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余白巡礼 第一章「萌動」
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夜が明けた気配に、空也はゆっくりと瞼を開いた。世界は静かだった。山霧はまだ境目を曖昧にし、廃寺の床板はひんやりと冷えきっている。
昨日の出来事は、夢だったのか。風が触れた。少女が現れた。余白の種子が震えた。どれも現実感がなく、思考がそれらを拒むように、記憶の輪郭は次第に霞んでいく。
……だが。すぐ近くで、誰かが丸くなって寝ていた。
ふうだった。
藁の上に身体を預け、ゆるやかな呼吸を繰り返している。黒い羽が肩を覆い、その姿は、この世の空気に完全には馴染まない存在を思わせた。修験者風の装束に、都会的なスカートと黒タイツ――相反する要素が、可笑しいほど自然に混ざっている。髪には淡い青色のメッシュが入り、風が揺らすたびに、山の光を細かく散らしていた。
空也は無意識に眉を寄せた。理解できないものを前にしたときの、乾いた違和感が胸の奥に残る。身体を起こすと、ポケットの奥が鈍く揺れた。余白の種子がまだそこにあることを、脈打つような振動で思い出させる。
冷えた空気を深く吸い込み、外へ出る。苦行のための水桶がそこにあった。昨日の残りの、刺すような冷水。空也は黙って、それを頭から浴びた。氷のような衝撃が背骨を走り、呼吸が一瞬、止まる。肺が縮む感覚と、脈打つ頭痛。
だが、それでいい。なにかを“感じている”という事実だけが、彼をかろうじて世界につなぎ止めている。冷水が頭から落ちた瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。――職場で、息が詰まったときと同じだ。
複数の視線。返そうとして返せなかった言葉。自分の沈黙だけが、部屋の空気を重くしていく感覚。肺が強ばり、喉がひきつる。呼吸が“外側”で途切れてしまう、あの身体の記憶が牙を剥く。
……なのに、ふうと話すときには、こんなふうにはならない。ふうの声は、なぜか胸を固めない。人間の声は苦しいのに、あの少女の声だけは――風のように通り抜けていく。その違いが、かえって空也を混乱させた。冷水が滴る音だけが、廃寺に響く。
「……それ、死ぬよ?」
背後から、ふうの声が落ちた。空也は振り返らない。
「ほっとけ」
「ほっとけないよ。ねぇ、人間ってそんなに冷たいの好きなの? 修行?」
「……修行じゃない」
「じゃあ何?」
空也は言葉を探すように、わずかに間を置いた。そうして、吐き出すように続ける。
「……ただ、こうしてないと……わかんなくなるだけだ」
「なにが?」
「……俺が、生きてるってことだよ」
ふうは黙った。その沈黙は、冷水よりも冷たく、同時に、胸の奥へ静かに沈んでいった。
◇
昼。
山の光は弱く、縁側に落ちる影も淡かった。
空也は、硬い米を数粒かみしめている。食べたくて食べているわけではない。倒れないためだけに、機械的に口へ運ぶ行為だった。
その隣で、ふうは足をぶらぶらと揺らして座っていた。黒タイツ越しの足先が、風に合わせて小さく揺れる。背の羽はゆっくりと開き、受けた光を柔らかく返している。
「ねぇ、空也って何歳?」
「……二十二」
「若いね。わたしのほうが、ずっと年上かもしれないよ?」
「……知らねぇよ」
「仕事は? やめちゃったの?」
空也は答えなかった。言葉にした途端、胸の奥がまたざわつく予感があったからだ。
放っておいてくれ。その一言が喉まで上がり、そこで引っかかる。胸の奥が、微かに沈むように揺れた。苛立ちでも、拒絶でもない。名のつかない小さな感情が、水面に落ちた滴のように波紋を広げていく。
「ねぇ、空也って……どうしてそんなに苦しそうなの?」
「…………」
空也は沈黙で応じた。ふうは首を傾げ、そのまま一歩、踏み込む。
「痛いの、わざとやってるの?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
空也はしばらく視線を落とし、低く答えた。
「……そうしないと……何も感じないんだよ」
ふうの動きが、ぴたりと止まる。
「何も……感じない?」
「放っておくと、世界の音が薄れていく……俺がここにいる感じが、だんだん消えるんだよ」
「それって……」
ふうは言葉を続けかけて、口を閉じた。その瞳が、遠い昔を見つめるようにかすかに揺れる。風が止まり、空気がわずかに重くなった。沈黙は苦しい。それでも、どこか懐かしい匂いを含んだ空気が、二人のあいだを流れていく。
そのとき。空也のポケットが、かすかに震えた。余白の種子が、ほんの一瞬、確かな振動を返す。ふうはそれに気づき、息を呑んだ。
