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イルザを殺害した犯人が、まだ、処刑されていない。
想像していなかった事態を知らされて、半ば混乱したまま、屋敷に戻ると、レニが目覚めた、と報告を受けた。
顔色は大分よくなったものの、食事を摂れなかった為か、すっかり窶れてしまっている。
生気のない顔も相俟って、痛々しい事、この上ない。
「…申し訳ありません、ジークムント様…ご迷惑を、お掛けして…」
レニは、強張った笑みを浮かべて、そう言った。
…こんな時まで、微笑まなくていいのに。
「良かった、熱が下がって。もう、体は辛くない?」
「はい…少々、重怠さは感じますが」
「完全に回復するまで、ゆっくり休んで欲しい。慣れない環境に、疲労が限界に達したんだろう、とのお医者さんの話だよ」
手紙の事には触れずに、そう言うと、レニは何か言いたげに口を開いたが、結局、小さく頷くだけに留めた。
恐らく、気にはなっているけれど、自ら口にする事は躊躇われるのだろう。
私にも、覚えがある感情だ。
僅かな刺激で、危うい均衡を崩してしまいそうで、言葉を飲み込んでしまうのだ。
「レニ」
「はい」
薄く小さな掌を両手で掬い上げるように握り締めると、レニは、びくり、と身を竦める。
だが、力が入ったのは一瞬で、ゆるゆると力を抜いた。
「…こうしていても、いいかな?」
「はい…」
レニは俯くと、ほ、と息を吐く。
「…ジークムント様の手は、温かいですね」
人肌の温もりを知らないレニ。
知っていたが失った私と、知らずに育ったレニと、どちらが不幸なのだろう。
…判っている、こんな比較は無意味だ。
「夜会でも言ったね。貴方は、私にとって、大切な家族だ」
「…はい」
レニは頷くけれど、彼女の中で『家族』と言う言葉は、ふわふわと捉え所のないものだろう。
徹底して彼女に関心を持たなかった父。
心の奥底で憎しみを抱いていた母。
私の知る家族の形と、彼女の置かれていた環境は、余りにも異なる。
「私の思う家族と言うのは、嬉しい時も、悲しい時も、分かち合える存在だ」
「分かち、合う…」
「だから、レニが嬉しいと思う事は、私にも教えて欲しい。私も共に、喜ぶから。悲しい事があったら、傷ついたのだと伝えて欲しい。私も共に、悲しむから。怒りを覚えたら、二人で怒ればいい。そうすれば、案外、どうでもよくなったりするものだよ」
「共に…?」
「…ねぇ、レニ。私は、貴方が私の隣にいてくれる事が、嬉しい。こうして、温かな体温を伝え合える事が、どれだけ私の心を安らかにしてくれているか、貴方は気が付いているかな」
意図せず、縋るような声が出た。
あぁ、そうだ。
私は、レニに縋っている。
レニの温もりに、縋っている。
イルザを喪ってから、私は常に、凍えていた。
物理的な温もりだけではない。
心の傍らに寄り添う熱を、ずっと、欲していたのだ。
「お願いだ。私の傍に、いて欲しい」
両手で握り締めたレニの小さな手を、私の額に押し当てる。
レニ。
貴方は、貴方の世界の全てだった母に、存在を否定されたかもしれない。
けれど、貴方の存在に救われた私がいる事を、忘れないで。
そう、思いを込めて告げると、レニは大きな目を零れんばかりに見開いた。
「ジークムント様…」
私が言葉にしなかった思いに、気が付いたのだろう。
「有難う、ございます…」
潤んだ瞳は、とても美しかった。
ラーデンブルク公爵との面会は、何点かの確認で終わった。
彼の関心事は、レニの育った環境だ。
父親であるバーデンホスト侯爵とは、離れて育った事。
実母を亡くして以降、養育も教育もなされず、放置されていた事。
バーデンホスト家の使用人に聞き取った情報を、飽くまで淡々と伝える。
ラーデンブルク公爵は、子に恵まれず、甥のローレンス殿と養子縁組している。
生さぬ仲ではあるものの、幼い頃から目を掛けていたローレンス殿との関係は良好で、社交界で、養子縁組実例の手本とされている。
だが、実子を望んでいなかったわけではないのだろう。
真っ直ぐな気性の彼は、授かった子を、理不尽に扱ったバーデンホスト侯爵への嫌悪を隠せていない。
「アーベルバッハ公爵」
「はい」
