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余白巡礼 第三章「聴解」
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山を抜け、さらに北へ向かうほど、風は冷え、光は細く削がれていった。
細い山道を、ふうが先導して歩く。
「疲れたら、無理しなくていいよ?」
「……別に」
「“別に”って言い方、壊れかけの人間がよくするんだよ?」
ふうは前を向いたまま、風の話を続けた。
「泣いてる風ってね、べったりしてるんだよ。怒ってる風は、刺さる感じ。でも泣いてる風は……まとわりついて、離れたくないって言ってくる」
「風が、離れたくない?」
「うん。“ここにいて”って。……たぶん、誰かが置いていかれた場所で、よく吹く」
その言葉に、空也の胸の奥がふとざわついた。
置いていかれた場所――会議室の張りつめた空気、病室に満ちていた沈黙、燃え始める家の匂い。どれも輪郭が曖昧で、すぐには言葉にできない記憶ばかりだった。
「人間の“空気”も、そういうもんだろ」
そう言って誤魔化そうとしたが、声は自分でも分かるほど掠れていた。ふうは歩みを止め、振り返って空也をじっと見つめる。
「……空也、よく生きてたね」
「は? 何の話だよ」
「だって今の、ちょっと“死んでる風”だったから」
空也は答えず、胸元に下げた余白の種子へ指を触れた。歩くたび、そこに微かな鼓動が響く。北へ進むほど、その震えが確かに強くなっているのが分かる。
ふうが振り返り、羽を揺らして笑った。
「泣いてる風が、空也を呼んでるんだよ」
空也は小さく舌打ちする。
「意味わからん……」
それでも歩幅は、自然とふうの速度に合っていた。やがて視界が開ける。
「見て。あれが……鹿哭沼」
ふうは沼を見下ろしながら言った。
「ここ、人間は“鹿の墓場”って呼んでるよ。年寄りの鹿が歩けなくなったら、ここに来るんだって。勝手にそう決めつけて、昔話にしてる」
「勝手に、ね」
「うん。本当はちょっと違う。鹿は“置いていかない”んだよ。ここで倒れた仲間のそばに、ずっと立ってる。それを人間が見て、“ここで死ぬんだ”って思い込んだの」
空也は黒い水面を見つめた。風が吹くたび、すすり泣きのような音が沼から立ち上がる。祈りと諦め、そして諦めきれない何かが混ざり合った、不思議な音色だった。
「……なんだ、この音」
「泣き声だよ。でも鹿のじゃない。“ひとつだけ違う風”が混じってるの」
そのとき、水面の下で“影”が揺れた。空也は思わず息を呑む。
「……あれは、なんだ」
沼の奥で揺れているのは、風ではない――獣の影だった。鹿のようで、鹿ではない。輪郭が歪んで滲み、脚にあたる部分は泥と闇に溶け込んでいる。
ふうはその影をじっと見つめ、静かに告げる。
「余白の“滲み”。鹿の形がほどけてしまった子……怪異だよ」
そして、声を少し落とした。
「たぶん律導庁のやつらに、何かされたんだと思う。名前、思い出せないみたいで……かわいそう」
名前を奪われた鹿の祈り。存在の輪郭を保てず、ただ“声”だけが形になった影。その獣影が怯えるように震えるのを見て、空也の胸の奥がざわめいた。
直後、胸元の種子が強く脈動する。
「っ……!」
ふうが振り返った。
「……呼んでる。空也を」
理由は分からない。だが胸の震えが、確かに自分に向けられたものだと分かってしまった。足が、意思とは無関係に沼へ近づいていく。
水面が裂ける。鹿の影が、泣き声とともに吹き上がった。その声はやがて悲鳴に変わり、森を震わせる。
ふうが羽を広げ、風を巻き起こす。
「空也、下がって! あれ、危ないから!」
だが怪異はその風を拒み、影を揺らしながら空也へ飛びかかる。
「空也、ダメ!!」
ふうの叫びが響く。
