余白巡礼

由良ゆらら

文字の大きさ
5 / 11

余白巡礼 第四章「焦熱」

しおりを挟む
山を下り、西へと折れる山道は、昼と夜のあいだで行き先を迷っているような薄闇に沈んでいた。
「もうすぐだよ。……ほら、見えてきた」
先を行くふうが羽を揺らし、指さした先に、苔むした石段と、傾いた山門が浮かび上がる。
七響寺(ななきょうじ)――。
かつて七つの鐘が、一日の時刻ではなく、“ひとの心”に合わせて鳴ったと伝わる古寺。今ではほとんど人に忘れられ、山肌と同じ色に沈みかけている。石段を踏みしめるたび、空也の膝に、鹿哭沼で蓄積した疲労が鈍く響いた。
胸の奥では、余白の種子が小さく、かすかに震え続けている。揺れるな、と心のどこかで制そうとする。だがその意思とは裏腹に、七響寺へ近づくほど、震えは律動を帯びて強まっていった。まるで、誰かに呼ばれているような落ち着かなさが、胸の奥に居座っている。
「ここ、鐘の音がちょっと特別でさ」
ふうが振り返り、いたずらっぽく笑う。
「時間じゃなくて、“中にいるひとの音”で鳴るんだって」
「……意味がわからん」
「空也の中、いろいろうるさそうだから……今日、いっぱい鳴るかもね」
軽口に返す言葉が見つからず、空也は小さく舌打ちして、石段を登りきった。
本堂の屋根はところどころ瓦が剥がれ、梁には蜘蛛の巣が白い線を引いている。それでも、不思議と荒れ果てた印象はなかった。薄暗い境内の空気は澄み、人為の音が消えた代わりに、どこか遠くの鐘の気配だけが、微かな振動となって満ちている。
「ごめんくださーい」
ふうが遠慮のない声で本堂の戸を叩いた。ほどなくして、木が軋むような足音が近づき、戸が、きぃ、とわずかに開く。現れたのは、小柄な僧だった。年齢は五十代か、それ以上か。皺の刻まれた眼元は穏やかで、その奥には、山と同じだけの年月をここで過ごしてきた静かな深さがある。
「……珍しい。ここに、客とは」
僧の視線はまず空也を捉え、そのまま彼の隣――空気の揺らぎのような場所で、ふと止まった。そこには、人の形をした靄が立っている。輪郭は定かでなく、衣の色も判然としない。だが確かに、“誰か”がそこにいる。長年の修行で研ぎ澄まされた感覚が、そう告げていた。
僧は、風に紛れるような少女の気配を聞き取り、ゆっくりと空也へ視線を戻す。
「ずいぶん……疲れた顔をしておるのう」
胸の奥が縮む。初対面の相手に、何も説明していない内面を言い当てられる。その感覚が、思った以上に空也を不快にさせた。
「……別に」
いつもの言葉が、反射のように口をつく。
ふうが、横で小さくため息をつく。ここで少し休ませてほしい、と、風に紛れた声で告げる。空也は、少し“聞きすぎ”なのだと。
「聞きすぎ?」
僧は首をかしげ、空也と、彼の隣の靄とを交互に見つめる。
やがて、ふっと笑みをこぼした。
「よう分からんが……まあ、疲れておるのは確かじゃろう。本堂においで。茶くらいは出そう」
そう言って、僧は戸を大きく開いた。
本堂の中は、外よりもわずかに暖かかった。
蝋燭の小さな炎が仏像の輪郭を淡く照らし、古びた畳には、長い年月の座の跡が擦り切れた円となって残っている。
空也は勧められるまま、本堂中央の座布団に、ぎこちなく腰を下ろした。背筋を伸ばそうとした瞬間、鹿哭沼で溜め込んだ疲労が、遅れて身体を押した。視界の端が、ふっと滲む。眠気に似た重さが頭の奥へ落ちかけ、それが単なる疲れではないと、すぐに分かる。
胸の奥で、余白の種子が蝋燭の炎と呼応するように、かすかに震えていた。
僧が茶を運び、ふうは本堂の柱の陰に、そっと身を寄せて立つ。
僧の目からは空也の背後――柱と柱のあいだの空間が、ごくわずかに霞んで見えた。蝋燭の炎が揺れるたび、その霞は人の肩のような形をとっては、また崩れる。
「……そちらのお嬢さんは、ここの者ではないようじゃの」
僧は、誰もいないはずの柱のあたりへ、穏やかに声を投げた。
返ってきたのは、風に溶けるような柔らかな少女の声だった。自分は風だから、どこにいても客なのだと。僧には、その姿は靄越しにしか見えない。それでも、声の温度と、ここに“在る”という気配だけで十分だった。
「そうかそうか……では風の娘よ。本堂の外も、中も、好きに吹きなさい」
ふうは、誰にも見えない笑みを浮かべ、羽に似た霞を、くすぐったそうに揺らした。けれど本堂の中央へは踏み込まず、あくまで柱の陰に身を寄せて立つ。本堂の光が、少しだけ強すぎると感じているようだった。
その様子を、僧は一瞥で確かめ、湯呑を空也の前へそっと置いた。
「……顔色が悪い。無理に飲まんでもよいが、ひと口だけでも、温かいものを」
立ちのぼる湯気の向こうから、穏やかな眼差しが向けられる。その視線は優しい。それなのに、なぜか逃げ場がなかった。視線が触れた瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。これ以上、覗き込まないでくれと、言葉にならない拒絶が内側で軋む。目を逸らそうとしても、身体が思うように動かない。
喉が、ひとつ――勝手に鳴った。



