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「うわ、気持ち悪っ……あんなの吸って大丈夫なの?」
「大丈夫ではありません。だから、浄化するのです」
瘴気溜まりに向かった司祭は二名。
魔力を温存するため、司祭たちは順番に作業に当たる。
胸の前で両手指を組んだ姿勢で目を閉じると、体の周りを金色の淡い光が包み込んだ。
その光が黒い靄を包むようにじわじわと周囲に広がっていき、次第に澄んだ空気の流れが感じられるようになる。
「あれが、浄化?」
「えぇ。光魔法による浄化です。普通の瘴気溜まりであれば、光魔法の浄化で対応可能ですが、魔王の纏う瘴気だけは別格です。黒い靄が、鎧のように硬質化していると考えていただければ。鎧状ですから、瘴気をどうにかしないことには、魔王に傷一筋負わせることはできません」
「げ。そんなの、どうやって倒すの」
「聖魔法は光属性の上位魔法です。同じ魔法を使っても、威力が違います。聖魔法による浄化だけが、魔王の濃い瘴気に対抗することができるのですよ」
聖女の質問に、オリヴェル様は淡々と答えていく。
「じゃあ、聖女なら大丈夫なんだ……あのポーズにはなんか意味あるの?」
「浄化魔法は、誰かを『守りたい』と強く思う祈りが力の源なのです。司祭は聖職者ですから、神への祈りとしてもっとも一般的な姿勢を取っていますが、聖女様は聖女様にとって祈りを込めやすい姿勢を取ってくだされば大丈夫です」
「ふぅん。そんなもん?」
(……やっぱり、目の前で見ないと伝わらないものなのね)
この話は、預かった教科書にも繰り返し記載されているし、何度も聖女に伝えられて来ているはずだ。
であるにもかかわらず、魔王の瘴気についても、聖魔法がなぜ必要なのかも、浄化魔法の作法についても、ぴんと来ていなかった様子なのは、聖女にとって現実味がない話だったからなのだろう。
『聖女は浄化魔法を使える』とアンスガル殿下が話されていたのだから、彼女は少なくとも一度は、魔法の発動に成功している。
けれど、そこに籠められていたのは『守りたい』との願いではなかった……少なくとも、聖女にその自覚はなかったということだ。
オリヴェル様と聖女の会話の最中も、黒い靄は少しずつ薄くなっている。
司祭たちの浄化によって、完全に消滅したのを確認すると、オリヴェル様は再び、聖女に手を差し伸べた。
「では、どうぞ、馬車へ」
「え、もう?」
「はい。今夜は野営を予定しておりますので、少しでも早く野営地に到着したほうがよろしいかと」
「やえい……って、今日はベッドのないところで寝るってこと?」
「はい」
「うぇぇ。寝れるかなぁ……」
ぼやきながらも素直に馬車に乗車した聖女に続き、私も馬車に乗り込もうとすると、オリヴェル様は首を横に振って、
「ここで、アルテアンと交替しよう」
と、シーラと交代するように告げた。
「ですが、交代時間にはまだ少し早いのでは……?」
「途中で交代となると、馬車の足を止めることになるから。今のタイミングがちょうどいいんだよ」
「承知いたしました」
聖女は、付き添う侍女が誰であっても気にしていないように見える。
シーラたちは当初、自分たちが貴族令嬢ではなく、騎士爵の娘であることを聖女に咎められるのではないか、と心配していたけれど、聖女が相手の身分に言及したことはない。
相手が貴族令嬢であろうと、騎士爵の娘であろうと、気にも留めない……というか、おそらく、身分というもの自体、意識していないのだと思う。