それでも空也は、一歩も動かなかった。恐怖よりも強い、胸を引き寄せられる感覚が勝っていた。鹿の影が目前に迫る。空也は、伸ばしてはいけないと分かっていながら、手を伸ばしていた。
「空也!!」
ふうの悲鳴と同時に、空也の指先が獣影の冷たい輪郭に触れる。
――胸の奥が爆ぜた。
視界が白く弾け、世界の輪郭が、音もなくほどけていった。
◇
流れ込んでくるのは、鹿の“祈り”の記憶だった。
夕暮れの森。
金色の光が、鹿の群れの背を静かに照らしている。
群れの中央には、小さな子鹿がいた。世界に触れたばかりの、か細い脚。泥が崩れ落ちる。子鹿の悲鳴。沼に沈んでいく瞳に映ったのは、必死に呼びかける母鹿の姿だった。
泣き声は風に届かない。ただ沈み、ただ消えていく。
夜。
群れは沼の縁で動かずにいた。ひとつ、またひとつ、小さな声で、祈るように鳴き始める。
――帰ってきて。
――忘れないから。
声は風に混じり、沼と闇の境目へ溶けていった。
それは怨みではない。仲間を喪った鹿たちの、ただの祈りだった。
そこへ札が押しつけられる。光が潰れ、声が封じられる。名も、祈りも、形を失っていく痛み。怒りではなく、胸の奥を静かに締めつける哀しみだけが、そこに残っていた。
空也の胸に、はっきりとした確信が落ちる。これは怪異などではない。胸の深いところに、ひとつの音が沈む。名を与える前の、かすかな予感のような音だった。
◇
空也は目を開けた。黒い影が、怯えるように震えている。それは祈りの形を失っただけの存在だと、今は分かる。空也は震える息を整え、その名を呼んだ。
「……おまえの名前は……鹿泣(かなき)だ」
影はほどけ、淡い光へと変わり、沼の上へ静かに昇っていく。泣き声は風の音へ戻り、森はようやく、息を取り戻した。森が呼吸を思い出すように、風が梢を撫でていく。空也は、自分の呼吸がまだ整っていないことに気づいた。
「……はっ……」
胸を押さえると、指先に冷たい感触が触れる。見ると、手の甲に一滴の雫が落ちていた。
「泣いてるよ、空也」
ふうの声がする。見上げると、彼女は少しだけ寂しそうに笑っていた。
「泣いてるつもりは……」
そう言いかけて、頬を伝うものに気づく。感情としては追いついていないのに、身体だけが先に反応していた。
「聞いちゃったからだよ」
ふうは羽をすぼめながら言う。
「あの子たちの祈り。わたしは、あんまり“聞かないように”してる。聞いたら、きっと飛べなくなるから」
そして、少し照れたように付け足す。
「でも……ほんとにすごいよ、空也。あなた、“聞ける”んだね……」
その笑みは、一瞬だけ揺れた。次の瞬間――ふうの足元の影が、ふっと薄れる。ふう自身の輪郭も淡く透けたように見えた。空也は思わず瞬きをする。刹那、ふうの姿が光の中へ溶けるように消えた気がした。
「……おい、今……」
声をかけようとした、その瞬間。ふうは、いつもの少女の姿で振り返る。無邪気に首を傾げて。
「どうしたの? 空也」
その笑みの奥で、風に混じるような寂しさが、ほんの一瞬だけ揺れた。空也は、そのざわめきを言葉にできなかった。
胸元の余白の種子は、なおも淡い風色に、静かに脈打ち続けていた。
◇
鹿泣が余白へ還った沼は、嘘のように静まり返っていた。風は弱く、霧が水面を撫でるように、ゆっくりと滑っていく。
空也は、まだ胸の奥に残る震えを抱えたまま、沼の縁を歩くふうの背を見つめていた。
ふうの羽が、ひそやかに震れている。その気配はどこか落ち着かず、胸の奥で何かを探すようだった。
「ねぇ、空也……」
言いかけた、その瞬間――ふうの瞳が、細い刃のようにすっと鋭くなる。
「……伏せて!」
叫ぶと同時に、ふうは空也の腕を掴み、地面へ押し倒した。