「余計な世話かもしれんがな。ご夫人に後ろ盾が必要とあらば、わしが名乗り出よう。現役を退いたとは言え、わしは曲がりなりにも元騎士団長であり、公爵家当主である。後ろ盾ではなく、養親が必要ならば、ローレンスに話を通す。何、あれもこの話を聞けば、同じ事を言うであろう」
ローレンス殿は、確か、バーデンホスト侯爵と同年代。レニの養親として順当な年齢だ。
すなわち、レニが希望すれば、バーデンホスト家との縁を絶たせて、レニの身元を引き受けると言う事だ。
「感謝致します。何かありましたら、ご相談させてください」
「うむ」
アーベルバッハ公爵は頷いた後、ふ、と眉を下げた。
「…卿の以前の婚約に、わしは反対したな。その事を悔いてはおらんし、同じ状況になれば、また反対するであろう。だから、今回、ご夫人の事に口出しするのは、謝罪の意味ではない。あくまで、ご夫人を気に入ったからなのだと、理解して欲しい」
「承知しております」
レニは、この上なく心強い味方を手に入れた。
クリントヴォルト侯爵との面会は、彼の質問に答える形で終わった。
「つまり…レニ夫人は、モリツとリアーヌ嬢の婚約が決まった故に、ファルク殿と婚約を結ばれた、と?」
モリツとは、クリントヴォルト侯爵の次男で、バーデンホスト家への婿入りを約束した人物だ。
聡明な頭脳で文官として王宮に仕える一方、クリントヴォルト侯爵によく似た甘い美貌で、未婚のご令嬢方の視線を集める人物でもある。
次男である為、持ちかけられる縁談が些か偏っている中、最も条件が良かったのが、バーデンホスト侯爵家への婿入りだったのだそうだ。
「王宮に婚約が報告された順序から考えれば、そうではないかと」
「バーデンホスト家とファルク家の関係は…」
「ギュンター・ファルク殿が、リアーヌ嬢とダンスを一曲踊ったのがきっかけと聞いています」
「レニ夫人が、学院に在籍していなかったと言うのは?」
「本当です。レニは、私と結婚するまで、屋敷の外に一歩たりとも出た事がありません」
「では、前夫人がお亡くなりになるまで、バーデンホスト侯爵が別邸で暮らしていたと言うのは…」
「事実です。月に一度程度、本邸に顔を出していたようですが、滞在時間は半刻程度だったとか。レニの実母が亡くなって三日後、バーデンホスト侯爵はウルリーケ夫人とリアーヌ嬢を伴って、本邸に移りました。レニは、それまでの子供部屋から、屋根裏部屋に居室を移して、ひっそりと暮らしていたのです」
…あぁ。
事実だけを淡々と伝えるつもりが、私情が籠ってしまった。
クリントヴォルト侯爵は、何事か考えている様子だったが、眉を顰めて首を振った。
「…では、あの噂も、事実でしょうか」
「噂、とは?」
「バーデンホスト家の抱えた負債に、前夫人の持参金を充てた、と言う…」
「…さぁ、どうなのでしょう。ですが、レニの手元に、母親の遺産が全くないのは事実です。彼女も、その母も、一歩も屋敷から表に出ず、社交界に顔を出した事もないのに」
「全く、ですか?」
「えぇ。レニが嫁ぐ際に持っていたのは、小さなトランク一つだけでしたから」
「バーデンホスト家からの持参金は…」
「ありません。バーデンホスト侯爵からは、リアーヌ嬢の婚姻で物入りだと伺っております」
「…」
クリントヴォルト侯爵は、眉間の似合わぬ皺を揉むように右手を当てると、ふぅ、と溜息を吐いた。
「…バーデンホスト侯爵には、アーベルバッハ公爵家と言う格上にレニ夫人を嫁する為、多額の持参金を用意せねばならなかった、と伺っております。先方から婚約のお話を頂いたのは一年前ですから、本来ならば婚約式を執り行わねばならない所ですが…新生活の用意に物入りだ、と、モリツに求められた持参金の額が、その、当初の話よりも増額されまして…予定していなかった為になかなか用意が整わず、婚約こそ王宮に申請したものの、公表出来ない状況だったのです。漸く、目途が立ちそうではあるのですが…」
クリントヴォルト侯爵と私は、これまで、交流はない。
バーデンホスト侯爵も、まさか、このような形で己の嘘が露見すると考えもしなかっただろう。
クリントヴォルト侯爵は、モリツ殿が侯爵家の暮らしを続けられるよう、持参金をかき集めていたらしい。
だが、その持参金を、モリツ殿の為ではなく、バーデンホスト家の為に使い込まれるとしたら…?
