婚約者を喪った私が、二度目の恋に落ちるまで。

緋田鞠

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 アーベルバッハの屋敷に着いた頃には、レニ嬢は熟睡していた。
 馬車が走り始めた当初、車窓を熱心に見ていたが、次第に車酔いを起こしたらしい。
 恐らくは、緊張もあったのではないだろうか。
 寝ていていい、と声を掛けたら、最初は躊躇していたものの、次第に瞼が落ちて来て、完全に寝入ってしまった。
 ふらふらと頼りなく動く頭を、これ位ならば許されるだろうか、と、私の肩に凭せ掛けて寝かせる事、二時間半。
 揺れを少しでも抑えようと、馬車の速度を落とさせた為に、予定よりも時間が掛かった。
 若草色のドレスの袖口から覗く手首は、棒切れのように細く、体力がないだろう事は容易に推測出来る。
 とても、リアーヌ嬢より年上の娘とは思えない。
「レニ嬢。家に到着しました」
 そっと声を掛けると、小さな声であったにも関わらず、彼女はハッと目を見開いて、周囲を見回した。
「まだ、馬車の中ですよ」
「公爵様…申し訳ございません、寝入ってしまって…もしや、肩をお借りしたのですか」
「勝手に触れて、申し訳ありません。何処かにぶつけては危険でしたもので。それから、どうぞ、私の事は、ジークムントと呼んでください。今日から、私達は家族になるのですから」
「…ジーク、ムント様…?」
「えぇ。私も、レニと呼ばせて頂きますね」
 そうだ。
 私達は、夫婦はともかく、家族になるのだ。
 その決意を込めて、彼女の名を呼ぶと、レニは、驚いたように目を丸くした後、何処か懐かしいような顔で笑った。
 あどけなさすら感じるその笑みに、視線を奪われる。
「久し振り、です。名を、呼ばれるのは。私を名で呼ぶのは、母だけでしたから」
 レニが十歳の時に亡くなったと言うマルグリット夫人。
 彼女は、十年以上、名を呼ばれずにいたのか。
 …あぁ、確かに、バーデンホスト侯爵夫妻は、彼女の名すら、正確に覚えていなかった。
 それでは、名を呼ばれたと言えないだろう。
 血の繋がった父親にも名を呼ばれず、関心を持たれない生活を、彼女はずっと、送って来たのだ。
「まずは、貴方の部屋へご案内しましょう。お疲れのようならば、屋敷の案内と使用人の紹介は、明日にしますが」
「大丈夫です。十分に休ませて頂きました」
「そうですか?では、参りましょう」
 馬車を降りて、レニに手を貸す。
 少し戸惑ったように手を預ける彼女の体が、長時間座っていた為か、ぐらりと傾いだ。
「…きゃっ」
 慌てて支えると、その体の軽さに驚く。
 思わず、そこにいるのか不安になる軽さだ。
 線が細く筋力も足りない私にとって、女性は決して、「羽のように軽い」存在ではない。
 その私でも、レニは容易に支えられてしまう。
「も、申し訳ございません」
「問題ありませんよ」
 アネットが心配していたように、レニはもう少し、体を丈夫にする必要がある。
 屋敷のホールに集まっていた上級使用人のうち、彼女が普段接する事の多い者を紹介すると、レニは躊躇なく、頭を下げた。
「お世話になります」
「レニ」
「はい」
 私の声に、レニが顔を上げる。
「貴方は、公爵家の女主人になるのです。主たるもの、仕える者に頭を下げてはなりません」
「…そう、なのですか?」
 あぁ、思った通りだ。
 彼女は、貴族の令嬢としての教育を受けていない。
 マルグリット夫人は、基本的な生活のマナーは教えたのかもしれないが、貴族としての心構えまでは、十歳のレニに教えきれなかったらしい。
「人として、他者を尊重する貴方の心を、私は好ましく思います。けれど、この屋敷の女主人として立つ時には、表に見せてはなりません」
「はい」
「どうでしょう、貴方がよろしければ、家庭教師をつけましょうか。貴方の学びたい事を、教えられる者を探しましょう」
「よろしいのですか?」
 レニの目が、輝いた。
 私との会話で、彼女が喜びを露わにするのは、初めてだ。
「えぇ、勿論。私が教えられる事ならばよいのですが、日中は仕事がありますから、十分に時間を取れません。家庭教師に学ぶ方が、早く深く身に付くかと」
「有難うございます。精一杯、励みます」
 集まった使用人達は、長年、独身を通した私が、漸く結婚する事が嬉しいのだろう。
 感情を表には出さないものの、微笑ましい目で、レニを見ている。
 この屋敷に勤めてくれている上級使用人達は、下級貴族の出の者が多い。
 彼等はきっと、レニの良い手本となってくれる筈だ。
「では、まず、貴方の部屋にご案内しましょうね」
「はい。お願い致します」
 差し出した肘に、そっと添えられた細い指。
 まだ蕾の花を、美しく育てる喜びを、確かに私は感じていた。