「……ねぇ、種子が……反応してるよ」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないよ。空也の言葉に反応したんだよ。あなたの“痛み”に」
「……やめろ」
「空也。あなた、本当は――」
空也は唇を噛み、視線を逸らした。それ以上、踏み込まれたくなかった。
ふうは追わなかった。ただ静かに風を操り、縁側に溜まった埃を外へ流す。
二人を隔てる風は、まだ冷たい。
それでも、その風の向こう側に――ようやく、言葉が届いた気がした。
◇
夜になっても、廃寺の空気は昼の冷気を引きずったままだった。欄間から入り込む霧が、本堂の床を薄く這っている。空也は粗末な座布団の上で目を閉じていた。深く眠ることなど、もう長いあいだできていない。眠りに落ちるたび、あの夜の断片が、必ず押し寄せてくるからだ。
そして今夜も――炎の匂いが、鼻の奥で不意に蘇った。
火の気配。
床に落ちる金属音。
遠ざかる背中。
『兄さん!』
呼び止めても振り返らない、その後ろ姿。
なぜ、あのとき――という問いだけが、答えを持たないまま残る。胸が締めつけられ、呼吸が途切れかけた。身体は強張り、額を冷たい汗が伝う。
その瞬間。
「……空也?」
ふうの声が、霧を裂くように落ちた。羽の揺れる気配とともに、肩にそっと触れられる。空也は荒い息のまま、かすかに目を開いた。
「また悪い夢、見てたよね。風が……震えてた」
彼の周囲に、微かな風の渦が生まれている。ふうはその中心で、心配そうに覗き込んでいた。
「……放っとけよ」
「放っとけないよ。ねぇ、空也……さっき、“兄さん”って呼んだ」
空也は一瞬、目を見開き、それから表情を歪めた。
「言ってねぇよ」
「言ったよ。風が拾ってた」
「風に……拾ったって……なんなんだよ、それ」
ふうは、苦笑とも悲しみともつかない微かな笑みを浮かべた。
「……誰にも出さなかった声って、風が先に触れるんだよ」
空也は言葉を失い、黙り込む。
「昔ね……わたしにも、似たような声があった気がする」
ふうは少し間を置き、視線を伏せた。
「でも、あの頃の自分は輪郭が曖昧で……もう、思い出せないんだ」
黒い羽が、静かに縮む。羽根の先に付いた霧の雫が、わずかな光を受けて揺れた。
空也はその横顔を見つめた。ふうの表情には、底の見えない穴のような影が落ちている。風が通り抜ける空洞のような、深く、静かな影。すぐに消えたその陰が、なぜか空也の胸に残った。だが、その理由を問うことはしなかった。自分自身の痛みにさえ向き合えない今、他人の内側を覗く余裕など、どこにもなかった。
それでも――胸の奥で、余白の種子がかすかに震えた。
ふうが、声を落として囁く。
「空也……苦しいなら、苦しいって言っていいんだよ。人間って、そういうふうにできてるんでしょ?」
「……お前が言うなよ。人間じゃねぇだろ」
ふうは、はっと目を瞬かせた。それから、不思議そうに自分の羽を見つめる。
「そだね。人間じゃないかも。でも……寂しさは、たぶん一緒だよ」
空也は何も返さなかった。
「空也の中の風が、泣いてるみたいだった。だから、起こしたの」
少しだけ言い淀み、ふうは続ける。
「……怒った?」
「怒ってねぇよ。……別に」
空也は横を向いた。その表情には、疲労とともに、かすかな安堵が滲んでいた。
ふうはそれ以上近づかず、そっと距離を取る。羽を静かにたたみ、声を柔らげた。
「じゃあ、おやすみ。風、弱めておくね。空也が眠りやすいように」
その言葉の意味は、よく分からなかった。だが、ふうが本堂の戸口に腰を下ろし、外の風に指先で触れるような仕草をすると、霧の流れがゆっくりと落ち着き、空気が整っていくのが分かった。
空也は再び、眠りへと身を委ねる。悪夢が完全に消えたわけではない。それでも今夜は、いつもより――浅く、静かだった。
――その夜、廃寺には、ひとつの穏やかな風が吹いていた。
◇
ふうがやってきてから、いくつかの朝と夜が、廃寺の中を静かに巡った。
ある夕刻。
空也は滝行に向かっていた。山の水は刺すように冷たく、皮膚は瞬く間に赤く染まり、呼吸は細く削られていく。
「ねぇ、それ本当に死ぬってば!」
ふうが叫び、風を巻き起こして滝に割り込んだ。水流の中から空也の身体を強引に引き剥がし、そのまま地面へ引き戻す。
「離せ……俺は……!」
「離さない! 死んだら意味ないでしょ!」
空也は地面に倒れ込み、荒い息を吐いた。ふうは胸を押さえるような仕草で、心配そうに彼を覗き込む。
「空也……生きててほしいんだよ……?」
その声音は、不意に幼かった。空也は返事をしなかったが、視線を逸らしたまま、自分の手が小刻みに震えていることに気づいていた。
