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余白巡礼 終章「二人なら」
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墓地は、朝の薄い光に濡れていた。山裾の町はまだ眠りの名残を抱え、遠くの家々の瓦が淡く白んでいる。鳥の声は高く、けれど騒がしくはない。空気は澄み、冷えの底に、これから温もりへ移っていく予感がある。
空也は、石の前に立った。苔の匂いが、湿った土と混ざって鼻先に届く。そこに刻まれた名を、指先でなぞることはしなかった。ただ、目で見て、息を吸って、手を合わせる。掌と掌の間に、余白が生まれる。祈りではない。赦しでもない。「ここに来た」という事実を、静かに置くための姿勢だった。――兄と両親が眠る墓。
空也は、目を閉じる。胸の奥のどこかで、長い旅路が、ひと息にほどけ始めた。
廃寺。冷え切った空気の中で、空也は自分を痛めつけていた。断食、座禅、滝行。息が細くなるほど、世界が静かになるのを待ち続けた。痛みが消えるのを待っていたのではない。痛みごと自分が消えるのを、どこかで願っていた。あの頃の自分は、歩けていなかった。止まることでしか、自分を保てないと思っていた。
そこへ、風が来た。音もなく、意味もなく、ただ、そこに“在る”ものとして。
「わたしのこと、ちゃんと見えてる?」
その声は、命令でも、救いでもなかった。距離を測るような軽さで、しかし、確かに空也の胸の奥を揺らした。
ふう。
名も影も、輪郭も曖昧な風の天狗。誰にも呼ばれず、誰にも定義されず、それでも笑っていた存在。
山道を二人で歩いた。峠を越え、鹿哭沼で泣く風を聞いた。七響寺の鐘の下で、影のないことを月だけが風を見逃していた夜があった。鞍馬の風裂谷で、寒さの記憶を語りながら、ふうは羽を揺らした。笑っていた。消えそうな輪郭で、けれど、その笑顔だけは確かだった。
封札されていた怪異たちの記憶も、思い出す。怒り。恐怖。拒絶。理解できない苦しみが、形を取って襲いかかってくる夜があった。けれど――怪異たちの記憶の底には、いつも、誰かの優しさが眠っていた。
奪われたものを抱えながら、それでも誰かを守ろうとした人。
声をかけたかったのに、言葉にならなかった人。
理解されなかった痛みを抱えて、拳を握りしめたまま倒れた人。
その優しさは、誰にも届かず、余白へ沈み、怪異の形になっていた。
それでも、そこに“想い”があった。
空也は、ふうと二人で焚き火を囲んだ夜を思い出す。谷底の風が温かく、火の匂いが衣に染み、言葉にできない痛みが、火の揺れに紛れて、少しずつ外へ出ていった。
痛みは、克服するものじゃない。消してしまったら、その痛みの先にいた誰かまで消えてしまう。痛みは――抱えて歩いていくものだ。
苦しい。重い。ときどき、自分の足が自分のものではなくなるほど。
それでも。二人なら、抱えて歩ける。痛みを“消す”のではなく、痛みを“抱えたまま”歩ける。支え合うことができる。それは甘さじゃない。現実の重さを知った上で、それでも歩くという選択だった。
空也は、目を開ける。墓前の石は冷たく、朝の光がその表面を淡く照らしている。空也は息を吸い、ゆっくり吐いた。
そして、小さく言った。
「兄ちゃん」
声は震えていない。強がりでもない。ただ、胸の奥から出てきた言葉だった。
「俺……もう歩けるよ。」
その瞬間、風がそっと吹いた。背中を押すほど強くはない。頬を撫でて、髪を揺らして、世界の呼吸を確かめるような風。
墓の前に、影が落ちていた。ふうの影だ。
薄くない。欠けてもいない。地面に、はっきりと結ばれている。
ふうは、空也の半歩後ろに立っていた。羽が静かに揺れ、目が朝の光を受けて細くなる。
「行こ、空也」
ふうは言う。その声は、風のように軽いのに、今は輪郭を持っていた。
「颯羽(ふう)は……あなたと歩きたい。」
空也は、少しだけ口元を歪めた。照れでも、拒絶でもない。生き残った者の、いつもの癖。
「……勝手にしろ」
ふうは小さく笑う。空也の肩の高さに影を寄せるように、並ぶ。
二人は、歩き始めた。
世界に、呼吸が戻る。穏やかな風が頬をくすぐり、朝の匂いが胸に入ってくる。空也の胸で、余白の種子が脈打つ。それはもう、暴れる鼓動ではない。理解の象徴として、静かに、確かに、生きている。
朝日が、二人の背中を照らす。影が伸びる。長い影が、地面に線を引くように伸びていく。その影は途中で、風に揺れた。揺れた影が、少しずつ寄り添い、二つの影が、同じ方向へ向かう形になる。
世界は静かに風を受け入れている。拒まない。定義しすぎない。ただ、そこに在ることを、許している。
風が鳴る。木々の枝が擦れる音。草の葉が揺れる音。
それは、まるで二人の名を呼ぶようだった。
――空也。
――ふう。
呼びかけは命令ではない。定義でもない。「ここにいる」と確かめるための、世界の小さな声。
二人は、歩みを止めない。行き先は決めていない。答えを探しているわけでもない。