次の瞬間。空気が、ひとつ波打った。霧の幕に、丸く穿たれた穴が浮かぶ。水面が揺れ、白い滴が散った。音はない。ただ、世界のどこかが一瞬だけ欠け落ちたような感覚。足元の抉れた地面が、その破壊の鋭さを静かに語っている。
ふうが、息を呑んだ。
風の層が、ひとつだけ歪んでいる。そこだけ、世界の縁が裂けていた。
「……風が……撃たれた……」
声には、微かな震えが混じっていた。続いて、確信を疑うように呟く。
「……この気配……天狗……?」
空也は思わず息を止めた。
「天狗って……お前の仲間か?」
ふうは、ゆっくりと首を振る。
その仕草には、懐かしさと恐怖の両方が滲んでいた。
「……違う。“あいつら”じゃない。あの山の大人たちの風じゃない……」
言葉を探すように、羽先がかすかに震える。
「でも……天狗の気配は、確かにある……なんで……こんな場所で……?」
追撃の気配は確かに迫っている。それなのに、ふうの視線が見ているのは、もっと別の――理解できない恐怖だった。
「……やっぱり……風で撃ってきてる……でも……この風……誰なの……天狗の気配なのに……読めない……」
その直後、再び空間が、無音のまま爆ぜた。沼のそばの木の枝が、斜めから撃ち抜かれたように裂け落ちる。見えない矢が、風の層そのものを貫いたかのようだった。
ふうは空也の手を、強く掴んだ。
「……空也、走るよ!」
「は!?」
「いいから!」
風が巻き上がり、ふたりの足元が、ふっと軽くなる。続けざまに風が跳ね、木肌が裂け、霧が弾けた。
それは明確な“風の攻撃”だった。ためらいも、警告もない。
ふうは歯を噛みしめる。
「……やっぱり……! この圧……誰……? こんな風、知らない……!」
その破裂音の余韻が胸を貫いた瞬間――空也の呼吸が、ふいに乱れた。死ぬ、という言葉にもならない予感が、反射のように全身を締めつける。
視界の端が、わずかに焼けた橙色に染まった。
崩れる柱。焦げた匂い。炎に照らされる兄の背中。音だけが異様に大きく響く部屋。
一瞬の幻が、現実よりも鋭く胸を刺す。
喉が狭まり、空気が入らない。今じゃない、と必死に否定しようとするのに、胸は焼けるように痛み、足元から世界が遠ざかっていく。風の音と、自分の鼓動だけが、異様に大きい。肺がきしむように固まり、声が出ない。息を吸おうとしても、空気が落ちてこない。逃げなければならないのに、身体は“止まる記憶”を思い出していた。焼けた家の中で、動けなくなった、あの瞬間を。
ふうが空也を抱き寄せた、そのとき、風がふたりの体を、細い糸で引くように持ち上げた。ふうに腕を引かれた拍子に、胸の締めつけが、わずかにほどける。空気が、ひと筋、喉へ落ちた。それだけで、世界が少しずつ色を取り戻し始める。
まだ、動ける。その感覚にすがるように、空也は息を吸い込んだ。
次の瞬間、ふうの風が、ふたりの身体を大きく持ち上げる。
「掴まってて――!」
ふうが木々の間へ飛び込んだ。地面すれすれを、風が滑る。湿った土の匂いが足元をかすめ、枝葉の隙間を、鋭い風が切り裂いていく。背後で、木が裂ける音がした。追ってくる風の気配。ふうの羽の先が震える。
「……追ってきてる……近い……!」
「ふう……お前……なんでそんなに……」
「あと!! 空也、目閉じないで!! 木にぶつかったら……身体、壊れちゃう!!」
「じゃあ閉じられるわけないだろ……!」
ふうは、半分泣きながら、それでも笑った。
速度がさらに上がる。森が横へ流れ、木漏れ日の粒が、鋭い線になって走り抜ける。もう一度、風がすぐそばを掠めた。だが、ふうが巻いた風がそれを弾き逸らす。
ようやく、森の出口が見えてきた。
ふうの呼吸は荒く、空也の胸の種子は、脈打つたびに淡い光を滲ませている。
「……はぁ、はぁ……ここまで来れば……」
ふうが速度を緩めた、その瞬間――空也の身体から、すっと力が抜け落ちた。
ふうは慌てて抱え直す。