 レニは、用意した部屋を喜んでくれた。
 「こんなに明るいなんて」と言う呟きに、アネットの報告を思い出す。
 マルグリット夫人が亡くなって以降、レニは、屋根裏の使用人部屋を使っていたらしい。
 アネットが、それとなくバーデンホスト家の古株の使用人から聞き出してくれた。
 マルグリット夫人が亡くなって直ぐに、ウルリーケ夫人と再婚したバーデンホスト侯爵は、別邸から本邸へと引っ越して、それまで、女主人のいた部屋にウルリーケ夫人を迎え入れた。
 同時に、それまでレニに与えられていた部屋は、リアーヌ嬢の物となり、レニは屋根裏に追い遣られたのだと言う。
 マルグリット夫人が存命の間、婚姻費用として支払われていた金銭は、ウルリーケ夫人との再婚によって停止され、レニの為にバーデンホスト侯爵が負担するものは、何もなくなった。
 恐ろしい事に、バーデンホスト侯爵とウルリーケ夫人には、これが虐待と言う認識はなかった。
 不要なものを、倉庫に仕舞い込む。
 ただ、それだけの感覚だったようだ。
 そして、それきり、忘れ去ったのだ。
 使用人達は、長年放置されていたレニに同情的だったが、ウルリーケ夫人とリアーヌ嬢に仕えるよう求める主人の意向に逆らって、彼女を庇う事は出来ない。
 食事も衣服も与えられないレニに、僅かばかりの食料を分け与え、衣服が小さくなれば、お下がりを与え…そうして、彼女はひっそりと生き延びて来たのだ。
 ――ただ。
 屋根裏よりはましだと思いたいが、私のしている事も、レニにとっては残酷なのではないだろうか。
 レニに、女主人たれと言いながら、私が用意したのは、日当たりこそいいものの、本来、屋敷の女主人が住まう部屋ではない。
 私の私室と夫婦の寝室を挟んだ反対側にある女主人の為の部屋は、現在、私と掃除のメイド以外の立ち入りを禁じているからだ。
 女主人の部屋には、イルザと結婚する為に用意した物が、八年前からそのままになっている。
 バスティアンは、この機に、私にイルザとの思い出を捨てさせようとしていたらしい。
 だが、私の愛は、イルザに捧げられている。
 それは、レニとの結婚を命じた陛下も従兄上も、十分にご存知の事だ。
「屋敷を案内しましょう」
 レニを連れて、彼女が使用しそうな場所を中心に、案内していく。
「此処は、私の私室です。日中は、王宮に出仕していますが、執務を執っている時以外ならば、いつでも訪ねてくださって構いません」
 私室の隣には、屋敷で執務を執る際の執務室がある。
「…こちらの扉は、屋敷の女主人の部屋の物ですが…室内は、亡くなった婚約者の為に用意した設えのままになっているのです。ですから、その…」
「ジークムント様の、お好きになさってください」
 言葉に詰まった私の声を後押しするように、レニがそう言った。
「ジークムント様は、私に婚約者様のお話を、してくださいました。誠実な方だと、重々に承知しております。私は、頂いたお部屋で、これ以上なく、満足しております。ご無理は申し上げませんので、ご安心ください」
 …十以上、年下の女性に、気を遣わせてしまった。
 だが、ホッとしたのは事実だ。
 婚姻誓約書を書いたから、と、妻の顔をするような娘ではないと、思っていた筈なのに。
「…感謝します」
「いいえ。私こそ、ジークムント様には、感謝しております」
 それは、婚約者が亡くなり、悪評が流れた事で、嫁ぎ先がないレニを娶ったから、だろうか。
 だが、彼女の口調からは、そうは読み取れなかった。
「…レニは、本は好きですか?」
「!はい、大好きです」
 アネットから、レニは読書家だと聞いていた。
 バーデンホスト夫妻は、レニの存在に無関心だった為に、彼女は学院にも通えていない。
 だが、彼女が何処で何をしていようと咎める事もなかったので、バーデンホスト家の図書室で、片っ端から本を繰り返し読んでいたらしい。
 文字だけは、十歳になるまでに、マルグリット夫人に教わっていたのだろう。
「でしたら、こちらの図書室を、自由に使ってくださって構いません」
「よろしいのですか?」
「えぇ、勿論。今から学院に通うのは、年齢の関係で難しいですが、レニが興味のある事でしたら、家庭教師を招く事も出来ます」
「でしたら、あの、マナーの先生と、学習面全般を教えて頂ける先生を、お願いしてもよろしいでしょうか…?」
 レニの目が、控えめながらもきらきらと輝いている。
 本来の彼女は、好奇心旺盛で、意欲のある女性なのだろう。
「えぇ、いいですよ。ですが、集中し過ぎないように。アネットの言う事を、よく聞いてくださいね」
「はい」
 素直に頷くレニに、満足感を覚える。
 私に弟妹はいないが、きっと、これは、妹を見守るような気持ちなのだろう。
 常に私の事を気に掛けてくれる、従兄上の気持ちが判ると言うものだ。
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