王命により、婚約破棄されました。

緋田鞠

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 とうとう、この瞬間を迎えた。
 浄化魔法の暖かな光が、魔王を包み込む。
 苦しんでいるかのように大きな体が振動し、大地が鳴動した。
 地面の揺れに倒れ伏してしまわないよう、しっかりと足を踏ん張って、跪いて祈りに集中するハナ様の周囲に展開している防御魔法を強化する。
 ステファンお兄様が広域雷魔法を空に放ち、オリヴェル様が風魔法で空気中に足場を作って飛び上がると、落雷の衝撃で歪んだ瘴気に剣先をねじ込んだ。
 ぴしり、と蜘蛛の巣のように入ったひびに、ヨエル卿が魔力を込めた剣気を飛ばし、打ち込む。

 しゃらん

 禍々しい見た目からは想像のつかない、薄いガラスが触れ合ったような涼やかな音とともに、瘴気全体に細かい罅が走っていく。

 しゃらん しゃららん

 はらはらと。
 結晶化した瘴気が、粉々になって空へと散っていく。

 しゃらら しゃらん

 はらはら、はらはら。
 少しずつ、少しずつ、広がっていく瘴気の裂け目。
 内側から放たれる白い光を目掛け、アンスガル殿下が大上段から剣を振り下ろす。
 
 しゃらららら……

 強烈な、光。
 ハナ様の額に浮かんだ汗が、顎の先からぽたりと地面に落ちる。
 一気に解放された高濃度の瘴気に、大気が震える。
 ずしり、と物理的な重さすら感じる空気に、肩が重くなる。
 周囲の状況がわからずに怖いだろうけれど、ハナ様はそれでも、両目をきつく閉じて胸の前で両手指を組み、じっと祈りを捧げている。
 あちらこちらで、ハナ様と同じように必死に浄化魔法をかける上級司祭と魔法師の姿が見えた。
 
(大丈夫、行ける……!)

 いよいよ。
 いよいよだ。
 これまでは見えなかった、瘴気の奥の姿。
 ハナ様の周囲に気を配りながら、『魔王』に立ち向かう魔王討伐隊の姿を目に焼きつける。
 ハナ様と浄化魔法を発現した魔法師たちが、それぞれの属性の浄化魔法を魔王にかけ、
 ステファンお兄様と攻撃魔法に長けた魔法師たちが、魔獣の妨害を排除しながら魔王を遠隔攻撃し、
 オリヴェル様と魔法騎士たちが、魔力で強化した得意な武器を用いて、魔王が纏う瘴気を崩し、
 アンスガル殿下と騎士たちが、わずかに開いた隙間を狙って、魔王に直接攻撃を仕掛ける。
 この長い討伐の間に、自然と出来上がっていった連携だった。
 何度も、何度も、繰り返し攻撃を重ねる。
 一撃では効果がなくとも、同じ個所に衝撃を与え続ければ、必ずそこに、ひずみが生まれる。
 あと少し。
 もう少し。
 誰しも、心のうちでそう叫んでいただろう。

 しゃぁんん!
 
 一際、高い音とともに、あたりに眩い光が広がった。
 声にならない悲鳴が衝撃波となって、私と、浄化を続けていたハナ様を弾き飛ばす。
 
(やった……!)

 地面に打ちつけた痛みが全身を襲うけれど、それよりも喜びがまさった。
 魔王の断末魔の悲鳴。
 私たちはとうとう、やり遂げたのだ。

「アストリッド……!」

 衝撃波の影響でぼんやりとする耳に、聞き慣れた声で、聞き慣れない呼び名が聞こえた。
 慌てたように駆け寄ってくるのは、

「オリヴェル様……?」

 気が抜けたせいか。
 『オリヴェル卿』ではなく、昔と同じように『オリヴェル様』と呼んだ私に、声の持ち主――オリヴェル様は覆いかぶさるように……

(え……抱き締められてる……?)