それからも、似たような朝と夜が、いくつも巡った。ふうは去らず、空也も追い払わなかった。
ある日の朝。
縁側で、空也は薄い茶を啜っていた。ふうは隣で、風を操りながら落ち葉を集めている。
「ねぇねぇ、空也ってさ、趣味とかないの?」
「……ない」
「友達は?」
「……いない」
「恋人は?」
「……しつこいぞ、お前……!」
思わず声を荒げると、ふうは「わー!」と羽を広げ、風に押し上げられるようにふわりと浮いた。
「今の、ちょっと元気だった!」
「……うるさい」
空也は目を逸らし、飛ぶたびにこちらの意識をかき乱す存在だ、と内心で小さく毒づいた。その声には、ほんのわずかだが、生気が戻っていた。ふうはそれを敏感に感じ取り、嬉しそうにまた隣へ腰を下ろす。
早朝。
本堂で横になる空也に、ふうはそっと布をかけた。寒さで震えているのに、空也は気づかないふりをしていた。布越しに伝わる温もりが、胸の奥に微かな痛みを生む。痛むのに、どこか懐かしい。ふうは寝顔を見つめ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「空也。わたしね……ほんとは、こういう時間……すごく好きなんだよ」
とある昼間。
空也は縁側で、山をぼんやり眺めていた。
陽に照らされた霧が淡く揺れ、ふうは近くの木に登り、枝の上で揺れながら見下ろしている。黒い羽は枝葉と混じり、風に溶けるようだった。
「ねぇ空也ー。なんでそんなに無口なの?」
「お前が喋りすぎなんだよ。普通は疲れるだろ」
「疲れないよ。風はたくさん喋るんだもん」
「風が喋るとか言う時点で……お前、まともじゃないな」
「えへへ、そうだよ?」
枝が揺れ、ふうが軽やかに飛び降りる。羽でふわりと着地した瞬間、スカートが風に持ち上げられた。
空也は反射的に顔を背けた。理由は分からない。ただその一瞬、胸の奥に細い影が落ちた。
「お前……そんな格好で飛ぶなよ……」
「え? だいじょうぶだよ、タイツ履いてるし?」
「そういう問題じゃねぇんだよ……」
言い返しかけ、空也は言葉を飲み込んだ。ふうは首を傾げ、にこりと笑う。
「……空也、もしかして見たいの?」
「うるさい! ほっとけ!」
ふうは気にした様子もなく、空也の隣に陣取る。
「空也、今日の苦行は?」
「……やらなくていいだろ。お前に関係ない」
「あるよ! 空也はわたしの“見える人間”なんだから」
「……誰がそんな……」
言葉は途中で途切れた。胸の奥で、余白の種子がかすかに震えたからだ。ふうはその反応を逃さず、そっと空也の胸元を見る。
「ねぇ……痛くない?」
「痛くてもいい。……痛みがない方が、もっと……」
空也は言葉を止めた。それ以上踏み込めば、胸の奥の冷たい部分に触れてしまう気がした。
ふうは明るく、風で落ち葉を転がすように話題を変える。
「じゃあ! 今日は修行じゃなくて、お散歩しよ?」
「……しない」
「散歩ぐらいいいじゃん。山、綺麗だよ?」
「……」
「空也。一歩だけでも、動くって大事なんだよ」
その言葉が、胸に重く落ちた。“動く”という音が、どうしてこんなにも痛むのか分からない。
「嫌なら無理に動けとは言わないよ?」
ふうは羽をすぼめ、少しだけ寂しそうに続ける。
「でも……空也が止まってるの、見てるほうがつらい」
「……なんだよ、それ」
「人間でも風でも……止まったら、消えちゃうんだよ」
胸がひどく疼き、空也は視線を伏せた。山が夕焼けに染まる。
空也はふうに背を向け、本堂で座禅を組んでいた。だが心は定まらず、瞼の裏では断片的な記憶が揺れている。
炎。
叫び声。
兄の背中。
あの夜、自分は何を――。
「空也?」
ふうが背後に立つ。羽が床をかすめる柔らかな音。
「ねぇ……ずっと思ってたけど」
「……なんだよ」
「空也の中の風……ずっと“怖い”って言ってるよ」
「……は?」
「怖い怖いって、弱い風がずっと泣いてるみたい」
「やめろ……勝手なこと言うな」
「勝手じゃないよ。空也の胸の奥、ずっと……“こわい”って震えてる」
空也は振り返り、思わず睨んだ。
「……うるさい……!」
荒れた声に、自分自身が驚く。
ふうは一瞬びくりとしたが、すぐに静かに微笑んだ。
「うん。怒っていいよ」
「怒って……ない……」
「でも声があるって、いいね。昨日より……ちゃんと、生きてる」
空也は何も返せず、息を乱す。風だけが、本堂の空気を揺らしていた。ふうの羽も、同じように揺れている。
朝露に濡れる草木。
冷たい空気が本堂に染み込み、空也は再び座禅を組んで耐えていた。ふうは本堂の前で待っていた。いつもより羽の揺れは小さく、表情も硬い。
「ねぇ、空也」
その声は、いつもの軽さを失っている。
「……なんだよ」
