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断章「御影玲瓏――余白に還る声――」
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あの山に、季節がいくつ巡ったのか、もう覚えていない。
雪が溶け、雨が草を育て、風がそれを攫う。その循環の呼吸を測るように、私はただ世界を見ていた。――あなたを、見続けていた。
初めて出会った日、あなたは祠の前で空を見ていた。人のようで、人ではない。光の届く角度が、ほんのわずかに遅れていた。
その遅れだけで、私は悟った。この存在は、理の外側にいる。
「あなたを見に来たの。」
そう言ったとき、あなたは静かに笑った。
「見られるたびに、私は薄くなる。」
「観測は存在の証明よ。」
「証明は終わりだよ。君は、始まりを知らない。」
その意味を、私はまだ知らなかった。観理院を追われても、私はなお“理”を信じていた。世界は定義によって保たれる――そう、固く思い込んでいた。けれど、あなたの前では、理はかすかな風のように、容易く形を変えた。
◇
私は何度も山に通った。
朝靄のなか、夜の冷気のなか、あなたの声を聞くためだけに。記録のためではない。観測のためでもない。ただ――会話のたび、胸の奥に生まれる揺らぎが、無視できないほどの“温度”を帯びていたから。あなたは草を撫でながら言った。
「人は、在ることを恐れすぎている。消えることが、在ることの証明なのに。」
「あなたは、消えるのが怖くないの?」
私がそう問うと、あなたは少し考え、目を細めた。
「恐れは温度だ。冷たくなるまで、それでいい。」
その声を聞くたび、胸のどこかが疼いた。私はあなたを理解したいと思った。だがそれは、理解という名の観測だった。私は、あなたをまた少し薄くしていたのだ。
◇
ある日、風が止んだ。
あなたの影が、地面に落ちなくなっていた。光の粒だけが、輪郭をなぞるように漂っていた。
「……もう、長くないのね。」
そう告げると、あなたは微笑んだ。
「君が見なくなれば、私は在れない。けれど、君が見ていれば――きっと、壊れる。どちらも、君の優しさの形だ。」
胸の奥が熱をもった。観測では説明できない温度だった。そのとき、私は初めて思った。――“見ないでいたい”と。
◇
最後の日を、私は今も夢に見る。
濃い朝霧のなか、あなたは祠の前で、静かに目を閉じていた。それは祈りのようであり、赦しのようでもあった。
「もう、観測はしないのか?」
「……ええ。もう、しない。あなたを定義した瞬間、あなたが壊れる気がして。」
あなたは微笑み、空を仰いだ。
「なら、最後は――“見ないで”くれ。」
私は目を閉じた。
風も、鳥も、理の震えも遠ざかる。ただ、鈴のような音がひとつだけ鳴った。その音が消えたとき――あなたはいなかった。
空気が一拍遅れて震え、世界は、ひとつ呼吸を忘れた。私は膝をつき、手を伸ばした。触れたのは温度でも光でもなく、――余白。定義される前の、世界の息。
その一瞬、何かが混ざった。視界が滲み、音が光へと変わった。その揺らぎの中で、私は思い出した。――「恐れは温度だ。冷たくなるまで、それでいい」。
あの言葉は、恐れを捨てろという意味ではなかった。恐れが温度のように、ゆっくり冷めていくことを、
そのまま受け入れるという、彼なりの静かな別れの哲学だったのだ。
混ざったら、もう戻れない。その感覚だけが、確かな事実だった。
◇
今でも思う。
あなたは赦していた。私は、赦せなかった。
それだけの違いが、私たちの辿る世界を分けた。あなたは消え、私は残った。残ったまま、あなたを見続けることしかできなかった。だから私は進む。理の奥へ。観測の向こうへ。あなたが見なくても、世界が呼吸できる場所へ。
それを進化と呼ぶのなら、私はきっと間違っている。けれど――この間違いは、
