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80 絶世の美女
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『……女神、』
まごうことなき女神に違いない。誰かがそう呟いた。
それは一人ではなく、何人かが同時に発した言葉だったのかも知れない。
静まり返った広い会場では誰も、何もかもが時を止め、ただ一人だけを見つめている。
艶やかな珍しい黒い髪。
夜空のように澄んだ、大きな黒い瞳。
小さな唇は潤って、ちょこんとついた鼻は小さな果実のよう。
豊満とは言いがたいが美しい谷間を形作っている胸と、そして細く括れたウエストのアンバランスさからとんでもない色香が溢れている。
青いベルラインのドレスは歩くたびに軽やかに靡いて。
華奢な体は男たちの庇護欲と支配欲を誘い、ごくりと喉が鳴る音があちこちから聞こえていた。
「この場に集まってくれた皆に紹介しよう。俺の愛しい婚約者であるサイカ・クライス侯爵令嬢だ。」
マティアスが声高らかに伝えたその言葉を、まだ誰も理解出来ないでいる。
時は少しだけ遡る。
広い部屋を照らすシャンデリア。
真っ赤な絨毯は染み一つなく、集まった王族や貴族たちは運ばれてくる料理や酒を嗜みながら談笑をしていた。
「…しかし驚きですなぁ。陛下に婚約者が出来るとは。」
「ええ、ええ。本当に驚きましたとも。
正直こう言っては何ですが……陛下が再び伴侶を得るのは難しいと思っておりましたからね。」
「でしょうなぁ。何せ陛下はあの見目。……前側妃様もお可哀想な方だった。今回はどの令嬢が哀れな贄として選ばれたのか…。」
「クライス侯爵閣下が新たに養子に迎えた令嬢らしいです。」
思い思いに、様々な言葉が飛び交う。
それは純粋な驚きであったり、めでたいと喜びの声であったり。
けれども多くの人間がマティアスの見目を馬鹿にし、女が出来ると思わなかったと嘲笑っていた。
兎も角相手がいてよかったではないか。
どんな女が相手にせよ婚約はめでたいことだ。
さて次の妃はどの程度持つか。いや、ちゃんと結婚まで愛想を尽かされなければいいが。
さっさと陛下との子を作ってもらわねば。
耳障りな程無礼な言葉をリュカらは失笑しながら聞いていた。
「…ふん。馬鹿に出来るのも今の内だ。…それまでは楽しく過ごすといいさ。」
「ふふ。私はサイカのドレス姿が楽しみです。…きっととても美しいでしょうね。」
「当たり前だろう。あいつに似合わない物なんてないさ。
しかし…これから荒れるな。」
「ええ。今日サイカがこの場に姿を現せば……サイカの事はたちまち広まるはずです。」
「……どうなるか、だな。」
「こればかりは分かりませんね…。…ですが、何もないという事はきっとないでしょう。」
「…ああ。」
マティアスとサイカの婚約式であり、サイカの姿を大勢の人間に披露する。
今日という日を祝う為、そしてサイカの社交界デビューを見守る為にリュカやヴァレリアはこの場に参加している。
そしてカイルも二人と一緒にはいないが警護の指揮を取っており、サイカの登場を今か今かと待っていた。
そしていよいよ、サイカが公の場に姿を現す時が来たのだ。
『……女神、』
サイカをその目に写した者たちは目を見開いた。
豪華絢爛な広間の中、義父であるクライス侯爵に手を取られゆっくりと歩くサイカは周りから見てとんでもない美しさだった。
身に付けているのは青いベルラインのドレスとサファイアのネックレスのみ。
けれど誰よりも美しい。いいや、華美な宝石を着けていない分、より美しさが際立っているのかも知れない。
まるで夜の女神だと、そう誰かが呟く。
掠れ、声にならない声で呟いた言葉は小さくともしっかりと周りの耳には届いていた。