そもそも、この世界の身分制度をどれほど正確に理解しているかもわからない。
彼女の態度は、身分が低いことで不興を買うのではと心配している人間にとっては、寛大なものだ。
けれど、身分制度が骨の髄まで沁みついている人間にとっては、不敬に受け取られかねない。
実際に、王族であるアンスガル殿下に対して正面切って口答えをし、奉仕的だったと伝わっている過去の聖女たちと異なる姿を見ている随行員の一部に、聖女への不満がくすぶり始めているのだと、侍女の一人であるエリンが話していた。
彼女は、同行している一般騎士の中に兄がいる関係で、そういった情報を得やすい立場にある。
ただでさえ、「討伐隊がなかなか出発しないのは、聖女が未熟だから」という噂は真実だった、という話がまことしやかに囁かれているのだ。
聖女への不満を抱きやすい状況では、彼女がこの世界で唯一無二の尊い存在であっても、自分たちのことを蔑ろにされていると感じる貴族は少なくない。
互いの価値観が違うのだから、仕方のないこと。
しかし、そう思う反面、違うからこそ、こう受け取る者もいるのだと理解し、聖女自身にも気をつけて欲しい、と願うのは、傲慢だろうか。
「アストリッド嬢」
「はい」
交代で呼ばれたシーラが馬車に乗り込み、彼女と入れ代わりに侍女用の馬車に向かおうとした私を、オリヴェル様が呼び止める。
「少し、話をしても?」
「? はい、なんでしょうか」
「持ち場を離れるわけにはいかないから、よかったら、私と一緒に来てくれないかな」
よかったら、と言いつつも否定を許さない声音に小さく頷くと、そのまま、車列を離れて馬たちが大人しく待機している場所へと連れて行かれた。
「まぁ、エマヌエル! やっぱり、あなたも来ていたのね」
エマヌエルは、オリヴェル様が魔法騎士になった頃から騎乗している愛馬だ。
美しい葦毛の、気性が穏やかで賢い牡馬なのだけれど、軍馬として訓練されているので、魔獣に狼狽えることも、瘴気に怯むこともない。
人の足では魔獣の早さに追いつけないため、魔獣討伐に向かう人々にとって、相性の良い軍馬は相棒として必須なのだと聞いた。
オリヴェル様が魔獣討伐から帰還される際には、毎回、出迎えに行っていたからか、二年ぶりだというのにエマヌエルも私を覚えてくれている。
小さく嘶いて顔を擦り寄せる鼻づらを撫でていると、ひらりとエマヌエルに跨ったオリヴェル様に手を差し伸べられた。
「おいで」
「はい?」
「前に乗って欲しいんだ」
『一緒に来てくれないか』が、文字通り、ともに移動する、という意味だと気づいて唖然とした私を、オリヴェル様は軽く首を傾げて促す。
「急かすようで申し訳ないのだけど、聖女様の馬車の護衛をしなくてはいけないから」
「あ、はい」
オリヴェル様の手を掴むと、意外なほどの力強さで、あっという間に馬上へと引き上げられた。
馬車で足を踏み外した時にも思ったけれど、魔法騎士だけあって、細身に見えてもオリヴェル様の体はよく鍛えられている。
討伐用に用意された動きやすい服とはいえ、馬に跨ることは想定されていないため、横向きに座った私の腰にオリヴェル様の左腕が回された。
そのまま、彼は右手一つで器用に手綱を操ると、先に出発していた聖女の馬車の後方へと控える。
「馬上は案外揺れるから、無理に声を出さなくていいよ。肯定なら頷いて、否定なら首を横に振ってくれれば」
「はい」と答えようとして、オリヴェル様の言葉通り、思った以上の振動に危うく、舌を噛みそうになった。
慌てて口を噤み、代わりに、こくんと首肯すると、オリヴェル様が笑った気配がする。
(ち、近い……!)