ふうは真っ直ぐ見つめて言った。
「ここに留まってても、あなたが望む結果にはならないよ」
呼吸が、ひとつ止まった。
「空也。あなたはここで死にたいわけじゃないでしょ?」
「……そんなこと、言ってねぇ」
「じゃあ、生きたいんだよ。でも……止まったまま生きることは、できない」
拳を握り、視界が揺れる。
「……ここにいるのが……一番楽なんだよ」
「楽じゃない」
ふうは静かに首を振る。
「痛いのに、苦しいのに、それを楽って言うのは……嘘だよ」
「……嘘じゃねぇ」
「嘘だよ。空也の風……ずっと泣いてる」
黒い羽が、風を吸い込むように揺れた。
「わたしね……止まってたら、本当に消えるところだった」
空也は、ふうを見た。
「風は、動かなきゃ生きられない。止まったら……弱って……最後には消える」
その声は震えていた。長いあいだ、風の中でひとりだった者の震え。
「空也も同じ。止まったままじゃ……壊れちゃう」
その瞬間。ポケットの中の種子が、強く震えた。空也は胸を押さえ、膝をつく。それはもう偶然ではない、明確な脈動だった。
「ほら……分かるでしょ。空也の中の風、動きたいって言ってる」
ふうが、そっと手を伸ばす。空也は振り払おうとして――その手を、空中で止めた。
「……ふう」
「うん」
「……俺、どうすれば……いいんだよ」
それは、初めて零れた助けを求める声だった。
ふうは膝をつき、空也の胸元に手を伸ばす。紐に指をかけ、風がその形を整えていく。気づけば、余白の種子は小さなペンダントとなり、空也の胸で静かに揺れていた。
「ここが、一番落ち着くんだよ。空也の風も、きっとそう言ってる」
空也は拒まなかった。胸の奥の震えが、自分の意思とは別の場所で肯定していた。
ふうは、泣きそうなほど優しく微笑む。
「……いっしょに行こ」
「空也が歩けるところまで、わたしも行くから」
◇
ふうは空也のすぐ近くに膝をついた。羽の影が、朝の光を受けて淡く揺れる。それは風そのものが、かろうじて形を持ったかのような輪郭だった。
「空也。ここは“留まる場所”じゃないんだよ」
空也は何も答えない。
「でもね。“出ていく場所”には、できる」
ゆっくりと顔を上げる。霧が晴れかけた山の斜面に、薄い朝日が差し込み、ふうの横顔を柔らかく照らしていた。
「……どこに、行けばいいんだよ」
「うーん……」
ふうは指を口元に当て、少し考える素振りを見せる。次の瞬間、迷いなく北の空を指さした。
「北のほう。“泣いてる風”がいるから」
「……泣いてる風?」
「うん。ずっと、誰にも気づかれないまま泣いてるの」
羽がふわりと開き、それに呼応するように山の風がざわめいた。
「その風ね……空也の中の風と、すごく似てる」
胸の奥が、かすかに震えた。余白の種子が、呼吸をなぞるように脈打つ。
「ほっとけよ。俺とは関係ねぇ」
「そうかな?」
ふうは笑ったが、その瞳に軽さはなかった。
「空也。あなたは風が見えるし、わたしも見える。それだけでね……もう“歩ける道”はできてるんだよ」
「……勝手なこと言うなよ」
「うん。勝手だよ?」
悪びれもせず、ふうは肩をすくめる。
「でも……空也の風はね。“行きたい”って、ほんのちょっとだけ揺れた」
空也は目を逸らした。胸の奥の微かな震えを、他人に言い当てられることが、どんな苦行よりも鋭く、痛みを伴っていた。なぜこの少女だけが、ここまで分かってしまうのか――その問いは言葉にならず、息として胸の内に沈んでいく。
そのとき、ふうがそっと手を差し出した。人間よりわずかに温かく、風の気配をまとった手。
「空也。一緒に行こう」
「歩けるところまででいい。途中で嫌になったら、止まってもいい」
「……お前、なんで……俺に構うんだよ」
声はかすれ、喉の奥で途切れた。
ふうは一瞬だけ目を丸くし、それから――ゆっくりと笑った。
「決まってるじゃん」
その瞳は、風の音よりも澄んでいた。
「だって――あなた、わたしに“見えてる”んだもん」
一瞬、風が強く吹く。羽と髪が揺れ、朝の空気が震えた。
空也の胸元で、余白の種子がはっきりと脈を打つ。それは鼓動とは異なる律動で、皮膚の下から、指先をそっと呼ぶように広がっていった。――何かを、思い出させようとしている。
「……チッ……」
空也は立ち上がり、ふうから顔を背ける。
「……勝手にしろ」
ふうの表情が、一気に明るくなる。
「うんっ! 勝手にする!」
羽をぱたぱたと揺らしながら、ふうは空也の横に並んだ。風の道に、足跡を重ねるように。
「じゃ、行こっか。空也」
「……名前呼ぶな」
「えー……じゃあ、空也くん?」
「もっと呼ぶな!」
「ははっ!」
ふうの笑い声が、山に弾む。空也は眉をひそめながらも、歩き出した足を止めなかった。廃寺は、静かにその背中を見送っていた。