 駆け寄ってきた勢いそのままに、オリヴェル様は、倒れこんでいた私をぐっとその胸に抱き寄せた。
 何時間も戦い続けた体は燃え上がるように熱を発し、汗と土埃と血と、そして、懐かしいオリヴェル様の香りが、鼻腔いっぱいに広がる。
 背中が軋むほどに強く抱き締める腕は、かすかに震えていた。

「怪我はない? どこか、痛いところは?」

(あぁ……いつものオリヴェル様だわ)

 幼いころ、私が少しでも転ぶと、痛いのは私なのに私よりも痛そうな顔をして、無事を確認していたオリヴェル様。
 かすり傷でもついていた日には、青い顔で手当してくれた。
 その時とまったく変わらない彼に、思わず、くすりと笑みが零れ落ちる。

「アストリッド?」
「ふふ、痛いところだらけです」

 全身の打ち身に、瘴気の重さに耐え続けた結果の筋肉痛、魔力で巻き起こった暴風により吹き飛んできた何かの欠片でついた切り傷。
 しっかりと一つにまとめておいた髪は乱れ、私もまた、動き続けていたオリヴェル様より少しはましだけれど、汗まみれで埃だらけだ。
 それでも、気分が晴れやかなのは、とうとう、魔王を斃せたから。

「オリヴェル様は? 痛いところはありませんか?」

 痛い、と聞いて緩んだオリヴェル様の腕の中から、慌てたような彼の顔を見上げる。
 左頬に切り傷、額に擦過傷、魔法騎士の制服は破れ、彼自身の赤い血と、魔獣の青い返り血が染みついていた。
 でも。

(生きている)

 私を抱き起してくれたオリヴェル様の手を借りて、立ち上がる。
 目の前に立ちはだかっていた魔王――魔王城は、もはや、どこにもない。
 あちらこちらで、互いの健闘を称えあい、喜び合う姿を眺めていると、

「ちょっと! 私も起こしてよ!」

 拗ねたようなハナ様の声がして、ハッとして振り返った。
 私から人一人分だけ離れた場所で、跪いた姿勢のまま、ハナ様が横倒しに倒れ伏している。
 全身の筋肉が強張ってしまっているのか、胸の前で組んでいた手指も、ほどけないままだ。

「それだけ大きな声が出るなら、大丈夫そうですね」
「はぁ⁈ オリヴェル! あなた、魔王討伐隊だよね⁈ 私の身の安全を守る義務あるでしょ⁈」
「いえ、魔王は討伐されましたので、役目は終えました」

 しれっとした顔で言うと、オリヴェル様は何かに気づいたように遠くを見て、

「ヨエル!」

と、早速、あちらこちらに散らばった武器を拾い集めているヨエル卿に声をかけた。

「あぁ⁈」
「ハナ様に手を貸してくれないか」
「ちっ、仕方ねぇなぁ」

 オリヴェル様は、にこりとハナ様に微笑みかける。

「すぐにヨエルが来ますよ」
「……っ」

 頬を真っ赤に染めるハナ様。
 その姿が可愛らしくて、オリヴェル様と視線を交わした。



 ここに至るまでに、さまざまな出来事があった。
 まず、王都を出発して十一ヶ月後に、後発隊が合流した。
 後発隊は、アンスガル殿下の提言により、浄化魔法を発現した魔法師中心に編成されている。
 これによって、浄化魔法が使えるのは、聖魔法を使うハナ様、熟達した光魔法を使う上級司祭五名、威力はあまり強くないながらも魔獣の瘴気を払える程度の光魔法を使える魔法師十八名となった。
 過去の討伐隊に同行していた人員の中で、浄化魔法を使えたのが上級司祭のみであったことを思えば、単純比較はできないながらも、総合的には威力が上がっているはずだ。
 怪我により討伐隊を離脱した者たちはいるけれど、死者はなくここまで辿り着けたのは、慎重にルートを選び、何よりも命を最優先に行動してきたアンスガル殿下のお陰だろう。
 予定されていた人員が揃ったことで、アンスガル殿下は魔王への最終攻撃を決定した。
 工員や調理人など下働きの非戦闘員は、万が一にでも被害を受けないよう、魔王城から三千バレン離れた野営地で待機。
 戦闘部隊とハナ様が、毎日、魔王城に攻撃に向かうこととなった。
 過去の討伐隊も、同じように時間をかけて魔王の瘴気を剥がして勝利したというから、誰も疑問は持たなかった。
 そこで、知らされた真実。
 魔王との最終戦を前に、誓約魔法をかけてまで知りえたことを生涯口外しない約束を交わし、アンスガル殿下が私たちに明かしたのは、衝撃の事実だった。
 真っ黒な外壁を持つ山城。
 私たちが、魔王城だと思っていたものは、魔王城ではなかった。
 、と殿下は告げた。
 オリヴェル様をはじめとした討伐隊の令息たちも初耳のようで、唖然とした顔をしている。