艶やかな黒い髪が、夜空のような黒い澄んだ瞳が光の加減で煌めいている。
潤った唇が、果実のように小さな鼻がより愛らしい顔を整わせている。
華奢な体を、スラリとした体を引き立てる青いベルラインのドレスが軽やかに、動きに会わせて靡くその光景も。
まるで一つの芸術品のように。その全てが調和の取れた美しさで周りは感嘆の息を漏らした。
『…何て美しさだ…。』
それは感動したように。
『……あんな美しい令嬢は…他に見たことがない…』
それは信じられないというように。
『…天から地上に降り立った女神そのものじゃないか…』
それは崇拝するように。
その場にいる誰もが似た感情を抱き、そして瞬きすら忘れてしまう程に、上皇両陛下に挨拶を取るサイカをじっと見つめていた。
「この場に集まってくれた皆に紹介しよう。俺の愛しい婚約者であるサイカ・クライス侯爵令嬢だ。」
マティアスの高らかな声。その言葉の意味を、まだ誰も理解出来ていない。
婚約とは、愛するとは、どういう意味だっただろうか。
まるで馬鹿になった様に言葉の文字だけを頭の中で羅列しては呆然とする。
「初めまして。只今陛下よりご紹介預かりました…サイカ・クライスと申します。」
鈴が鳴るような声とはこのこと。
高く、そして穏やかで愛らしい声が会場に響き、笑顔でカーテシーを取るサイカに皆頬を赤く染め上げる。
激しく脈打つ動悸を抑えるように誰かは胸を掴み、また誰かは拳を握りしめ、そして誰かは大きく深呼吸した。
「……婚約、……婚約…?陛下と…?」
「…まさか。」
「…いや、だが、……先程陛下は…何と言った。」
漸く一部の人間たちがマティアスの言った言葉の意味を理解しようとし始め、考える。
今日は何の集まりだったか。そして大勢に見守られながらマティアスの隣に立ち挨拶をしたサイカ。
互いに見つめ合い、微笑んでいるその姿は思い合う男女の情が見てとれる。
だが信じられない気持ちの方が大きかった。
マティアスの見目は酷く醜い。そして対するサイカはとんでもなく美しい。
対極にいる二人の婚約を、誰も信じる事が出来ないでいた次の瞬間。
マティアスがサイカに、公の場で口付けを交わしたのだ。
「…全く。見せつけてくれる。…いや、あれは態と見せつけているか。」
「ええ。ですが…効果はてきめんのようです。
サイカが可愛らしく照れて…それがより真実味を増しています。」
「………理解させる為とはいえ…面白くない。」
「そうですね。……あんな可愛い顔、他の男たちに見せたくなかったです。
そのせいで…ほら。周りの男たちが面白いくらいに反応して…。」
周りを見渡したリュカは思わず苦笑する。
多くの男たちがサイカに一瞬で恋をしてしまったことを察した。
恥じらいながらマティアスに向けられた微笑みを、まるで自分に向けられたように錯覚すらしているのかも知れない。
大半の男たちが頬を染め口を開き熱を帯びた目…同じような顔をしていた。
「…ああまで多いと笑えるな。どれだけ望もうとサイカは手に入らん…それを分かっている奴がどのくらいいると思う?」
「どうでしょうか…。そこまで愚かな方が多いとは…思いたくありませんね。」
けれど確実に、この大勢の内の何人かはよからぬ事を企むだろう。
そう、リュカもヴァレリアも確信した。
「陛下、おめでとうございます。
こんな美しいご令嬢と婚約とは…実に羨ましい。」
「陛下、クライス侯爵令嬢。この度は誠におめでとうございます。」
婚約式が始まって暫く。
マティアスとサイカの周りには人だかりが出来ていた。
おめでとうございますと祝いの言葉を述べる王族貴族たち。
けれどその目はじっとりとサイカにまとわりつくような嫌な視線ばかりだった。
サイカを間近で見ようと、あわよくば話たいとそんな欲を隠しもせず挨拶の列は長蛇に及んでいる。
「…令嬢のような美しい方に初めてお会いしました…貴女という存在をもっと早くに知っていれば…」
