黎明事変

由良ゆらら

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黎明事変 第四章「獣」

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ある夜、紅はベッドに入り座っていた。もう眠りにつこうという刻限。紅は、窓の外にぼんやりと広がる闇に、言葉にならない違和感を覚えていた。晴れたはずの靄が、いつのまにか薄く戻っている。……また、理が揺らいでいるようだった。
胸の奥で、赤い疼きがひとつ、静かな部屋の中に脈を打った。

同じころ。
御影玲瓏の理視は、夜の底でかすかな脈動を捉えていた。沈静化したはずの理の波が、再び細かく揺れはじめている。その中心に、淡い残光のように――神原紅の名が浮かんだ。
「……紅が揺らげば、世界も揺らぐ。そして揺らいだ世界は、恐怖に“居場所”を与えはじめる。」
呟きは闇に溶けていく。世界は静けさを装ったまま、再び小さな歪みを抱え込みはじめていた。

胸の疼きが収まらないまま、紅は布団に身を沈めた。部屋は暗く、外の街灯だけが窓を細く照らしている。戻った靄が、夜の輪郭を曖昧にしていた。
……眠れない。まぶたを閉じても、赤い脈動が、指先の感覚として微かにある。あの影を斬った夜の感触が、薄皮の下でゆっくりと目を覚ましつつあった。
そのとき、電話が、静かに震えた。――蓮見澪。
紅は息を飲む。嫌な予感というよりも、“呼ばれている”感覚だった。余白の底から、何かがまたこちらを覗き込んでいる。通話を開くと、蓮見の声が、抑えた息に混じって届いた。
「……紅? ごめん、こんな時間に。でも、ちょっと……変な感じがするの。町の北側。廃ビルの近く。あなたにも……感じるはず。」
胸が跳ねた。確かに、遠くの空気が揺れている。耳ではなく、骨の奥で聴く、不自然な波――理の呼吸。
「……行かなきゃ、だめな気がする。」
紅は、自分でも驚くほど静かな声で答えていた。怖かった。けれど、目をそらしたら、もっと怖くなる気がした。靴を履き、家を出る。夜の風は冷たいはずなのに、皮膚の内側のほうが、ひどく冷えていた。街灯の光が揺らぎ、影が、ひとつ分だけ遅れてついてくる。世界が深く沈むほど、闇の気配は濃くなり、町そのものが呼吸をひそめていく。
紅は歩きながら、小さく息を整えた。――怖かった。しかし、行かないという選択肢は心に浮かばなかった。薄暗い路地を抜ける。夜は深く。空は漆黒に染まりつつあった。
やがて――蓮見の言っていた廃ビルが、静かな闇の奥に、輪郭を現した。



神原紅は、廃ビルの屋上に立っていた。足元のコンクリートが微かに震えるたび、理の歪みが皮膚を撫でていく。風が吹かない。鈴の音もしない。まるで世界そのものが、呼吸を忘れているようだった。
冷たい。それでも――彼女の内側のほうが、もっと冷たかった。――また、あの夜が来る。
胸の奥がざわつく。あの影を斬ったとき、笑っていた自分。爪の感触、血の匂い、崩れた世界。思い出すたび、心の奥で何かが軋んだ。
あの時、世界は――美しかった。壊す瞬間、世界は光に満たされた。痛みも悲鳴も消え、ただ静かで、透きとおっていた。
その静けさが、いまも指先に残っている。恐怖と安堵が絡み合う。壊したくなかったのに、壊すことでしか、生きている実感を掴めなかった。
「……怖いの?」
背後から、蓮見澪の声がした。祓印刀を腰に下げたまま、凛とした立ち姿で紅を見ている。制服の袖を整える仕草だけが、まだ彼女を“人の世界”につなぎとめているように見えた。
「怖い、っていうより……戻りたくない。」
「どこに?」
「“壊すほう”に。」
蓮見はわずかに目を細め、夜の気配が滲む空を見た。薄い雲が、世界の皮膜のように流れている。
「怖いのは、生きてる証よ。怖くなくなったら、それこそ終わり。」
「……怖いまま、生きていてもいいの?」
「ええ。人も、鬼も。」
紅は小さく息を吐いた。胸の奥で、かすかに何かがほどける音がした。けれど、それはまだ遠い。恐怖は形を変えながら、心の底で静かに息を潜めている。逃げても、拒んでも、世界のどこかで――必ず待っている。
怖いままでも、歩いていけるんだろうか。紅にはわからなかった。

