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一章 -出会い-
蓮見 透 一章③【改】
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席替えの日から一ヶ月ほどが経った。
些細な気づきは、徐々にその形をはっきりとさせていき、今はもう確信と呼べるようなものになっている。
「今日も夢は見てない、か」
あれほどあったはずの片頭痛はほとんどなくなり、ぐっすり眠れる日の方が多くなった。
最近では、化粧で隈を隠す必要さえないほどで、その変化は見える形でも現れつつある。
(…………氷室君の、おかげだよね)
どれだけ経ってもあり続ける彼の綺麗で、真っ直ぐな心に、どうしようもないほどの安心感を私は感じてしまっている。
いや、むしろ変わってしまったのは自分の方なのだろう。
(本当に、自分勝手)
他人に変わらないことを求めつつも、自分はこれほど容易く流されてしまう。
相変わらず、勝手な女だということは、私自身理解している。
(でも、仕方ないよね)
好ましくない思考の濁流に飲まれながら、目立ちやすい自分が孤立してしまわないように頭を回して生活を送る。
心を擦り減らして、自分の気持ちを押し殺しながら。
そして、そんな毎日の中で自分が自分でいられる場所を見つけてしまえば、そんなの甘えてしてしまうに決まっている。
「…………今日は、何を話そうかな」
些細は会話がどうしようもないほどに楽しい。
実家は遠く離れた田舎にあるし、仲の良い友達も皆違う高校に行ってしまった。
だからこそ、彼との時間は、私の中で掛け替えのない大切なものになりつつあったのだ。
◆◆◆◆◆
周りから投げかけられる声に上の空で返しつつ、この後の楽しい時間に想いを馳せる。
そして、近づくほどに弾んでいく気持ちを何とか抑えながら、教室の扉を勢いよく通り抜けた。
(…………あれ?)
はしゃぎ過ぎて、早く着いてしまっただろうかと思い時計を見るも、それは氷室君の登校時間を見越した正確過ぎるほどの時間をしっかりと指し示していた。
しかし、肝心の彼がどこにもいない。
(…………なんで?なんでいないの?氷室君)
何かあったのだろうか。
ほぼ登校時間が決まっている彼がこの時間にいないのは普通ならありえない。
トイレに行っているとするならば、鞄すらないのはおかしい。
(…………ダメだよ、いてくれなきゃ)
自分が立っているのかすらも分からなくなる喪失感の中、微かに耳に入り込んでくるクラスメイトの声に生返事で言葉を返すことしかできない。
私は、フラフラと自分の席に荷物を置くと、沈んだ心を余計にすり減らしたくなくて、逃げるように外へと足を向けた。
(……今は、誰とも話したくない)
明らかに様子がおかしい姿を見せたことは、もしかしたらあまりよくはない対応だったのかもしれない。
でも、それを取り繕うために会話をしに行く元気は全く残っていなかった。
(………………情緒不安定だな、私)
便座にもたれながらぼーっと抜け殻のように時間を過ごす。
それでも、思い出されるのは氷室君とのことだ。
席替えのすぐ後、冷たい態度を取っていた私に対し、女子には重そうだからというだけの理由で手伝ってくれた。
生理のせいで体調が悪かった日、嫌がらせからか何度も当ててこようとする富樫先生の気を引くために、わざと目立つように寝たふりをしてくれた。
朝、彼がトイレに立った時、その隙に座った男の子達に話しかけられるのを私が嫌がっているのに気づいてくれ、それからは必ずトイレに行ってから教室に入ってくるようにしてくれた。
この一ヶ月の間、彼が自分勝手な感情を押し付けてくるはもちろん、誤魔化しや取り繕うことをすることさえ一切なかった。
いや、それどころか真心ともいえるような優しさでずっと包み込み続けてくれたのだ。
私に気を遣わせてしまわないように、何も言わずに。
(…………ほんと、ずるいんだから)
あんな風にされて、疑い続けることなんてとてもできない。