「まあ、有難う存じます。」
「侯爵令嬢はまさに女神のよう。今日、貴女様に会えた奇跡に感謝したい。…陛下は幸運な方だ。」
「有難う存じます。」
「陛下が羨ましい。陛下よりも早くにサイカ嬢にお会い出来ていればと…つい、そう嫉妬してしまいます。」
まるでマティアスよりも自分たちの方がいいと言わんばかりの言葉の数々や全身を舐めるように見つめられ続けているサイカは早くも疲弊していた。
初めての公の場。その緊張も勿論あったがそれ以上に好奇の目で見られている事が苦痛でもあった。
けれどサイカはこの好奇の目に晒される中強く実感した事もある。
それはマティアスらが受けてきたであろう本当の苦しみ。
自らが多くの視線に晒され初めて、サイカは想像ではなく、実際にどれ程皆が苦しんだかを知った気がした。本当の意味で。
「サイカ…疲れていないか?」
心配そうにサイカを気遣う視線のマティアスを安心させるように見つめ、笑う。
「ありがとう。でも大丈夫です。」
「だが、」
「大丈夫。この程度の事で挫けたりしない。
だって、この先も一緒にいるなら…こういう事は沢山あるんでしょう?」
「…サイカ…」
「マティアスの隣にいるには沢山試練があって、これもきっとその内の一つなの。
私、負けたりしないから。だから大丈夫。ね?」
「……。」
サイカの強さをマティアスは垣間見た。
強い意思のこもった目は頼もしいくらいに輝いていた。
「側にいて。私も、マティアスの側にいる。
今日は二人で乗り越えるんです。一緒に。そう思うと全然平気。どこからでもかかって来いって思います。」
マティアスはそんなサイカの言葉に笑い、何度目とも言えない思いを実感する。
自分は素晴らしい、とても得難い女を手に入れたのだと。
生涯、この宝だけは絶対の手放してはならないと。
今だ二人の元へ…主にサイカの元へ行きたい者たちが長い列を成す中、突如音楽が流れ始める。
「サイカ、ファーストダンスだ。」
「…が、頑張ります。」
サイカはマティアスの手を取り人混みを割って会場の中心へ。
ゆったりとした音楽が流れる中、二人の、二人だけのダンスが始まった。
「大丈夫だ。俺がリードする。失敗しても構わない。」
「…ふう、」
「誰の目も気にしなくていい。俺とそなたの二人だけ、そう思っていればいい。」
「…マティアスと、二人だけ…」
「ああ。ただ俺とサイカ、二人で自由に踊る。それだけだ。
どうだ?そう思うと楽しくなってこないか?」
「…ふふ、ええ。マティアスと二人っきりなら、楽しい。」
右に、左に。
前に、後ろに。
サイカが動くたび、ベルラインのスカート部分がふわりと広がる。
サイカが動くたび、ドレスの光沢が輝く。
『……ほう…、』
幻想的とも呼べるサイカの美しさ。
何処からともなく感嘆の息が聞こえ、周りは見入る様に二人を目で追う。
そんな周りの目など気にせず互いだけを見つめ楽しそうに笑いながら踊る二人を信じられないと思いながら見る者もいれば、素敵ねとうっとりしながら見る者もいた。
二人のダンスが終わり礼を取れば溢れんばかりの拍手とサイカへのダンスの申し込みでまた列が出来る。が…愛しいサイカを他の男と踊らせるつもりはないマティアスがそれを許しはしなかった。
「サイカ、疲れたろう?」
そのマティアスの言葉、そして目は『疲れたと言ってくれ』と肯定を望んでいるようで…サイカはええ、と頷く。
「テラスで少し休憩しよう。」
態とらしさは少しあったかも知れないがこの会場内で誰よりも権力のあるマティアスに抗議をしよう者などいない。
例え婚約式に態々参加してやっている身であるとしても、だ。
それにただ一言、『皆様、申し訳ありませんが少し休みたいのです』とサイカが憂いを帯びた表情で謝罪をすれば皆が面白い程取り繕う笑みを見せる。
マティアスがサイカを抱えテラスに向かった後、招待された王族貴族たちは色めき立っていた。
