婚約者を喪った私が、二度目の恋に落ちるまで。

緋田鞠

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 レニがアーベルバッハ家に来てから、一ヶ月が経った。
 バーデンホスト家にレニを迎えに行ったのは休日だった為、私は一日足りとも休む事なく、王宮に出仕している。
 通常、結婚すれば新婚休暇を二週間以上取る者が多いから、傍から見ていて、私が妻を娶ったと、気づく事はないだろう。
 それ以前に、婚約式も結婚式も執り行わないのは、異例中の異例だ。
 そうと判っているけれど、社交にも人目にも慣れていないレニを、まだ表に出す気はなかった。
 これまで通り、朝、定時に出仕し、帰りは定時、時折、少し残業して帰宅する。
 これまでと違うのは、朝食をレニと取るようになった事だろうか。
 晩餐も、時間が合えば、共に取っている。
 非常にささやかなものだが、家族として過ごす時間の一環だ。
 バーデンホスト家での彼女は、そもそも、家族との食卓に席を用意されていなかったようだから、食卓の記憶を、少しでも良いものに変えられるといいと思っている。
 レニは、私の知る女性のうち、誰よりも無口だった。
 女性とは誰しも、お喋りが好きなものだと決めつけていた私は、意表を突かれる。
 亡くなった母もイルザも、一を尋ねれば十も二十も言葉が返ってくる人達だったから。
 朝、
「今日は、何をする予定ですか?」
と尋ねると、その日、訪れる家庭教師や授業予定について話してくれるが、それ以上の会話は特にない。
 そして、夜、
「今日は、どんな事をしましたか?」
と尋ねると、授業内容について判りやすく簡潔に説明するが、それ以上の会話は特にない。
 けれど、沈黙は決して、重苦しいものではなかった。
 元々、私も、口数の多い方ではない。
 夜会や茶会でご婦人と対面する時には、会話を盛り立てねばならず、精神的に疲労困憊する事を思えば、心安らかなものだ。
 だから、レニと過ごす時間は、私にとって、息抜きにもなっていた。
 だが、その日はいつもと少し違った。
「お帰りなさいませ、ジークムント様」
 帰宅した私を、レニが出迎えてくれる。
 以前よりも、一つ一つの動作に躊躇がないのは、マナーの教師となってくれた伯爵家の未亡人に学ぶ事で、しっかりした自信に裏付けされるようになったからか。
 レニは、基礎がしっかりしているそうで、後は経験を重ねて自信を持てば問題ない、と、数多の令嬢を指導して来た伯爵夫人の太鼓判を貰っている。
「ただいま」
 レニは、私が夜遅くならない限りは、必ず、玄関まで出てくれる。
 挨拶を終えた私の上着を受け取る為、傍に寄ったバスティアンが、
「本日は、奥様のお誕生日です」
と周囲には聞こえないよう、小さく囁いた。
「!」
 言われて初めて、レニの誕生日を把握していない事に気が付いた。
 イルザと交際し始めた時には、彼女の方から誕生日の話題を出してくれたから、自然と知る事が出来たのに。
「晩餐のメニューに力を入れさせました。ケーキもご用意しております」
 ちら、と、バスティアンがレニの背後に視線を遣ったから、恐らくはアネットの発案だろう。
 アネットには、本当に頭が上がらない。
 レニを促して、食事の間に行く。
 テーブルの装花に、随分と気合が入っていたのは、先日、造園を褒められた庭師の仕事か。
 二人で席に着くと、早速、普段よりも腕を揮われた料理が並ぶ。
 どのような食材も好き嫌いせずに食べ、時折、厨房に顔を出して料理人に直接謝意を伝えるレニは、使用人達に好ましく思われているから、彼等も気合が入ったのだろう。