――そのときだった。
遠くで、空が裂けるような音がした。乾いた光が走り、ビルの窓が一斉に震える。風が戻る。音のない風。夜の底から、理の“息”が吹き上がってきた。紅と蓮見は、同時に顔を上げる。世界の端で、何かが――形を得ようとしていた。

空気が、軋んだ。見えない境界がひとつ、音を立てて崩れる。地面が波打つ。電線が揺れ、街灯の光が膨らんでは潰れた。時間が引き延ばされ、空気の層が逆流する。――理が、剥がれている。
灰赤の霧が、地面から滲み出した。それは、世界の裏面から血が染み出すようだった。闇の奥に、かろうじて光の糸が一本だけ残る。紅は、その糸を辿るように、一歩踏み出した。
「……来る。」
声が、わずかに震えた。蓮見は祓印刀を抜き、即座に結界を展開する。白光が空間を走り、無数の印が青く瞬いた。――だが、風は吹かない。音も、世界から失われていた。霧の中心で、何かが立ち上がる。
――“人”ではない。それは、見られることを渇望する影。世界の焦点が、一瞬だけ狂う。灰赤の半透明の肌。そこを走る赤い光脈。一本、折れた角。裂けた制服の断片。虚ろな瞳の奥で、血のような赤が燻っている。紅は、息を呑んだ。――自分に、似ていた。
「どうして、見てくれないの?」
飢鬼(きき)が、口を開く。
「こわいの? わたしが、あなたと同じだから?」
恐怖の象徴、現代が生んだ鬼――飢鬼。その声は、紅の声に酷似していた。音ではない。心の底へ、直接触れてくる声。
「っ……あなたは、誰……?」
「あなたよ。壊したいのに、壊したくない。」
飢鬼の口元が、歪んで笑う。
「見られたくないのに、見てほしい。そんな矛盾を、抱えたまま息をしている――あなた。」
冷たいものが、紅の背筋を撫でた。否定しようとするほど、胸の奥が痛む。飢鬼はゆっくりと、紅の歩幅に合わせるように前へ出る。鈴の音に似た、低い共鳴が世界の底で鳴った。
「わたしは飢えている。見られたい。見られて、確かめられて、壊して――それでようやく、“在る”って思える。」
その言葉が、紅の喉を締めつけた。胸の奥で、何かが共鳴している。飢鬼の声が、内側から反響してくる。
「あなたも、そうでしょう? 斬ったとき、気づいた。壊す瞬間が――息をしてるみたいに、気持ちよかった。」
「違う……」
心が、必死に否定する。けれど、身体の奥のどこかが、静かに頷いていた。壊すという行為の中に、確かに“生”があった。
怖かったのは、破壊じゃない。その快楽を――美しいと思ってしまった、自分自身だった。
「……やめて。」
紅は一歩、退こうとする。だが、足が動かない。視線が、身体を縫いとめていた。
「あなたの手が震えたのは、恐怖じゃない。喜びよ。世界を壊せるかもしれない、甘い予感。」
「黙って……!」
紅が叫ぶ。その瞬間、飢鬼が嗤った。裂けた唇の奥で、白い歯が光を反射する。
「怖いんでしょ? でも――本当は、壊したい。理の檻も、自分自身も。」
灰赤の影が、爆ぜるように広がる。蓮見が結界を張り直すが、光は一瞬で砕け散った。理の波が反転し、音が歪む。
「紅、下がって!」
蓮見の声が震えた。だが、紅は答えない。ただ――見ていた。――そこに立つ、“自分”を。飢鬼の瞳に、紅自身が映っている。それは、見られる恐怖と、見たい衝動の交差点。紅は、唇を強く噛んだ。
「見て。それで、壊して。壊さなきゃ、あなたは“誰”にもなれない。」
「私は、あなたを認めない。でも――“あなた”を見ない限り、私は、前に進めない。」
その瞬間、紅の胸の奥で、音が跳ねた。赤い光が爪の先から滲み、皮膚を裂く。血の代わりに、光が流れる。
「……っ――!」
紅の瞳が、赤く染まる。恐怖と痛みと、甘美な破壊衝動。心臓が、世界の鼓動と同じ速度で打ち始めた。
風が止む。鈴の音が途切れる。
その沈黙の中で、二つの影が――同時に動いた。