興奮したように誰も彼もが話す内容はサイカの事ばかり。
そして愚かなことに…マティアスには勿体ないとそんな声も。
『醜い化け物王が極上の女を手に入れおったわ。』
『一体どんな手を使ってモノにしたんでしょうなぁ。』
『なあに。どうせ無理矢理手込めにしたに決まっておる。でなければあんな極上の女が陛下なぞ相手にするか。』
『しかし思い合っているようにも見えましたぞ。』
『馬鹿言え。あんな醜い男を誰が愛せる。
あの美しい令嬢はクライス侯爵の養子と聞いた。クライス侯爵は陛下と懇意にしている貴族。…何らかの取引でもあったのだろうよ。』
『成る程。あり得る話ですな。』
『…味わってみたいものだ。…あの美しさ、あの細さ。どんな可愛い声で鳴いてくれるやら。…そう思わんか?』
『はは。…侯爵の仰る通り。』
自分たちの愛するサイカに対しての、そんな邪な会話にリュカもヴァレリアも静かな怒りを感じながらテラスへ視線を向けた。
「……。」
「馬鹿共が。…万が一…愚かにもあいつに手を出せば…誰の女に手を出したか分からせてやる。」
「…ええ。当然です。」
きっと多くの男がサイカに何かを思っただろうと、そうリュカらは思う。
それは純粋な恋心か邪な欲望を含んだものか。
絶世の美女、女神の如く。とんでもない美貌を持つサイカをどの男も物欲しそうに見ていて、そして手に入れたいと望んでいるのが分かる、そんな式だった。
『レスト帝国には女神の如く、この世の者とは思えない絶世の美女がいる。』
マティアスとサイカの婚約式が終わった後日、世界中の至る所でこんな噂が聞こえるようになっていた。
まごうことなき女神に違いない。誰かがそう呟いた。
それは一人ではなく、何人かが同時に発した言葉だったのかも知れない。
静まり返った広い会場では誰も、何もかもが時を止め、ただ一人だけを見つめている。
艶やかな珍しい黒い髪。
夜空のように澄んだ、大きな黒い瞳。
小さな唇は潤って、ちょこんとついた鼻は小さな果実のよう。
豊満とは言いがたいが美しい谷間を形作っている胸と、そして細く括れたウエストのアンバランスさからとんでもない色香が溢れている。
青いベルラインのドレスは歩くたびに軽やかに靡いて。
華奢な体は男たちの庇護欲と支配欲を誘い、ごくりと喉が鳴る音があちこちから聞こえていた。
「この場に集まってくれた皆に紹介しよう。俺の愛しい婚約者であるサイカ・クライス侯爵令嬢だ。」
マティアスが声高らかに伝えたその言葉を、まだ誰も理解出来ないでいる。
時は少しだけ遡る。
広い部屋を照らすシャンデリア。
真っ赤な絨毯は染み一つなく、集まった王族や貴族たちは運ばれてくる料理や酒を嗜みながら談笑をしていた。
「…しかし驚きですなぁ。陛下に婚約者が出来るとは。」
「ええ、ええ。本当に驚きましたとも。
正直こう言っては何ですが……陛下が再び伴侶を得るのは難しいと思っておりましたからね。」
「でしょうなぁ。何せ陛下はあの見目。……前側妃様もお可哀想な方だった。今回はどの令嬢が哀れな贄として選ばれたのか…。」
「クライス侯爵閣下が新たに養子に迎えた令嬢らしいです。」
思い思いに、様々な言葉が飛び交う。
それは純粋な驚きであったり、めでたいと喜びの声であったり。
けれども多くの人間がマティアスの見目を馬鹿にし、女が出来ると思わなかったと嘲笑っていた。
兎も角相手がいてよかったではないか。
どんな女が相手にせよ婚約はめでたいことだ。
さて次の妃はどの程度持つか。いや、ちゃんと結婚まで愛想を尽かされなければいいが。
さっさと陛下との子を作ってもらわねば。
耳障りな程無礼な言葉をリュカらは失笑しながら聞いていた。
「…ふん。馬鹿に出来るのも今の内だ。…それまでは楽しく過ごすといいさ。」
「ふふ。私はサイカのドレス姿が楽しみです。…きっととても美しいでしょうね。」