 下働きの仕事場に公爵夫人が顔を出すのは、決して好ましい事ではない。
 それは、レニがアーベルバッハ邸に来た初日に、彼女に話した通りだ。
 だが、公私を分け、女主人として場に応じた適切な態度さえ理解しているのならば、レニの好きにすればいい、と考えを改めた。
 その旨は、バスティアンにもアネットにも、伝えてある。
 バーデンホスト家で、使用人達に命を支えられていた彼女にとって、謝意を伝えられない事の方が、苦痛な様子だったからだ。
 私は、出来る限り、彼女の要望を叶えたいのだから、なるべく、本人の意に添うようにしたい。
 少なくとも、今のレニの「我儘」は、私の許容範囲内だ。
 レニが着ているドレスは、落ち着いた色合いを選ぶ事の多い彼女にしては珍しい明るいサーモンピンクだった。
「二十二歳の誕生日、おめでとうございます」
 私がそう言うと、レニは大きな目を見開いて、私の顔を凝視したかと思うと、ハッとした顔で、背後に控えるアネットを振り返った。
「ジークムント様、有難うございます、あの、でも、私、そんなつもりでは、」
 恐らくは、雑談の中に紛れたレニの誕生日の話。
 アネットの事だから、今日、聞き出して直ぐに動いたに違いない。
「お祝いは、何がよろしいですか?」
「そんな…いいえ、何も頂く事は出来ません。こんなによくして頂いているのに、これ以上、望む物など、ありません」
 …あぁ、やはり。
 レニはいつも、欲しい物、足りない物を問うても、何もない、と首を振る。
 イルザは次から次へと新しい物を見つける女性だったから、レニの物欲のなさには、却って戸惑ってしまう。
 誕生日なら或いは、と思ったのだが。
「…では、何かお好きなものはありますか?昨年までの誕生祝で嬉しかったものは何でしょう?」
 他意は、なかった。
 ただ、参考までに聞こうと思っただけだった。
 だが。
 焦ったような顔をしていたレニは、戸惑うように固まってしまった。
「好き、なもの…嬉しかったもの…?」
 その顔を見て、決して聞いてはならない事を聞いてしまったと気づいた。
 母親が亡くなってからの十二年間、その存在すら忘れられていたレニ。
 誕生祝をくれる相手など、いるわけもなかった。
 そもそも、好き嫌いが言える環境ではなかったレニに、何と残酷な事を聞いたのか。
「はい。えぇと、見ていると心が温かくなる、ですとか、癒される、ですとか」
「温かい…癒される…」
 暫く、首を傾げて考え込んでいたレニは、ふ、と顔を上げる。
「…ジークムント様」
「はい」
 普段は十代の少女にしか見えない彼女は、時折、その年齢に見えない老成した顔をする事がある。
「誕生祝とは、何をお願いしてもよろしいのですか?」
「えぇ、私に出来る事でしたら」
「でしたら…ジークムント様の、ご婚約者様のお話を伺いたいです」
「イルザの、話、ですか?」
 思い掛けない提案に、戸惑ってしまう。
「ご婚約者様は、イルザ様と仰るのですね。はい、イルザ様と、ジークムント様のお話を、お聞かせ頂きたいです」
 イルザを今も想っているから、真の夫婦にはなれない、と話したけれど。
 彼女の話を聞いて、レニは不快にならないのだろうか。
 飾りにされた正妻が、愛される愛人に嫉妬して凶行に及ぶと言うのは、古今良く聞く話ではあるものの、イルザはもう、この世界にいない。
 …あぁ、いや、レニは私を夫だと思っていないのだから、そもそも、そのような心配は不要なのか。
「…判りました。貴方が楽しめるような話になるかは判りませんが…もし、良かったら、晩餐の後に話しましょうか。まずは、食事にしましょう。折角の料理が、冷めてしまいますからね」
「はい」