あなたの残した温度を、まだ覚えている。夜の部屋で、鈴を指で弾く。音は鳴らない。それでも、空気がひとつだけ震えた。
「……見てるわ、あなた。まだ、消えきっていない。」
私は微笑む。観測も赦しも持たないまま。それでも、確かに――呼吸をしている。
◇
追章 ――黎明の余白にて
あの瞬間――紅の黎明の刃が、世界を裂いた。彼女の一閃は、破壊ではなかった。観測に縫い止められていた私の輪郭を、そっとほどく光だった。世界が自分自身を見続ける“自己観測の檻”を、紅は静かに断ち切ったのだ。音はなく、黎明色の粒子だけが、内側から零れ落ちた。その散っていく光の中で、私は悟った。――彼女の“赦し”は、私にも向けられていた。
存在の消失を免れた私は、理と観測の層をはずれ、静かな余白へと沈んだ。
境界も、名もない層。ただ、世界の呼吸だけがある場所。その奥で、私は懐かしい気配を感じた。霧がほどける。光も影も区別のない、透明な層。そこで、私は“彼”を見つけた。
「……あなた。」
声にはならない。思考と呼吸のあいだの揺らぎが、名を呼ぶたび、世界の輪郭が柔らかく波打つ。
昔と同じ顔。祠で風を見ていた、あの優しい表情。輪郭は霧のように淡く、それでも確かに、微笑んでいた。
「また、会えたのね。」
彼は頷いた。風がふたりのあいだを抜け、その流れが、世界全体の呼吸のように感じられた。
「まだ、寂しいか?」
私は首を振る。胸の奥の“欠け”は、もう痛まない。赦された世界の息遣いが、静かに満ちている。
「いいえ……もう、寂しくないの。」
彼は嬉しそうに目を細めた。その笑みは、消えることすら“在る”という形だと教えてくれた、あの日のままだ。
やがて彼は光の粒へとほどけ、余白へ溶けていく。私はその粒に触れた。そこにあったのは、温度ではなく――安堵。
ふたりで並び、世界を見ている。見られることも、見てしまうこともない。ただ、世界が呼吸する音のなかに在る。
遠くの層を、黎明の光が、薄く透かす。その揺らぎが、鈴の音のように広がった。
私は微笑む。
観測の外で、赦しの内側で。ようやく、ひとりではなくなった
余白の中で。
雪が溶け、雨が草を育て、風がそれを攫う。その循環の呼吸を測るように、私はただ世界を見ていた。――あなたを、見続けていた。
初めて出会った日、あなたは祠の前で空を見ていた。人のようで、人ではない。光の届く角度が、ほんのわずかに遅れていた。
その遅れだけで、私は悟った。この存在は、理の外側にいる。
「あなたを見に来たの。」
そう言ったとき、あなたは静かに笑った。
「見られるたびに、私は薄くなる。」
「観測は存在の証明よ。」
「証明は終わりだよ。君は、始まりを知らない。」
その意味を、私はまだ知らなかった。観理院を追われても、私はなお“理”を信じていた。世界は定義によって保たれる――そう、固く思い込んでいた。けれど、あなたの前では、理はかすかな風のように、容易く形を変えた。
◇
私は何度も山に通った。
朝靄のなか、夜の冷気のなか、あなたの声を聞くためだけに。記録のためではない。観測のためでもない。ただ――会話のたび、胸の奥に生まれる揺らぎが、無視できないほどの“温度”を帯びていたから。あなたは草を撫でながら言った。
「人は、在ることを恐れすぎている。消えることが、在ることの証明なのに。」
「あなたは、消えるのが怖くないの?」
私がそう問うと、あなたは少し考え、目を細めた。
「恐れは温度だ。冷たくなるまで、それでいい。」
その声を聞くたび、胸のどこかが疼いた。私はあなたを理解したいと思った。だがそれは、理解という名の観測だった。私は、あなたをまた少し薄くしていたのだ。
◇
ある日、風が止んだ。
あなたの影が、地面に落ちなくなっていた。光の粒だけが、輪郭をなぞるように漂っていた。
「……もう、長くないのね。」
そう告げると、あなたは微笑んだ。
「君が見なくなれば、私は在れない。けれど、君が見ていれば――きっと、壊れる。どちらも、君の優しさの形だ。」