衝突――その瞬間、空気が軋んだ。爪と腕が交差し、光と音が同時に弾け、裂けた空間の隙間から数式めいた紋様が零れ落ちる。それは理そのものが悲鳴を上げる音であり、現実が自分の形を保てなくなった証だった。
紅の視界が、白く塗り潰される。痛み、熱、そして――高揚。息を吸うたび、胸の奥で何かが打ち鳴らされ、恐怖と快楽の境界線が、音もなく溶けていった。
「やめろっ……!」
叫んだ声が、自分のものだったのかさえ分からない。飢鬼の影が重なり、爪が頬を掠め、衝突のたびに火花のような理波が散る。血の代わりに、光が飛び散った。
「嘘つき。」
飢鬼の声が、内側に直接触れる。
「斬るとき、あなた――笑ってたよ。」
「違う……あれは……」
「怖かった? うれしかった?」
声が、わざと間を置く。
「どっちでもいい。どちらも“あなた”だから。」
言葉が、頭蓋の内側で反響する。飢鬼は微笑んでいた。その表情は、なぜかひどく悲しげだった。
紅は爪を振り抜く。理の膜が破れ、砕けた定義が光の雨となって降り注ぐ。
だが――飢鬼の腕が、紅の頬を裂いた。熱い。確かな痛み。それなのに、涙は出ない。胸の奥で、何かが、確かに笑っていた。壊す喜び、生きる喜びと似ている。でも――壊してしまったら、私は、何者として“生きた”と言えるんだろう。
「ほら、ね。」
飢鬼の声は、囁きに近い。
「壊すのは、怖くない。怖いのは、“壊したあと”に何も残らないこと。」
「……やめて。」
「あなた、見られるのが嫌なんでしょう?」
言葉が、刃のように正確だった。
「だから、自分を壊してでも、“見られなく”なりたい。そうすれば、誰にもあなたを知られない。誰にも、傷つけられない。」
紅の指が、震える。胸の奥が、ひどく冷たい。飢鬼の声は、優しすぎて、痛かった。この声を拒んだら――私は、自分を否定することになる。
「――黙れっ!」
叫びが炸裂する。理層が波打ち、浮き上がった瓦礫が空中で軋む。飢鬼の身体が弾かれる。だが、すぐに形を取り戻す。
「でも、それじゃあ――誰にも“赦されない”。」
静かな声。
「ねぇ、紅。あなたは、赦されたいんじゃないの?」
その一言で、胸がひどく痛んだ。
赦し――その言葉が、心の奥を掻き乱す。赦されたい? 誰に? 世界に? あの夜の自分に?
「赦されたい……?」
呟いた声は、壊れそうだった。飢鬼が近づく。瞳の奥の赤が、わずかに揺れる。
「赦してほしいのは、自分自身。壊したいのも、自分自身。」
距離が、潰れる。
「ねぇ――だから、わたしを斬って。わたしを壊して、それでやっと“あなた”になれる。」
紅は、息を呑んだ。その言葉は、刃よりも鋭い。
「あなたを……斬ったら、私は――」
「あなたになる。」
飢鬼が微笑む。その笑みが、紅のそれと重なった。恐怖と安堵が、区別のつかない感情として胸に溢れる。
紅は拳を握る。爪が、掌に深く食い込んだ。頭の奥で、何かが軋む。
世界が、自分を見ている。飢鬼の瞳も、確かに自分を映している。――逃げ場は、なかった。理の光が崩れ、周囲の景色が水面のように波打つ。紅の視界が滲み、現実と余白の境界がほどけていく。
飢鬼が紅の耳元で囁く。
「壊して。見て。赦して。」
囁きが、重なる。
「わたしを――あなたを。」
その声が溶けた瞬間、紅の意識は、音を立てて断ち切られた。
世界が白く染まり、音が遠のく。
そして彼女は――“夢”を見る。