「空也!?」
空也は、震える息のまま、かすかに囁く。
「俺……まだ……大丈夫……」
「もう無理だって! “聞きすぎ”なんだよ……!」
空也の瞳が、ゆらりと揺れ、その光が、ふっと遠のいていく。
ふうの声が霞む。
「空也……!」
落ちていく意識の底で、空也は胸元の光へ、手を伸ばした。唇から、ひとしずく零れるように、言葉が落ちる。
「……名前……」
その一言を最後に、空也は完全に沈んだ。沈んでいく途中で、世界がひとつに混ざる。焼け落ちる家の前に、鹿の群れが立っている。黒い煙の向こうで、角の影がいくつも揺れていた。
その群れの中に、ひとりの少年が混じっている。泣きながら家を見つめているのに、足は一歩も動かない。
行かなければならない。置いていけない。けれど、怖い。
誰の声か分からない。自分と、子鹿と、兄の声が溶け合い、ひとつの祈りになっていた。
遠くで、誰かが空也の名を呼んだ気がした。兄の声にも、風の声にも聞こえた。
ふうは空也を抱え直し、立ち上がる。足元の風が、そっと支えるように流れた。
「……空也。なんでこんなに……危なっかしいの……」
怒っているようで、泣きそうな声だった。
ふうは、西の空を見つめる。
「……行かなきゃ。“あそこ”なら……空也、休めるから」
風が、羽をそっと撫でていく。ふうは空也を抱え直し、西へ向かって歩き出した。
夕霧の色が山影を淡く染め、空也の胸元の種子は、なお微かに光り続けていた。
◇
夕霧が山を覆うころ、鹿哭沼のほとりには、すでに誰の気配もなかった。
ただ、小さく揺れる余白の粒だけが、帰り道を探すように、水面の上を漂っている。
その静寂を裂くように、霧の奥からひとりの影が歩み出た。
如月漣(きさらぎ れん)。
黒衣の裾を静かに曳き、足跡を残さぬまま、沼の縁へと近づく。漣はしゃがみ込み、地面にかすかに残った律鎖の残滓へ、指先を伸ばした。短い接触ののち、その表情がわずかに動く。律導庁の律鎖が、完全に解かれている。しかも、発動からそれほど時間は経っていない。人間が――この短時間で。驚愕よりも、先に胸を満たしたのは興奮だった。
「――興味深い」
その呟きと呼応するように、霧の奥で小さな風が巻き起こる。
渦がほどけると、風の影が、人の形を模そうとして失敗したかのように揺らいだ。
細い身体。風そのものを押し固めたような、淡い緑の光。草のそよぎに似た髪が揺れ、四肢は風の線をなぞるように細長い。ただひとつ、その瞳だけが、暗い赤の光を静かに宿していた。
疾風(シップウ)零号。
天狗の風が影を帯び、未完成な形でこの世に留められた存在。声は持たない。風の揺れそのものが、意思の代わりだった。
漣は沼を見下ろしながら、かつて目を通した報告書の断片を思い返していた。行方不明。転落事故。鹿の異常行動。どれも偶然として処理され、記録の底へ沈められた事象。
「……偶然にしては、出来すぎている」
誰に向けるでもなく呟き、唇にわずかな笑みを浮かべる。
疾風零号は、その横顔を見上げていた。人間の表情の意味は理解できない。けれど、この人物のそばにいると、風は不思議と乱れない。それだけは、身体の奥のどこかが、確かに知っていた。
疾風零号は漣の前に降り立ち、胸のあたりで風をひとつ、震わせる。鹿哭沼で起きた“解鎖”の光景が、淡い揺れとなって、漣へと返された。漣は、口元をわずかに歪めた。
「……ふう、か。天狗の小娘に――律鎖を解く人間」
指先で顎をなぞり、静かに続ける。
「なるほど。確かに“特異点”になり得る」
疾風零号が、風の触手のように伸ばした腕で、漣の肩へ触れる。風が、人の仕草を真似ているような、不完全な動作。
漣は淡く笑みを落とし、その頭に軽く指を置いた。
「行くぞ、零号。“次”を見極める」
疾風零号は、ひそやかな音を立てて鳴いた。風が、嬉しそうに笑ったような、透明で、幼い音。二つの影は、霧の奥へと静かに溶けていった。