胸の奥が熱をもった。観測では説明できない温度だった。そのとき、私は初めて思った。――“見ないでいたい”と。
◇
最後の日を、私は今も夢に見る。
濃い朝霧のなか、あなたは祠の前で、静かに目を閉じていた。それは祈りのようであり、赦しのようでもあった。
「もう、観測はしないのか?」
「……ええ。もう、しない。あなたを定義した瞬間、あなたが壊れる気がして。」
あなたは微笑み、空を仰いだ。
「なら、最後は――“見ないで”くれ。」
私は目を閉じた。
風も、鳥も、理の震えも遠ざかる。ただ、鈴のような音がひとつだけ鳴った。その音が消えたとき――あなたはいなかった。
空気が一拍遅れて震え、世界は、ひとつ呼吸を忘れた。私は膝をつき、手を伸ばした。触れたのは温度でも光でもなく、――余白。定義される前の、世界の息。
その一瞬、何かが混ざった。視界が滲み、音が光へと変わった。その揺らぎの中で、私は思い出した。――「恐れは温度だ。冷たくなるまで、それでいい」。
あの言葉は、恐れを捨てろという意味ではなかった。恐れが温度のように、ゆっくり冷めていくことを、
そのまま受け入れるという、彼なりの静かな別れの哲学だったのだ。
混ざったら、もう戻れない。その感覚だけが、確かな事実だった。
◇
今でも思う。
あなたは赦していた。私は、赦せなかった。
それだけの違いが、私たちの辿る世界を分けた。あなたは消え、私は残った。残ったまま、あなたを見続けることしかできなかった。だから私は進む。理の奥へ。観測の向こうへ。あなたが見なくても、世界が呼吸できる場所へ。
それを進化と呼ぶのなら、私はきっと間違っている。けれど――この間違いは、
あなたの残した温度を、まだ覚えている。夜の部屋で、鈴を指で弾く。音は鳴らない。それでも、空気がひとつだけ震えた。
「……見てるわ、あなた。まだ、消えきっていない。」
私は微笑む。観測も赦しも持たないまま。それでも、確かに――呼吸をしている。
◇
追章 ――黎明の余白にて
あの瞬間――紅の黎明の刃が、世界を裂いた。彼女の一閃は、破壊ではなかった。観測に縫い止められていた私の輪郭を、そっとほどく光だった。世界が自分自身を見続ける“自己観測の檻”を、紅は静かに断ち切ったのだ。音はなく、黎明色の粒子だけが、内側から零れ落ちた。その散っていく光の中で、私は悟った。――彼女の“赦し”は、私にも向けられていた。
存在の消失を免れた私は、理と観測の層をはずれ、静かな余白へと沈んだ。
境界も、名もない層。ただ、世界の呼吸だけがある場所。その奥で、私は懐かしい気配を感じた。霧がほどける。光も影も区別のない、透明な層。そこで、私は“彼”を見つけた。
「……あなた。」
声にはならない。思考と呼吸のあいだの揺らぎが、名を呼ぶたび、世界の輪郭が柔らかく波打つ。
昔と同じ顔。祠で風を見ていた、あの優しい表情。輪郭は霧のように淡く、それでも確かに、微笑んでいた。
「また、会えたのね。」
彼は頷いた。風がふたりのあいだを抜け、その流れが、世界全体の呼吸のように感じられた。
「まだ、寂しいか?」
私は首を振る。胸の奥の“欠け”は、もう痛まない。赦された世界の息遣いが、静かに満ちている。
「いいえ……もう、寂しくないの。」
彼は嬉しそうに目を細めた。その笑みは、消えることすら“在る”という形だと教えてくれた、あの日のままだ。
やがて彼は光の粒へとほどけ、余白へ溶けていく。私はその粒に触れた。そこにあったのは、温度ではなく――安堵。
ふたりで並び、世界を見ている。見られることも、見てしまうこともない。ただ、世界が呼吸する音のなかに在る。
遠くの層を、黎明の光が、薄く透かす。その揺らぎが、鈴の音のように広がった。
私は微笑む。
観測の外で、赦しの内側で。ようやく、ひとりではなくなった
余白の中で。
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