「当たり前だろう。あいつに似合わない物なんてないさ。
しかし…これから荒れるな。」
「ええ。今日サイカがこの場に姿を現せば……サイカの事はたちまち広まるはずです。」
「……どうなるか、だな。」
「こればかりは分かりませんね…。…ですが、何もないという事はきっとないでしょう。」
「…ああ。」
マティアスとサイカの婚約式であり、サイカの姿を大勢の人間に披露する。
今日という日を祝う為、そしてサイカの社交界デビューを見守る為にリュカやヴァレリアはこの場に参加している。
そしてカイルも二人と一緒にはいないが警護の指揮を取っており、サイカの登場を今か今かと待っていた。
そしていよいよ、サイカが公の場に姿を現す時が来たのだ。
『……女神、』
サイカをその目に写した者たちは目を見開いた。
豪華絢爛な広間の中、義父であるクライス侯爵に手を取られゆっくりと歩くサイカは周りから見てとんでもない美しさだった。
身に付けているのは青いベルラインのドレスとサファイアのネックレスのみ。
けれど誰よりも美しい。いいや、華美な宝石を着けていない分、より美しさが際立っているのかも知れない。
まるで夜の女神だと、そう誰かが呟く。
掠れ、声にならない声で呟いた言葉は小さくともしっかりと周りの耳には届いていた。
艶やかな黒い髪が、夜空のような黒い澄んだ瞳が光の加減で煌めいている。
潤った唇が、果実のように小さな鼻がより愛らしい顔を整わせている。
華奢な体を、スラリとした体を引き立てる青いベルラインのドレスが軽やかに、動きに会わせて靡くその光景も。
まるで一つの芸術品のように。その全てが調和の取れた美しさで周りは感嘆の息を漏らした。
『…何て美しさだ…。』
それは感動したように。
『……あんな美しい令嬢は…他に見たことがない…』
それは信じられないというように。
『…天から地上に降り立った女神そのものじゃないか…』
それは崇拝するように。
その場にいる誰もが似た感情を抱き、そして瞬きすら忘れてしまう程に、上皇両陛下に挨拶を取るサイカをじっと見つめていた。
「この場に集まってくれた皆に紹介しよう。俺の愛しい婚約者であるサイカ・クライス侯爵令嬢だ。」
マティアスの高らかな声。その言葉の意味を、まだ誰も理解出来ていない。
婚約とは、愛するとは、どういう意味だっただろうか。
まるで馬鹿になった様に言葉の文字だけを頭の中で羅列しては呆然とする。
「初めまして。只今陛下よりご紹介預かりました…サイカ・クライスと申します。」
鈴が鳴るような声とはこのこと。
高く、そして穏やかで愛らしい声が会場に響き、笑顔でカーテシーを取るサイカに皆頬を赤く染め上げる。
激しく脈打つ動悸を抑えるように誰かは胸を掴み、また誰かは拳を握りしめ、そして誰かは大きく深呼吸した。
「……婚約、……婚約…?陛下と…?」
「…まさか。」
「…いや、だが、……先程陛下は…何と言った。」
漸く一部の人間たちがマティアスの言った言葉の意味を理解しようとし始め、考える。
今日は何の集まりだったか。そして大勢に見守られながらマティアスの隣に立ち挨拶をしたサイカ。
互いに見つめ合い、微笑んでいるその姿は思い合う男女の情が見てとれる。
だが信じられない気持ちの方が大きかった。
マティアスの見目は酷く醜い。そして対するサイカはとんでもなく美しい。
対極にいる二人の婚約を、誰も信じる事が出来ないでいた次の瞬間。
マティアスがサイカに、公の場で口付けを交わしたのだ。
「…全く。見せつけてくれる。…いや、あれは態と見せつけているか。」
「ええ。ですが…効果はてきめんのようです。
サイカが可愛らしく照れて…それがより真実味を増しています。」
「………理解させる為とはいえ…面白くない。」
「そうですね。……あんな可愛い顔、他の男たちに見せたくなかったです。