それでも。痛みを抱えたまま歩くことが、巡礼なのだと、もう知っている。理解しながら歩くことが、救いなのだと、もう知っている。
朝の風の中、二人は新たな巡礼へ歩み出した。世界は、静かに呼吸を続けていた。
空也は、石の前に立った。苔の匂いが、湿った土と混ざって鼻先に届く。そこに刻まれた名を、指先でなぞることはしなかった。ただ、目で見て、息を吸って、手を合わせる。掌と掌の間に、余白が生まれる。祈りではない。赦しでもない。「ここに来た」という事実を、静かに置くための姿勢だった。――兄と両親が眠る墓。
空也は、目を閉じる。胸の奥のどこかで、長い旅路が、ひと息にほどけ始めた。
廃寺。冷え切った空気の中で、空也は自分を痛めつけていた。断食、座禅、滝行。息が細くなるほど、世界が静かになるのを待ち続けた。痛みが消えるのを待っていたのではない。痛みごと自分が消えるのを、どこかで願っていた。あの頃の自分は、歩けていなかった。止まることでしか、自分を保てないと思っていた。
そこへ、風が来た。音もなく、意味もなく、ただ、そこに“在る”ものとして。
「わたしのこと、ちゃんと見えてる?」
その声は、命令でも、救いでもなかった。距離を測るような軽さで、しかし、確かに空也の胸の奥を揺らした。
ふう。
名も影も、輪郭も曖昧な風の天狗。誰にも呼ばれず、誰にも定義されず、それでも笑っていた存在。
山道を二人で歩いた。峠を越え、鹿哭沼で泣く風を聞いた。七響寺の鐘の下で、影のないことを月だけが風を見逃していた夜があった。鞍馬の風裂谷で、寒さの記憶を語りながら、ふうは羽を揺らした。笑っていた。消えそうな輪郭で、けれど、その笑顔だけは確かだった。
封札されていた怪異たちの記憶も、思い出す。怒り。恐怖。拒絶。理解できない苦しみが、形を取って襲いかかってくる夜があった。けれど――怪異たちの記憶の底には、いつも、誰かの優しさが眠っていた。
奪われたものを抱えながら、それでも誰かを守ろうとした人。
声をかけたかったのに、言葉にならなかった人。
理解されなかった痛みを抱えて、拳を握りしめたまま倒れた人。
その優しさは、誰にも届かず、余白へ沈み、怪異の形になっていた。
それでも、そこに“想い”があった。
空也は、ふうと二人で焚き火を囲んだ夜を思い出す。谷底の風が温かく、火の匂いが衣に染み、言葉にできない痛みが、火の揺れに紛れて、少しずつ外へ出ていった。
痛みは、克服するものじゃない。消してしまったら、その痛みの先にいた誰かまで消えてしまう。痛みは――抱えて歩いていくものだ。
苦しい。重い。ときどき、自分の足が自分のものではなくなるほど。
それでも。二人なら、抱えて歩ける。痛みを“消す”のではなく、痛みを“抱えたまま”歩ける。支え合うことができる。それは甘さじゃない。現実の重さを知った上で、それでも歩くという選択だった。
空也は、目を開ける。墓前の石は冷たく、朝の光がその表面を淡く照らしている。空也は息を吸い、ゆっくり吐いた。
そして、小さく言った。
「兄ちゃん」
声は震えていない。強がりでもない。ただ、胸の奥から出てきた言葉だった。
「俺……もう歩けるよ。」
その瞬間、風がそっと吹いた。背中を押すほど強くはない。頬を撫でて、髪を揺らして、世界の呼吸を確かめるような風。
墓の前に、影が落ちていた。ふうの影だ。
薄くない。欠けてもいない。地面に、はっきりと結ばれている。
ふうは、空也の半歩後ろに立っていた。羽が静かに揺れ、目が朝の光を受けて細くなる。
「行こ、空也」
ふうは言う。その声は、風のように軽いのに、今は輪郭を持っていた。
「颯羽(ふう)は……あなたと歩きたい。」
空也は、少しだけ口元を歪めた。照れでも、拒絶でもない。生き残った者の、いつもの癖。
「……勝手にしろ」
ふうは小さく笑う。空也の肩の高さに影を寄せるように、並ぶ。
二人は、歩き始めた。
世界に、呼吸が戻る。穏やかな風が頬をくすぐり、朝の匂いが胸に入ってくる。空也の胸で、余白の種子が脈打つ。それはもう、暴れる鼓動ではない。理解の象徴として、静かに、確かに、生きている。
朝日が、二人の背中を照らす。影が伸びる。長い影が、地面に線を引くように伸びていく。その影は途中で、風に揺れた。揺れた影が、少しずつ寄り添い、二つの影が、同じ方向へ向かう形になる。
世界は静かに風を受け入れている。拒まない。定義しすぎない。ただ、そこに在ることを、許している。
風が鳴る。木々の枝が擦れる音。草の葉が揺れる音。
それは、まるで二人の名を呼ぶようだった。
――空也。
――ふう。
呼びかけは命令ではない。定義でもない。「ここにいる」と確かめるための、世界の小さな声。
二人は、歩みを止めない。行き先は決めていない。答えを探しているわけでもない。
それでも。痛みを抱えたまま歩くことが、巡礼なのだと、もう知っている。理解しながら歩くことが、救いなのだと、もう知っている。
朝の風の中、二人は新たな巡礼へ歩み出した。世界は、静かに呼吸を続けていた。
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