているに過ぎない。」
紅はその図を見上げた。細い線が遠い呼吸のように揺れ、視界の奥で形を変えていく。
「……夢を見るんです。」
自分の声が震えているのがわかった。
「角のある子。綺麗な顔の……美しい少年。“世界が君を呼んでいる”って、そう言ってました。」
御影の目がわずかに揺れた。その瞬間、空気がひとつ沈む。
「美少年の鬼、ね……」
静かな呟き。
「昔話の中にあったはずよ。大江山に住み、源氏の武人に退治されたという鬼――哀しい伝承。」
「……御伽噺、ですか?」
「そう。けれど、記録の残らない話ほど、むしろ“余白の底”に沈んでいる。」
御影は微笑みを戻す。
「夢があなたを選ぶのは偶然じゃない。理は記憶をも持つ。人が忘れたものを、世界が時々呼び起こすの。」
紅は目を伏せる。胸の奥で、また鈴の音が微かに鳴った気がした。
御影の視線が、紅の指先に落ちる。爪の根に宿る淡い赤光――昨夜の名残。その色を見た途端、御影の表情が変わった。
「……その反応は、人間だけでは起こらない。」
紅は息を呑む。蓮見の手が祓印刀へ伸びる。御影は黒板の層の図へ触れながら、静かに告げた。
「神原さん。あなたは――鬼の血を継いでいるわ。理に触れたときだけ反応する、“第二層”の血。」
紅の胸が跳ねた。蓮見の瞳に、一瞬だけ影が落ちる。
「恐れることはない。鬼といっても、伝承の怪物ではない。世界の余白に“触れる者”――それが本来の意味よ。」
御影は紅にまっすぐ視線を向ける。
「“世界が君を呼んでいる”、そう言われたのなら、世界があなたを求めているのね。それは恐怖でもあるけれど――"進化"の兆しかもしれない。」
御影は口元に笑みを浮かべる。
"進化"――そんなものを望んだ覚えはない。世界の視線に晒されて、なぜだかこうなってしまっただけ。御影の笑みを受け止める術を知らず、目線を逸らすように俯いた。
◇
放課後の街。夕日が淡く雲を照らす。
紅と蓮見は、並んで歩いていた。
「昨日の夜から、町がおかしいの。靄がかかってる……」
紅が小さく呟く。蓮見は首を傾げた。
「靄?」
「見えないの? そこ、ほら……あの向こう。」
蓮見には何も見えなかった。ただの空気。けれど、紅の目には確かに見えている。光の粒が滞り、空気が不自然に折れ曲がる場所。
「……余白が、滲んでる。」
蓮見は息をのんだ。理の歪みは、痛みのように肌でわかる。見えなくても、世界の底で何かが軋んでいる。
「行ってみよう。」
やがて、夜の帳が降りる。理の呼吸が、わずかに乱れていく。町外れの廃ビル街。かつて事務所や倉庫だった建物が、無秩序に並んでいる。割れた窓硝子が月光を歪め、壁に貼られた古い看板が、風もないのに軋んだ。
人通りはない。あるのは、冷えたコンクリートと、使われなくなった時間の匂いだけ。路地裏に入った瞬間、空気が変わる。
「……ここ。」
紅が足を止め、ゆっくりと息を吸い込む。蓮見には、やはり何も見えない。だが、紅の瞳は一点に焦点を結んでいた。光の粒が淀み、建物と建物のあいだで、現実の縫い目が静かに緩んでいる。
「理が……ほつれてる。」
紅の声は、わずかに震えていた。蓮見は腰の祓印刀に手を添える。黒革の鞘は冷たく、内側で微かな光が応えた。
刃は理を修復するための器。だが同時に、それは“消す”ための道具でもある。
路地の奥で、空き缶がひとつ転がった。誰も触れていないのに、金属音だけが遅れて響く。
「行こう。」
その一言を境に、二人は、路地の先へ踏み込んだ。音が消える。風が止み、足音が地面に届かなくなり、世界そのものが、わずかに水面の底へ沈んだように歪んだ。空気が、ぬるい。湿った水を肺に流し込むような重さが、胸にまとわりつく。
――そこに、“いた”。
影ではない。形を持たない人の名残、声と記憶だけが寄り集まったような存在が、透明な靄の奥で、呼吸するように蠢いている。
最初に動いたのは、足元に転がっていた空き缶だった。誰も触れていないのに、乾いた金属音を立てて転がり、次の瞬間、見えない力に引きずられるように宙へ跳ね上がる。
「――来る!」
蓮見が低く声を落とし、同時に祓印刀を抜いた。刃が白く閃く。振り下ろされた瞬間、空気の中に一本の線が走った。音はない。けれど確かに、何かが断たれた感触があった。
空き缶は、まるで操り糸を失った人形のように、勢いを失って落下し、軽い音を立てて地面を転がった。続けざまに、路地の隅で砕けていたガラス片が震え出す。
月光を反射しながら、無数の破片が刃物のように宙を舞う。
「紅、下がって!」
蓮見は一歩踏み込み、今度は横一文字に祓印刀を振るった。
白光が、空間そのものを撫でる。次の瞬間――舞い上がっていたガラス片が、一斉に力を失った。