そのせいで…ほら。周りの男たちが面白いくらいに反応して…。」
周りを見渡したリュカは思わず苦笑する。
多くの男たちがサイカに一瞬で恋をしてしまったことを察した。
恥じらいながらマティアスに向けられた微笑みを、まるで自分に向けられたように錯覚すらしているのかも知れない。
大半の男たちが頬を染め口を開き熱を帯びた目…同じような顔をしていた。
「…ああまで多いと笑えるな。どれだけ望もうとサイカは手に入らん…それを分かっている奴がどのくらいいると思う?」
「どうでしょうか…。そこまで愚かな方が多いとは…思いたくありませんね。」
けれど確実に、この大勢の内の何人かはよからぬ事を企むだろう。
そう、リュカもヴァレリアも確信した。
「陛下、おめでとうございます。
こんな美しいご令嬢と婚約とは…実に羨ましい。」
「陛下、クライス侯爵令嬢。この度は誠におめでとうございます。」
婚約式が始まって暫く。
マティアスとサイカの周りには人だかりが出来ていた。
おめでとうございますと祝いの言葉を述べる王族貴族たち。
けれどその目はじっとりとサイカにまとわりつくような嫌な視線ばかりだった。
サイカを間近で見ようと、あわよくば話たいとそんな欲を隠しもせず挨拶の列は長蛇に及んでいる。
「…令嬢のような美しい方に初めてお会いしました…貴女という存在をもっと早くに知っていれば…」
「まあ、有難う存じます。」
「侯爵令嬢はまさに女神のよう。今日、貴女様に会えた奇跡に感謝したい。…陛下は幸運な方だ。」
「有難う存じます。」
「陛下が羨ましい。陛下よりも早くにサイカ嬢にお会い出来ていればと…つい、そう嫉妬してしまいます。」
まるでマティアスよりも自分たちの方がいいと言わんばかりの言葉の数々や全身を舐めるように見つめられ続けているサイカは早くも疲弊していた。
初めての公の場。その緊張も勿論あったがそれ以上に好奇の目で見られている事が苦痛でもあった。
けれどサイカはこの好奇の目に晒される中強く実感した事もある。
それはマティアスらが受けてきたであろう本当の苦しみ。
自らが多くの視線に晒され初めて、サイカは想像ではなく、実際にどれ程皆が苦しんだかを知った気がした。本当の意味で。
「サイカ…疲れていないか?」
心配そうにサイカを気遣う視線のマティアスを安心させるように見つめ、笑う。
「ありがとう。でも大丈夫です。」
「だが、」
「大丈夫。この程度の事で挫けたりしない。
だって、この先も一緒にいるなら…こういう事は沢山あるんでしょう?」
「…サイカ…」
「マティアスの隣にいるには沢山試練があって、これもきっとその内の一つなの。
私、負けたりしないから。だから大丈夫。ね?」
「……。」
サイカの強さをマティアスは垣間見た。
強い意思のこもった目は頼もしいくらいに輝いていた。
「側にいて。私も、マティアスの側にいる。
今日は二人で乗り越えるんです。一緒に。そう思うと全然平気。どこからでもかかって来いって思います。」
マティアスはそんなサイカの言葉に笑い、何度目とも言えない思いを実感する。
自分は素晴らしい、とても得難い女を手に入れたのだと。
生涯、この宝だけは絶対の手放してはならないと。
今だ二人の元へ…主にサイカの元へ行きたい者たちが長い列を成す中、突如音楽が流れ始める。
「サイカ、ファーストダンスだ。」
「…が、頑張ります。」
サイカはマティアスの手を取り人混みを割って会場の中心へ。
ゆったりとした音楽が流れる中、二人の、二人だけのダンスが始まった。
「大丈夫だ。俺がリードする。失敗しても構わない。」
「…ふう、」
「誰の目も気にしなくていい。俺とそなたの二人だけ、そう思っていればいい。」
「…マティアスと、二人だけ…」
「ああ。ただ俺とサイカ、二人で自由に踊る。それだけだ。
どうだ?そう思うと楽しくなってこないか?」