 晩餐を終えた後、私はレニを初めて、私的な居間に招いた。
 いつ、訪れてくれても構わない、と話はしてあるものの、レニから私を訪ねて来た事はない。
 また、私が、レニの私室を訪れた事もない。
 私達の接点は、朝と夜の食事時だけなのだ。
 当然の事だが、エスコート以外で彼女に触れた事も、一度もない。
 アネットが、簡単に抓める軽食と飲み物を置いて下がると、部屋には二人だけになった。
 名目上とは言え、夫婦なので、扉は閉められている。
「イルザの話、でしたね」
 向かいのソファに腰を下ろしたレニに向かって、そう切り出す。
「はい」
「では、まず…簡単に、アーベルバッハ家の話から始めましょうか」

***

 アーベルバッハ家は、建国王の弟から始まっている古い家柄です。
 度々、王族の降嫁があり、我が国の貴族の中で最も王族に近い血筋と言う事が出来るでしょう。
 私の母も、国王陛下の妹だったのですよ。
 アーベルバッハ家は代々、外交の仕事に携わっています。
 元々は、国から離れる事の出来ない陛下の名代として、赴いていたそうです。
 私は国内で要人を迎える側ですが、父は自ら、諸外国を訪問する精力的な人でした。
 あれは、私が七歳、兄のディートリヒが十歳の時の事。
 父は、母を同伴して、外交の為に他国を訪問する事になりました。
 二ヶ月の船旅です。
 えぇ、遠いですね。ですが、それだけ遠く離れた地だと、我が国にはない産物や文化も多いので、国交を築く価値が大きいのですよ。
 ところが、出航して三週間経った頃に、大嵐に巻き込まれました。
 大きな船でしたが、船は転覆、乗員乗客の命が全て、喪われたのです。
 ――…父も母も、見つかっておりません。
 広大な海の真ん中での出来事ですから…仕方がないのだと思ってはいますが、完全に諦めがついているのか、と問われると、あれから二十五年経っても、頷く事は出来ません。
 残された兄と私は、伯父である陛下に後見人となって頂いて、何とかアーベルバッハ家を存続させる事が出来ました。
 えぇ、父に兄弟はおりません。
 分家のいずれかから当主を立てる事も打診されましたが、兄がおりましたしね。
 兄は、弟の私が言うのも何ですが、とても優秀な人でした。
 一を聞けば十を知る、と言うような賢い人で、同時に剣術にも優れていて、文武両道とは正に、兄の為にある言葉です。
 対する私は、幼い頃から体が弱くて…しょっちゅう、熱を出して寝込むし、少し運動すると咳が止まらなくなってしまうので、母は、私が生まれてからは、父の外交についていく事がなくなりました。
 両親が亡くなった船旅は、大分、私の体が丈夫になってきた為に、久し振りに母を同伴したものだったのですよ。
 …そう、ですね。
 私が臥せっていれば、母は、健在だったのかもしれない、と、思う事は、今でもあります。
 兄が、次期公爵として学院で勉学に励む一方で、私は次男と言う事、体が余り丈夫ではないと言う事もあり、好きにさせて貰っていました。
 私はね、考古学が好きなのです。
 体が弱くて臥せっている時間が長かったもので、本だけが楽しみで…特に、古代遺跡についての本に、心惹かれました。
 中でも、タナートの地下神殿に興味を持っています。
 あぁ、ご存知ですか?
 そうです、エメランダ神殿ですよ。
 将来的には、兄を支える為に外交の仕事に就く事を考えていましたし、学院でも自分なりに励みましたが…もしも、何のしがらみもなければ、考古学者になりたかった程度には、熱意を持って自主的に学んでいました。
 成人して無事に爵位を継いだ兄が、その様子を見て、留学を勧めてくれまして、学院を卒業後に、タナートの大学で学ぶ事になりました。
 タナートも、我が国と同じく貴族制の国ですが、もう少し、爵位の格差は少ないように感じましたね。
 私が公爵家の人間と知っても、気さくに声を掛けてくれる学生が多く、エメランダ神殿でのフィールドワークも含めて、充実した日々を過ごせました。
 ――そこで出会ったのが、イルザです。
 イルザは、タナートの男爵家の令嬢だったのですよ。
 いえ、考古学教室で知り合ったわけではありません。
 大学生でもありませんでした。
 彼女は、私よりも三つ年下で、丁度、社交界デビューを果たしたばかりのご令嬢でした。
 考古学について語り合う私的な討論会に、仲間内の誰かが連れて来たのが最初です。
 貴族のご令嬢が、そのような場を訪れるなど、最初は驚きました。
 ですが、タナートでは、ご令嬢が一人歩きする事も、珍しくはなかったのです。
 え?あぁ…そうですね、イルザは美しい令嬢でしたよ。
 黒く波打つ豊かな髪に、深緑の瞳、いつもニコニコと微笑んで、私達の討論を聞いていました。
 最初に声を掛けて来たのは、イルザから…です。
 私は、それまでずっと、考古学に熱中していましたし、男ばかりの中に混ざって堂々としている彼女の事は気になっていたものの、ご令嬢と何を話せばいいのか、判らなくて…はは、今も、よく判っていないのですが。
 …そうですか?レニは、そう思ってくれるのですね。