私は、もはや引き返せないほどに、彼の方に引き寄せられてしまっているようだった。
◆◆◆◆◆
(そろそろ、戻らないと)
もう少しで、チャイムが鳴るという時間に教室へと向かう。
もしいなかったら、保健室にでもいって心を落ち着けよう、そんなことを思いながら。
(…………よしっ)
中が見えない、ギリギリの場所。
そこで立ち止まると、気合を入れて中に入る。
(…………今度は、ちゃんといるみたい。でも、なんだか体調悪そう)
いつも通り、席に座っている氷室君の姿に安堵する。
しかし、今日はどこか元気が無さそうな様子で、それが気になった。
「おはよう、氷室君。辛そうだね?大丈夫?」
「おはよう、蓮見さん。大丈夫、ただの空腹なだけだから」
「本当に?」
「本当だって」
「…………よかった」
心の中を窺って見るに、どうやら本当にそれだけのことらしい。
(本当に、よかった)
心の底からそう思う。
もし、体調が悪いのであれば、付きっ切りで看病してあげるのも悪くはないかと思っていたけれどその必要はなかったらしい。
「心配してくれてありがとう。とりあえず今は、そっとしておいてくれると助かる」
しかし、仕方がないことだとは頭の片隅では理解しつつも、早々に机に突っ伏されたことに対しては少しムッとしてしまう。
(ちょっとくらい、話してくれてもいいのに。)
当然、そんな子供じみたことは言えずに、その後頭部をじっと見つめることしかできない。
いつもなら、視線を感じれば何かを返してくれる彼。
でもそれは、今日は何も返ってくることはなくて。
私は、心の中がぽっかり空いてしまったような寂しさを感じてしまった。
◆◆◆◆◆
授業中、氷室君の方に時折視線を送ってみるが、今日の彼は全く気付いてくれる気配がない。
(……いつもなら、ちゃんと反応してくれるのに)
そんな姿が無性に悔しくなる。
そして、むきになり始めた私が、少し音を出してみたり、何度も姿勢を変えて視界の端に映るように試してみたりしても、その全てが徒労に終わってしまった。
(……寂しいなぁ)
休憩時間も力無く突っ伏したままの彼。
私は、何か話すためのきっかけを必死に考え始めていた。
◆◆◆◆◆
そして、いろいろと準備をして迎えた昼休み。
氷室君が教室から出ると、これ幸いとばかりに追いかけていく。
「………………なんか、わたあめみたいに見えてきた」
夏の香りを感じさせる風の中、彼が頭の悪そうなことを言っている。
ぼけーっとしたその姿すらも可愛いと思ってしまうような私は、きっと、熱に浮かされてしまっているのだろう。
私は、思わず笑ってしまった声に合わせて、そのまま話しかけることにした。
「ふふっ。そんなこと言うなんて、かなり重症だね」
「…………蓮見さんか。どうした?」
不思議そうな顔で彼が振り返ると、今日初めてお互いの目がしっかりと合って嬉しくなる。
しかし、ずっと喜んでもいられない。
このせっかくの機会を活かすためにも、今は彼の逃げ道を少しずつ減らしていくことにした。
「そうだったのか。でも、悪いからいいよ。今回は、完全に自業自得なんだ」
「いいの。テスト期間に私のノート貸し出す分の前借りだから。前回のテストの時も自分じゃ食べきれないくらいだったし、家にもまだ余っちゃってるんだ」
女の子達からの点数稼ぎもあってやっていたことだったが、今回ばかりはそのことにとても感謝している。
それこそ、買ったものをあげると言っても彼が絶対に頷かないのはわかっているから。
「でもさ」
「…………ダメ、かな?」
きっと、氷室君ならこんなことを言う。こんなことを考える。
今の私には――彼のことをいつも考えているような私には、それが手に取るようにわかる。
それこそ、私は相手のカードを見ながらいつも戦えるのだ。
どうすれば彼が頷いてくれるのかは、最初から考えてきていた。
「……ありがとう。助かるよ」
「やった!」
性格の悪い女だなと、自分で思いつつも喜びが抑えられない。
そして、さりげなく意識を誘導するようにすると、素直な彼は面白いくらいに嵌ってくれた。
(……ごめんね?でも、氷室君が悪いんだよ?)