鹿哭沼には再び、風の声だけが残された。
細い山道を、ふうが先導して歩く。
「疲れたら、無理しなくていいよ?」
「……別に」
「“別に”って言い方、壊れかけの人間がよくするんだよ?」
ふうは前を向いたまま、風の話を続けた。
「泣いてる風ってね、べったりしてるんだよ。怒ってる風は、刺さる感じ。でも泣いてる風は……まとわりついて、離れたくないって言ってくる」
「風が、離れたくない?」
「うん。“ここにいて”って。……たぶん、誰かが置いていかれた場所で、よく吹く」
その言葉に、空也の胸の奥がふとざわついた。
置いていかれた場所――会議室の張りつめた空気、病室に満ちていた沈黙、燃え始める家の匂い。どれも輪郭が曖昧で、すぐには言葉にできない記憶ばかりだった。
「人間の“空気”も、そういうもんだろ」
そう言って誤魔化そうとしたが、声は自分でも分かるほど掠れていた。ふうは歩みを止め、振り返って空也をじっと見つめる。
「……空也、よく生きてたね」
「は? 何の話だよ」
「だって今の、ちょっと“死んでる風”だったから」
空也は答えず、胸元に下げた余白の種子へ指を触れた。歩くたび、そこに微かな鼓動が響く。北へ進むほど、その震えが確かに強くなっているのが分かる。
ふうが振り返り、羽を揺らして笑った。
「泣いてる風が、空也を呼んでるんだよ」
空也は小さく舌打ちする。
「意味わからん……」
それでも歩幅は、自然とふうの速度に合っていた。やがて視界が開ける。
「見て。あれが……鹿哭沼」
ふうは沼を見下ろしながら言った。
「ここ、人間は“鹿の墓場”って呼んでるよ。年寄りの鹿が歩けなくなったら、ここに来るんだって。勝手にそう決めつけて、昔話にしてる」
「勝手に、ね」
「うん。本当はちょっと違う。鹿は“置いていかない”んだよ。ここで倒れた仲間のそばに、ずっと立ってる。それを人間が見て、“ここで死ぬんだ”って思い込んだの」
空也は黒い水面を見つめた。風が吹くたび、すすり泣きのような音が沼から立ち上がる。祈りと諦め、そして諦めきれない何かが混ざり合った、不思議な音色だった。
「……なんだ、この音」
「泣き声だよ。でも鹿のじゃない。“ひとつだけ違う風”が混じってるの」
そのとき、水面の下で“影”が揺れた。空也は思わず息を呑む。
「……あれは、なんだ」
沼の奥で揺れているのは、風ではない――獣の影だった。鹿のようで、鹿ではない。輪郭が歪んで滲み、脚にあたる部分は泥と闇に溶け込んでいる。
ふうはその影をじっと見つめ、静かに告げる。
「余白の“滲み”。鹿の形がほどけてしまった子……怪異だよ」
そして、声を少し落とした。
「たぶん律導庁のやつらに、何かされたんだと思う。名前、思い出せないみたいで……かわいそう」
名前を奪われた鹿の祈り。存在の輪郭を保てず、ただ“声”だけが形になった影。その獣影が怯えるように震えるのを見て、空也の胸の奥がざわめいた。
直後、胸元の種子が強く脈動する。
「っ……!」
ふうが振り返った。
「……呼んでる。空也を」
理由は分からない。だが胸の震えが、確かに自分に向けられたものだと分かってしまった。足が、意思とは無関係に沼へ近づいていく。
水面が裂ける。鹿の影が、泣き声とともに吹き上がった。その声はやがて悲鳴に変わり、森を震わせる。
ふうが羽を広げ、風を巻き起こす。
「空也、下がって! あれ、危ないから!」
だが怪異はその風を拒み、影を揺らしながら空也へ飛びかかる。
「空也、ダメ!!」
ふうの叫びが響く。
それでも空也は、一歩も動かなかった。恐怖よりも強い、胸を引き寄せられる感覚が勝っていた。鹿の影が目前に迫る。空也は、伸ばしてはいけないと分かっていながら、手を伸ばしていた。
「空也!!」
