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レニ嬢をバーデンホスト家に迎えに行くと、一ヶ月前よりも肌艶の状態の良い彼女が、出迎えてくれた。
先日、会った際に顔を隠していた長い前髪は、丁寧に結い上げられ、小さな顔をはっきりと見せている。
長い睫毛を伏せるようにしている為、大きな瞳が影になっていた。
着ているのは、彼女のサイズで新しく仕立てた、落ち着いた色合いの若草色のドレスだ。
アネットからの助言で、今後を見越して若干ゆとりのある作りになっているものの、先日のように体が泳ぐ事はない。
その為か、小柄ながらもバランスのよい肢体が伸びやかに見え、前回よりも幾分、本来の年齢に近づいて見える。
レニ嬢は、どうやら生まれてこの方、馬車に乗った事がないらしい。
その為、アーベルバッハ家の屋敷までの二時間で苦しくならないよう、装飾の控えめな、ゆったりとした物をアネットは見繕ったようだ。
「アーベルバッハ公爵!」
「本日はよろしくお願い致します、バーデンホスト侯爵」
機嫌の良いバーデンホスト侯爵、前回は顔を出さなかった継母のウルリーケ夫人と、次女のリアーヌ嬢まで勢揃いだ。
今日の主役はレニ嬢であると言うのに、妹であるリアーヌ嬢は、これから夜会にでも行くのかと言うような盛装で現れた。
燃えるような赤い髪に、深い緑の瞳は、ウルリーケ夫人に似たのだろう。
華やかな色合いと発育の良い体に、盛装は確かに似合っているが、姉の為に設定された場なのだと言う事を、理解していないとしか思えない。
その証拠と言うべきか、流行の装飾が施されたドレス姿のリアーヌ嬢は、レニ嬢を押し退けるようにして、最前へと足を運んだ。
「アーベルバッハ公爵様、お久し振りでございます。リアーヌでございます」
…何故、彼女は、姉の婚約者である私に、媚びるような顔を見せるのだろう。
自信に満ち溢れた彼女の顔は、賛美を求めている。
侯爵もウルリーケ夫人も、リアーヌ嬢を自慢気に見遣るだけで、注意する素振りも見せない。
「お迎えに上がりました、レニ嬢。リアーヌ嬢も、お久し振りです」
先にレニ嬢の名を呼んだのが、気に食わなかったのか。
期待していたような賛辞を、得られなかったからか。
リアーヌ嬢は、社交界で『エメラルドのよう』と称えられる緑の瞳に、一瞬、剣呑な光を浮かべた。
「陛下より、婚姻誓約書をお預かりしております。バーデンホスト侯爵、まずは、そちらへの署名をお願いしてもよろしいですか」
「勿論です」
応接間へと案内されながら、レニ嬢は結局、挨拶してくれなかったな、と考えた。
いや、何かしらは言おうと、口を小さく開けたように思う。
だが、その前に、リアーヌ嬢に押し退けられたのだ。
そして、そんなリアーヌ嬢の態度を咎める事のない侯爵夫妻。
彼等の間の力関係が、はっきりと見えて来る。
リアーヌ嬢が社交界で流した『レニ嬢がギュンター・ファルクを見初めて、親の説得を退けて強引に婚約を結んだ』とは、あり得ない話だ。
婚約者との挨拶すら待つ事をしないリアーヌ嬢と夫妻が、レニ嬢を止められないわけもなく、父親であるバーデンホスト侯爵が、押し切られて縁談を申し入れる筈もない。
そもそも、社交界デビューどころか、馬車に乗った事もないご令嬢が、一体何処で、ギュンター・ファルクを見初めたと言うのか。
私とて、この一ヶ月、何も調査していないわけではない。
まず、一点目。
何故、社交界デビューもしていないレニ嬢の縁談が持ち上がったのか。
この点は、従兄上の言葉で判った。