――静寂。
宙に漂っていた。上下も時間も失われ、ただ無数の光の粒だけが、雪のように静かに舞っている。紅は、理解する。――これは、誰かの記憶だ。
その中で、鈴の音が鳴った。遠く、幾重もの層を越えて届く微かな響き。耳ではなく、魂の奥を直接震わせる音だった。
光が、ゆっくりと形を成す。現れたのは、見知らぬ宴の間。金襖の向こうで影が揺れ、人々の笑い声と盃を打ち合わせる音が重なり合う。甘い酒の匂いと、鉄を含んだ血の匂いが混ざり、空間に沈殿していた。
座敷の中央に、一人の男が座していた。少年のような面差し。額から伸びる二本の角。美しく、そしてどこか哀しみを宿した眼差し。
大江山の鬼、酒呑童子。
その身に流れる血が、紅の中にも確かに流れている。彼の瞳が、まっすぐに紅を捉えた。まるで最初から、そこに紅がいることを知っていたかのように。
「……きみが、見ているのか。」
声は穏やかで、静かだった。彼はゆっくりと盃を掲げ、わずかに微笑む。その笑みには敗北も恐怖もなく、ただ“受容”だけがあった。彼の手には、源頼光から渡された毒杯がある。盃の中の酒は深い紅色を湛え、月光を映して揺れていた。
「人は、鬼を恐れる。だが、鬼もまた人を恐れている。恐れ合う世界では、いずれ理がひび割れる。ならば――この血を赦そう。憎しみの輪の外へ、静かに沈むことにする。」
彼は盃を口に運ぶ。飲めば死ぬと知っていながら、その動作に迷いはなかった。
毒が血を伝い、頬が紅潮し、唇が紫に染まっていく。それでも彼は、微笑みを失わなかった。
「壊すことしかできないなら――せめて、その壊れを赦してやれ。」
床が、低く震える。扉の向こうから、頼光と四天王の影が近づいてくる。酒呑童子は静かに立ち上がり、深く首を垂れた。その瞳には、確かに夜明けの光が映っていた。
「頼光。おまえが斬るなら、わたしは笑おう。憎しみの果てにも、朝は来る。世界がまた、鬼を望むなら――」
刃が閃く。音はなかった。ただ、鈴の音だけが、世界の底で鳴った。
その瞬間――紅の手の中に、“何か”が落ちた。細く、白く、淡い光を宿した刃の欠片。彼女はそれを強く握りしめる。掌に刻まれた名を、確かに感じ取った。
『鬼斬丸(おにきりまる)』
刀の記憶が、奔流のように流れ込む。
血と、赦しと、沈黙の連なり。“斬る”ためではなく、“静める”ための刃。その意味が、紅の心の最深部へと、ゆっくり染み込んでいく。
酒呑童子が、もう一度紅を振り向いた。首を斬られた後でさえ、その微笑みは崩れていない。
「見なくても、在る。赦しとは、沈黙を受け入れることだ。」
その言葉が、紅の中に溶けていく。光が弾け、宴の間が音もなく崩れ落ちた。
紅の身体が浮かび上がり、再び現実へと引き戻されていく。鈴の音が、幻視の境を震わせる。世界が、現実の形を思い出す。
――世界が、戻ってくる。