「この事実は、王家のみに伝わっている。誓約魔法を結んで口外無用としているから、他に知る家門はないだろう」

 だから、か。
 だから、「魔王は動かない」と伝わっているのか。
 見た目は、完全なる城。
 後発隊が到着するまでの一ヶ月、様子を観察していたけれど、無機物以外の何物にも見えない。

「城そのものが魔王であるとは、確かに驚く情報ではありますが、誓約魔法を課してまで秘密にする理由はなんでしょうか?」

 フィリップ卿の問いに、誰もが頷く。
 魔王、という呼称のせいで人型と思い込んでいただけで、形が城だろうとやることは同じなのではないだろうか。

「まぁ、そう思うだろうな。王家に伝わる記録によると、民に混乱を招かないため、とある。魔王が誕生すると、魔獣狩りの狩人など、一部の一般人が北部を目指す。実際に魔王城まで到達できる者は、その中でもごく一部のようだが、中には、城の内部に乗り込んだ者もいるのだ」

 魔獣狩りで魔石を集める狩人は、日々、命の危険に晒されているためか、怖いもの知らずの人物が多い。
 魔王城の内部ならば、より効率的に魔石が取れると考えても不思議はない。

「中に入れるのですか?」
 
 魔王城そのものが魔王だというなら、内部に入り込めれば内臓を晒されているのと同じ。
 外部の分厚い瘴気を剥ぐよりも、ずっと効率的に討伐できるはずだ。
 同じことを考えたのであろうオリヴェル様が声を上げると、アンスガル殿下は首を横に振った。

「いや、正確には、入ろうとした、だな。魔王の纏う瘴気に触れた瞬間、絶命したそうだから」

 瘴気の危険性は十分に理解していたつもりだったけれど、触れただけで絶命という言葉に、ぞっと背筋に震えが走る。
 濃い瘴気を吸い込んだだけで病に罹るのだから、魔王の瘴気に触れて無事なはずもなかった。

「それならば、魔王城の危険性を周知するためにも、魔王本体が城なのだと公表するべきでは?」
「もっともだ。しかし、大昔、魔王の正体を公表した途端、民が大恐慌を引き起こしたと記録されている。魔王が、目視できる状態で存在しているのだ。それも、一日中、そこにいる。過去に動いたことがないと言われていても、今後、どうなのかは誰もわからないのだからな。自らの身を守る術のない多くの民にとって、圧倒的な力が自分たちを監視して見える状況は、恐ろしくて仕方のないものだったのだろう。北部の民は逃げ、王都は家も職も失った民で溢れ返り、治安は急激に悪化した。それは魔獣と瘴気による影響よりもずっと大きなもので、危うく、この世界が終わるところだった。国が崩壊する寸前、ようやく、魔王が斃され、平穏を取り戻したという」

 目の前に、獣がいる。
 獣が枷に繋がれていれば、幾分、気が安まるだろう。
 鎖の届く範囲までしか、獣は動けない。
 強固な檻に入れられていれば、なおのこと。
 獣の爪が届くことはない。
 しかし、生身の獣が、枷も檻もないままに目の前に立っているとすれば、どうだろうか。
 獣は、動かない。
 じっと、こちらを見ているだけだ。
 だが、動けないのか、それとも自身の意思で動かないのか、誰も知る由はない。
 目を離した瞬間、襲われるのでは、との恐怖は、心を激しく消耗させることだろう。

「国が大混乱に陥った経験を踏まえ、次に魔王が誕生した時、時の王は、『魔王は魔王城の玉座に座している』と周知した。魔王と我々の間は魔王城の堅固な壁で分かたれ、互いの姿は見えない。その一言で、民は安堵し、元の生活に戻ることができた」