貴族の縁談は全て、王宮に報告が上がる。
レニ嬢とギュンター・ファルクの縁談より前に、リアーヌ嬢の縁談が、報告されているそうだ。
バーデンホスト侯爵が話していた通り、侯爵家の次男が婿入りするらしい。
我が国の爵位は男子が優先的に引き継ぐが、女子しかいない場合は第一子相続となる。
つまり、例え、リアーヌ嬢が婿を取ろうと、レニ嬢がバーデンホスト家の籍にいる以上、爵位と財産はレニ嬢に引き継がれるのだ。
これまで明らかにされていなかったレニ嬢の存在を知ったら、両侯爵家の間で大きな問題になる事は、想像に難くない。
それを避ける為に、リアーヌ嬢の前に、速やかにレニ嬢を嫁がせる必要があったのだろう。
そして、二点目。
何故、レニ嬢の相手としてギュンター・ファルクが選ばれたのか。
彼は、条件面だけで言えば、侯爵家の娘が恋人との間を引き裂いてまで嫁ぐ相手ではない。
この点は、マティアスの友人から証言が取れた。
ある夜会のシガールームで、酒に酔ったバーデンホスト侯爵が、「家から出て行ってくれるなら、相手は誰でも良かった。あの男はリアーヌに見惚れていたから、バーデンホストとの縁談に飛びつくだろうと思った。まさか、侯爵家の娘が相手だと言うのに、逃げ出す男がいるとは」とぼやいていたのを聞いたそうだ。
リアーヌ嬢と百八十度異なる発言が引っ掛かって、記憶に残っていたらしいが、「恐らく、手のつけようのない我儘娘だから、早く嫁がせたいのだな」、と納得したのだとか。
誰でもいい、として白羽の矢が立ったのが、恋人がいる上に、爵位の差のせいで拒否する事も出来ないギュンターだったと言うのは、不幸と言う他ない。
レニ嬢が、何処まで何を知っていて、ギュンターの事をどう思っていたのかは、今後、知る必要があるだろう。
…少し調べさえすれば、この程度の事は、誰でも判る。
だが、実際のレニ嬢を知らなければ、調べようと言う発想すら浮かばないだけで。
例え、事実無根だろうと、社交界で求められるのは、より扇情的な噂。
そして、より多くの人々が信じた噂が、「真実」とされてしまうのだ。
「はい、我が家の署名はこちらに」
王家の紋章が入った婚姻誓約書に署名したバーデンホスト侯爵が、満足そうに書類を私に押し遣る。
「そのぅ…レナの婚礼道具なのですが…」
「ご心配なく。こちらで全て、用意しております」
「助かります。いやぁ、何分、リアーヌの婚礼準備に何かと物入りでして」
元の顔立ちが整っているだけに、金の話をするバーデンホスト侯爵は、何とも醜悪に見えた。
いや、家ぐるみで嘘を吐いている、と思っているから、余計なのかもしれない。
「これで、アーベルバッハ家とバーデンホスト家は姻戚と言うわけですな。リアーヌの婚姻の折には、是非、祝福を頂きたいものです」
レニ嬢の持参金を出し渋っておきながら、暗に、『祝いを寄越せ』とねだられて、顔色を変えずに応じる。
「そうですね。リアーヌ嬢がご結婚なさる時には、是非、お祝いさせてください。リアーヌ嬢は、レニ嬢の妹君なのですから」
レニ嬢の名を上げると、バーデンホスト侯爵だけでなく、同席していた夫人とリアーヌ嬢も、鼻白んだ顔をした。
「良かったわね、お姉様。アーベルバッハ公爵様のお傍に置いて頂けて。公爵様は、一途な愛を貫かれている事で有名なお方。そのお方のお傍に侍れるだなんて、他のご令嬢には真似出来なくてよ?」
『私には、飾りの妻の立場など、我慢出来ないけれど』。
リアーヌ嬢が言いたいのは、そう言う事だ。
事実だろう。
そして、私も、王命と言う形でレニ嬢をその立場に置く事への罪悪感はある。