バーデンホスト侯爵は、クリントヴォルト家もまた、金の卵を産む雌鶏として、見做していたのか。
「…貴重なお話を、有難うございました。モリツと、話し合ってみます」
ブラウゼンベッター辺境伯との面会は、ギュンター・ファルクとレニのただ一度の邂逅について語る事で終わった。
「…ギュンターは、まともな挨拶もせずに、ご令嬢…失礼、今は貴殿の奥方でしたか。その方を蔑ろにしたと言う事ですな?」
ブラウゼンベッター辺境伯と言葉を交わしたのは初めてだが、国境を守る武人である辺境伯は、いかめしい顔の眉間に一層の皺を刻んで、唸るようにそう言った。
「私が収集した情報によれば、縁談相手を誤認するよう誘導したのは、バーデンホスト侯爵のようですから、ギュンター殿に一概に責任があるとも思いません」
「だが、想定していたご令嬢ではなかったとは言え、そのような態度、許せるものではない」
着古したお仕着せを纏う鳥ガラのように痩せ細った少女を、「婚約者だ」と紹介されたギュンターは、動揺の余り、退席した。
「妻が紹介を受ける前に、ギュンター殿は退席されましたから、妻本人は、特に気に病んではいないのです。ただ…その後が」
実際、レニは調査報告書を見るまで、彼が婚約者だったと言う実感がなかった。
「あぁ…」
ブラウゼンベッター辺境伯は、苦々しい顔で溜息を吐く。
顔合わせの席からただ退席し、縁談を拒否しただけなら、まだ良かったのだろう。
だが、彼は、自分の行動を正当化する為に、社交の場でレニを声高に否定した。
「実際の所、最も大きな影響を与えたのは、妻の妹であるリアーヌ・バーデンホスト嬢の発言ですが、そのきっかけとなったのがギュンター殿の発言である事は、事実です」
「でしょうな。…貴殿に誤魔化しても仕方がありますまい。ファルクからも、奥方への正式な謝罪をさせたいのだが、クルマン商会との関係が悪化しておりましてな。直ぐには、王都に出て来られる状況ではないのです」
クルマン家は、ギュンターの言い草に腹を立てていたようだから、当然かもしれない。
カトリン嬢と相思相愛だったのに、無理矢理引き裂かれた悲恋、と言うギュンターの言葉の影響で、新たな縁談を求めているカトリン嬢は、縁組に苦戦していると聞いた。
私のような状況でなければ、誰しも、心に他の男を想っている女性を敢えて娶ろうとは思わない。
恐らく、ブラウゼンベッター辺境伯は、夜会の様子を見て、思っていた以上にファルク家の評判が下がってしまっている事に気が付いたのだろう。
ブラウゼンベッター辺境伯は、信義に厚く臣を大切にする御仁と聞く。
ファルク家は長い事、彼の家の陪臣を務めている事から、主が代わりに私との面談を望んだと思われる。
「申し訳ないのだが、我々も当時は、詳細を知らずにおりました。可能な限り、早急に対応を検討させて頂く事を、お約束致しましょう」
レニは、アーベルバッハ家に嫁ぐ事で、人々の注目を浴びる事になった。
それには、良い点も悪い点もある。
良い点としては、関心を持つ人間が増える事で、レニの味方、または、味方とまでは言えずとも敵対しない人物が増える事。
社交界が全て敵となっていた事を思えば、大きな進歩だ。
彼女が、流されていた噂と対極にある女性だと判れば、噂の大本が疑われる。
バーデンホスト家に疑惑の目が向けられれば、レニとマルグリット夫人、そしてエアハルト家の名誉回復も、難題ではないだろう。
悪い点としては、彼女の一挙手一投足が注視される事。
ただでさえ、人の目に慣れていないレニが、常に人々の監視下に置かれる緊張感は、想像も出来ない。