 魔王城――魔王に、目を遣る。
 聳え立つ尖塔を持つ山城。
 あの城こそが、私たちが斃さねばならない相手だというのか。

「う~ん、ま、でも、わかりやすくっていいよね。お城、壊せば終わるってことでしょ?」

 どこか気の抜けたハナ様の言葉に、知らず知らずのうちに肩に入っていた力が抜ける。

「お城の入り口探さなくていいし? 玉座? それ、探さなくていいし? 的はデカいし? うん、いいんじゃない」

 あっさりと頷くと、ハナ様はにっこり笑って、討伐隊を見回した。

「私、がんばるから。壊すのは得意なんだ。時間はかかっちゃうかもだけど、諦めないよ」



 その言葉通り、三ヶ月の長きに渡って、討伐隊は魔王と向き合い続けた。
 襲い来る魔獣の数はこれまでの比ではなく、覚悟していたとはいえ、魔王の纏う瘴気の壁は想像以上に分厚かった。
 最初の一週間は、ひび一筋どころか、かすり傷一つつかない状態だった。
 それでも、音を上げる者は一人もいなかった。
 誰もが真摯に己の役割と向き合い、日暮れとともにその日の戦闘を終える。
 野営地に戻れば、反省会議で互いの不足を指摘しあう。
 次第に、魔王に効果的な攻撃ができるようになり、手応えが生まれ始めた。
 私が前線でハナ様のそばに控え、防御魔法をかけるようになったのは、一ヶ月半が過ぎた頃だ。
 目的地に到着して以降、ハナ様の侍女として伴われた私たち四人は、ハナ様が前線からお戻りになるまで、野営地で待機していた。
 私たちの役目は、あくまでもハナ様のお世話をすること。
 浄化し続け、疲労困憊した彼女に、少しでも回復していただくことだ。
 しかし、急激に増殖する魔獣との激化する戦闘で負傷、離脱する人員が増加し、野営地の護衛をしていた騎士も前線に駆り出される中、シーラたちには野営地の護衛任務が新たに与えられた。
 私の場合は、アンスガル殿下と院長の交わした約束通り、危険な場所から可能な限り、遠ざけられていたけれど、そのような状況を鑑みて、戦闘部隊に加わることを自ら志願した。
 もちろん、殿下だけでなく、ステファンお兄様にもオリヴェル様にも、大反対された。
 とくにオリヴェル様は、

「絶対にダメ!」

と、血相を変えて私を止めた。
 けれど、私だってこれまで、何もせずにいたわけではない。
 戦闘部隊が前線で魔王に立ち向かっている間、私は私なりに魔法の修練を重ねていた。
 浄化魔法の威力は、魔法全般の練度が高い他の魔法師の足元にも及びそうになかったので、元々得意だった防御魔法を鍛え上げることにした。
 範囲は狭くとも、厚みを増して、魔獣の攻撃に耐えられるように。
 自分とハナ様だけ、守れればいい。
 ハナ様の安全が確保されれば、護衛を減らし、より多くの力で攻撃することが可能になる。
 どれほど時間がかかっても諦めない、とハナ様は宣言したけれど、現実問題として、時間がかかればかかるだけ、疲労は蓄積され、魔獣は増える。
 人間の体は簡単に回復するものではないし、命の替えはない。
 確実に、魔王を斃さなければ。

「何もわからないままに、ここで一人待つよりも、皆様のおそばでともに立ち向かいたいという希望を、受け入れてはくださいませんか」

 オリヴェル様の目をまっすぐに見つめて告げる。

「私だって、守られるだけでなく、守りたいのです」

 守りたい。
 この世界の民を守るために戦う人々を。
 選ばれし者だから、と、彼らの強さを当然のように受け止める声もあるけれど、彼らもまた、只人。
 たった一つしかない守られるべき命であり、他の誰にも代えられない尊い存在なのだ。
 ここで、ただ守られるだけの存在でいて、もしも、大切な誰かを失ってしまったら、きっと私は一生後悔する。

(オリヴェル様を……あなたを、守りたい)

「……一度言い出したら引かないのも、変わってないね……」

 結局、私の粘り勝ちで、ハナ様に同行して防御魔法をかけることが認められた。
 私がハナ様のそばに控えることで、これまでハナ様についていた護衛の数が減らされ、その分、全体の防御が手厚くなり、攻撃に専念できるようになったと聞いた。
 それから、一カ月半。
 少しずつ少しずつ、魔王の纏う分厚い瘴気の壁を崩し、とうとう、打ち斃すことに成功したのだ。
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