だが、イルザへの愛を、揶揄する形で口にされるのは不愉快だった。
「そうですよ、レナ。嫁ぎ先が見つかるかと心配していたけれど、公爵様と縁づく事が出来るだなんて、わたくしも鼻が高いわ。貴方の人生で最良の出来事でしょう」
『嫁ぐ事が出来て、良かったわね。これで、公爵家と姻戚になれるのだし』。
飾りの妻になる事が、人生で最良とは、何を言っているのか。
明らかにレニ嬢を馬鹿にした夫人の言葉に、そうさせたのは私であるにも関わらず、腹が立つ。
私がイルザ以外の女性を愛せない事と、レニ嬢は、全く関係がない。
彼女を、私の愛の犠牲にしては、いけないのだ。
バーデンホスト家に居る間、レニ嬢は一言も口を開かなかった。
最後、家を出る時も、頭を下げただけで、別れの挨拶も、「今まで育ててくれて有難う」と言うような、定型文としての挨拶も、なかった。
そして、それに対してバーデンホスト侯爵夫妻が何かを言う事も、なかった。
短い滞在時間ではあるものの、前回も今回も、レニ嬢が「家族」と会話する様子を見ていない。
アネットから報告はあったが、確かに、レニ嬢にとって、彼等は日頃から言葉を交わす相手ではないのだ。
アーベルバッハ家からレニ嬢に贈ったドレス以外、彼女の私物は小さなトランクにただ一つ。
二十一年間、暮らした筈の家から、彼女が持ち出す物がそれだけである事に、悲しみを覚える。
一人の侍女も、ついて来ないのは、アネットの推測通り、レニ嬢には元々、侍女がいなかったからだろう。
アーベルバッハ家での生活が、レニ嬢にとって、新たな鳥籠とならないよう、配慮せねばならない。
馬車の中で、向かい合わせに座ると、彼女は揺れる車体に戸惑っているようだった。
肉付きの薄い体に、振動が響くのだ。
居心地悪そうに、何度も身動ぎするのを見て、アネットに事前に頼まれていた通り、用意しておいたクッションを渡す。
「…公爵様…?」
「慣れないと、馬車の振動は不快なものでしょう。失礼します」
車体とレニ嬢の体の間にクッションを詰めてやると、振動が和らいだのか、少し、顔がホッとしたのが見えた。
だが、細い彼女の体は左右に移動してしまって、この調子では二時間の道程を乗り切るのは難しそうだ。
「隣に、失礼しますね」
私が並びに座れば、大きく体が移動する事はない。
クッションを間に挟んでいるから、体が触れ合う事もないだろう。
安定したのか、漸く、人心地ついた顔になったレニ嬢に、思わず微笑む。
前髪を上げた彼女は、二十一と言う年齢よりも、やはり、随分と下に見える。
薄暗い馬車の中では、大きく聡明そうな瞳が、想像通り、茶色に見えた。
つんとした小さな鼻、小振りな唇、細く白い首筋。
バーデンホスト侯爵と似た所はないから、亡くなったマルグリット夫人に似ているのだろうか。
美しい、と言うには少し幼く、だが、愛らしい女性だ。
まだ華奢に過ぎるが、きちんと社交界デビューしていれば、彼女自身を望んで愛する男との、幸せになれる縁談があった筈だ。
それを、略奪して婚約した上に相手が亡くなった、と言う醜聞で良縁を遠ざけられ、夫婦としての幸福など望めない私に、嫁ぐ事になってしまうとは。
バーデンホスト侯爵への評価が、私の中でまた一つ、下がった。
もう少し調べたい事はあるが、私はもう、確信している。
レニ嬢の婚約及び婚約者の死亡は、決して、彼女に責のあるものではない。
きちんと証拠を揃え、いつの日か、彼女に想う人が出来た時には、名誉を回復し、私達の白い結婚の証を立て、送り出そう。
レオンハルト従兄上も、アーベルバッハ家に養子を取った後ならば、許して下さる筈だ。