――あの日の会議室を、ふいに思い出してしまった。
窓も時計もない、白い壁に囲まれた密閉空間。逃げ場のない場所だと、身体のどこかが、最初から理解していた。
上座に並ぶ上司たち。無機質な資料の山。整えられた言葉と、整えられた沈黙。
そこにいる全員が、「何事もなかったような顔」をしている。
自分だけが、もう“普通の人間の振る舞い”を長時間維持できなくなっていることを、空也は薄々分かっていた。
視線が集まる。それは責める目ではない。けれど――期待されること自体が、重かった。
生き残って、働いて、社会の中に居る自分。その状態を、誰かに確認されることが、怖かった。
「何か意見はありますか?」
その言葉が投げられた瞬間、世界の音が、水の底に沈むように遠のいた。胸がきしみ、呼吸の仕方を、身体が忘れる。喉が、誰かに掴まれたように固まる。
何か言わなければ、と頭では分かっている。けれど、その“何か”が、どこにも見つからない。自分がここにいていい理由を、証明しなければならない気がした。
視界の端が、白く滲む。
あのとき――兄の顔を思い出すよりも先に、世界の方が、先に壊れた。



「……大丈夫かね?」
僧の声に、空也は現在へ引き戻された。気づけば、握り締めた拳に爪が食い込み、指先がじんと痺れている。
「……仕事中に、一度……息が……吸えなくなって……」
口から出た声は、自分のものとは思えないほど遠く、かすれていた。
止めようとしたはずなのに、言葉は湯気のように形を失いながら、勝手に零れていく。
「会議の途中で、急に。何か言わなきゃいけない場面で……声が出なくて……周りの声が、水の底から聞こえるみたいに、遠くなって……」
柱の陰で、ふうの気配がわずかに揺れた。小さく息を呑んだような、風の動き。
「兄のことを思い出す前に……世界のほうが、先に崩れた気がしました」
空也は膝の上で震える手を、ぎゅっと握り直した。
「……あれで、“普通に人と話すこと”が、怖くなりました」
沈黙が、静かに落ちる。蝋燭の火が、かすかに揺れ、炎の影が畳の上で細く伸び縮みした。
「……ふうと……あの女の子と話してるときは、こんなふうにはならないのに、って……それも、また怖かったんです」
言葉にしてしまった瞬間、取り返しのつかない一線を越えた気がして、空也は唇を噛んだ。
柱の陰で、ふうが羽をきゅっとすぼめる。風が、身を縮めるように静まった。
僧はしばらく何も言わず、湯気の向こうで、ゆっくりと頷いていた。
「……兄上のことも、関係しているのですか?」
その問いに、喉の奥が、きし、と鳴った。
「……兄の死を……どうしても、受け入れられません」
ようやく絞り出した声は、思っていたよりも細く、頼りなかった。
「思い出そうとすると、怖くなる。兄は笑っていたのか、泣いていたのか……もう分からない。どっちを思い出しても、間違いな気がして……」
笑っている兄の記憶。泣いているかもしれない兄の現実。そのどちらにも手を伸ばせず、曖昧な闇の中で膝を抱えたままの幼い自分が、胸の内側に、いつまでも居座っている。見たくない。胸の奥で、そう叫ぶ声がした。本当はずっと、それだけだったのかもしれない。
僧は、ゆっくりと息を吐いた。
「見たくないものから逃げれば、真実も見えないままです」
叱るでもなく、慰めるでもない声。僧はしばし沈黙し、空也の目の奥を、何か探すように見つめた。
「……恐れてよいのです。恐れたまま、一歩だけ前に出なさい」
その視線が、そっと空也の胸元――余白の種子のあたりへと落ちる。
「あなたが見なければ、お兄さんの真実は、もう誰にも触れられないですよ」
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
柱の陰で、ふうの羽がかすかに震える音がした。
「悲しみは、消えるものではなく、変わるものだと……わたしは思います」
僧は掌を重ねるように組み、言葉を続ける。
「最初は刃だが、時が経てば……誰かを思いやる力にもなり得る」
「……力に、なる……?」
「その力で、ひとりでも救えたなら、お兄さんは、あなたの中で生き続けるでしょう」
空也は、言葉を失った。悲しみは、邪魔なものだと思っていた。前に進むためには、どこかで捨てなければならない余分な重みだと。それでも――鹿哭沼で、名を与えて還した鹿泣の気配が、胸の奥で微かに重なる。
あれは、ただ名前を取り戻した鹿だった。救いだなんて、大げさなことは、何もしていない。それでも確かに、あのとき胸の奥の何かが、ほんの少しだけ、温度を変えた。
僧はひとつ息を吸い、話題を変えるように、穏やかに問う。
「ところで……風は、消えるでしょうか?」
唐突な問いに、空也は瞬きをした。
「……止むだけで、消えません」
廃寺での日々が、ふと脳裏をよぎる。動かない時間の中でも、ふうの風は何度も自分を撫でていた。止まった心に触れながら、それでも吹き続けていた。
「お兄さんも同じです」
僧の声は、その光景を知っているかのように静かだった。
「姿は変われど、風のようにあなたの中を吹き続けています」
「……」
「痛みも冷たさも、あなたを立たせる“風”になるのです」
「……思い出そうとすると、怖い。兄が本当に笑っていたのかも、もう分からないんです」
胸の奥で、余白の種子が、ひときわ強く脈打った。痛みとも、温もりともつかない震えが、身体の芯を貫いていく。
僧は、結びのように言葉を置いた。
「悲しみは敵ではありません。抱えて歩けるのが、人の強さだと、わたしは思っています」
「逃げるなとは言いません。ただ、歩くと決めたときだけ、真実はあなたに顔を見せるでしょう」
「悲しみは、鐘の響きに似ています。静かなほど、遠くまで届く」
その言葉は、遠くで鳴る鐘の音のように、遅れて胸に届いた。
空也は、うまく返事ができず、ただ深く俯いた。
そのときだった。
重い鐘の音が、どこからともなく現れ、低く空気を揺らす。七つあるはずの鐘のうち、どれかひとつだけが鳴ったような音。本堂の柱が微かに震え、蝋燭の炎が細く揺れた。耳で聞くよりも先に、意識の奥底が揺らいだ。
視界が、かすかに暗くなる。畳の色が遠のき、代わりに、見覚えのある廊下が足元へと伸びていった。
僧の声が、遠くなる。