ふうの悲鳴と同時に、空也の指先が獣影の冷たい輪郭に触れる。
――胸の奥が爆ぜた。
視界が白く弾け、世界の輪郭が、音もなくほどけていった。
◇
流れ込んでくるのは、鹿の“祈り”の記憶だった。
夕暮れの森。
金色の光が、鹿の群れの背を静かに照らしている。
群れの中央には、小さな子鹿がいた。世界に触れたばかりの、か細い脚。泥が崩れ落ちる。子鹿の悲鳴。沼に沈んでいく瞳に映ったのは、必死に呼びかける母鹿の姿だった。
泣き声は風に届かない。ただ沈み、ただ消えていく。
夜。
群れは沼の縁で動かずにいた。ひとつ、またひとつ、小さな声で、祈るように鳴き始める。
――帰ってきて。
――忘れないから。
声は風に混じり、沼と闇の境目へ溶けていった。
それは怨みではない。仲間を喪った鹿たちの、ただの祈りだった。
そこへ札が押しつけられる。光が潰れ、声が封じられる。名も、祈りも、形を失っていく痛み。怒りではなく、胸の奥を静かに締めつける哀しみだけが、そこに残っていた。
空也の胸に、はっきりとした確信が落ちる。これは怪異などではない。胸の深いところに、ひとつの音が沈む。名を与える前の、かすかな予感のような音だった。
◇
空也は目を開けた。黒い影が、怯えるように震えている。それは祈りの形を失っただけの存在だと、今は分かる。空也は震える息を整え、その名を呼んだ。
「……おまえの名前は……鹿泣(かなき)だ」
影はほどけ、淡い光へと変わり、沼の上へ静かに昇っていく。泣き声は風の音へ戻り、森はようやく、息を取り戻した。森が呼吸を思い出すように、風が梢を撫でていく。空也は、自分の呼吸がまだ整っていないことに気づいた。
「……はっ……」
胸を押さえると、指先に冷たい感触が触れる。見ると、手の甲に一滴の雫が落ちていた。
「泣いてるよ、空也」
ふうの声がする。見上げると、彼女は少しだけ寂しそうに笑っていた。
「泣いてるつもりは……」
そう言いかけて、頬を伝うものに気づく。感情としては追いついていないのに、身体だけが先に反応していた。
「聞いちゃったからだよ」
ふうは羽をすぼめながら言う。
「あの子たちの祈り。わたしは、あんまり“聞かないように”してる。聞いたら、きっと飛べなくなるから」
そして、少し照れたように付け足す。
「でも……ほんとにすごいよ、空也。あなた、“聞ける”んだね……」
その笑みは、一瞬だけ揺れた。次の瞬間――ふうの足元の影が、ふっと薄れる。ふう自身の輪郭も淡く透けたように見えた。空也は思わず瞬きをする。刹那、ふうの姿が光の中へ溶けるように消えた気がした。
「……おい、今……」
声をかけようとした、その瞬間。ふうは、いつもの少女の姿で振り返る。無邪気に首を傾げて。
「どうしたの? 空也」
その笑みの奥で、風に混じるような寂しさが、ほんの一瞬だけ揺れた。空也は、そのざわめきを言葉にできなかった。
胸元の余白の種子は、なおも淡い風色に、静かに脈打ち続けていた。
◇
鹿泣が余白へ還った沼は、嘘のように静まり返っていた。風は弱く、霧が水面を撫でるように、ゆっくりと滑っていく。
空也は、まだ胸の奥に残る震えを抱えたまま、沼の縁を歩くふうの背を見つめていた。
ふうの羽が、ひそやかに震れている。その気配はどこか落ち着かず、胸の奥で何かを探すようだった。
「ねぇ、空也……」
言いかけた、その瞬間――ふうの瞳が、細い刃のようにすっと鋭くなる。
「……伏せて!」
叫ぶと同時に、ふうは空也の腕を掴み、地面へ押し倒した。
次の瞬間。空気が、ひとつ波打った。霧の幕に、丸く穿たれた穴が浮かぶ。水面が揺れ、白い滴が散った。音はない。ただ、世界のどこかが一瞬だけ欠け落ちたような感覚。足元の抉れた地面が、その破壊の鋭さを静かに語っている。
ふうが、息を呑んだ。
風の層が、ひとつだけ歪んでいる。そこだけ、世界の縁が裂けていた。