紳士なオリヴェル様は、婚約者だった時も、必要以上に私に触れたことはない。
安全に騎乗するため、仕方なくだとわかっていても、この距離に慣れない。
「聖女様のお世話は、大変ではない?」
(いいえ、思っていたほどでは)
否定の意味で、首を横に振る。
「アストリッド嬢も気づいていると思うけど、聖女様は勉強があまりお好きではないみたいでね。……当初は、わからなかったんだよ。確認のために試験を行うと、毎回、高得点を取っていたから。『ここまで順調に聖女教育が進むなんて、歴代の聖女様の中でもっとも優秀なのでは』、なんて、教師たちも色めき立つほどで……」
初めて聞く話だった。
リングバリ夫人の口から聞いていなかったのは、『当初』とオリヴェル様が強調したことに理由があるのだろう。
「ところが、聖女教育が進むにつれて、齟齬が生じるようになった。過去の講義で教えた知識を前提に話を進めようとすると、聖女様にはその『前提』がないことがわかったんだ。毎回毎回、ゼロから説明を始めなくてはならない。試験をする、と伝えておくと、それまでは記憶しているようだけれど、終わった途端に忘れてしまう。異界では学生だったと聞いていたから、成人しても勉強を続けるなんて、よほど、学問が好きなのだと思い込んでいたけれど、どうも違ったらしい。そうだな……試験で高得点を取るための知識であって、この世界で生きていくための知識とは、捉えてもらえなかったということかな」
私も、女学校時代に試験を受けていたから、試験対策、試験勉強というものはしてきた。
中には、この先の人生のどこでこの知識を使う機会があるのだろう? と首を傾げるものもあったし、あれだけ頭に詰め込んだ筈の知識のうち、今、問われて即答できるものが何割あるのか、自信もない。
けれど、聖女が教わっているのは、彼女が聖女であるために必要な知識の筈なのに……
(違うわね。聖女として必要な知識、と思っているのは私たちだけで、聖女様にはそう伝わっていないのだわ)
魔王も魔獣も瘴気もない異界から訪れた聖女にとって、ただ、言葉で説明されただけでは想像できなかったのだろう。
この世界の現実を実感していただくには、やはり、目の前で見ていただくしかないのだ。
「でも、先ほどの瘴気溜まりの浄化は、少し様子が違ったように見えた」
(えぇ、確かに)
同意を示すために、こくりと頷く。
聖女は、オリヴェル様に促される前に、浄化の方法について問いかけてきた。
それは、彼女がこの状況に関心を持ったことを示しているのではないか。
明らかに、大きな一歩だ。
私が頷いたことに、オリヴェル様は、
「よかった」
と小さく一言、漏らした。
聖魔法を十分に扱えない聖女を討伐の旅に連れ出すことへの反対意見が、なかったとは思えない。
自らの命を守ることも、魔王を討伐することもできない聖女が、万が一、命を落したら。
過去にそのような事態は記録されていないけれど、そうならない保証はどこにもない。
そのときには――この世界を守るために、新たな聖女を召喚しなくてはならなくなるだろう。
「実は、王宮の上部では慎重論も大きかったんだけど、殿下がこれ以上は待てない、と出発を決めたんだよ。今のところは、思惑通りに進んでいる、と考えてもよさそうだね。あとは……浄化魔法にもっと興味を持ってくださるといいのだけど」
最後にそう呟くと、オリヴェル様は浄化魔法の実践練習についての案を色々と考えてくれる。
瘴気溜まりの浄化に参加する方法やら、危険性の低い小型魔獣の討伐に参加する方法やら。
魔王城に到着するまでには、実践する機会が何度もあるだろう。
私は攻撃魔法は不得手なのだけれど、護身に特化した防御魔法ならそれなりに使える。
聖女の侍女として、御身をお守りするためにお傍に控えていなくては。
むん、と気合を入れて拳を握ると、オリヴェル様は少し慌てたように、
「違うよ? 本当に危険な場所では、アストリッド嬢の立ち合いを求めていないからね? 聖女様を守るのは、討伐隊の任務だ。あなたは戦闘要員ではなく、侍女として同行してもらっているんだから、絶対に自分を守ることを優先して」
と言った。
「え?」
「私たちの都合で巻き込むことになってしまったけど、セシーリア様に頼まれなくても、本来なら、誰よりもどこよりも安全なところで待っていて欲しいと思ってる」
「ですが」
(だったらなぜ、聖女様の話を……?)
聖女の今後について、侍女長の役割を任せられた私と情報共有しておく、という意味合いではなかったの……?