夜中の物音。
薄い壁越しに聞こえる、父と母の押し殺した声。
「いい加減にしろ」
「もう無理よ、あたし」
言葉の意味を追うよりも先に、皿の割れる音と、低くうねる怒鳴り声が、胸を締めつけた。
暗い廊下の片隅で、膝を抱えて座る兄の背中が見える。背中は大きく、頼りがいがあるように見えたのに、肩は、思っていたよりもずっと細く、震えていた。
ふと振り向いた兄の顔が、こちらを見て、笑う。
「大丈夫だって……心配すんな」
呼吸はどこか途切れ、口元は笑っているのに、目だけが、遠くを見ていた。その瞳の奥には、もう何も映っていないように思えた。
兄が伸ばした手が、幼い自分の頭を撫でる。その掌が、かすかに震えていたことに、そのときは気づかなかった。
なぜ、あの夜、兄はいつもより優しく笑ったのか。なぜ、「部屋にいろ」としか言わなかったのか。
それを考えるよりも先に――火の匂いが、記憶を焼き潰した。
「……っ!」
空也は、がくりと身体を揺らして目を開けた。本堂の床が、先ほどよりも、やけに近く見える。いつの間にか深くうつむき、ほとんど畳に額をつけるほど、前のめりになっていたらしい。
喉が、からからに乾いている。掌には、冷たい汗。
胸元の余白の種子が、まだ――鐘の余韻のように、規則を失った脈動を刻んでいた。
「……兄上の影が、少し、見えたかな」
僧の声は、夢の続きに差し込むように、穏やかだった。
ふうは柱の陰で、しばらくこちらを見つめていたが、やがて何も言わず、音も立てずに窓のそばに向う。風が、抜けていくような静けさだった。



