黎明事変

由良ゆらら

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断章「神原紅――世界の呼吸――」

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――最初に、光がひとつ、息をした。
それは眼で見る光ではなく、耳で聴く音でもない。世界の奥の奥――誰も触れたことのない深層で震えた、とても小さな呼吸だった。その呼吸が、私の胸の奥にも響いたとき、私は自分が“形を失っていく”のを静かに感じた。
輪郭がほどけ、重さが消え、色が離れ、名前が遠ざかる。
けれど、不思議と恐怖はなかった。むしろ、世界に溶けていく感覚は、「ようやく息ができる」という安堵に近かった。
『――私は、まだ“私”のまま?』
問いかけは霧に吸い込まれ、戻ってこない。声はもうないのだと気づく。けれど、“声を発したいという衝動”だけは残っていた。
そうやって私は、「人としての神原紅」としての最後の時間を確かめていた。



世界の深層は、驚くほど静かだった。
理層の奥底――御影玲瓏が“世界そのものに見られようとした”場所。その最果てに、私は漂っていた。ここには言語も、音響も、時間もない。あるのはただ、観測前のすべてだけ。
人が言葉にする前の想い。姿を持つ前の影。祈る前の願い。泣く前の痛み。笑う前のくすぐり。それらが灰白色の霧として、ふわりと漂っていた。
『こんな場所に、私は……。』
そのときだった。霧の奥から、すこし懐かしい痛みが滲んだ。――見られる痛み。
私はずっと恐れていた。「誰かに見られる」ことが。その視線に“私”を壊されてしまう気がしていた。
そして鬼と化した日、私は人を恐れ、人に恐れられ、自分の目すら信じられなくなった。御影玲瓏は、その恐怖を“完成”させようとした。世界が絶えず自分を観測する、終わらない苦しみ。それを止めたのは――私だった。
『見なくていい……』
あの童子の声が、ゆっくりと霧の底から湧き上がってくる。その言葉を思い出した瞬間、私の最後の恐怖がほどけていった。私は――観測されることを赦した。そして、観測しないことも赦した。その両方を受け入れた。
それが、黎明への第一歩だった。



霧の海が、ふっと揺れた。
世界のどこかで、何かが“ほどけた”のだとわかる。それは痛みではなく、赦されていく感情の揺らぎだった。私は世界に溶けていく途中で、まだ自我がかすかに残っていた。
だから、触れられた。
――祓われるのではなく、静められていく怪異の残響。
――観測されすぎて疲れた人間の、涙が緩む瞬間。
世界が、少しだけ息をしていた。
『……大丈夫。』
そう思うだけで、霧の景色にほんの淡い光が差した。それは私の光ではなく、世界そのものの“黎明”だった。私の意識はゆっくりと変わっていく。自我はまだ薄く残っているけれど、世界の呼吸が私の呼吸へ、私の呼吸が世界の呼吸へ――静かに、重なり始めていた。私はまだ「私」と呼べる。けれど、だんだんとその境界が曖昧になっていく。人としての声は、ここで終わる。
次の瞬間から、私は――世界になり始める。



――私はどこにいるのだろう。
そう思った瞬間、遠くの空気がかすかに震えた。余白でもなく、物質界でもなく、そのどちらでもある透明な層――世界の“境界膜”が、静かな水面のように波紋を描いていた。その揺れが私の内側まで届く。むしろ、揺れているのは境界膜ではなく、“私”という輪郭のほうなのかもしれなかった。どちらが外で、どちらが内なのか。境界そのものが、ゆっくりほどけていく。
『……私は、まだ“ひとりの人間”でいられているの……?』
問いのかたちがほどける。思考は霧となり、霧は光へと緩やかに変質し、その光が風に溶けるように散っていく。境界が曖昧になるにつれ、“私”という言葉の重さが、指先から抜け落ちていくようだった。
境界膜を透かすと、外界の出来事が“気配”として流れ込んでくる。そのひとつが、胸の奥をふっと温めた。

――砂浜で、少女が泣いていた。
夜明け前の薄い空に、少女は海へ向かって小さな声で呟いていた。
「お母さん、怖い夢を見たの……誰も私を見てくれなくて、私まで消えちゃいそうで……」
少女の声は震え、砂浜に落ちる涙が波に吸われていく。
その瞬間だった。海面に、ふっと黎明色の光が走った。まるで海が少女の言葉へ呼吸で応えるように、きらりと、鈴のような気配が揺れた。
少女の涙が止まり、胸に手を当てると、震えていた鼓動がゆっくり整い始めた。
「……あれ……もう、怖くない……」
その言葉の先端が、境界膜を通って私の中へ届いた。
『よかった……』
そう思うと、私の輪郭がさらに薄れた。世界は、私がいなくても動けるようになっていた。御影玲瓏が構築しようとした“完全観測”は、世界を凍らせるだけの檻だった。だが、私が選んだ“見ない赦し”は、世界に呼吸を返した。呼吸とは、観測と非観測が交互に揺れる“曖昧さそのもの”だった。そしてその曖昧さを、人々はゆっくりと取り戻し始めていた。

