余白巡礼

由良ゆらら

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余白巡礼 序章「動念」

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もう痛みの意味すら、思い出せなくなっていた。それでも風だけは、彼の傷のありかを知っているかのように、執拗に吹きつけてくる。山霧は、朝と夜の境目を曖昧に溶かしていた。空気は冷えきっているのに、どこか湿り気を帯び、肺の奥に重く沈む。
世界から忘れられたような廃寺――剥がれた瓦と、軒下に垂れた蜘蛛の巣だけが、ここに積もった時間を黙って記録していた。巡谷空也は、その廃寺の本堂に座り込んでいた。
誰もいない。誰も来ない。この場所にたどり着いた理由を、言葉として整えられるほど、彼の内側はもう形を保っていなかった。
座禅の姿勢は、もはや外形だけをなぞったものだ。背筋は不自然に固まり、呼吸は浅く途切れがちで、膝に走る鈍い痛みだけが、自分がまだここに在るのだと告げていた。
生きている理由など、考えようとしたところで、何も浮かばない。そうした思考は声にすらならず、胸の奥で擦り切れた円盤のように、ただ同じ軌道を回り続けていた。
もはや自分は仕事すらまともにできなくなっていた。誰かと話す場面を想像するだけで、胸の奥がひゅっと縮む。言葉が喉に引っかかり、呼吸が途切れる感覚が、遅れて蘇る。人の声が怖い――その理由さえ、もう輪郭を失いかけていた。気づけば、人間関係も、ひとり、またひとりと崩れていった。
そして、誰にも語れない“あの夜”の記憶が、沈殿物のように底に残っている。空也は静かに瞼を閉じた。その瞬間、耳の奥で小さな破裂音が弾ける。思い出したくもない断片が、制御を失って浮かび上がってくるからだ。
火の匂い。台所に響いた包丁の音。叫び声。兄の顔。なぜか、顔だけが思い出せない。
喉の奥がひどく乾いた。苦行に取りつかれるように、空也は自分を追い込んだ。断食。座禅。滝行。痛みさえも、いまの自分には贅沢すぎる救いのように感じられた。
そのときだった。ふ、と。座禅を組んだ背中を、かすかな風が撫でた。廃寺の本堂は閉じている。風など入り込むはずがない。それでも、確かに感じた。肌を掠める、誰かの指先のように、あまりにも軽い触れ方。空也の意識が、わずかに跳ねる。今のは何だったのか――問いが形になるより先に、身体のほうが反応していた。
彼は目を開く。光はない。だが、古びた欄間の向こうで、何かが揺れた気がした。風の正体を確かめるように、空也は廃寺の奥へ足を向ける。奥の廊下は、足音が響くたびに崩れそうなほど脆く、壁の隙間から差し込む外光が、埃を細く舞い上げていた。

廃寺の最奥――かつて修行僧が籠ったという、小さな石室。
閉じきった空気のはずなのに、そこには、ひと筋の風だけが在った。崩れかけた石の箱が置かれている。その上に、小さな光の粒が浮かんでいた。蛍でもない。火でもない。ただ、そこに“在る”という事実だけを主張する光。触れるのが怖いのに、なぜか懐かしさを伴う、奇妙な存在感。
空也は、無意識に手を伸ばしていた。指先が触れた瞬間――胸の奥が反響するように、微かな風が石室の空気を震わせる。光は、指先で弾かれることもなく、まるで空也の胸の底を探るように、ひどく静かな脈動を返してきた。
理由もなく、兄の顔の欠片が脳裏をよぎる。顔は見えない。ただ、輪郭だけが曖昧に揺れている。
光粒は冷たくも、温かくもない。それなのに、胸の深部――長く触れられずにいた“痛んだ場所”が、ひどく疼いた。空也は、その光を思わず掌で包み込む。逃がさないためでも、守るためでもない。ただ、ここに確かに“何か”が在るのだと、確かめたかった。気づけば、廃寺の外で風が強く吹いていた。
いや、風よりも――何かが、こちらへ向かって来ている。
石室から戻ろうとした瞬間、視界が急に暗転する。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。地面に横たわったまま、空也はぼんやりと空を見上げる。木々の隙間からこぼれた光が、ゆっくりと揺れていた。
風の音。枝葉の鳴る気配。そして――小さな足音。ふわりと風が旋回し、視界の端に、少女の影が立ち上がった。
「ねぇ、見えるの?」
その声は、風そのもののように軽かった。
「わたしのこと、ちゃんと見えてる?」
空也は答えない。答える余裕がなかった。ただ胸の奥で、何かがかすかに沈み、理由の分からない揺れを残した。それが恐怖なのか、驚きなのか、あるいは安堵なのか、自分でも判別できなかった。
少女はかがみ込み、目を輝かせる。
「やっぱり。あなた、風が触れたときに反応したもん。ね、すごいよ? だって普通の人間は――」
嬉しそうに微笑みながらも、その瞳の奥には、風の影のような薄い翳りが走っていた。彼女自身も気づいていない傷が、そこに潜んでいるように見える。
「わたしが見えるなんて。ねぇ、あなた……すごく珍しいよ?」
空也は震える喉から、ひとことだけ絞り出した。
「……誰だ、お前」
少女は、風に揺れる草のように首を傾げる。
「ふう。名前は“ふう”。あなたの中の“余白の種子”が震えた瞬間、そう響いたの」
空也の掌に残る光が、かすかに震えていた。まるで、ふうという存在を呼び寄せる合図のように。
「はぁ? ……意味わかんねぇ……」
力の抜けた身体を、そのまま地面へ預ける。浅い呼吸だけが、かろうじて胸を上下させていた。