無辜のご令嬢の幸せを、無残に摘み取るような真似は、なさらない方なのだから。
先日、会った際に顔を隠していた長い前髪は、丁寧に結い上げられ、小さな顔をはっきりと見せている。
長い睫毛を伏せるようにしている為、大きな瞳が影になっていた。
着ているのは、彼女のサイズで新しく仕立てた、落ち着いた色合いの若草色のドレスだ。
アネットからの助言で、今後を見越して若干ゆとりのある作りになっているものの、先日のように体が泳ぐ事はない。
その為か、小柄ながらもバランスのよい肢体が伸びやかに見え、前回よりも幾分、本来の年齢に近づいて見える。
レニ嬢は、どうやら生まれてこの方、馬車に乗った事がないらしい。
その為、アーベルバッハ家の屋敷までの二時間で苦しくならないよう、装飾の控えめな、ゆったりとした物をアネットは見繕ったようだ。
「アーベルバッハ公爵!」
「本日はよろしくお願い致します、バーデンホスト侯爵」
機嫌の良いバーデンホスト侯爵、前回は顔を出さなかった継母のウルリーケ夫人と、次女のリアーヌ嬢まで勢揃いだ。
今日の主役はレニ嬢であると言うのに、妹であるリアーヌ嬢は、これから夜会にでも行くのかと言うような盛装で現れた。
燃えるような赤い髪に、深い緑の瞳は、ウルリーケ夫人に似たのだろう。
華やかな色合いと発育の良い体に、盛装は確かに似合っているが、姉の為に設定された場なのだと言う事を、理解していないとしか思えない。
その証拠と言うべきか、流行の装飾が施されたドレス姿のリアーヌ嬢は、レニ嬢を押し退けるようにして、最前へと足を運んだ。
「アーベルバッハ公爵様、お久し振りでございます。リアーヌでございます」
…何故、彼女は、姉の婚約者である私に、媚びるような顔を見せるのだろう。
自信に満ち溢れた彼女の顔は、賛美を求めている。
侯爵もウルリーケ夫人も、リアーヌ嬢を自慢気に見遣るだけで、注意する素振りも見せない。
「お迎えに上がりました、レニ嬢。リアーヌ嬢も、お久し振りです」
先にレニ嬢の名を呼んだのが、気に食わなかったのか。
期待していたような賛辞を、得られなかったからか。
リアーヌ嬢は、社交界で『エメラルドのよう』と称えられる緑の瞳に、一瞬、剣呑な光を浮かべた。
「陛下より、婚姻誓約書をお預かりしております。バーデンホスト侯爵、まずは、そちらへの署名をお願いしてもよろしいですか」
「勿論です」
応接間へと案内されながら、レニ嬢は結局、挨拶してくれなかったな、と考えた。
いや、何かしらは言おうと、口を小さく開けたように思う。
だが、その前に、リアーヌ嬢に押し退けられたのだ。
そして、そんなリアーヌ嬢の態度を咎める事のない侯爵夫妻。
彼等の間の力関係が、はっきりと見えて来る。
リアーヌ嬢が社交界で流した『レニ嬢がギュンター・ファルクを見初めて、親の説得を退けて強引に婚約を結んだ』とは、あり得ない話だ。
婚約者との挨拶すら待つ事をしないリアーヌ嬢と夫妻が、レニ嬢を止められないわけもなく、父親であるバーデンホスト侯爵が、押し切られて縁談を申し入れる筈もない。
そもそも、社交界デビューどころか、馬車に乗った事もないご令嬢が、一体何処で、ギュンター・ファルクを見初めたと言うのか。
私とて、この一ヶ月、何も調査していないわけではない。
まず、一点目。
何故、社交界デビューもしていないレニ嬢の縁談が持ち上がったのか。
この点は、従兄上の言葉で判った。
貴族の縁談は全て、王宮に報告が上がる。
レニ嬢とギュンター・ファルクの縁談より前に、リアーヌ嬢の縁談が、報告されているそうだ。