先日の夜会は、レニの社交界デビューに丁度いいと思ったが、一度、公の場に出た以上、今後、夜会の招待は増えるだろうし、レニ個人を茶会に招待したい、と言う話も出て来るだろう。
問題は、私が同伴出来ない場に、いつ、どのようなタイミングで参加すべきか。
レニに全面的に味方してくれるご夫人がいればいいのだが、現状は、その前段階。
一度招待されれば、レニの事だ。
アーベルバッハ家の女主人としての役割を果たそうと、全力で励むだろう。
何かトラブルがあったとしても、私を慮って、秘密にする事が容易に想像出来てしまう。
「…もう少し、頼って欲しいんだがな…」
レニにとって私は、何なのだろうか。
マルグリット夫人の手紙を見せてくれた事を考えれば、信頼はされている。
けれど、甘えてくれているわけではない。
「…そうか」
私は、レニに甘えて欲しいのか。
彼女を、守りたい。
彼女を、幸せにしたい。
その気持ちは、最初に彼女を拒んだ私には、分不相応なもの…。
取り戻せない時間に、私は、きつく唇を噛んだ。
想像していなかった事態を知らされて、半ば混乱したまま、屋敷に戻ると、レニが目覚めた、と報告を受けた。
顔色は大分よくなったものの、食事を摂れなかった為か、すっかり窶れてしまっている。
生気のない顔も相俟って、痛々しい事、この上ない。
「…申し訳ありません、ジークムント様…ご迷惑を、お掛けして…」
レニは、強張った笑みを浮かべて、そう言った。
…こんな時まで、微笑まなくていいのに。
「良かった、熱が下がって。もう、体は辛くない?」
「はい…少々、重怠さは感じますが」
「完全に回復するまで、ゆっくり休んで欲しい。慣れない環境に、疲労が限界に達したんだろう、とのお医者さんの話だよ」
手紙の事には触れずに、そう言うと、レニは何か言いたげに口を開いたが、結局、小さく頷くだけに留めた。
恐らく、気にはなっているけれど、自ら口にする事は躊躇われるのだろう。
私にも、覚えがある感情だ。
僅かな刺激で、危うい均衡を崩してしまいそうで、言葉を飲み込んでしまうのだ。
「レニ」
「はい」
薄く小さな掌を両手で掬い上げるように握り締めると、レニは、びくり、と身を竦める。
だが、力が入ったのは一瞬で、ゆるゆると力を抜いた。
「…こうしていても、いいかな?」
「はい…」
レニは俯くと、ほ、と息を吐く。
「…ジークムント様の手は、温かいですね」
人肌の温もりを知らないレニ。
知っていたが失った私と、知らずに育ったレニと、どちらが不幸なのだろう。
…判っている、こんな比較は無意味だ。
「夜会でも言ったね。貴方は、私にとって、大切な家族だ」
「…はい」
レニは頷くけれど、彼女の中で『家族』と言う言葉は、ふわふわと捉え所のないものだろう。
徹底して彼女に関心を持たなかった父。
心の奥底で憎しみを抱いていた母。
私の知る家族の形と、彼女の置かれていた環境は、余りにも異なる。
「私の思う家族と言うのは、嬉しい時も、悲しい時も、分かち合える存在だ」
「分かち、合う…」
「だから、レニが嬉しいと思う事は、私にも教えて欲しい。私も共に、喜ぶから。悲しい事があったら、傷ついたのだと伝えて欲しい。私も共に、悲しむから。怒りを覚えたら、二人で怒ればいい。そうすれば、案外、どうでもよくなったりするものだよ」
「共に…?」
「…ねぇ、レニ。私は、貴方が私の隣にいてくれる事が、嬉しい。こうして、温かな体温を伝え合える事が、どれだけ私の心を安らかにしてくれているか、貴方は気が付いているかな」