オリヴェル様は、ぐ、と口元を引き締めると、私の腰に回した左腕に、わずかに力を籠める。
不意に引き寄せられた体が、とん、と彼の胸にぶつかった。
「アストリッド嬢、私は、」
けれど、声は不意に途切れ、その先をオリヴェル様が口にすることはなかった。
「魔獣だ!」
そう、警告する声が聞こえたからだ。
「大丈夫ではありません。だから、浄化するのです」
瘴気溜まりに向かった司祭は二名。
魔力を温存するため、司祭たちは順番に作業に当たる。
胸の前で両手指を組んだ姿勢で目を閉じると、体の周りを金色の淡い光が包み込んだ。
その光が黒い靄を包むようにじわじわと周囲に広がっていき、次第に澄んだ空気の流れが感じられるようになる。
「あれが、浄化?」
「えぇ。光魔法による浄化です。普通の瘴気溜まりであれば、光魔法の浄化で対応可能ですが、魔王の纏う瘴気だけは別格です。黒い靄が、鎧のように硬質化していると考えていただければ。鎧状ですから、瘴気をどうにかしないことには、魔王に傷一筋負わせることはできません」
「げ。そんなの、どうやって倒すの」
「聖魔法は光属性の上位魔法です。同じ魔法を使っても、威力が違います。聖魔法による浄化だけが、魔王の濃い瘴気に対抗することができるのですよ」
聖女の質問に、オリヴェル様は淡々と答えていく。
「じゃあ、聖女なら大丈夫なんだ……あのポーズにはなんか意味あるの?」
「浄化魔法は、誰かを『守りたい』と強く思う祈りが力の源なのです。司祭は聖職者ですから、神への祈りとしてもっとも一般的な姿勢を取っていますが、聖女様は聖女様にとって祈りを込めやすい姿勢を取ってくだされば大丈夫です」
「ふぅん。そんなもん?」
(……やっぱり、目の前で見ないと伝わらないものなのね)
この話は、預かった教科書にも繰り返し記載されているし、何度も聖女に伝えられて来ているはずだ。
であるにもかかわらず、魔王の瘴気についても、聖魔法がなぜ必要なのかも、浄化魔法の作法についても、ぴんと来ていなかった様子なのは、聖女にとって現実味がない話だったからなのだろう。
『聖女は浄化魔法を使える』とアンスガル殿下が話されていたのだから、彼女は少なくとも一度は、魔法の発動に成功している。
けれど、そこに籠められていたのは『守りたい』との願いではなかった……少なくとも、聖女にその自覚はなかったということだ。
オリヴェル様と聖女の会話の最中も、黒い靄は少しずつ薄くなっている。
司祭たちの浄化によって、完全に消滅したのを確認すると、オリヴェル様は再び、聖女に手を差し伸べた。
「では、どうぞ、馬車へ」
「え、もう?」
「はい。今夜は野営を予定しておりますので、少しでも早く野営地に到着したほうがよろしいかと」
「やえい……って、今日はベッドのないところで寝るってこと?」
「はい」
「うぇぇ。寝れるかなぁ……」
ぼやきながらも素直に馬車に乗車した聖女に続き、私も馬車に乗り込もうとすると、オリヴェル様は首を横に振って、
「ここで、アルテアンと交替しよう」
と、シーラと交代するように告げた。
「ですが、交代時間にはまだ少し早いのでは……?」
「途中で交代となると、馬車の足を止めることになるから。今のタイミングがちょうどいいんだよ」
「承知いたしました」
聖女は、付き添う侍女が誰であっても気にしていないように見える。
シーラたちは当初、自分たちが貴族令嬢ではなく、騎士爵の娘であることを聖女に咎められるのではないか、と心配していたけれど、聖女が相手の身分に言及したことはない。
相手が貴族令嬢であろうと、騎士爵の娘であろうと、気にも留めない……というか、おそらく、身分というもの自体、意識していないのだと思う。
