黎明事変

由良ゆらら

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黎明事変 第五章「夜空」

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夜。紅はベランダに立っていた。
街の灯りが遠くに散り、世界は薄い膜の向こう側にあるように静かだった。紅は手すりに触れ、その冷たさを確かめる。その感触だけが、まだ“ここの世界”に自分が立っている証のように思えた。
――あの頃の私なら、この静けさすら恐れていただろう。
胸の奥を掘り起こすように、恐怖がじわりと滲み出してくる。見られている恐怖。背中に貼りつく、世界の視線。誰かに見られるたび、自分が何者かに変えられていくような痛み。
そして、もうひとつ。初めて鬼になった夜。影を裂いた瞬間に走った“快感”。血が歓び、骨が歌い、破壊そのものが呼吸のように自然で――その自然さが、何より恐ろしかった。……あのとき、私は壊すことを欲していた。壊す自分を、止められなかった。
風がひとすじ、頬を撫でた。その触れ方が、やけに優しい。紅は息を吐き、目を閉じる。
飢鬼の瞳が浮かぶ。“見てほしい”と叫ぶ自分の影。それは、壊すしか知らなかった頃の自分と、どこか重なって見えた。
そして――あの瞬間。
「見なくても、もう在るよ。」
口にした言葉が、今も胸の奥で鈴のように震えている。壊すことでも、祓うことでもなく、“存在を肯定する”という選択。あれは飢鬼だけでなく、自分自身に向けた赦しでもあったのだと、今ならわかる。
――けれど。……それでも。恐怖も、破壊したい気持ちも、まだ消えてはいない。
胸がじくりと痛んだ。身体のどこかに、まだ鬼の血の熱が残っている。それを消したいわけじゃない。否定したいわけでもない。ただ――飲み込まれたくない。世界の視線を受け入れながら、自分を失わずに立つ。それが“赦す”ということなんじゃないか……。
目を開く。夜景が、わずかに滲んだ。赦しは、優しいだけのものじゃない。痛みも、恐怖も、衝動も抱えたまま、それでも前に立ち続ける強さのことだ。紅は手すりを強く握りしめる。
「……大丈夫。」
心は揺れている。しかし、消えてはいない。
風が揺れ、空のどこかで、鈴がひとつ鳴った気がした。それが気のせいでも、意味のある音でも、どちらでもいい。
赦しの道は、まだ途中だ。恐怖と破壊衝動の両方を抱えながら、紅は静かに立っていた。世界の視線が、もう怖くなかった。
――いや。
怖いままでいても、立っていられるようになったのだ。



夜。人気の無い商店街を蓮見は歩いていた。
町は、昼間よりも、乾いて見えた。灯りはなく、閉じられたシャッターだけが、風に合わせて微かに揺れている。
澪は祓印刀をそっと抜き、指先で刃の影をなぞった。冷たさは確かにある。けれど、そこにかつて感じていた“正しさ”の気配は、もうなかった。……私は、どこで間違えたんだろうか。
祓うことは救い。それ以外の選択肢など、考えたこともなかった。でも――紅は違った。
あの飢鬼の前で、紅は斬るのではなく、赦しを選んだ。涙を浮かべ、震えながら、それでも「見なくても在る」と言った。
あれを見てしまったら……もう、祓うだけの自分には戻れない。
胸の奥が、重く沈む。祓いは、自分の生き方そのものだった。師から教わり、刀に誓い、その正しさを疑う理由など、今まで一度もなかったのに。でも、あのとき私は――紅を斬れなかった。
夜の校庭。半ば鬼と化した彼女を前に、刀はどうしても振れなかった。そこに、“人の涙”を見つけてしまったから。それは、祓刀院で教わったどんな正義よりも確かな事実で、その瞬間から、澪の中の“祓う正しさ”は、音もなくひび割れていた。
風が吹き、落ち葉を無造作に散らす。澪は、ゆっくりと顔を上げた。
じゃあ……私は、何を守ればいい? 祓いを失った私は、何を信じて立てばいいの?
世界の形が変質し、心の足場が崩れていく音がした。ほんの少しだけ、涙がこぼれそうになる。
紅は……怖かったのに、それでも赦した。あの子は、自分の恐怖ごと受け入れたんだ。その強さが、痛いほど眩しい。けれど同時に、胸が締めつけられる。
……あの子に、全部背負わせるのか? 私は何もできないまま、ただ見ているだけ?
無力さが、静かに胸を圧した。怪異を赦す力も、世界を静める力も、紅のような“言葉”も持っていない。
刀を握れば、できるのは祓うことだけ。そして、その祓いは、もう正義ではなくなってしまった。
私は……どうすれば、あの子の隣に立てる?
そのとき、「祈り」という言葉が、ふと胸に降りてきた。祈り――祓いと違い、“結果を求めない行為”。でも、祈るだけで何かが変わるのだろうか。ただ願うことに、意味はあるのか。影の中で、祓印刀の輪郭が揺れる。刀の影は細く震え、消えかけていた。
……紅の赦しを見てしまった私が、もう“祓う”を選ばないのなら。その代わりに、私ができることは――。
答えは、まだ言葉にならない。弱く、形を持たず、霧のように揺れている。けれど、確かにそこにあった。
忘れないこと。あの子が赦した瞬間の光を、私が覚えていること。
胸に、ほんの少しだけ灯りが差す。それは力ではなく、弱さの中から生まれた、かすかな光だった。風が町を抜け、紅のほうへ吹き抜けていく気がした。澪は刀を仕舞い、静かに目を閉じる。
「……紅。あなたが怖がった夜も、赦したあの光も、全部覚えてる。それだけは――私にもできる。」
その呟きは夜に吸い込まれたが、彼女の足元には、確かな一歩が刻まれていた。