風が二人の背を押す。新しい道の始まりを告げるように。
こうして――空也とふうの“巡礼”が、始まった。
昨日の出来事は、夢だったのか。風が触れた。少女が現れた。余白の種子が震えた。どれも現実感がなく、思考がそれらを拒むように、記憶の輪郭は次第に霞んでいく。
……だが。すぐ近くで、誰かが丸くなって寝ていた。
ふうだった。
藁の上に身体を預け、ゆるやかな呼吸を繰り返している。黒い羽が肩を覆い、その姿は、この世の空気に完全には馴染まない存在を思わせた。修験者風の装束に、都会的なスカートと黒タイツ――相反する要素が、可笑しいほど自然に混ざっている。髪には淡い青色のメッシュが入り、風が揺らすたびに、山の光を細かく散らしていた。
空也は無意識に眉を寄せた。理解できないものを前にしたときの、乾いた違和感が胸の奥に残る。身体を起こすと、ポケットの奥が鈍く揺れた。余白の種子がまだそこにあることを、脈打つような振動で思い出させる。
冷えた空気を深く吸い込み、外へ出る。苦行のための水桶がそこにあった。昨日の残りの、刺すような冷水。空也は黙って、それを頭から浴びた。氷のような衝撃が背骨を走り、呼吸が一瞬、止まる。肺が縮む感覚と、脈打つ頭痛。
だが、それでいい。なにかを“感じている”という事実だけが、彼をかろうじて世界につなぎ止めている。冷水が頭から落ちた瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。――職場で、息が詰まったときと同じだ。
複数の視線。返そうとして返せなかった言葉。自分の沈黙だけが、部屋の空気を重くしていく感覚。肺が強ばり、喉がひきつる。呼吸が“外側”で途切れてしまう、あの身体の記憶が牙を剥く。
……なのに、ふうと話すときには、こんなふうにはならない。ふうの声は、なぜか胸を固めない。人間の声は苦しいのに、あの少女の声だけは――風のように通り抜けていく。その違いが、かえって空也を混乱させた。冷水が滴る音だけが、廃寺に響く。
「……それ、死ぬよ?」
背後から、ふうの声が落ちた。空也は振り返らない。
「ほっとけ」
「ほっとけないよ。ねぇ、人間ってそんなに冷たいの好きなの? 修行?」
「……修行じゃない」
「じゃあ何?」
空也は言葉を探すように、わずかに間を置いた。そうして、吐き出すように続ける。
「……ただ、こうしてないと……わかんなくなるだけだ」
「なにが?」
「……俺が、生きてるってことだよ」
ふうは黙った。その沈黙は、冷水よりも冷たく、同時に、胸の奥へ静かに沈んでいった。
◇
昼。
山の光は弱く、縁側に落ちる影も淡かった。
空也は、硬い米を数粒かみしめている。食べたくて食べているわけではない。倒れないためだけに、機械的に口へ運ぶ行為だった。
その隣で、ふうは足をぶらぶらと揺らして座っていた。黒タイツ越しの足先が、風に合わせて小さく揺れる。背の羽はゆっくりと開き、受けた光を柔らかく返している。
「ねぇ、空也って何歳?」
「……二十二」
「若いね。わたしのほうが、ずっと年上かもしれないよ?」
「……知らねぇよ」
「仕事は? やめちゃったの?」
空也は答えなかった。言葉にした途端、胸の奥がまたざわつく予感があったからだ。
放っておいてくれ。その一言が喉まで上がり、そこで引っかかる。胸の奥が、微かに沈むように揺れた。苛立ちでも、拒絶でもない。名のつかない小さな感情が、水面に落ちた滴のように波紋を広げていく。
「ねぇ、空也って……どうしてそんなに苦しそうなの?」
「…………」
空也は沈黙で応じた。ふうは首を傾げ、そのまま一歩、踏み込む。
「痛いの、わざとやってるの?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
空也はしばらく視線を落とし、低く答えた。
「……そうしないと……何も感じないんだよ」
ふうの動きが、ぴたりと止まる。
「何も……感じない?」
「放っておくと、世界の音が薄れていく……俺がここにいる感じが、だんだん消えるんだよ」
「それって……」
ふうは言葉を続けかけて、口を閉じた。その瞳が、遠い昔を見つめるようにかすかに揺れる。風が止まり、空気がわずかに重くなった。沈黙は苦しい。それでも、どこか懐かしい匂いを含んだ空気が、二人のあいだを流れていく。
そのとき。空也のポケットが、かすかに震えた。余白の種子が、ほんの一瞬、確かな振動を返す。ふうはそれに気づき、息を呑んだ。
「……ねぇ、種子が……反応してるよ」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないよ。空也の言葉に反応したんだよ。あなたの“痛み”に」