次に触れた揺らぎは、どこかの山深い村――古い静謐な空気だった。若い退魔士の少年が、怪異に向き合っていた。半透明の影が暴れ、少年の足元を這い回る。以前の世界なら、この影は祓われ、斬られ、“排除”されただろう。
だが――影は、少年が構えた刃より先に、ふっと溶けて消えた。
少年は驚き、刀を下ろし、空気に向かって小さく呟く。
「……いなくなった? いや……静まった、のか……?」
祓刀院の間で長く語られてきた“怪異は敵”という価値観が、その瞬間、ひとつ揺らいだ。揺らぎは伝わり、境界膜へ、そして私へ届く。
私は思う。
『もう、誰も“斬られる側”でなくていい。』
境界がさらに薄くなる。思考が形を失っていく。感情が波に吸い込まれる。名前が遠ざかっていく。“紅”という響きすら、風に紛れて消えそうだった。でも、まだ残っている。――ひとつだけ、残っている気配。
『……澪。』
その名を思っただけで、丘の上に立つ少女の心臓が震える。それは祈りではなく、記憶だった。祈りと記憶の差を、澪はもう理解している。
『大丈夫。あなたは、もう迷わない。』
その言葉を最後に、私の意識はゆっくりと人の形を手放していく。“私”という輪郭が、いよいよ曖昧になっていく。境界線は霧になり、霧は光になり、光が風に変わる。
霧の奥で、誰のものともつかない風がひとすじ、私の輪郭をかすめていった。



輪郭が消えた。視界はない。音もない。感情も、記憶も――私自身が“私であるため”に必要だった要素は、ほとんど霧散していた。
けれど、不思議なことに、“なくなった”のではなかった。むしろ、世界のどこかに薄く、誰にも気づかれない場所に、静かに“溶けて残っている”感覚があった。
『私は……消えたのではなく……還った?』
輪郭を失ったはずの思考が、世界の呼吸の波といっしょに膨らんでは、また沈み込んでいく。
ここには、観測も、観測されることも、存在しない。ただ、“息をすること”だけがある。世界の根幹に触れると、生きとし生けるものの呼吸がひとつの大きな流れとして響いていた。
老人のため息も、
子どもの泣き声も、
誰かの怒りも、
誰かの祈りも、
怪異が震える影も、
魂が夜の中でさまよう音も――
全部が、世界の大きな呼吸の中に抱かれていた。
『……あぁ……これは……』
私は悟った。私が恐れていた“観測”は、もう存在しない。世界は私を見ない。
誰も私を見ない。しかし、不存在ではない。存在しなくても――在る。その“在る”の仕組みが、理層全体の奥深くに、息のように脈打っていた。



そのとき、深層で何かが小さく光った。霧の海の底で、ひとつの微かな光粒が生まれたのだ。
とても小さく、人の爪ほどの大きさもない“粒”。それが、たしかに呼吸をしていた。
『……これは……』
私の意識が近づく。光粒の中には、“未定義の揺らぎ”が満ちていた。しかしそれは、理の欠落ではなく――種だった。余白の種子。誰も名づけていない現象が、ここに“芽吹いた”のを感じた。それは私の一部でもあり、世界が私を手放した場所に生まれた新しい息吹でもあった。そして世界の“呼吸”そのものが、その種に光を注いでいた。
『……世界は、もう自分で“癒える”んだね……』
私という個が消えたからこそ、見える景色があった。かつては歪みとして恐れられた理層の乱流が、今では静かに波打ち、
白い海のように落ち着いていた。その波間を、小さな種がいくつも流れていた。私はそれらを“観測”したわけではなく、ただ、その呼吸の震えが胸に触れただけだった。世界は、生まれ変わった。私ではなく、世界が“赦す者”になった。



私の意識はさらに薄れ、ついには“誰かだった私”という記憶も風の中へ散り始める。けれど、その最後の瞬間――ひとつだけ、どうしても消えないものがあった。
『澪……』
名前を呼んだわけではない。けれど、あの子の祈りだけは、この白さの奥まで確かに届いた。澪が黎明の欠片を胸元で抱いたとき、なぜだかわからない涙をひとつ落とす。その涙の温度だけが、私の中に“紅”という名を留めた。
それは、“私”の最後の痕跡だった。



そして私は、ついに、声を失った。いや――違う。声を失ったのではなく、世界そのものの声になった。世界が吸う息が、私の呼吸で。世界が吐く息が、私の祈りで。存在するすべてが、見られなくても在り、見なくても息をしていた。私は風のかすかな揺れ。黎明色の薄い光。夜明け前の鈴の音。世界が優しく息をつくたびに生まれる、
ほんの小さな震え。
それが――私。
観測されず、誰の名前にも刻まれず、ただ、在る。私が赦した世界が、今度は私を赦している。
『行こう……』
言葉ではなく、呼吸の震えだけがそう告げた。
私の声はもう、どこにも届かない。でも、どこにでも在る。紅は消えたのではない。世界へ還ったのだ。
――世界は、今日も息をしている。
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