夜の研究室。御影はそこに居た。
窓の外は静まり返り、世界が呼吸をひとつ忘れたまま、止まっているようだった。御影は、机に置かれた黎明色に輝くの欠片を見つめていた。欠片の周囲の空気が、かすかに揺れている。
……紅。あなたの中に現れた、あの光は――何だったの?
指先を額に当て、目を閉じる。飢鬼との交差点で見た“黎明色”が、脳裏の奥で、静かに脈打った。
観測者である自分は、本来ならば、その光を数式と論理に分解し、理解すべき存在だ。けれど――
胸の奥で、小さな疼きが囁く。
あれは……理解ではない。観測でもない。もっと違う、私の知らない“温度”だった。
そのとき、ふと、記憶が疼いた。草を撫でながら笑った、あの人の声。――「消えることが、在ることの証明なのに。」
御影は、わずかに眉をひそめる。観測を続けるほど、彼の輪郭が薄れていった、あの苦い日々が蘇った。
私は……誰かを“理解したい”と思うたびに、観測してしまう。観測すれば、壊れてしまうのに。
机の上のノートに、視線を落とす。《観測者は独立であり、孤独である。》
その一文が、胸の奥に深く刺さった。孤独は、研究の副作用ではなかった。観測という生き方そのものが、御影を孤独へと押し込み続けてきたのだ。
……なのに、紅は。
視線が、わずかに揺れる。あの子は、観測される痛みで震えているのに……それでも、赦そうとしていた。“見なくても在る”と言えた。理解できない。けれど、羨ましいほどに、美しい。
御影は、胸元を押さえた。そこには、観測では決して埋まらない“欠け”があった。
もし……世界そのものが、私を観測してくれたなら。この欠けは、消えるのかしら?
その思考が、危険であると気づきながらも――それは否定されることなく、静かに、心の底へ沈んでいった。
風が、研究室を横切った。夜だというのに、風が動いた“痕跡”だけが、そこに残る。
御影は、顔を上げた。紅も、澪も……今夜、揺らいでいるのだろうか。
理解ではなく。観測でもなく。
ただ、同じ世界に呼吸する者として感じられる距離。御影は、思わず微笑んだ。
「……いいわ。」
一度、間を置いてから、静かに言葉を継ぐ。
「いまだけは――観測を、やめてみましょう。」
欠片が揺れ、世界が、一拍遅れて震えた。



夜は深く、世界の輪郭がゆっくりと溶けはじめる時間帯だった。
ベランダ、商店街、研究室――離れた三つの場所で、三人の呼吸が、まだ互いを知らぬまま、静かに重なろうとしていた。

紅は、恐怖と破壊衝動の残滓を胸に抱えたまま、赦しの光を探すように、夜景を見つめていた。
澪は、正義を失った空洞にそっと手を当て、何を寄る辺にすべきか迷いながら、それでも紅の存在を思い浮かべていた。
御影は、観測の孤独に身を沈め、触れれば壊れてしまいそうな“温度”を、胸の奥へ押し込めていた。

三人は互いを知らない。
けれど――その心の最深部で揺れている“痛み”の震えだけは、不思議なほど、同じ高さで重なっていた。その瞬間だった。夜空のどこか遠く、風と光の境界で――微かな鈴の音が、ひとつだけ鳴った。澄んだ音ではない。はかなく、触れれば消えてしまいそうな、小さな響き。けれど、その音は確かに、三人それぞれの胸へ、異なる角度から落ちていった。

紅の胸では、その音が恐怖を震わせ、震えごと抱きしめるための“静かな決意”へと変わった。
澪の胸では、その音が迷いの空洞に、小さな灯りをともした。“覚えている”という、祈りにも似た予兆として。
御影の胸では、その音が孤独の奥で鈍く反響し、“観測をやめる”という、未知の感覚に、そっと触れさせた。

三者の抱える痛みは違っていた。恐怖、迷い、孤独――本来なら交わらないはずの三つの影が、鈴の音を媒介に、ただ一度、同じ深度へと沈んでいく。まるで世界のどこかが、ほんのわずかだけ夜を緩め、その痛みを受け止めたかのように。
紅は、風の動きに目を細め、澪は、静かに息を吸い込み、御影は、そっとノートを閉じた。
理由はわからない。けれど三人とも――胸の奥に、ひとつの“予感”を抱いていた。
この痛みは、やがて光に変わる。この揺らぎは、やがて黎明へと続いていく。
鈴の音は、もう聞こえない。しかし、その残響だけが、世界の底で、静かに呼吸していた。
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