一日、私をほったらかしにしたせいなのだ。
彼にもメリットがあることなので、今日くらいは見逃して欲しい。
「ほんと、ありがとうな」
「もう、お礼はいいってば」
少し緊張しながら返した言葉に、気づいているだろうか。
大胆なほどに近づいた、その距離に。
(…………やっぱり、嫌じゃない)
普通の男の人が近づいてこれば、思わず飛びのいてしまうような距離。
だけど、ほんのちょっと手を伸ばせば触れ合ってしまいそうなその近すぎるほどの距離は、全然嫌じゃなくて、むしろもっと近くに行きたいとすらも思ってしまうほどだった。
「必ず、この借りは返すよ。首を洗って待っていてくれ」
「あははっ。それだと意味が違ってくるよ?」
ある程度調子の戻ってきた氷室君の軽口に、嬉しくなった私は笑いながら返す。
(本当に、楽しいなぁ)
半日分の隙間を埋めてしまうような楽しい時間。
ずっと、続けばいいのにと思ってしまうような、そんな。
(……この時間が続くのなら、恩なんて返さなくてもいい)
それを返したら終わってしまう関係ならば、そんなことしなくてもいい。
いや、して欲しくない。
「……………………それで、縛り付けちゃおうかな」
「ごめん、何か言ったか?」
「ううん、なにも」
つい漏れてしまった暗い本音を誤魔化す。
でも、それも悪くはないかもしれない。
そう思ってしまうほどには、私は彼を手放したくないようだった。
◆◆◆◆◆
昼食を食べ終わった後、残りの時間を氷室君と話しながら過ごす。
バイクの免許が欲しいこと、その理由、そんなことを。
「……自分がやりたいからやるか。私にはちょっと遠く聞こえちゃうかな」
そして、単純であるからこそ感じられる氷室君の強さ。
お金や、学校での問題、ぶつかってやめてしまうような人もいるだろう壁を、彼はさも大したことのないように考えている。
(………………私には、できそうにない)
私の周囲にはたくさんの壁があって、それを見るだけでもすぐに立ち止まってしまうのだ。
自分の想いの力だけで進み続けるには、あまりにも私は弱すぎる。
「蓮見さんは、もう少し自分のしたいことをしてもいいと思うけどな。なんかやりたいことは無いのか?」
「………………やりたいことか。なんだろう、考えたことも無かった」
「じゃあ、一回考えてみたらどうだ?それこそ簡単なことでもいいんだ」
「………………そうだね。一度、考えてみるよ」
最初から諦めて、考えることすらしてこなかったそれ。
でも、氷室君が言うのなら。
私のことを心配して、優しくしてくれる彼が言うのなら。
一度考えてみてもいいのかもしれない。
「ああ、それがいい。手伝えることがあったら、言ってくれ」
醜い化け物に過ぎない私が、何かを願ってもいいのかはわからない。
心を読んで、ずる賢く立ち回る、そんな私に、許されることかなんてことは。
(…………氷室君が言うなら、いいんだよね?)
だから、私は彼の言葉を拠り所にした。
きっと、自分だけでは、それを否定してしまいそうだったから。
些細な気づきは、徐々にその形をはっきりとさせていき、今はもう確信と呼べるようなものになっている。
「今日も夢は見てない、か」
あれほどあったはずの片頭痛はほとんどなくなり、ぐっすり眠れる日の方が多くなった。
最近では、化粧で隈を隠す必要さえないほどで、その変化は見える形でも現れつつある。
(…………氷室君の、おかげだよね)
どれだけ経ってもあり続ける彼の綺麗で、真っ直ぐな心に、どうしようもないほどの安心感を私は感じてしまっている。
いや、むしろ変わってしまったのは自分の方なのだろう。
(本当に、自分勝手)
他人に変わらないことを求めつつも、自分はこれほど容易く流されてしまう。
相変わらず、勝手な女だということは、私自身理解している。
(でも、仕方ないよね)
好ましくない思考の濁流に飲まれながら、目立ちやすい自分が孤立してしまわないように頭を回して生活を送る。
心を擦り減らして、自分の気持ちを押し殺しながら。
そして、そんな毎日の中で自分が自分でいられる場所を見つけてしまえば、そんなの甘えてしてしまうに決まっている。
「…………今日は、何を話そうかな」
些細は会話がどうしようもないほどに楽しい。
実家は遠く離れた田舎にあるし、仲の良い友達も皆違う高校に行ってしまった。
だからこそ、彼との時間は、私の中で掛け替えのない大切なものになりつつあったのだ。
◆◆◆◆◆
周りから投げかけられる声に上の空で返しつつ、この後の楽しい時間に想いを馳せる。
そして、近づくほどに弾んでいく気持ちを何とか抑えながら、教室の扉を勢いよく通り抜けた。
(…………あれ?)