「……やめろ」
「空也。あなた、本当は――」
空也は唇を噛み、視線を逸らした。それ以上、踏み込まれたくなかった。
ふうは追わなかった。ただ静かに風を操り、縁側に溜まった埃を外へ流す。
二人を隔てる風は、まだ冷たい。
それでも、その風の向こう側に――ようやく、言葉が届いた気がした。
◇
夜になっても、廃寺の空気は昼の冷気を引きずったままだった。欄間から入り込む霧が、本堂の床を薄く這っている。空也は粗末な座布団の上で目を閉じていた。深く眠ることなど、もう長いあいだできていない。眠りに落ちるたび、あの夜の断片が、必ず押し寄せてくるからだ。
そして今夜も――炎の匂いが、鼻の奥で不意に蘇った。
火の気配。
床に落ちる金属音。
遠ざかる背中。
『兄さん!』
呼び止めても振り返らない、その後ろ姿。
なぜ、あのとき――という問いだけが、答えを持たないまま残る。胸が締めつけられ、呼吸が途切れかけた。身体は強張り、額を冷たい汗が伝う。
その瞬間。
「……空也?」
ふうの声が、霧を裂くように落ちた。羽の揺れる気配とともに、肩にそっと触れられる。空也は荒い息のまま、かすかに目を開いた。
「また悪い夢、見てたよね。風が……震えてた」
彼の周囲に、微かな風の渦が生まれている。ふうはその中心で、心配そうに覗き込んでいた。
「……放っとけよ」
「放っとけないよ。ねぇ、空也……さっき、“兄さん”って呼んだ」
空也は一瞬、目を見開き、それから表情を歪めた。
「言ってねぇよ」
「言ったよ。風が拾ってた」
「風に……拾ったって……なんなんだよ、それ」
ふうは、苦笑とも悲しみともつかない微かな笑みを浮かべた。
「……誰にも出さなかった声って、風が先に触れるんだよ」
空也は言葉を失い、黙り込む。
「昔ね……わたしにも、似たような声があった気がする」
ふうは少し間を置き、視線を伏せた。
「でも、あの頃の自分は輪郭が曖昧で……もう、思い出せないんだ」
黒い羽が、静かに縮む。羽根の先に付いた霧の雫が、わずかな光を受けて揺れた。
空也はその横顔を見つめた。ふうの表情には、底の見えない穴のような影が落ちている。風が通り抜ける空洞のような、深く、静かな影。すぐに消えたその陰が、なぜか空也の胸に残った。だが、その理由を問うことはしなかった。自分自身の痛みにさえ向き合えない今、他人の内側を覗く余裕など、どこにもなかった。
それでも――胸の奥で、余白の種子がかすかに震えた。
ふうが、声を落として囁く。
「空也……苦しいなら、苦しいって言っていいんだよ。人間って、そういうふうにできてるんでしょ?」
「……お前が言うなよ。人間じゃねぇだろ」
ふうは、はっと目を瞬かせた。それから、不思議そうに自分の羽を見つめる。
「そだね。人間じゃないかも。でも……寂しさは、たぶん一緒だよ」
空也は何も返さなかった。
「空也の中の風が、泣いてるみたいだった。だから、起こしたの」
少しだけ言い淀み、ふうは続ける。
「……怒った?」
「怒ってねぇよ。……別に」
空也は横を向いた。その表情には、疲労とともに、かすかな安堵が滲んでいた。
ふうはそれ以上近づかず、そっと距離を取る。羽を静かにたたみ、声を柔らげた。
「じゃあ、おやすみ。風、弱めておくね。空也が眠りやすいように」
その言葉の意味は、よく分からなかった。だが、ふうが本堂の戸口に腰を下ろし、外の風に指先で触れるような仕草をすると、霧の流れがゆっくりと落ち着き、空気が整っていくのが分かった。
空也は再び、眠りへと身を委ねる。悪夢が完全に消えたわけではない。それでも今夜は、いつもより――浅く、静かだった。
――その夜、廃寺には、ひとつの穏やかな風が吹いていた。
◇
ふうがやってきてから、いくつかの朝と夜が、廃寺の中を静かに巡った。
ある夕刻。
空也は滝行に向かっていた。山の水は刺すように冷たく、皮膚は瞬く間に赤く染まり、呼吸は細く削られていく。
「ねぇ、それ本当に死ぬってば!」
ふうが叫び、風を巻き起こして滝に割り込んだ。水流の中から空也の身体を強引に引き剥がし、そのまま地面へ引き戻す。
「離せ……俺は……!」
「離さない! 死んだら意味ないでしょ!」
空也は地面に倒れ込み、荒い息を吐いた。ふうは胸を押さえるような仕草で、心配そうに彼を覗き込む。
「空也……生きててほしいんだよ……?」
その声音は、不意に幼かった。空也は返事をしなかったが、視線を逸らしたまま、自分の手が小刻みに震えていることに気づいていた。
それからも、似たような朝と夜が、いくつも巡った。ふうは去らず、空也も追い払わなかった。
ある日の朝。
縁側で、空也は薄い茶を啜っていた。ふうは隣で、風を操りながら落ち葉を集めている。
「ねぇねぇ、空也ってさ、趣味とかないの?」