軌道を描いていた破片は、重力を思い出したようにばらばらと落ち、足元のアスファルトに散乱する。操っていた“意思”だけが、空中から剥がれ落ちた。
紅は息を呑む。……祓うというのは、こういうなのかと。
だが――それで終わりではなかった。
路地の奥で看板が弾丸のように引き剥がされた。
金属が悲鳴を上げ、固定具が千切れ、看板は回転しながら一直線に飛来する。避ければ背後の建物を砕き、直撃すれば、人の身体など容易く潰す質量。
「――っ!」
紅は地面を蹴った。考える前に、体が動いていた。距離が潰れる。世界が、前へ引き寄せられる。踏み込みと同時に、爪が振るわれる。衝撃が、波となって空間を走った。
――鈍い音。
看板は正面から裂け、鉄板が歪み、支柱がねじ切れ、質量そのものが意味を失って崩れ落ちる。砕けた鉄片が地面に叩きつけられ、火花が一瞬だけ散った。
紅は着地し、息を荒く吐いた。考えてるより前に、体が動いていた。血が熱い。胸の奥で、何かが歓声を上げている。
消えかける理性の端で、紅は奥に潜む靄を見た。
人の形に似た、半透明の塊が、ゆっくりと震えていた。
輪郭は定まらず、大人の腕のようにも、幼い背中のようにも見える。触れれば崩れそうで、それでも確かに“在る”。そこから、風に溶けるような声が滲み出る。
――いたい。
――さむい。
――こわい。
言葉というより、感情そのものが音になったような響きだった。
その瞬間、蓮見の動きが止まった。祓印刀を構えたまま、呼吸が胸の奥で詰まり、刃を包む白光が、わずかに揺らぐ。
これは、……苦しいだけの存在。
理の歪み、世界を蝕む原因。祓えば、正しく消える。祓えば、理は戻る。しかし――それは、”これ”を消すことだった。刃は、下ろされなかった。
「……これ、人間なの……?」
紅の震える問いに、蓮見は答えられない。胸の奥で、信じてきた“正義”が、ぎしりと軋む音を立てて歪んでいく。
紅は、爪を握りしめた。喉の奥が焼ける。斬りたい衝動と、斬ってはいけないという理性が、胸の内で正面から衝突する。
「祓えば、理は戻る……」
蓮見の声は、かすれていた。
「でも、その瞬間――この声の主は、消える」
紅は首を振った。
「……消したくない」
その言葉は、答えではなく、拒絶だった。
蓮見は、ゆっくりと刀を下ろした。その所作は、戦闘の終わりではなく、誰かの前で膝を折る動きに近かった。
靄の中の人影は、抵抗することなく、少しずつ輪郭を失っていく。斬られたのではない。祓われたのでもない。ただ、力を失い、世界に溶け戻っていく。
空気が、戻る。
宙に浮いていた物が地面へ落ち、遮断されていた音が、遅れて世界へ帰ってくる。
――理が、静かに沈静化していく。
紅は膝に手をつき、荒い呼吸を吐いた。爪は、まだ熱を残していた。壊すこともできた。壊さなかった――その事実だけが、重く残る。
蓮見は、祓印刀を見つめたまま、震える声で呟いた。
「……祓うことが、救いじゃないなんて……」
紅は顔を上げる。
蓮見の横顔は、どこか遠くを見つめていた。信じてきた正義が、音もなく崩れていく、その瞬間を。
夜風が、二人のあいだを通り抜ける。
鈴の音が、微かに鳴った。
それは、世界がもう一度、呼吸を思い出した合図のようだった。
◇
夜が、ゆっくりと明けはじめていた。紅と蓮見は、公園のベンチに並んで座っている。夜露が肌に触れ、冷たさが制服の裾にじんわりと染み込む。わずかに残った靄が風にほどけ、世界が少しずつ色を取り戻していった。
「……理の歪み、消えたね。」
紅が、ぽつりと呟く。
「ええ……でも、きっと、また起こる。」
蓮見は膝を抱え、ぼんやりと空の端を見つめていた。夜と朝の境界が揺れ、世界が再び呼吸を始める気配が漂っている。
そのとき――遠くで、始発電車がレールを鳴らした。
静まり返っていた空気が、わずかに震えた。紅はその音を聴き、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
異形の声でも、理の軋みでもない。ただ、現実の音。世界が戻ってきた音だった。
「私たち、何をしてるんだろうね。祓うことも、助けることもできないなんて。」
紅の声は、草の匂いとともに風に溶けた。
蓮見は少し間を置いて、静かに口を開く。
「……ねえ、神原さん。……いや……紅」
呼びかけた声は、いつになく柔らかかった。
「祓うことって、ずっと正しいと思ってた。世界を守るために、必要な行為だって。でも……今日、少し分からなくなったよ。」
二人の影のそばで、朝露がぽたりと落ちる。その小さな現実の音が、この夜が終わったことを静かに告げていた。