バーデンホスト侯爵が話していた通り、侯爵家の次男が婿入りするらしい。
我が国の爵位は男子が優先的に引き継ぐが、女子しかいない場合は第一子相続となる。
つまり、例え、リアーヌ嬢が婿を取ろうと、レニ嬢がバーデンホスト家の籍にいる以上、爵位と財産はレニ嬢に引き継がれるのだ。
これまで明らかにされていなかったレニ嬢の存在を知ったら、両侯爵家の間で大きな問題になる事は、想像に難くない。
それを避ける為に、リアーヌ嬢の前に、速やかにレニ嬢を嫁がせる必要があったのだろう。
そして、二点目。
何故、レニ嬢の相手としてギュンター・ファルクが選ばれたのか。
彼は、条件面だけで言えば、侯爵家の娘が恋人との間を引き裂いてまで嫁ぐ相手ではない。
この点は、マティアスの友人から証言が取れた。
ある夜会のシガールームで、酒に酔ったバーデンホスト侯爵が、「家から出て行ってくれるなら、相手は誰でも良かった。あの男はリアーヌに見惚れていたから、バーデンホストとの縁談に飛びつくだろうと思った。まさか、侯爵家の娘が相手だと言うのに、逃げ出す男がいるとは」とぼやいていたのを聞いたそうだ。
リアーヌ嬢と百八十度異なる発言が引っ掛かって、記憶に残っていたらしいが、「恐らく、手のつけようのない我儘娘だから、早く嫁がせたいのだな」、と納得したのだとか。
誰でもいい、として白羽の矢が立ったのが、恋人がいる上に、爵位の差のせいで拒否する事も出来ないギュンターだったと言うのは、不幸と言う他ない。
レニ嬢が、何処まで何を知っていて、ギュンターの事をどう思っていたのかは、今後、知る必要があるだろう。
…少し調べさえすれば、この程度の事は、誰でも判る。
だが、実際のレニ嬢を知らなければ、調べようと言う発想すら浮かばないだけで。
例え、事実無根だろうと、社交界で求められるのは、より扇情的な噂。
そして、より多くの人々が信じた噂が、「真実」とされてしまうのだ。
「はい、我が家の署名はこちらに」
王家の紋章が入った婚姻誓約書に署名したバーデンホスト侯爵が、満足そうに書類を私に押し遣る。
「そのぅ…レナの婚礼道具なのですが…」
「ご心配なく。こちらで全て、用意しております」
「助かります。いやぁ、何分、リアーヌの婚礼準備に何かと物入りでして」
元の顔立ちが整っているだけに、金の話をするバーデンホスト侯爵は、何とも醜悪に見えた。
いや、家ぐるみで嘘を吐いている、と思っているから、余計なのかもしれない。
「これで、アーベルバッハ家とバーデンホスト家は姻戚と言うわけですな。リアーヌの婚姻の折には、是非、祝福を頂きたいものです」
レニ嬢の持参金を出し渋っておきながら、暗に、『祝いを寄越せ』とねだられて、顔色を変えずに応じる。
「そうですね。リアーヌ嬢がご結婚なさる時には、是非、お祝いさせてください。リアーヌ嬢は、レニ嬢の妹君なのですから」
レニ嬢の名を上げると、バーデンホスト侯爵だけでなく、同席していた夫人とリアーヌ嬢も、鼻白んだ顔をした。
「良かったわね、お姉様。アーベルバッハ公爵様のお傍に置いて頂けて。公爵様は、一途な愛を貫かれている事で有名なお方。そのお方のお傍に侍れるだなんて、他のご令嬢には真似出来なくてよ?」
『私には、飾りの妻の立場など、我慢出来ないけれど』。
リアーヌ嬢が言いたいのは、そう言う事だ。
事実だろう。
そして、私も、王命と言う形でレニ嬢をその立場に置く事への罪悪感はある。
だが、イルザへの愛を、揶揄する形で口にされるのは不愉快だった。