ふうの足元には――何もなかった。
雲ひとつない夜空から、満月の光が境内へとまっすぐ落ちている。瓦屋根も、石畳も、本堂の僧と空也の影も、その光を受けて、くっきりと地面に伸びていた。影は長く、黒く、月光の強さを証明するように、微かに揺れている。
ただ一ヶ所だけ――影が落ちていない場所があった。ふうが立っている、その足元。光の下にいるはずなのに、そこには、何も落ちていない。まるで月が、ふうだけを見落としているかのようだった。光は彼女の輪郭をなぞろうとして、けれど、確かな形を与える前に、するりと滑り落ちていく。輪郭だけが、ぼんやりと宙に浮かび、足元は地面から半歩、離れているようにも、そもそも触れていないようにも見えた。
羽が、風のない夜気の中で震える。それは、糸がほつれる前触れのような、かすかな揺れだった。震えるたび、羽は月光を透かし、影を持たない足元の不確かさを、いっそう際立たせてしまう。
やはり――自分は、ここに“立てていない”。そう理解した瞬間、耳を塞ぎたい衝動が込み上げる。けれど、風でできた身には、それを拒む術もなかった。
空也が、兄の最期に触れようとするたび、ふうの胸にも、かつて誰にも届かなかった夜が、静かに蘇ってしまう。誰にも見えず、誰にも呼ばれず、ただ風の音だけを聞き続けていた、谷の最果て。思い出したくない。けれど、本堂に満ちるこの静けさが、その記憶を、否応なく照らしてしまう。
羽の震えに、言葉にできない戸惑いが滲んだ。空也の名を、呼びたくなる。
けれど、今、声にしてしまえば――自分の輪郭の揺らぎまで、彼に届いてしまいそうで。
ふうは唇を噛み、風の音の中に、その名を沈めた。
その静けさを――唐突な破裂音が裂いた。
ぱん、と乾いた音。境内の外で、何かが弾けた気配が走る。
僧が、わずかに眉をひそめた。
「……これは――」
ふうの羽が、反射的に逆立つ。風が、危険を先に嗅ぎ取っていた。
「――律導庁だ」
言い切るより早く、境内の空気が、ぴんと張り詰める。
夜の闇を裂いて、黒装束の影が数人、石段を駆け上がってきた。その先頭に立つのは、見覚えのある青年。
霧生真。瞳が刃物のように光っている。
「……ここだったか」
その視線は、ほとんど空也を素通りし、まっすぐに、ふうへ向けられていた。空也への警戒が消えたわけではない。だが“天狗”を視界に捉えた瞬間、胸の奥に溜め込まれていた憎悪が、すべてを塗り潰す。
「……霧生真だ。余白を打ち払う――そのためだけに、生きてきた」
低く、ひび割れた声。
「天狗。今度こそ逃がさん」
「うわ、最悪のタイミング……」
ふうが舌打ちした瞬間、真の手が懐に伸び、封札を弾き出す。札は夜気を裂き、境内の地面へ突き刺さった。ぱち、ぱち、と乾いた音。その周囲の空間が、紙を焦がすように歪む。
「退がりなさい!」
僧が本堂の前に立ち、両手を広げる。
「ここは――」
「ただの古寺です。ですが、あなたがたは“余白”を匿っている」