そもそも、この世界の身分制度をどれほど正確に理解しているかもわからない。
彼女の態度は、身分が低いことで不興を買うのではと心配している人間にとっては、寛大なものだ。
けれど、身分制度が骨の髄まで沁みついている人間にとっては、不敬に受け取られかねない。
実際に、王族であるアンスガル殿下に対して正面切って口答えをし、奉仕的だったと伝わっている過去の聖女たちと異なる姿を見ている随行員の一部に、聖女への不満がくすぶり始めているのだと、侍女の一人であるエリンが話していた。
彼女は、同行している一般騎士の中に兄がいる関係で、そういった情報を得やすい立場にある。
ただでさえ、「討伐隊がなかなか出発しないのは、聖女が未熟だから」という噂は真実だった、という話がまことしやかに囁かれているのだ。
聖女への不満を抱きやすい状況では、彼女がこの世界で唯一無二の尊い存在であっても、自分たちのことを蔑ろにされていると感じる貴族は少なくない。
互いの価値観が違うのだから、仕方のないこと。
しかし、そう思う反面、違うからこそ、こう受け取る者もいるのだと理解し、聖女自身にも気をつけて欲しい、と願うのは、傲慢だろうか。
「アストリッド嬢」
「はい」
交代で呼ばれたシーラが馬車に乗り込み、彼女と入れ代わりに侍女用の馬車に向かおうとした私を、オリヴェル様が呼び止める。
「少し、話をしても?」
「? はい、なんでしょうか」
「持ち場を離れるわけにはいかないから、よかったら、私と一緒に来てくれないかな」
よかったら、と言いつつも否定を許さない声音に小さく頷くと、そのまま、車列を離れて馬たちが大人しく待機している場所へと連れて行かれた。
「まぁ、エマヌエル! やっぱり、あなたも来ていたのね」
エマヌエルは、オリヴェル様が魔法騎士になった頃から騎乗している愛馬だ。
美しい葦毛の、気性が穏やかで賢い牡馬なのだけれど、軍馬として訓練されているので、魔獣に狼狽えることも、瘴気に怯むこともない。
人の足では魔獣の早さに追いつけないため、魔獣討伐に向かう人々にとって、相性の良い軍馬は相棒として必須なのだと聞いた。
オリヴェル様が魔獣討伐から帰還される際には、毎回、出迎えに行っていたからか、二年ぶりだというのにエマヌエルも私を覚えてくれている。
小さく嘶いて顔を擦り寄せる鼻づらを撫でていると、ひらりとエマヌエルに跨ったオリヴェル様に手を差し伸べられた。
「おいで」
「はい?」
「前に乗って欲しいんだ」
『一緒に来てくれないか』が、文字通り、ともに移動する、という意味だと気づいて唖然とした私を、オリヴェル様は軽く首を傾げて促す。
「急かすようで申し訳ないのだけど、聖女様の馬車の護衛をしなくてはいけないから」
「あ、はい」
オリヴェル様の手を掴むと、意外なほどの力強さで、あっという間に馬上へと引き上げられた。
馬車で足を踏み外した時にも思ったけれど、魔法騎士だけあって、細身に見えてもオリヴェル様の体はよく鍛えられている。
討伐用に用意された動きやすい服とはいえ、馬に跨ることは想定されていないため、横向きに座った私の腰にオリヴェル様の左腕が回された。
そのまま、彼は右手一つで器用に手綱を操ると、先に出発していた聖女の馬車の後方へと控える。
「馬上は案外揺れるから、無理に声を出さなくていいよ。肯定なら頷いて、否定なら首を横に振ってくれれば」
「はい」と答えようとして、オリヴェル様の言葉通り、思った以上の振動に危うく、舌を噛みそうになった。
慌てて口を噤み、代わりに、こくんと首肯すると、オリヴェル様が笑った気配がする。
(ち、近い……!)