「…ふふ、ええ。マティアスと二人っきりなら、楽しい。」
右に、左に。
前に、後ろに。
サイカが動くたび、ベルラインのスカート部分がふわりと広がる。
サイカが動くたび、ドレスの光沢が輝く。
『……ほう…、』
幻想的とも呼べるサイカの美しさ。
何処からともなく感嘆の息が聞こえ、周りは見入る様に二人を目で追う。
そんな周りの目など気にせず互いだけを見つめ楽しそうに笑いながら踊る二人を信じられないと思いながら見る者もいれば、素敵ねとうっとりしながら見る者もいた。
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「サイカ、疲れたろう?」
そのマティアスの言葉、そして目は『疲れたと言ってくれ』と肯定を望んでいるようで…サイカはええ、と頷く。
「テラスで少し休憩しよう。」
態とらしさは少しあったかも知れないがこの会場内で誰よりも権力のあるマティアスに抗議をしよう者などいない。
例え婚約式に態々参加してやっている身であるとしても、だ。
それにただ一言、『皆様、申し訳ありませんが少し休みたいのです』とサイカが憂いを帯びた表情で謝罪をすれば皆が面白い程取り繕う笑みを見せる。
マティアスがサイカを抱えテラスに向かった後、招待された王族貴族たちは色めき立っていた。
興奮したように誰も彼もが話す内容はサイカの事ばかり。
そして愚かなことに…マティアスには勿体ないとそんな声も。
『醜い化け物王が極上の女を手に入れおったわ。』
『一体どんな手を使ってモノにしたんでしょうなぁ。』
『なあに。どうせ無理矢理手込めにしたに決まっておる。でなければあんな極上の女が陛下なぞ相手にするか。』
『しかし思い合っているようにも見えましたぞ。』
『馬鹿言え。あんな醜い男を誰が愛せる。
あの美しい令嬢はクライス侯爵の養子と聞いた。クライス侯爵は陛下と懇意にしている貴族。…何らかの取引でもあったのだろうよ。』
『成る程。あり得る話ですな。』
『…味わってみたいものだ。…あの美しさ、あの細さ。どんな可愛い声で鳴いてくれるやら。…そう思わんか?』
『はは。…侯爵の仰る通り。』
自分たちの愛するサイカに対しての、そんな邪な会話にリュカもヴァレリアも静かな怒りを感じながらテラスへ視線を向けた。
「……。」
「馬鹿共が。…万が一…愚かにもあいつに手を出せば…誰の女に手を出したか分からせてやる。」
「…ええ。当然です。」
きっと多くの男がサイカに何かを思っただろうと、そうリュカらは思う。
それは純粋な恋心か邪な欲望を含んだものか。
絶世の美女、女神の如く。とんでもない美貌を持つサイカをどの男も物欲しそうに見ていて、そして手に入れたいと望んでいるのが分かる、そんな式だった。
『レスト帝国には女神の如く、この世の者とは思えない絶世の美女がいる。』
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「俺とデートしない?」
「僕と一緒にいようよ。」
「俺だけがお前を守れる。」
(なんでそんなことを私にばっかり言うの!?)
そんなことを思ってる時、父親である『シャガ』が口を開いた。
「何言ってんだ?この世界は男が多くて女が少ない。たくさん子供を産んでもらうために、何人とでも結婚していいんだぞ?」
「・・・・へ!?」
『一妻多夫制』の世界で私はどうなるの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界とはなんの関係もありません。
※誤字脱字・表現不足は重々承知しております。日々精進いたしますのでご容赦ください。
ただただ暇つぶしに楽しんでいただけると幸いです。すずなり。
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