真の声は冷静だった。けれど、その奥には抑えきれない激情が滲んでいる。
「対象コード――“火禍(カカ)二号”。開封」
その言葉と同時に、刺さった札から、火のような影が噴き上がった。境内の空気が、一瞬で焼ける匂いに満たされる。
本堂の畳の上にいても、皮膚が乾くのを感じるほどの熱。空也の喉の奥が、反射的に、凍り付いた。
火の匂い。記憶が、条件反射のように反応する。
視界の端で、燃え上がるように膨らむ影。小さな、人影。それは“子供”の形をしていた。痩せた手足。ところどころ、黒く焦げた布。顔は煤で覆われ、表情は読み取れない。ただ――眼だけが、闇の底からこちらを見上げている。瞳には何も映っていない。それなのに、涙の跡だけが、頬を伝ったように見えた。輪郭は、炎とも煙ともつかない揺らぎで、絶えず震えている。
「火禍二号。指示に従い、天狗を焼却しろ」
真の命令に、子供の影は、びくりと肩を震わせた。
次の瞬間――境内の空気が、一気に熱を帯びる。火の気配が集まり、子供の身体から、制御を失ったように迸る。
「来る!」
ふうが羽を広げ、風の結界を張る。
見えない壁が、熱の奔流を押しとどめた。炎は形を持たないまま、風の曲面に沿って迂回し、石畳を黒く焦がしていく。
「天狗! 逃げ場はない!」
真の声が境内に響く。封札が次々と投げ込まれ、鐘楼の周囲に、律鎖の光が幾重にも展開された。
「……最悪。本気で来てる」
ふうは歯を食いしばり、風の層を重ねる。空也は、そのただ中で、息を呑んでいた。
火の匂い。焦げた布。子供の影。
胸の奥で、何かが、ぐらりと傾ぐ。記憶が、重なろうとする。止めろ――そう思うより早く、余白の種子が、まるで待っていたかのように強く脈動し始めた。鼓動が、熱と同期する。
「空也、下がって!」
ふうの声が飛ぶ。それでも、空也の視線は、炎の中心から逸れなかった。
「……泣いてる」
思わず、声が零れる。ふうが、一瞬だけこちらを見る。
火禍二号と呼ばれた子供の影は、炎を纏いながらも、怯えたように震えていた。手を伸ばすたび、炎は自分自身の腕さえ焼いてしまいそうだった。焼かれているのは、境内でも、天狗でもない。――その子自身だ。
目の前の炎は、怒りではなかった。置いていかれた孤独の色だった。
「空也!」
「……大丈夫だ。多分」
そう言いながら、大丈夫ではないことを、誰よりも自分が理解していた。
それでも、一歩だけ前に出る。
僧の言葉が、頭の奥で重なる。――恐れてよい。恐れたまま、一歩だけ前に。
ふうが結界の一部を、彼の進む方向だけ、わずかに薄くする。
熱が押し寄せる。喉が焼けるように乾き、皮膚がひりついた。それでも空也は、視線を逸らさず、そっと手を伸ばす。
「……触れるな! そいつは――!」
真の制止の声。
だが、その言葉よりも早く――空也の指先が、影の冷たい輪郭に触れた。
その瞬間、世界が、白く弾けた。