風が吹いた。
紅は、地面に膝をついていた。飢鬼も膝をつき、紅を見つめている。
紅の瞳の奥で、夜明けの色――黎明色が、静かに滲んでいた。
「……わたしを見て……」
紅の唇が、わずかに動く。幻視の余韻が、言葉となって零れ落ちた。
「見なくても、もう在るよ。」
その言葉は祈りのように溶け、世界は、再び息をした。

「それで……いい。わたしは、あなたの中に戻る。」
飢鬼の声が微かに震えた。しかし、どこか静寂に満ちていた。
「……その刀は、触媒。”赦し”を執り行う儀礼の刃」
紅は息を吸う。掌の中に微かな熱。童子の幻視で見たあの刃――その欠片が、皮膚の下で鼓動している。黎明色の脈が指先を通って、世界へ溶け出す。
紅の胸の奥で、何かが形を取った。黎明色の線が絡まり合い、掌の上にひとつの刃を編む。透明な刀身。内部を流れる光は、静かな朝の息吹のように穏やかだった。紅はその名を知っていた。
「――鬼切丸。」
名を呼んだ瞬間、風景が震えた。空の光が裂け、地平が応えた。理が音を立てて動き出す。世界が、再び呼吸を始める。
紅は刀を握る。刃先がかすかに震え、黎明色の光が脈打つ。まるで、世界そのものが彼女の手の中で息づいているかのようだった。風が吹いた。光が揺れた。紅はその中心に、静かに歩み寄った。
「壊すんじゃない。静めるだけ――」
紅は刀を掲げた。斬るためではない。還すために。
「壊すんじゃない……静めるんだ。」
その一閃は、何も斬らなかった。けれど確かに、“境界”を断った。飢鬼の光が弾け、粒子が風に溶けていく。涙のような輝きが空に昇り、静かに消える。黎明色の光が奔り、空へと昇る。音が消え、世界が光に包まれる。
理の波が収まり、空間が穏やかに整う。光が静かに沈み、世界がひとつの呼吸を取り戻した。鈴の音が、再び鳴った。それは遠くの祠で風に揺れる音にも似ていた。
紅は刀を下ろし、静かに息を吐いた。胸の鼓動と、世界の鼓動が同じリズムで響いている。
――見なくても、もう在る。
紅は微笑んだ。その笑みは、涙よりも穏やかだった。
空が明るむ。黎明色が空一面に広がっていく。風が吹き、世界が息をしている。
紅は刀を胸に抱いた。その刃は、もう光を帯びていなかった。けれど、確かに温かかった。
――恐怖も破壊も私の中に在る。でも、私はそれを赦す。
黎明の光が街を包み込む。それは夜と朝の境界、世界が“自分を赦す”瞬間の色だった。