紳士なオリヴェル様は、婚約者だった時も、必要以上に私に触れたことはない。
安全に騎乗するため、仕方なくだとわかっていても、この距離に慣れない。
「聖女様のお世話は、大変ではない?」
(いいえ、思っていたほどでは)
否定の意味で、首を横に振る。
「アストリッド嬢も気づいていると思うけど、聖女様は勉強があまりお好きではないみたいでね。……当初は、わからなかったんだよ。確認のために試験を行うと、毎回、高得点を取っていたから。『ここまで順調に聖女教育が進むなんて、歴代の聖女様の中でもっとも優秀なのでは』、なんて、教師たちも色めき立つほどで……」
初めて聞く話だった。
リングバリ夫人の口から聞いていなかったのは、『当初』とオリヴェル様が強調したことに理由があるのだろう。
「ところが、聖女教育が進むにつれて、齟齬が生じるようになった。過去の講義で教えた知識を前提に話を進めようとすると、聖女様にはその『前提』がないことがわかったんだ。毎回毎回、ゼロから説明を始めなくてはならない。試験をする、と伝えておくと、それまでは記憶しているようだけれど、終わった途端に忘れてしまう。異界では学生だったと聞いていたから、成人しても勉強を続けるなんて、よほど、学問が好きなのだと思い込んでいたけれど、どうも違ったらしい。そうだな……試験で高得点を取るための知識であって、この世界で生きていくための知識とは、捉えてもらえなかったということかな」
私も、女学校時代に試験を受けていたから、試験対策、試験勉強というものはしてきた。
中には、この先の人生のどこでこの知識を使う機会があるのだろう? と首を傾げるものもあったし、あれだけ頭に詰め込んだ筈の知識のうち、今、問われて即答できるものが何割あるのか、自信もない。
けれど、聖女が教わっているのは、彼女が聖女であるために必要な知識の筈なのに……
(違うわね。聖女として必要な知識、と思っているのは私たちだけで、聖女様にはそう伝わっていないのだわ)
魔王も魔獣も瘴気もない異界から訪れた聖女にとって、ただ、言葉で説明されただけでは想像できなかったのだろう。
この世界の現実を実感していただくには、やはり、目の前で見ていただくしかないのだ。
「でも、先ほどの瘴気溜まりの浄化は、少し様子が違ったように見えた」
(えぇ、確かに)
同意を示すために、こくりと頷く。
聖女は、オリヴェル様に促される前に、浄化の方法について問いかけてきた。
それは、彼女がこの状況に関心を持ったことを示しているのではないか。
明らかに、大きな一歩だ。
私が頷いたことに、オリヴェル様は、
「よかった」
と小さく一言、漏らした。
聖魔法を十分に扱えない聖女を討伐の旅に連れ出すことへの反対意見が、なかったとは思えない。
自らの命を守ることも、魔王を討伐することもできない聖女が、万が一、命を落したら。
過去にそのような事態は記録されていないけれど、そうならない保証はどこにもない。
そのときには――この世界を守るために、新たな聖女を召喚しなくてはならなくなるだろう。
「実は、王宮の上部では慎重論も大きかったんだけど、殿下がこれ以上は待てない、と出発を決めたんだよ。今のところは、思惑通りに進んでいる、と考えてもよさそうだね。あとは……浄化魔法にもっと興味を持ってくださるといいのだけど」
最後にそう呟くと、オリヴェル様は浄化魔法の実践練習についての案を色々と考えてくれる。
瘴気溜まりの浄化に参加する方法やら、危険性の低い小型魔獣の討伐に参加する方法やら。
魔王城に到着するまでには、実践する機会が何度もあるだろう。
私は攻撃魔法は不得手なのだけれど、護身に特化した防御魔法ならそれなりに使える。
聖女の侍女として、御身をお守りするためにお傍に控えていなくては。
むん、と気合を入れて拳を握ると、オリヴェル様は少し慌てたように、
「違うよ? 本当に危険な場所では、アストリッド嬢の立ち合いを求めていないからね? 聖女様を守るのは、討伐隊の任務だ。あなたは戦闘要員ではなく、侍女として同行してもらっているんだから、絶対に自分を守ることを優先して」
と言った。
「え?」
「私たちの都合で巻き込むことになってしまったけど、セシーリア様に頼まれなくても、本来なら、誰よりもどこよりも安全なところで待っていて欲しいと思ってる」
「ですが」
(だったらなぜ、聖女様の話を……?)
聖女の今後について、侍女長の役割を任せられた私と情報共有しておく、という意味合いではなかったの……?
オリヴェル様は、ぐ、と口元を引き締めると、私の腰に回した左腕に、わずかに力を籠める。
不意に引き寄せられた体が、とん、と彼の胸にぶつかった。
「アストリッド嬢、私は、」
けれど、声は不意に途切れ、その先をオリヴェル様が口にすることはなかった。
「魔獣だ!」
そう、警告する声が聞こえたからだ。
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