紅が、蓮見を見る。夜明けの光が、彼女の横顔を淡く染めている。制服越しに、祓印刀の痕がかすかに浮かんでいた。
「“祓う”って、正しさと同じ言葉だと思ってた。でも、祓うたびに世界は少しずつ静かになって……声が、減っていく気がするの。
あの“たすけて”の声も、理の乱れも。もしかしたら、それも世界の一部だったんじゃないかって。」
紅は息を呑んだ。その言葉が、心の奥の柔らかい場所に触れる。
「……それでも、祓わないと現実は壊れるんじゃないの?」
蓮見は、小さく首を振った。
「壊れるのが怖いから、祓う。でも、“怖い”って、悪いことなのかな。恐怖って、生きている証だよ。世界だって、私たちだって、きっと“揺らぎながら在る”ものなんだと思う。」
紅の瞳が揺れる。
心臓の奥で、誰かが小さく頷いた気がした。……怖いまま、在ってもいいのだろうか。
その問いは、まだ言葉にならないまま、胸の底に沈む。
「……あなたは、怖くないの?」
蓮見が問う。
紅は、しばらく黙ってから答えた。
「怖い。でも、恐怖を拒絶したくない。そうしないと、何も分からない気がするから。」
沈黙。
風が吹く。
夜の匂いと、朝の匂いが交ざる。
二人は同時に空を見上げる。雲の向こうで、夜明けの光が世界を縫い始めていた。
蓮見の唇が、かすかに動く。
「……祓うことが、正しさじゃないなら。私は、何を信じていけばいいんだろう。」
紅は、その言葉を受け止めるように、ゆっくりと顔を上げた。
「――信じるんじゃなくて、見届けるのかも。」
蓮見が、目を瞬いた。
紅の声は震えていた。けれど、その震えの奥には、確かな熱があった。
「壊したいのも、怖いのも、全部“在る”ってことだと思うから。」
蓮見は何も言わなかった。ただ、その言葉を胸の中で繰り返す。
世界は、揺らぎながら在る。祓うよりも、見続ける勇気を持つこと。
公園を渡る風が、二人の髪を撫でた。朝の光が差し込み、灰色の空が淡い青へと変わっていく。
それはまるで――新しい理が、静かに息をしているようだった。
◇
深夜。
御影玲瓏は、自室の机に向かっていた。モニターに流れる理の波を示す線が、呼吸のように揺れている。電子の光が、瞳の奥で脈打っていた。
その傍らに、ひとつの鈴が置かれている。古びた銀色。ほとんど音を失って久しい、小さな器。
御影は指先でそれを弾いた。音は鳴らない。けれど、空気がわずかに震え、壁の向こうへ波紋が走る。
その中心で、蝶のような黒い影が羽を震わせた。影は実体を持たず、理の余白に浮かんでいる。世界の“裏面”を漂う観測の残響――それが、彼女の“窓”だった。
「理視(りし)――起動。」
御影の声に応じるように、影が淡く光を帯びる。世界の裏側が、静かに開いた。
夜の公園。
ベンチに座る、ふたつの影――紅と蓮見。
御影は片目を閉じる。視界が反転した。もうひとつの世界が、瞳へ流れ込んでくる。現実が溶け、余白の呼吸が視神経を満たす。音はなく、ただ理の律動だけが聴こえていた。
紅の姿が、遠い夢の中のように揺れている。肩のあたりで赤い光が脈打ち、理の乱流が、まだ彼女を包んでいた。
だが――崩壊はしていない。
「……安定している。」
御影は、ごく小さく息をついた。
「鬼の血を……制御しはじめている。ならば、層を超える可能性がある。」
唇に、冷たい笑みが浮かぶ。
それは純然たる歓喜――理を“理解する”ことを超え、理と“同化する”ための衝動だった。
「進化の予兆。人が、観測される側から観測する側へ移行する。」
御影は息を吸い、胸の奥に微かな熱を感じる。かつて誰も見たことのない世界。神が存在証明を人に委ねた、空白の領域。
そこへ至るためなら、自分の肉体すら不要だと――彼女は、本気でそう思っていた。
モニターに映る紅の輪郭が、微かに滲む。瞳の奥で光が渦を巻いた。
その色は夜明けの色――光が映り込んだだけにすぎない。
けれど、御影にはそれが“理の啓示”に見えた。
「観測と実在が融合する。世界は、次の段階へ進むわ。」
指先が、机の鈴を撫でる。金属の冷たさが皮膚に染み、感覚の境界が、ゆっくりと曖昧になっていく。
「――やはり、あなたが鍵。神原紅。あなたの進化が、世界を新しい理へ導く。」
御影は、再び鈴を弾いた。今度は、音が鳴った。
それは耳には届かないほどの微音だったが、余白の底で、確かな波紋が広がっていく。
窓の外で風が起き、カーテンが、わずかに揺れた。
理視の像が、ふっと消える。闇の中に残ったのは、鈴の、かすかな残響だけ。
――その響きの奥で。
“何か”が、
彼女を見返していた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる