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82 それぞれの、今とこれから ディアストロ家

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"絶世の、傾国の、女神の如く。
令嬢を現す言葉が思い浮かばなかった。
どれも陳腐な言葉に思えてしまう。
私は令嬢の余りの美しさに…全身が震え、呼吸を忘れ、昂る胸を抑える事だけしか出来なかったのだ。
令嬢の美しさの前には、どんな宝石も霞んでしまう。
どんなものも令嬢の美しさには敵わないだろう。
生きとし生ける全ての命、その生の輝きを全てその身に詰め込んだような、神々しいまでの美しさであった。
ああ、マティアス陛下はとんでもない幸運の持ち主だと私はそう思う。
そう、心の底から思う。

このようにガレリア・ベージ伯爵は我々に語った。"




「…凄い…。父様、陛下の婚約式は昨日でしたよね!?見てください!昨日の今日でもうこんな記事が…!」

「…陛下の婚約式だけでもネタになると取材希望が殺到しただろう。
…加えてクライス侯爵令嬢のあの美しさだ…。」

「これ…兄様の時や他の方の時もきっとすごい事になりますよね…。」

「…恐らくは。」

「…それ、兄様への手紙ですか?」

「………ん…?……ああ、まあ…そんなものだ。…一応、な。」

「ふふ、そうですか。」



クライス侯爵閣下と令嬢が我が家に来てから、父様と兄様は手紙をやりとりするようになった。
ううん。父様だけじゃなくて、僕もそう。
兄様と父様の思いを聞いた後、お互いにこれからどうしたいか。どうなっていきたいかを僕たちは話し合った。
…まあ、母様とエメは参加しなかったんだけど。
参加しなかったというか、兄様が嫌がったから二人には申し訳ないけれど、使用人たちと一緒に退室してもらった。


『…俺の人生に、お義母さんと義妹は必要ない。…父さんやアレクには…悪いけど。
俺は、あの二人と歩み寄りたいとか、仲良くしたいとか、思わない。…今までもこれからも。でも……でも、父さん、と、…アレクは、違う。嫌なこと、言ったけど、でも、大切なのは、本当。』


そんな寂しい事言わないで。母様もエメも家族じゃないか。
いつか、仲良くなってくれたらいいな。今は難しくとも、僕の大好きな母様やエメとも、形だけの家族じゃなくて、本当の家族になって欲しいな。
きっとこれまでの僕ならそう思っただろう。
だけど兄様の辛い気持ちを知ってそれから僕が知らなかった…ううん、今まで知ろうとしなかった真実を知ってからは、『仲良くしよう』なんてとてもじゃないけど言えなかった。

だって僕は知らない。これまで何不自由もなく普通に生活してきた僕は、兄様がどれだけ辛い思いをしてきたか。少ししか分からない。ううん、きっと半分も分かってない。
だって僕は誰かに嫌悪されたり、憎まれたりされてきていない。
想像と実際に経験するとでは違うから。
“蔑まれる”という行為をされた事がない僕が、兄様の辛さを全部理解出来るわけもなかった。

母様は赤ん坊だった僕に兄様が近付かないようにしていたとか。
母様もエメも心の中では兄様を馬鹿にしていたとか。
じゃああの時も、あの時もあの時もあの時も。
僕が母様やエメに兄様の話をした時も…優しい言葉の裏には違う思いがあったんじゃないかと気付いた。

『母様!兄様はやっぱり凄いですよね!異例の早さで昇進してるんですから!』

『ええそうね。とても立派だわ。』

『エメ。兄様と会って…どうだった?怖かった?』

『いいえ、そんな事はなかったわ。アレクからお義兄様の事を聞いてたからかしら。余り話さない方だったけれど、でもきっといい方だと思うわ。』

『兄様の容姿を皆嫌がるんだ。
でも僕は容姿じゃなくて、ちゃんと兄様を見て欲しかったから…そしたら皆、絶対に兄様の良さを分かって貰えるのに。
だからもしエメが兄様の容姿を嫌がったら…そしたら悲しいなって。だけどやっぱりエメは容姿で人を差別しない素晴らしい子だった!』

『うふふ。アレクったら。』


本当はどう思っていたんだろう。
クライス侯爵に指摘された母様は。
醜い容姿の兄様と付き合っているのが可哀想とクライス侯爵令嬢にそう言ったエメは。
僕は大馬者だ。全部兄様の言う通りだった。
“優しい”は全ての人に対してじゃない。母様が優しいのは、エメが優しいのは“普通の人”に対してだけだったのに。
エメの言葉を聞いて、信じられなかった。
クライス侯爵の言葉を聞いて、自分が恥ずかしくなった。
父様が告白した、兄様が実の母親に殺されかけたと聞いて…僕はどうしようもなく堪らない気持ちになった。
大好きな母様に同じような事をされる。それも子供の頃に。
母様は僕を嫌っていて、父様はいつも忙しくて、使用人たちは近付く事もなく、いつも、いつも一人ぼっち。
誰とも話さず、一人で過ごす事が多かったのはそうしたいからじゃなく、そうしなければならなかったから。

そんなの。そんなの。辛いに決まってる。苦しくて、悲しくて、寂しくて。
兄様の気持ちを自分に当て嵌めて考えてみれば、泣きたくなるくらい胸が苦しくて堪らなかった。

子供の頃は何故皆兄様を避けるのか分からなかった。
だけど大人へ成長するにつれ、それが容姿を蔑んでいるからだと分かった。
僕は子供の頃から兄様が大好きで。じゃあ、僕だけは兄様を好きで居続けようと。けれどそれは、まるで上から目線じゃないか。
僕は大馬者だ。
兄様が平気そうにしていたから、気にしていない様子だったから。
いつも表情が変わらなかった兄様。口数も少なくて、一人でいるのが好きなんだと思ってた。誰かと一緒にいるのが兄様は好きじゃないんだって、子供の頃からそうなんだって、勝手に。
だけど心の中ではすごく、もの凄く辛く感じていたんだと兄様が話すまで知らなかった。


『初めまして。わたくしはサイカ・クライスと申します。
本日はディアストロ伯爵様を始め皆様にお会いでき…誠に嬉しく存じます。』


そのひとはとても美しいひとだった。
神様に愛された、特別に愛された姿を持つひとだった。
このひとが兄様の、…恋人?本当に?
とても信じられなかった。嘘じゃないのかって、どこかでそう思った僕がいた。
あんな綺麗なひとは今まで見たこともなくて。
それも信じられなかったんだけど、でも一番はやっぱり、二人が恋人同士だと言うこと。
以前兄様に月光館という娼館を教えた。
月光館には醜い容姿を相手にする専門の娼婦がいると。
その数ヵ月後、月光館で暴力事件が起きた。
その時の新聞にはこう書かれてあったのを思い出す。
“その娼婦はこの世のものとは思えない美しい女だったーー”
まさか、まさかクライス侯爵令嬢は。侯爵令嬢は元娼婦なんじゃ。月光館にいた娼婦なんじゃ。
膨れ上がった疑問がより僕の不安を煽る。
兄様は騙されているんじゃないだろうか。クライス侯爵はどういう経緯で令嬢を養女にしたのだろうか。

馬鹿な事を考えた僕を、殴ってやりたい。僕だってエメを責められない。
何が騙されているんじゃ、だ。何が。
あのひとは素晴らしい人だった。
兄様がただ好きだから恋人になった。兄様とこれからも一緒にいたいから恋人になった。
疑いようもない、令嬢の強い思いは確かに僕にもエメにも伝わった。


「クライス侯爵令嬢が…僕の義姉になるかも知れないだなんて…ふふ、まだ信じられません。」

「…ああ。」

「でも…その未来が凄く楽しみです。」

「……俺もだ。」


父様と兄様には僕の知らない深い溝があって、僕と兄様にも、兄様がずっと我慢をしていた理不尽があって、そして僕と父様にも少なからず感じていた溝はあった。
お互いに知らなかった思いを吐き出して伝えた後に残ったのは気まずさだった。でもそんな中、クライス侯爵令嬢が動いてくれた。

『ディアストロ伯爵様、カイル、アレク様も。
これからどうしたいですか?お互いにどうなっていきたいですか?』

どうしたいか。どうなりたいか。
この言葉を考える。
過去は変えられない。今まで僕が兄様の本当の苦しみを半分も理解出来ていなかった為に兄様を苦しめていた事も、父様が兄様や僕とどう接すればいいか分からず親子という親子の関係をちゃんと築いてこれなかった事も。
思っていた事を吐き出し伝えたからと言ってじゃあこれで水に流そうとはいかない。
だけど僕は兄様が大好きで、父様だって母様だって、エメだって大好きだから。
気まずいままは嫌だったし、それに…ここで黙ってしまえばきっと兄様は二度と家に寄り付かなくなってしまうとも思った。

『…家族でいたい。僕は、家族でいたいです。
兄様が大好きです。兄様は僕の自慢です。父様とはこれまで余り話す事がなかったけれど、でも、僕は知っています。
不器用だけど、余り構ってもらえなかったけど。でも知ってるんです。本当は優しい事。』

子供の頃、母様は僕が兄様と遊ぶのをよく思ってはいなかった。
子供の頃は分からなかったけれど、大人になるにつれ分かった。
『カイルさんは余り人が好きではないの。だからアレクが誘っても困らせるだけよ。』そう母様は言うことが多々あった。
遊ぼうと兄様を誘うと兄様は言った。『お義母さんに怒られるよ』と。
僕は兄様にこう言った。『怒られませんよ』と。
そう、怒られはしないけど、少しだけ顔をしかめるのはあった。
だけど父様は違った。僕が兄様と遊んでいいかとそう聞けば、いつも変わらない顔をしている父様が、滅多に笑わない父様が目を細めて『遊びなさい』と言う。
きっと父様は僕が兄様を大好きな事に安心したんだと思う。
僕という存在が、いつも一人だった兄様の側にいた事に安心したんだとそう思う。

『父様の気持ち、兄様の気持ち。知った上でこれから始めたいです。一緒に沢山の事をしたいです。
何もかもを、じゃなくていい。そうじゃなくていいから、家族としてこれからも過ごしたい。…父様は、兄様は…どうですか?』

返事を聞くまで実際は短い時間だったけど、酷く長く感じた。
それまではまるで祈るような気持ちだった。


『…俺の人生に、お義母さんと義妹は必要ない。…父さんやアレクには…悪いけど。
俺は、あの二人と歩み寄りたいとか、仲良くしたいとか、思わない。…今までもこれからも。でも……でも、父さん、と、…アレクは、違う。嫌なこと、言ったけど、でも、大切なのは、本当。』

『…今更、父親面してと思われないだろうか。
二人を…これまで苦しみ続けたカイルを放っていたこんな俺が。
自分でもこれが父親かと…そう思う。情けないと、そう思う。
その俺が、お前たちの父であっても…』

いい、と。そう言いたいのに声が出なかった。
父様の激しい後悔と自責の念が痛いくらいに伝わってくるのに、何と言っていいか分からなくて。
父様の心を軽くしてあげたいのに、上手い言葉が出なくて。
兄様もそうだった。何かを伝えようとして、でも言葉が出ない様子だった。

『ディアストロ伯爵様。お義父様と私は家族になったばかりです。でも最近は…本当の親子のように見えると言われます。
慣れるまではお互いに気を使います。それは家族であろうとなかろうと。何もかも、時にはうまくいかない事だってあります。苛ついて相手を傷つけたり、素っ気ない態度を取ってしまったり。…人間なのですから。』

『……侯爵令嬢…』

『血の繋がりだけが、血筋だけが家族ではありません。
私はお義父様やこれまで出会った方々にそれを教わった気がしています。
今あるのは器だけ。家族という器だけがここにあって、そしてこれから…そう、これから。その器を満たしていけばいいではありませんか。器は少しずつ時間をかけて満ちていく。
そしてふと思い返したその時に…始めた時よりも違うと実感できるはずですから。』