「……ない」
「友達は?」
「……いない」
「恋人は?」
「……しつこいぞ、お前……!」
思わず声を荒げると、ふうは「わー!」と羽を広げ、風に押し上げられるようにふわりと浮いた。
「今の、ちょっと元気だった!」
「……うるさい」
空也は目を逸らし、飛ぶたびにこちらの意識をかき乱す存在だ、と内心で小さく毒づいた。その声には、ほんのわずかだが、生気が戻っていた。ふうはそれを敏感に感じ取り、嬉しそうにまた隣へ腰を下ろす。
早朝。
本堂で横になる空也に、ふうはそっと布をかけた。寒さで震えているのに、空也は気づかないふりをしていた。布越しに伝わる温もりが、胸の奥に微かな痛みを生む。痛むのに、どこか懐かしい。ふうは寝顔を見つめ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「空也。わたしね……ほんとは、こういう時間……すごく好きなんだよ」
とある昼間。
空也は縁側で、山をぼんやり眺めていた。
陽に照らされた霧が淡く揺れ、ふうは近くの木に登り、枝の上で揺れながら見下ろしている。黒い羽は枝葉と混じり、風に溶けるようだった。
「ねぇ空也ー。なんでそんなに無口なの?」
「お前が喋りすぎなんだよ。普通は疲れるだろ」
「疲れないよ。風はたくさん喋るんだもん」
「風が喋るとか言う時点で……お前、まともじゃないな」
「えへへ、そうだよ?」
枝が揺れ、ふうが軽やかに飛び降りる。羽でふわりと着地した瞬間、スカートが風に持ち上げられた。
空也は反射的に顔を背けた。理由は分からない。ただその一瞬、胸の奥に細い影が落ちた。
「お前……そんな格好で飛ぶなよ……」
「え? だいじょうぶだよ、タイツ履いてるし?」
「そういう問題じゃねぇんだよ……」
言い返しかけ、空也は言葉を飲み込んだ。ふうは首を傾げ、にこりと笑う。
「……空也、もしかして見たいの?」
「うるさい! ほっとけ!」
ふうは気にした様子もなく、空也の隣に陣取る。
「空也、今日の苦行は?」
「……やらなくていいだろ。お前に関係ない」
「あるよ! 空也はわたしの“見える人間”なんだから」
「……誰がそんな……」
言葉は途中で途切れた。胸の奥で、余白の種子がかすかに震えたからだ。ふうはその反応を逃さず、そっと空也の胸元を見る。
「ねぇ……痛くない?」
「痛くてもいい。……痛みがない方が、もっと……」
空也は言葉を止めた。それ以上踏み込めば、胸の奥の冷たい部分に触れてしまう気がした。
ふうは明るく、風で落ち葉を転がすように話題を変える。
「じゃあ! 今日は修行じゃなくて、お散歩しよ?」
「……しない」
「散歩ぐらいいいじゃん。山、綺麗だよ?」
「……」
「空也。一歩だけでも、動くって大事なんだよ」
その言葉が、胸に重く落ちた。“動く”という音が、どうしてこんなにも痛むのか分からない。
「嫌なら無理に動けとは言わないよ?」
ふうは羽をすぼめ、少しだけ寂しそうに続ける。
「でも……空也が止まってるの、見てるほうがつらい」
「……なんだよ、それ」
「人間でも風でも……止まったら、消えちゃうんだよ」
胸がひどく疼き、空也は視線を伏せた。山が夕焼けに染まる。
空也はふうに背を向け、本堂で座禅を組んでいた。だが心は定まらず、瞼の裏では断片的な記憶が揺れている。
炎。
叫び声。
兄の背中。
あの夜、自分は何を――。
「空也?」
ふうが背後に立つ。羽が床をかすめる柔らかな音。
「ねぇ……ずっと思ってたけど」
「……なんだよ」
「空也の中の風……ずっと“怖い”って言ってるよ」
「……は?」
「怖い怖いって、弱い風がずっと泣いてるみたい」
「やめろ……勝手なこと言うな」
「勝手じゃないよ。空也の胸の奥、ずっと……“こわい”って震えてる」
空也は振り返り、思わず睨んだ。
「……うるさい……!」
荒れた声に、自分自身が驚く。
ふうは一瞬びくりとしたが、すぐに静かに微笑んだ。
「うん。怒っていいよ」
「怒って……ない……」
「でも声があるって、いいね。昨日より……ちゃんと、生きてる」
空也は何も返せず、息を乱す。風だけが、本堂の空気を揺らしていた。ふうの羽も、同じように揺れている。
朝露に濡れる草木。
冷たい空気が本堂に染み込み、空也は再び座禅を組んで耐えていた。ふうは本堂の前で待っていた。いつもより羽の揺れは小さく、表情も硬い。
「ねぇ、空也」
その声は、いつもの軽さを失っている。
「……なんだよ」
ふうは真っ直ぐ見つめて言った。
「ここに留まってても、あなたが望む結果にはならないよ」
呼吸が、ひとつ止まった。
「空也。あなたはここで死にたいわけじゃないでしょ?」
「……そんなこと、言ってねぇ」