風が揺れた。草の匂いと、遠くで鳴く鹿の声が溶け合う。山の空気は冷たく、それでいて、なぜか懐かしかった。
少女――ふうは、そっと覗き込むように空也を見つめている。
「ねぇ、立てる? ……あ、無理そうだね」
軽く膝を折り、地面をとん、と指先で叩く。その瞬間、周囲の空気がふわりと巻き起こり、空也の身体がかすかに浮いた。
「……っ、やめろ……!」
空也は反射的に身を縮めた。胸の奥で、ざわりとした違和感が波打つ。触れてはいけない記憶の表層を、誰かの手が無遠慮になぞろうとする――そんな感覚に、身体が先に拒絶を示していた。
ふうは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに笑みを作る。
「大丈夫。痛くしないよ。ただ……あなたを支えようとしただけ」
声は軽やかなのに、底には沈んだ温度があった。
空也の掌に残る光粒――余白の種子が、わずかに震える。その揺れは、胸の奥を走った微かな反応と、同じ鼓動を刻んでいた。ふうはその変化に気づき、目を細める。
「……やっぱり、分かるんだね」
「分かる……? 何がだ」
ふうは、空也の胸元をそっと指先で示した。
「そこ。ずっと冷たかった場所。風が当たったときだけ、あなたの奥で……きゅ、って震えた」
胸の奥が、何かがほんの一瞬だけ揺れた気がする。そんなはずはないと否定するよりも先に、少女の言葉が、その感覚を正確になぞっていた。空也は、言いようのない戸惑いを抱えたまま、少女を見返す。理解できない。だが、目を逸らすこともできなかった。
ふうは、何事もなかったかのように続ける。
「ねぇ。死にに来たの?」
空也の呼吸が、一瞬止まった。
「ここ、廃寺でしょ。風の流れ方で分かるんだ。……苦しい人が、よく来る場所だから」
風がひととき止み、空気の濁りだけが残る。
「……死にたいわけじゃ、ない」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
ふうは、ふっと微笑む。それで十分だと言うような、柔らかい表情で。
「じゃあ、いいんだよ。それだけで」
空也は視線をそらした。胸の内側に突き刺さっていた冷たさが、ほんのわずか、形を変えた気がした。
ふうは、落ち葉を踏みしめ、空也の隣に腰を下ろす。
「改めて、わたし、ふう。……見ての通り、ふつーの女の子だよ?」
唐突な言葉に、空也は返答を失う。
視線が思わず、ふうの姿を上下になぞった。

白い装束に、場違いなミニスカート。
黒タイツに焦茶色のローファー。
そして――背中には、黒い羽。

普通、という言葉が、頭の中で静かに否定される。
ふうは風に揺られながら笑った。
「あなた、わたしのこと“見えてる”。それって、ちょっと珍しいんだ。だからね……あなたのこと、もっと知りたくなっちゃった」
「……勝手にしろ」
ようやく絞り出せた空也の言葉は、それだけだった。
ふうは嬉しそうに、にぱっと笑う。
「うん、勝手にする」
風がまた吹いた。山道へと続く石畳に、ふうの髪が柔らかく揺れる。
――だが。少女はどこへも行かず、ただ、空也の隣に座り続けていた。
その姿を見て、空也は言葉にできない違和感を覚える。拒絶したはずなのに、去ってほしくないという感情が、胸の奥でわずかに震えた。
掌の種子が、その震えに応えるように、淡く脈打つ。空也は小さく息を吐き、視線を落とす。理解できない。だが、確かに何かが動いている。答えは分からない。ただ、胸に居座っていた冷たさが、ほんの一瞬だけ和らいだ。
ふうが、風の音を聴くように空也を覗き込む。
「ねぇ、空也――って呼んでいい?」
空也は、わずかに眉をひそめた。
「……は?」
ふうは首を傾げて笑う。
「風が運んでくれたの。あなたの名前……そう、聞こえたんだ」
空也は否定することもできず、ただ沈黙した。
――こうして、寂れた廃寺に“風”がとどまり、空也の、まだ名もない時間が、静かに始まった。
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