流れ込んでくるのは、――子供の“最後の夜”の記憶だった。
狭い部屋。テレビの青白い光。壁の向こうから聞こえる、大人の怒鳴り声。
「出ていくの? 今夜?」
「もう限界だ。こんな家には居られない。」
「っ……待ってよ!」
誰の声だったのか、子供には分からない。ただ、夜中の物音。ドアの開閉。冷たい風が、家の奥まで流れ込む。気づけば、ひとり、取り残されていた。暗い廊下に座り込み、膝を抱える。戻ってくるはずだ、と理由もなく信じながら、玄関の方を見つめ続ける。声にならない問いが、胸の奥で何度も繰り返された。時計の針の音だけが、異様に大きく響く。
やがて、外の気配が変わった。パチパチ、と小さな音。焦げた匂い。キッチンの方から、薄い煙が、ゆっくりと伸びてくる。
怖かった。
けれど――誰もいない家の中に、ひとりでいることの方が、もっと怖かった。子供は、玄関には向かわず、奥の部屋へと走った。窓の外は、まだ夜のままだった。風が吹いている。カーテンが揺れ、外から、誰かの声がした気がする。
こっちだよ、と呼ばれたような気がした。それは、本当は風の音にまぎれたただの気配だったのかもしれない。
それでも――子供の身体は、風に抱き上げられるようにして、窓の外へと引かれていく。足元がふらつき、視界が大きく傾く。
キッチンの方から、炎の色が、壁を越えてせり上がる。
熱い。
苦しい。
けれど――その胸に浮かんだのは、恐怖ではなかった。孤独ではない、という感覚。風が、確かに、抱きしめてくれていた。ひとりじゃない、とそう思えた、その瞬間――世界は、ひとつの色に塗りつぶされた。
焔(ほむら)――その名が、言葉になる前の気配として、静かに心に浮かんだ。
「……っ!」
意識が、境内へと引き戻される。火禍二号の影が、目の前で小さく震えていた。炎はなお、その身を焼こうとしている。
空也は、はっきりと理解した。
これは怪異ではない。“帰る場所を見つけられなかった子供”だ。誰にも呼ばれず、焼け跡の空気に取り残されたままの祈り。
胸の奥で、余白の種子が爆ぜるように脈打った。
その光の色が変わる。淡い風色だった輝きに、青白い光が混じり、境内の闇を内側から照らし始めた。
空也の耳に、確かに音が届く。七響寺の鐘が、どこからともなく鳴った。ごぉん、と低く。鐘の響きが、炎をまとった影を震わせる。炎の奥から、かすかな声が滲み出た気がした。
帰りたい。でも――どこへ。
空也は、ゆっくりと息を吸い込む。怖さは消えていない。喉は焼けるように痛み、
膝も、まだ震えている。それでも――言葉は、自然と形になった。
「……君は、“焔”だ」
静かな声が、境内に落ちる。
「帰れなかった炎だろ」
その名を呼んだ瞬間、炎の色が、ふっと変わった。赤ではない。水面に映る火のような、揺らぎ。子供の影は、胸元を押さえるように腕を抱きしめ、静かに俯いた。涙のような光が、目元からぽろぽろと零れ落ち、石畳に触れては小さな水の輪紋となり、消えていく。
風が吹いた。
炎は煽られることなく、むしろ、ほどけるように薄れていく。焔の身体の輪郭は透き通り、境内の上空へと、静かに昇っていった。その背を撫でるように、鐘の余韻が震える。
七つある鐘のうち、今度は二つ目が鳴った気がした。深い響きが、場を満たす。祈りの残響が、夜空へと溶けていった。
「……何を、した」
真の声が、低く震えた。境内には、もう炎はない。石畳にも、焼け焦げた痕跡はほとんど残っていない。
ただ、少しだけ温かい風が、空也の頬を撫でていた。
「名前を、返しただけです」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
「そいつは“火禍二号”だ。律導庁が管理する、制圧兵器だ」
真が、吐き捨てるように言う。
「違う。……取り残された子供です」
空也は、真を見た。その瞳の奥に、鹿哭沼で見たものと同じ――喪った者の影が揺れている。
「あなたには、天狗に攫われた“妹”がいるんですよね」
真の肩が、びくりと跳ねた。
「天狗に妹を奪われた俺の気持ちが、お前に分かるか!」
怒号が、境内に響く。ふうが一瞬、言葉を失ったように目を見開く。その表情にあったのは、言い訳でも反論でもない。ただ、純粋な“痛み”だった。
空也は、真の叫びを受け止めながら、口を閉じた。今、何を言っても、この人には届かない。それでも――胸の奥の余白の種子は、真の怒りに触れるたび、静かに震えていた。空也は、はっきりと感じていた。
この人もまた、どこかで立ち止まっている。
鹿哭沼で聞いた祈りと同じように、彼の怒りの底にも、誰にも触れられなかった夜がある。
「退くぞ」
真は、部下に短く命じた。
「天狗。次こそ――俺は、お前を必ず」
言葉は、そこで途切れた。
ふうの風が、彼の足元の空気だけを、ほんのわずか強く吹き上げる。
その勢いに押されるように、霧生真と律導庁の影は、夜の闇へと退いていった。律鎖の光が、ひとつ、またひとつと、七響寺の境内から消えていく。