「じゃあ、生きたいんだよ。でも……止まったまま生きることは、できない」
拳を握り、視界が揺れる。
「……ここにいるのが……一番楽なんだよ」
「楽じゃない」
ふうは静かに首を振る。
「痛いのに、苦しいのに、それを楽って言うのは……嘘だよ」
「……嘘じゃねぇ」
「嘘だよ。空也の風……ずっと泣いてる」
黒い羽が、風を吸い込むように揺れた。
「わたしね……止まってたら、本当に消えるところだった」
空也は、ふうを見た。
「風は、動かなきゃ生きられない。止まったら……弱って……最後には消える」
その声は震えていた。長いあいだ、風の中でひとりだった者の震え。
「空也も同じ。止まったままじゃ……壊れちゃう」
その瞬間。ポケットの中の種子が、強く震えた。空也は胸を押さえ、膝をつく。それはもう偶然ではない、明確な脈動だった。
「ほら……分かるでしょ。空也の中の風、動きたいって言ってる」
ふうが、そっと手を伸ばす。空也は振り払おうとして――その手を、空中で止めた。
「……ふう」
「うん」
「……俺、どうすれば……いいんだよ」
それは、初めて零れた助けを求める声だった。
ふうは膝をつき、空也の胸元に手を伸ばす。紐に指をかけ、風がその形を整えていく。気づけば、余白の種子は小さなペンダントとなり、空也の胸で静かに揺れていた。
「ここが、一番落ち着くんだよ。空也の風も、きっとそう言ってる」
空也は拒まなかった。胸の奥の震えが、自分の意思とは別の場所で肯定していた。
ふうは、泣きそうなほど優しく微笑む。
「……いっしょに行こ」
「空也が歩けるところまで、わたしも行くから」
◇
ふうは空也のすぐ近くに膝をついた。羽の影が、朝の光を受けて淡く揺れる。それは風そのものが、かろうじて形を持ったかのような輪郭だった。
「空也。ここは“留まる場所”じゃないんだよ」
空也は何も答えない。
「でもね。“出ていく場所”には、できる」
ゆっくりと顔を上げる。霧が晴れかけた山の斜面に、薄い朝日が差し込み、ふうの横顔を柔らかく照らしていた。
「……どこに、行けばいいんだよ」
「うーん……」
ふうは指を口元に当て、少し考える素振りを見せる。次の瞬間、迷いなく北の空を指さした。
「北のほう。“泣いてる風”がいるから」
「……泣いてる風?」
「うん。ずっと、誰にも気づかれないまま泣いてるの」
羽がふわりと開き、それに呼応するように山の風がざわめいた。
「その風ね……空也の中の風と、すごく似てる」
胸の奥が、かすかに震えた。余白の種子が、呼吸をなぞるように脈打つ。
「ほっとけよ。俺とは関係ねぇ」
「そうかな?」
ふうは笑ったが、その瞳に軽さはなかった。
「空也。あなたは風が見えるし、わたしも見える。それだけでね……もう“歩ける道”はできてるんだよ」
「……勝手なこと言うなよ」
「うん。勝手だよ?」
悪びれもせず、ふうは肩をすくめる。
「でも……空也の風はね。“行きたい”って、ほんのちょっとだけ揺れた」
空也は目を逸らした。胸の奥の微かな震えを、他人に言い当てられることが、どんな苦行よりも鋭く、痛みを伴っていた。なぜこの少女だけが、ここまで分かってしまうのか――その問いは言葉にならず、息として胸の内に沈んでいく。
そのとき、ふうがそっと手を差し出した。人間よりわずかに温かく、風の気配をまとった手。
「空也。一緒に行こう」
「歩けるところまででいい。途中で嫌になったら、止まってもいい」
「……お前、なんで……俺に構うんだよ」
声はかすれ、喉の奥で途切れた。
ふうは一瞬だけ目を丸くし、それから――ゆっくりと笑った。
「決まってるじゃん」
その瞳は、風の音よりも澄んでいた。
「だって――あなた、わたしに“見えてる”んだもん」
一瞬、風が強く吹く。羽と髪が揺れ、朝の空気が震えた。
空也の胸元で、余白の種子がはっきりと脈を打つ。それは鼓動とは異なる律動で、皮膚の下から、指先をそっと呼ぶように広がっていった。――何かを、思い出させようとしている。
「……チッ……」
空也は立ち上がり、ふうから顔を背ける。
「……勝手にしろ」
ふうの表情が、一気に明るくなる。
「うんっ! 勝手にする!」
羽をぱたぱたと揺らしながら、ふうは空也の横に並んだ。風の道に、足跡を重ねるように。
「じゃ、行こっか。空也」
「……名前呼ぶな」
「えー……じゃあ、空也くん?」
「もっと呼ぶな!」
「ははっ!」
ふうの笑い声が、山に弾む。空也は眉をひそめながらも、歩き出した足を止めなかった。廃寺は、静かにその背中を見送っていた。
風が二人の背を押す。新しい道の始まりを告げるように。
こうして――空也とふうの“巡礼”が、始まった。
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