 上手く誤魔化せているようで、良かったです。
 あぁ、そう、イルザですね。
 最初は、エメランダ神殿の財宝について聞きたい、と言われたのです。
 ご存知ですか?エメランダ神殿が初めて発見された時に、人の拳程の大きさがあるルビーが見つかった、と言う話を。
 これは、「見つかった」と言う文献だけあって、誰が、何処に、どのように保管したのかの記述がないのですよ。
 最初の発見者は、タナートの考古学者でしたが、タナート王家にルビーは存在しません。
 学者でしたら、研究発表の際に物的証拠として呈示しますが、彼の手元にルビーがあったと言う証言はありません。
 本当に拳大の大きさがあるとすれば、密かに売りさばく事も難しいでしょう。
 「あのルビーは何処に行ったのか。本当に存在したのか」。
 エメランダ神殿について学ぶ者が、一度は考える事なのです。
 その話を聞かれたのが、私とイルザの出会いです。
 自分の好きな事については、人は誰しも饒舌になるものでしょうが、私も例外ではなく、エメランダ神殿の話となると、つい、熱が入ってしまって…あぁ、すみません、今も少し暴走気味でしょうか。
 …そんな私の話を、イルザはニコニコと聞いてくれたのですよ。
「流石ですね」
「知りませんでした!」
「素晴らしいわ…!」
 そんな言葉で受け止めてくれると、こちらも興が乗って話し込んでしまって。
 そんな日々を繰り返すうちに、元々、彼女に抱いていた好意が、恋に変わった事は、自然な事でしょう。
 一年の交際を経て、卒業と同時に、結婚の許可を得るべく、イルザを連れて家に戻りました。
 結婚は…兄にも、従兄であるレオンハルト殿下にも、学院の友人達にも、反対されました。
 一番の理由は、爵位の差、です。
 アーベルバッハの家を継いだのは兄ですし、兄の婚約も決まっておりましたし、大きな問題にはならないだろう、と楽観的に考えていたのですが、兄達の考えは違いました。
 隣国の男爵家では、結婚によって得られる益がない、と言う事だったのでしょう。
 また、イルザの実家の評判が、全く聞こえて来ない、と言うのも兄達の心配に拍車を掛けたようです。
 ですが…私には、イルザ以外の女性は考えられなかった。
 兄達を説得する一方で、イルザを連れて積極的に社交の場に出ました。
 美しいイルザを、公爵家に相応しく飾って連れ歩く事で、社交界で広く私達の仲を認めて貰う事が目的でした。
 彼女は社交的で、どのような相手でも直ぐに心を掴み、親しくなる事が出来ました。
 こうして、私達は周囲の声を味方につけて、時間は掛かりましたが、最終的には、兄達も私達の婚約を認めてくれたのです。
 けれど。
 結婚の準備の為に、イルザと共にタナートの彼女の実家を訪れている間に、悲劇が起こりました。
 兄が、馬車で出掛けた折に、事故に遭って亡くなったのです。
 突然の訃報に慌てふためいて、イルザを残して、私は一人、帰国しました。
 愛する兄を喪って、悲しみにくれながらも、アーベルバッハと言う名が、蹲る事を許してはくれません。
 唯一人残されたアーベルバッハとして、私は領地の仕事、兄の仕事を引き継ぐ事になりました。
 ところが、悲劇は一度ではなかったのです。
 事務的に諸々の手続きをして、忌明けと共に私が爵位を継ぐ事が決まり、兄の婚約者との婚約解消やら、イルザを迎え入れるべく屋敷内の改装やら、慌ただしく動く事で悲しみを誤魔化していた時に、タナートからこちらに向かっていたイルザもまた、暴漢に襲われ、亡くなりました。
 …一体、何が起きたのか、判りませんでした。
 何故、私の愛する人達が、次々と奪われるのか。
 運命とは、理不尽なものですね…そう判っていても、平然と受け止められる事ではありません。
 あれから、八年。
 兄の跡を継いで、アーベルバッハ公爵としての格好は、何となくつけられるようになったと思います。
 時間薬と言いますが、イルザを喪った悲しみ、心の傷も、こうして語れる位には癒えています。
 けれど、彼女への愛は、色褪せない。
 いえ、寧ろ、より純粋な愛へと昇華されている気すらします。
 例え、肉体が隣になくとも。

***

 時折、レニが入れてくれる相槌に勇気を貰いながら、これまでの出来事を出来るだけ簡潔に語る。
 ふぅ、と一息入れて、冷めてしまった紅茶を口にしてからレニの顔を見ると、彼女は…私がこれまで接した誰とも違う表情を浮かべていた。
 大概の人間は、愛する人を喪った、と聞くと、いたましそうな顔をする。
 だが、レニは…微笑んでいた。
「イルザ様は、儚くなられた後もジークムント様に想われて、お幸せでしょう」
 本当に、嬉しそうな声。
 皮肉には、聞こえなかった。
 心から、そう思っているように聞こえた。
 レニの心を傷つけなかった事、私のイルザへの想いを受け入れられた事への安堵と共に、心の片隅が、妙に粘着く。
 何故、レニは。
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