「そうですよ、レナ。嫁ぎ先が見つかるかと心配していたけれど、公爵様と縁づく事が出来るだなんて、わたくしも鼻が高いわ。貴方の人生で最良の出来事でしょう」
『嫁ぐ事が出来て、良かったわね。これで、公爵家と姻戚になれるのだし』。
飾りの妻になる事が、人生で最良とは、何を言っているのか。
明らかにレニ嬢を馬鹿にした夫人の言葉に、そうさせたのは私であるにも関わらず、腹が立つ。
私がイルザ以外の女性を愛せない事と、レニ嬢は、全く関係がない。
彼女を、私の愛の犠牲にしては、いけないのだ。
バーデンホスト家に居る間、レニ嬢は一言も口を開かなかった。
最後、家を出る時も、頭を下げただけで、別れの挨拶も、「今まで育ててくれて有難う」と言うような、定型文としての挨拶も、なかった。
そして、それに対してバーデンホスト侯爵夫妻が何かを言う事も、なかった。
短い滞在時間ではあるものの、前回も今回も、レニ嬢が「家族」と会話する様子を見ていない。
アネットから報告はあったが、確かに、レニ嬢にとって、彼等は日頃から言葉を交わす相手ではないのだ。
アーベルバッハ家からレニ嬢に贈ったドレス以外、彼女の私物は小さなトランクにただ一つ。
二十一年間、暮らした筈の家から、彼女が持ち出す物がそれだけである事に、悲しみを覚える。
一人の侍女も、ついて来ないのは、アネットの推測通り、レニ嬢には元々、侍女がいなかったからだろう。
アーベルバッハ家での生活が、レニ嬢にとって、新たな鳥籠とならないよう、配慮せねばならない。
馬車の中で、向かい合わせに座ると、彼女は揺れる車体に戸惑っているようだった。
肉付きの薄い体に、振動が響くのだ。
居心地悪そうに、何度も身動ぎするのを見て、アネットに事前に頼まれていた通り、用意しておいたクッションを渡す。
「…公爵様…?」
「慣れないと、馬車の振動は不快なものでしょう。失礼します」
車体とレニ嬢の体の間にクッションを詰めてやると、振動が和らいだのか、少し、顔がホッとしたのが見えた。
だが、細い彼女の体は左右に移動してしまって、この調子では二時間の道程を乗り切るのは難しそうだ。
「隣に、失礼しますね」
私が並びに座れば、大きく体が移動する事はない。
クッションを間に挟んでいるから、体が触れ合う事もないだろう。
安定したのか、漸く、人心地ついた顔になったレニ嬢に、思わず微笑む。
前髪を上げた彼女は、二十一と言う年齢よりも、やはり、随分と下に見える。
薄暗い馬車の中では、大きく聡明そうな瞳が、想像通り、茶色に見えた。
つんとした小さな鼻、小振りな唇、細く白い首筋。
バーデンホスト侯爵と似た所はないから、亡くなったマルグリット夫人に似ているのだろうか。
美しい、と言うには少し幼く、だが、愛らしい女性だ。
まだ華奢に過ぎるが、きちんと社交界デビューしていれば、彼女自身を望んで愛する男との、幸せになれる縁談があった筈だ。
それを、略奪して婚約した上に相手が亡くなった、と言う醜聞で良縁を遠ざけられ、夫婦としての幸福など望めない私に、嫁ぐ事になってしまうとは。
バーデンホスト侯爵への評価が、私の中でまた一つ、下がった。
もう少し調べたい事はあるが、私はもう、確信している。
レニ嬢の婚約及び婚約者の死亡は、決して、彼女に責のあるものではない。
きちんと証拠を揃え、いつの日か、彼女に想う人が出来た時には、名誉を回復し、私達の白い結婚の証を立て、送り出そう。
レオンハルト従兄上も、アーベルバッハ家に養子を取った後ならば、許して下さる筈だ。
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