静寂が、戻ってきた。
空気が穏やかに揺れ、遠くで鳥の声がかすかに響く。風が地面を撫で、漂っていた光の粒が、ゆっくりと散っていく。それはまるで、世界が“呼吸”を思い出した証のようだった。
紅は、その場に膝をついた。力が抜け、全身が鉛のように重い。けれど、不思議と苦しさはなかった。胸の奥に残っているのは痛みではなく、静かな温もり。心臓がゆっくりと拍動するたび、世界がそれに応える。その確かな感覚が、波のように胸を満たしていった。
ふと視線を落とすと、すぐ傍に蓮見が倒れていた。祓印刀の刃は欠け、結界符の一部が黒く焦げている。紅は膝を引きずるように近づき、その身体をそっと抱き起こした。
「澪……」
呼びかけに、わずかな反応が返る。蓮見は目を細め、かすかな息とともに、微笑んだ。
「……泣いて、たね。あの鬼……」
紅は、言葉を失ったまま、ただ頷く。言葉よりも先に、涙がこぼれ落ちた。その雫が蓮見の手に触れ、淡く光を宿す。
「祓えなかった……」
蓮見は、息を整えるように続ける。
「でも、あの子……穏やかだった」
「ええ」
紅は、静かに応えた。
「とても……静かに、消えました」
「……祓わなかったことが、怖い」
声が、わずかに震える。
「けど、それだけじゃ……終わらせられなかった」
言葉は、そこで途切れた。
紅はその頭を支えたまま、夜明けの空を見上げる。淡い光が雲の隙間を縫い、世界の輪郭を薄く照らしていく。壊れかけていた夜が、ゆっくりと朝へ溶けていくのがわかった。



遠く――研究室。
モニターの光がひとつ瞬く。御影玲瓏のレンズが、わずかに光った。その瞳の奥で、理の波形が静かに反転していた。
「観測が、動いた……。」
「――理層を越えたのね、神原紅。」
彼女の声は、歓喜にも似た震えを帯びていた。
御影は静かに眼鏡を外し、ポケットにしまう。その動作は、まるで世界との境界を外す儀式のようだった。
彼女は言葉を発しなかった。ただ、その瞳は、第二層の存在の証、赤――人ならざる者のそれだった。



飢鬼が斬られた場所に、御影は立っていた。
紅の刃が通り抜けた軌跡――そこに漂うのは、黎明の色。世界が“赦し”を知った、わずかな呼吸の残響。御影玲瓏は、その場に立ち尽くし、光を見つめていた。
焦げたアスファルト。血と灰の匂い。その中心で、空気の層だけが静かに歪んでいる。
指先を伸ばす。触れた瞬間、何かが微かに震えた。――欠片。掌に宿るそれは、光でも熱でもなかった。定義される前の理。紅が“観測をやめた瞬間”に生じた、世界そのものの呼吸。御影は、かすかに笑った。
「……美しいわね。沈黙が、形になるなんて。」
瞳に、黎明の色が映る。理の揺らぎが眼球を透かし、彼女の内側へと、ゆっくり滲み込んでいく。
遠くで、鈴が鳴った。風もないのに、透明な音がひとつ。
紅が消えた後も、理はまだ呼吸を続けている。――世界が、自分を見つめ直そうとしている。
そのとき、御影の胸にひとつの確信が生まれた。この欠片は、世界の観測構造そのもの。紅と飢鬼が互いを見つめ、存在を変え合った瞬間――世界は「他者を通して自分を観測する」という、新たな理を生んだのだ。
「紅。あなたが見なかったものを、私は見てみたい。」
声は、風よりも静かに夜へ溶けた。彼女の手の中で、欠片が微かに脈打つ。黎明の光が肌を這い、血のように、薄く透けていく。

その夜、御影の研究室に灯りがともった。黒板に数式が走り、白線が円環を描く。幾何学模様の中心に、鏡と波紋。そして――ひとつ、黎明の欠片が埋め込まれる。
それは観測される“世界”を、逆に世界へ見せるための器。
「世界は、私を通して自分を見る。」
その言葉は、祈りのようであり、同時に、狂気の宣言でもあった。理層がわずかに波打ち、部屋の輪郭が、ゆっくり曖昧になる。彼女は微笑む。穏やかに。幸福そうに。
「世界を人の下僕に落とす――それが、“理層反転”の正体。」
鈴の音が、最後にひとつ鳴った。風は止み、光は閉じる。
黎明の欠片が、静かに脈を打つ。
それは――世界が再び“自分を観測する”ために得た、新しい心臓の音だった。
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