静寂が、ゆっくりと戻ってくる。鐘の音だけが、まだ耳の奥で小さく震えていた。空也は、その場に膝をついた。全身から、力が抜けていく。
「……大丈夫かね」
僧がそっと近づき、彼の背に静かに手を添える。
「……なんとか」
声は掠れていた。けれど不思議と、あの会議室で味わったような“息の詰まり”は、そこにはなかった。胸の奥は、まだ痛む。兄の影も、真の怒りも、焔の記憶も――すべてが、まとめて押し寄せている。それでも。その痛みは、ほんの少しだけ、形を変え始めている気がした。
ふうが、ゆっくりと本堂の陰から姿を現す。羽はまだ微かに震えていたが、足取りは、しっかりとしている。
「……空也」
いつもの軽さを抑えた声だった。
「次は、“風の裂けるところ”に行こう」
ふうは東の方角――山の向こうを、静かに見つめる。
「あなたには、見てほしい場所があるの」
その瞳の奥で、ふう自身の“誰にも届かなかった夜”が、ひそやかに揺れていた。
空也は、胸元の余白の種子に触れる。
脈動は、まだ落ち着かない。それでも――さっきまでより、少しだけ、穏やかになっている。
「……勝手にしろ」
絞り出すように言うと、ふうは、ほっとしたように笑った。
「うん。勝手にする」
七響寺の鐘が、遠くで――三つ目を鳴らした気がした。
鐘の音が、響く。夜空を、深く震わせる音。
悲しみと、風と、まだ見ぬ真実を抱えたまま――
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

不思議なショートストーリーたち

フジーニー
ミステリー
さくっと読める短編集 電車内の暇つぶしに、寝る前のお供に、毎日の楽しみに。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

処理中です...