「……風が……撃たれた……」
声には、微かな震えが混じっていた。続いて、確信を疑うように呟く。
「……この気配……天狗……?」
空也は思わず息を止めた。
「天狗って……お前の仲間か?」
ふうは、ゆっくりと首を振る。
その仕草には、懐かしさと恐怖の両方が滲んでいた。
「……違う。“あいつら”じゃない。あの山の大人たちの風じゃない……」
言葉を探すように、羽先がかすかに震える。
「でも……天狗の気配は、確かにある……なんで……こんな場所で……?」
追撃の気配は確かに迫っている。それなのに、ふうの視線が見ているのは、もっと別の――理解できない恐怖だった。
「……やっぱり……風で撃ってきてる……でも……この風……誰なの……天狗の気配なのに……読めない……」
その直後、再び空間が、無音のまま爆ぜた。沼のそばの木の枝が、斜めから撃ち抜かれたように裂け落ちる。見えない矢が、風の層そのものを貫いたかのようだった。
ふうは空也の手を、強く掴んだ。
「……空也、走るよ!」
「は!?」
「いいから!」
風が巻き上がり、ふたりの足元が、ふっと軽くなる。続けざまに風が跳ね、木肌が裂け、霧が弾けた。
それは明確な“風の攻撃”だった。ためらいも、警告もない。
ふうは歯を噛みしめる。
「……やっぱり……! この圧……誰……? こんな風、知らない……!」
その破裂音の余韻が胸を貫いた瞬間――空也の呼吸が、ふいに乱れた。死ぬ、という言葉にもならない予感が、反射のように全身を締めつける。
視界の端が、わずかに焼けた橙色に染まった。
崩れる柱。焦げた匂い。炎に照らされる兄の背中。音だけが異様に大きく響く部屋。
一瞬の幻が、現実よりも鋭く胸を刺す。
喉が狭まり、空気が入らない。今じゃない、と必死に否定しようとするのに、胸は焼けるように痛み、足元から世界が遠ざかっていく。風の音と、自分の鼓動だけが、異様に大きい。肺がきしむように固まり、声が出ない。息を吸おうとしても、空気が落ちてこない。逃げなければならないのに、身体は“止まる記憶”を思い出していた。焼けた家の中で、動けなくなった、あの瞬間を。
ふうが空也を抱き寄せた、そのとき、風がふたりの体を、細い糸で引くように持ち上げた。ふうに腕を引かれた拍子に、胸の締めつけが、わずかにほどける。空気が、ひと筋、喉へ落ちた。それだけで、世界が少しずつ色を取り戻し始める。
まだ、動ける。その感覚にすがるように、空也は息を吸い込んだ。
次の瞬間、ふうの風が、ふたりの身体を大きく持ち上げる。
「掴まってて――!」
ふうが木々の間へ飛び込んだ。地面すれすれを、風が滑る。湿った土の匂いが足元をかすめ、枝葉の隙間を、鋭い風が切り裂いていく。背後で、木が裂ける音がした。追ってくる風の気配。ふうの羽の先が震える。
「……追ってきてる……近い……!」
「ふう……お前……なんでそんなに……」
「あと!! 空也、目閉じないで!! 木にぶつかったら……身体、壊れちゃう!!」
「じゃあ閉じられるわけないだろ……!」
ふうは、半分泣きながら、それでも笑った。
速度がさらに上がる。森が横へ流れ、木漏れ日の粒が、鋭い線になって走り抜ける。もう一度、風がすぐそばを掠めた。だが、ふうが巻いた風がそれを弾き逸らす。
ようやく、森の出口が見えてきた。
ふうの呼吸は荒く、空也の胸の種子は、脈打つたびに淡い光を滲ませている。
「……はぁ、はぁ……ここまで来れば……」
ふうが速度を緩めた、その瞬間――空也の身体から、すっと力が抜け落ちた。
ふうは慌てて抱え直す。
「空也!?」
空也は、震える息のまま、かすかに囁く。
「俺……まだ……大丈夫……」
「もう無理だって! “聞きすぎ”なんだよ……!」
空也の瞳が、ゆらりと揺れ、その光が、ふっと遠のいていく。
ふうの声が霞む。