このひとは、本当に何て人だろうか。
僕たちは家族として歪で、いや、きっと家族という言葉だけで始まってもいなかった。
その事実を馬鹿にするでもなく見下すでもなく呆れるでもなく。
慰めるようにじゃない。侯爵令嬢が僕たちに伝えてくれた言葉、思いは…とても温かいもの、優しいもので…大丈夫だと、何もおかしくはないと伝えてくれているみたいに。
その温かさは希望を運んでくれた。恥ずかしいと思うことなかれ、だって家族も友人も恋人も…人それぞれなのだから。
どうしたいか。どうなりたいか。この質問をした時からこのひとは…僕たちに心から寄り添ってくれていたんだと気付いた。


不器用な父様と口下手な兄様。
互いを知っていくのも、気持ちを伝え合うのも少し難しい二人。
家族としてまた始めたい…という結論は出たけれどでもどうしていいかが分からなかった。
知ること、伝えること。それすら難しい。


『カイル、手紙はどうですか?』

『…手紙…』

『会話は言葉だけじゃないもの。手紙でだって、会話は出来るでしょう?』

『…ん。……前、サイカからの手紙もらった時…嬉しかった。
クライス候の所にいた時も、サイカの気持ち、手紙から伝わってた。…そういうこと…?』

『そういうこと。手紙でだって、思いは伝わる。ね?』

『……ふふ、うん。ちゃんと、伝わる。』


僕も父様も、兄様が嬉しそうな顔で笑うのを初めて見た瞬間だった。
小さく笑うでもない。唇だけを上げるのでもなく。
そう、それは本当に無邪気な笑顔。
あんな顔で兄様は笑うんだ、あんな嬉しそうに、幸せそうに。
そう思うとクライス侯爵令嬢に対して少しだけ悔しい気持ちが、でも、でもそれ以上にすごく嬉しくて。
何てひとだろう。本当に何てひとだろう。言葉や表情、態度の一つ一つが建前でなく、深い真心が見える。
きっと令嬢のこのとても優しい、美しい心が兄様を救ってくれたんだ。
傷付いてぼろぼろだった兄様の心を今みたいに寄り添って、一人ぼっちじゃなくて一緒に。
兄様の手を引っ張り日の当たる方へ導くように。
その優しさは強引じゃないから。ちゃんと、兄様の気持ちを優先しながら導いているから、だから兄様は僕たちに自分の気持ちを伝えようとするまでに変われた。
そしてその優しさは僕と父様にも伝染していたんだ。


『…おかしいかもしれないが……自分でもみっともないと…そう思っていた事を話して、…不思議な程、すっきりとしている。
弱さ未熟さを誰かに…それも家族の前で。お前たちに俺のみっともない部分を知られたにも関わらず、だ…。』

『はい。父様の言ってる事…よく分かります。
だって僕も、あの日から不思議な程穏やかな気持ちなんです。
母様ともエメともあれから話し合って…母様はただ僕の話を聞いていただけでしたけど…でも思う事もあった様子でした。
エメも、あれからよく考えてみたって。いつかちゃんと兄様に謝りたいって言っていました。』

『ああ。…俺も、沢山話をした。…思えば初めてかも知れない。
……侯爵と令嬢の言う通り、その…少しずつ変えていこう。いや、始めていこう。これから……家族として。』

『はいっ!……ふふ、本当に何てひとだろう。ねぇ父様。もしかしたら侯爵令嬢…ううん、未来の義姉様は本当に女神様かも知れませんよ。』

『かも知れないな。』


これまでになかった温かく、優しい関係ものが今存在する。
あの時の無邪気な顔で笑った兄様を、今穏やかな笑顔を浮かべる父様を、そしてこんなにも嬉しくて幸せな気持ちにさせてくれるあのひとは…本当に女神様かも知れない。


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