はしゃぎ過ぎて、早く着いてしまっただろうかと思い時計を見るも、それは氷室君の登校時間を見越した正確過ぎるほどの時間をしっかりと指し示していた。
しかし、肝心の彼がどこにもいない。
(…………なんで?なんでいないの?氷室君)
何かあったのだろうか。
ほぼ登校時間が決まっている彼がこの時間にいないのは普通ならありえない。
トイレに行っているとするならば、鞄すらないのはおかしい。
(…………ダメだよ、いてくれなきゃ)
自分が立っているのかすらも分からなくなる喪失感の中、微かに耳に入り込んでくるクラスメイトの声に生返事で言葉を返すことしかできない。
私は、フラフラと自分の席に荷物を置くと、沈んだ心を余計にすり減らしたくなくて、逃げるように外へと足を向けた。
(……今は、誰とも話したくない)
明らかに様子がおかしい姿を見せたことは、もしかしたらあまりよくはない対応だったのかもしれない。
でも、それを取り繕うために会話をしに行く元気は全く残っていなかった。
(………………情緒不安定だな、私)
便座にもたれながらぼーっと抜け殻のように時間を過ごす。
それでも、思い出されるのは氷室君とのことだ。
席替えのすぐ後、冷たい態度を取っていた私に対し、女子には重そうだからというだけの理由で手伝ってくれた。
生理のせいで体調が悪かった日、嫌がらせからか何度も当ててこようとする富樫先生の気を引くために、わざと目立つように寝たふりをしてくれた。
朝、彼がトイレに立った時、その隙に座った男の子達に話しかけられるのを私が嫌がっているのに気づいてくれ、それからは必ずトイレに行ってから教室に入ってくるようにしてくれた。
この一ヶ月の間、彼が自分勝手な感情を押し付けてくるはもちろん、誤魔化しや取り繕うことをすることさえ一切なかった。
いや、それどころか真心ともいえるような優しさでずっと包み込み続けてくれたのだ。
私に気を遣わせてしまわないように、何も言わずに。
(…………ほんと、ずるいんだから)
あんな風にされて、疑い続けることなんてとてもできない。
私は、もはや引き返せないほどに、彼の方に引き寄せられてしまっているようだった。
◆◆◆◆◆
(そろそろ、戻らないと)
もう少しで、チャイムが鳴るという時間に教室へと向かう。
もしいなかったら、保健室にでもいって心を落ち着けよう、そんなことを思いながら。
(…………よしっ)
中が見えない、ギリギリの場所。
そこで立ち止まると、気合を入れて中に入る。
(…………今度は、ちゃんといるみたい。でも、なんだか体調悪そう)
いつも通り、席に座っている氷室君の姿に安堵する。
しかし、今日はどこか元気が無さそうな様子で、それが気になった。
「おはよう、氷室君。辛そうだね?大丈夫?」
「おはよう、蓮見さん。大丈夫、ただの空腹なだけだから」
「本当に?」
「本当だって」
「…………よかった」
心の中を窺って見るに、どうやら本当にそれだけのことらしい。
(本当に、よかった)
心の底からそう思う。
もし、体調が悪いのであれば、付きっ切りで看病してあげるのも悪くはないかと思っていたけれどその必要はなかったらしい。
「心配してくれてありがとう。とりあえず今は、そっとしておいてくれると助かる」
しかし、仕方がないことだとは頭の片隅では理解しつつも、早々に机に突っ伏されたことに対しては少しムッとしてしまう。
(ちょっとくらい、話してくれてもいいのに。)
当然、そんな子供じみたことは言えずに、その後頭部をじっと見つめることしかできない。
いつもなら、視線を感じれば何かを返してくれる彼。
でもそれは、今日は何も返ってくることはなくて。
私は、心の中がぽっかり空いてしまったような寂しさを感じてしまった。
◆◆◆◆◆
授業中、氷室君の方に時折視線を送ってみるが、今日の彼は全く気付いてくれる気配がない。
(……いつもなら、ちゃんと反応してくれるのに)
そんな姿が無性に悔しくなる。
そして、むきになり始めた私が、少し音を出してみたり、何度も姿勢を変えて視界の端に映るように試してみたりしても、その全てが徒労に終わってしまった。
(……寂しいなぁ)
休憩時間も力無く突っ伏したままの彼。
私は、何か話すためのきっかけを必死に考え始めていた。
◆◆◆◆◆
そして、いろいろと準備をして迎えた昼休み。
氷室君が教室から出ると、これ幸いとばかりに追いかけていく。
「………………なんか、わたあめみたいに見えてきた」
夏の香りを感じさせる風の中、彼が頭の悪そうなことを言っている。
ぼけーっとしたその姿すらも可愛いと思ってしまうような私は、きっと、熱に浮かされてしまっているのだろう。