「空也……!」
落ちていく意識の底で、空也は胸元の光へ、手を伸ばした。唇から、ひとしずく零れるように、言葉が落ちる。
「……名前……」
その一言を最後に、空也は完全に沈んだ。沈んでいく途中で、世界がひとつに混ざる。焼け落ちる家の前に、鹿の群れが立っている。黒い煙の向こうで、角の影がいくつも揺れていた。
その群れの中に、ひとりの少年が混じっている。泣きながら家を見つめているのに、足は一歩も動かない。
行かなければならない。置いていけない。けれど、怖い。
誰の声か分からない。自分と、子鹿と、兄の声が溶け合い、ひとつの祈りになっていた。
遠くで、誰かが空也の名を呼んだ気がした。兄の声にも、風の声にも聞こえた。
ふうは空也を抱え直し、立ち上がる。足元の風が、そっと支えるように流れた。
「……空也。なんでこんなに……危なっかしいの……」
怒っているようで、泣きそうな声だった。
ふうは、西の空を見つめる。
「……行かなきゃ。“あそこ”なら……空也、休めるから」
風が、羽をそっと撫でていく。ふうは空也を抱え直し、西へ向かって歩き出した。
夕霧の色が山影を淡く染め、空也の胸元の種子は、なお微かに光り続けていた。
◇
夕霧が山を覆うころ、鹿哭沼のほとりには、すでに誰の気配もなかった。
ただ、小さく揺れる余白の粒だけが、帰り道を探すように、水面の上を漂っている。
その静寂を裂くように、霧の奥からひとりの影が歩み出た。
如月漣(きさらぎ れん)。
黒衣の裾を静かに曳き、足跡を残さぬまま、沼の縁へと近づく。漣はしゃがみ込み、地面にかすかに残った律鎖の残滓へ、指先を伸ばした。短い接触ののち、その表情がわずかに動く。律導庁の律鎖が、完全に解かれている。しかも、発動からそれほど時間は経っていない。人間が――この短時間で。驚愕よりも、先に胸を満たしたのは興奮だった。
「――興味深い」
その呟きと呼応するように、霧の奥で小さな風が巻き起こる。
渦がほどけると、風の影が、人の形を模そうとして失敗したかのように揺らいだ。
細い身体。風そのものを押し固めたような、淡い緑の光。草のそよぎに似た髪が揺れ、四肢は風の線をなぞるように細長い。ただひとつ、その瞳だけが、暗い赤の光を静かに宿していた。
疾風(シップウ)零号。
天狗の風が影を帯び、未完成な形でこの世に留められた存在。声は持たない。風の揺れそのものが、意思の代わりだった。
漣は沼を見下ろしながら、かつて目を通した報告書の断片を思い返していた。行方不明。転落事故。鹿の異常行動。どれも偶然として処理され、記録の底へ沈められた事象。
「……偶然にしては、出来すぎている」
誰に向けるでもなく呟き、唇にわずかな笑みを浮かべる。
疾風零号は、その横顔を見上げていた。人間の表情の意味は理解できない。けれど、この人物のそばにいると、風は不思議と乱れない。それだけは、身体の奥のどこかが、確かに知っていた。
疾風零号は漣の前に降り立ち、胸のあたりで風をひとつ、震わせる。鹿哭沼で起きた“解鎖”の光景が、淡い揺れとなって、漣へと返された。漣は、口元をわずかに歪めた。
「……ふう、か。天狗の小娘に――律鎖を解く人間」
指先で顎をなぞり、静かに続ける。
「なるほど。確かに“特異点”になり得る」
疾風零号が、風の触手のように伸ばした腕で、漣の肩へ触れる。風が、人の仕草を真似ているような、不完全な動作。
漣は淡く笑みを落とし、その頭に軽く指を置いた。
「行くぞ、零号。“次”を見極める」
疾風零号は、ひそやかな音を立てて鳴いた。風が、嬉しそうに笑ったような、透明で、幼い音。二つの影は、霧の奥へと静かに溶けていった。
鹿哭沼には再び、風の声だけが残された。
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