私は、思わず笑ってしまった声に合わせて、そのまま話しかけることにした。
「ふふっ。そんなこと言うなんて、かなり重症だね」
「…………蓮見さんか。どうした?」
不思議そうな顔で彼が振り返ると、今日初めてお互いの目がしっかりと合って嬉しくなる。
しかし、ずっと喜んでもいられない。
このせっかくの機会を活かすためにも、今は彼の逃げ道を少しずつ減らしていくことにした。
「そうだったのか。でも、悪いからいいよ。今回は、完全に自業自得なんだ」
「いいの。テスト期間に私のノート貸し出す分の前借りだから。前回のテストの時も自分じゃ食べきれないくらいだったし、家にもまだ余っちゃってるんだ」
女の子達からの点数稼ぎもあってやっていたことだったが、今回ばかりはそのことにとても感謝している。
それこそ、買ったものをあげると言っても彼が絶対に頷かないのはわかっているから。
「でもさ」
「…………ダメ、かな?」
きっと、氷室君ならこんなことを言う。こんなことを考える。
今の私には――彼のことをいつも考えているような私には、それが手に取るようにわかる。
それこそ、私は相手のカードを見ながらいつも戦えるのだ。
どうすれば彼が頷いてくれるのかは、最初から考えてきていた。
「……ありがとう。助かるよ」
「やった!」
性格の悪い女だなと、自分で思いつつも喜びが抑えられない。
そして、さりげなく意識を誘導するようにすると、素直な彼は面白いくらいに嵌ってくれた。
(……ごめんね?でも、氷室君が悪いんだよ?)
一日、私をほったらかしにしたせいなのだ。
彼にもメリットがあることなので、今日くらいは見逃して欲しい。
「ほんと、ありがとうな」
「もう、お礼はいいってば」
少し緊張しながら返した言葉に、気づいているだろうか。
大胆なほどに近づいた、その距離に。
(…………やっぱり、嫌じゃない)
普通の男の人が近づいてこれば、思わず飛びのいてしまうような距離。
だけど、ほんのちょっと手を伸ばせば触れ合ってしまいそうなその近すぎるほどの距離は、全然嫌じゃなくて、むしろもっと近くに行きたいとすらも思ってしまうほどだった。
「必ず、この借りは返すよ。首を洗って待っていてくれ」
「あははっ。それだと意味が違ってくるよ?」
ある程度調子の戻ってきた氷室君の軽口に、嬉しくなった私は笑いながら返す。
(本当に、楽しいなぁ)
半日分の隙間を埋めてしまうような楽しい時間。
ずっと、続けばいいのにと思ってしまうような、そんな。
(……この時間が続くのなら、恩なんて返さなくてもいい)
それを返したら終わってしまう関係ならば、そんなことしなくてもいい。
いや、して欲しくない。
「……………………それで、縛り付けちゃおうかな」
「ごめん、何か言ったか?」
「ううん、なにも」
つい漏れてしまった暗い本音を誤魔化す。
でも、それも悪くはないかもしれない。
そう思ってしまうほどには、私は彼を手放したくないようだった。
◆◆◆◆◆
昼食を食べ終わった後、残りの時間を氷室君と話しながら過ごす。
バイクの免許が欲しいこと、その理由、そんなことを。
「……自分がやりたいからやるか。私にはちょっと遠く聞こえちゃうかな」
そして、単純であるからこそ感じられる氷室君の強さ。
お金や、学校での問題、ぶつかってやめてしまうような人もいるだろう壁を、彼はさも大したことのないように考えている。
(………………私には、できそうにない)
私の周囲にはたくさんの壁があって、それを見るだけでもすぐに立ち止まってしまうのだ。
自分の想いの力だけで進み続けるには、あまりにも私は弱すぎる。
「蓮見さんは、もう少し自分のしたいことをしてもいいと思うけどな。なんかやりたいことは無いのか?」
「………………やりたいことか。なんだろう、考えたことも無かった」
「じゃあ、一回考えてみたらどうだ?それこそ簡単なことでもいいんだ」
「………………そうだね。一度、考えてみるよ」
最初から諦めて、考えることすらしてこなかったそれ。
でも、氷室君が言うのなら。
私のことを心配して、優しくしてくれる彼が言うのなら。
一度考えてみてもいいのかもしれない。
「ああ、それがいい。手伝えることがあったら、言ってくれ」
醜い化け物に過ぎない私が、何かを願ってもいいのかはわからない。
心を読んで、ずる賢く立ち回る、そんな私に、許されることかなんてことは。
(…………氷室君が言うなら、いいんだよね?)
だから、私は彼の言葉を拠り所にした。
きっと、自分だけでは、それを否定してしまいそうだったから。
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