意図せず、縋るような声が出た。
あぁ、そうだ。
私は、レニに縋っている。
レニの温もりに、縋っている。
イルザを喪ってから、私は常に、凍えていた。
物理的な温もりだけではない。
心の傍らに寄り添う熱を、ずっと、欲していたのだ。
「お願いだ。私の傍に、いて欲しい」
両手で握り締めたレニの小さな手を、私の額に押し当てる。
レニ。
貴方は、貴方の世界の全てだった母に、存在を否定されたかもしれない。
けれど、貴方の存在に救われた私がいる事を、忘れないで。
そう、思いを込めて告げると、レニは大きな目を零れんばかりに見開いた。
「ジークムント様…」
私が言葉にしなかった思いに、気が付いたのだろう。
「有難う、ございます…」
潤んだ瞳は、とても美しかった。
ラーデンブルク公爵との面会は、何点かの確認で終わった。
彼の関心事は、レニの育った環境だ。
父親であるバーデンホスト侯爵とは、離れて育った事。
実母を亡くして以降、養育も教育もなされず、放置されていた事。
バーデンホスト家の使用人に聞き取った情報を、飽くまで淡々と伝える。
ラーデンブルク公爵は、子に恵まれず、甥のローレンス殿と養子縁組している。
生さぬ仲ではあるものの、幼い頃から目を掛けていたローレンス殿との関係は良好で、社交界で、養子縁組実例の手本とされている。
だが、実子を望んでいなかったわけではないのだろう。
真っ直ぐな気性の彼は、授かった子を、理不尽に扱ったバーデンホスト侯爵への嫌悪を隠せていない。
「アーベルバッハ公爵」
「はい」
「余計な世話かもしれんがな。ご夫人に後ろ盾が必要とあらば、わしが名乗り出よう。現役を退いたとは言え、わしは曲がりなりにも元騎士団長であり、公爵家当主である。後ろ盾ではなく、養親が必要ならば、ローレンスに話を通す。何、あれもこの話を聞けば、同じ事を言うであろう」
ローレンス殿は、確か、バーデンホスト侯爵と同年代。レニの養親として順当な年齢だ。
すなわち、レニが希望すれば、バーデンホスト家との縁を絶たせて、レニの身元を引き受けると言う事だ。
「感謝致します。何かありましたら、ご相談させてください」
「うむ」
アーベルバッハ公爵は頷いた後、ふ、と眉を下げた。
「…卿の以前の婚約に、わしは反対したな。その事を悔いてはおらんし、同じ状況になれば、また反対するであろう。だから、今回、ご夫人の事に口出しするのは、謝罪の意味ではない。あくまで、ご夫人を気に入ったからなのだと、理解して欲しい」
「承知しております」
レニは、この上なく心強い味方を手に入れた。
クリントヴォルト侯爵との面会は、彼の質問に答える形で終わった。
「つまり…レニ夫人は、モリツとリアーヌ嬢の婚約が決まった故に、ファルク殿と婚約を結ばれた、と?」
モリツとは、クリントヴォルト侯爵の次男で、バーデンホスト家への婿入りを約束した人物だ。
聡明な頭脳で文官として王宮に仕える一方、クリントヴォルト侯爵によく似た甘い美貌で、未婚のご令嬢方の視線を集める人物でもある。
次男である為、持ちかけられる縁談が些か偏っている中、最も条件が良かったのが、バーデンホスト侯爵家への婿入りだったのだそうだ。
「王宮に婚約が報告された順序から考えれば、そうではないかと」
「バーデンホスト家とファルク家の関係は…」
「ギュンター・ファルク殿が、リアーヌ嬢とダンスを一曲踊ったのがきっかけと聞いています」
「レニ夫人が、学院に在籍していなかったと言うのは?」
「本当です。レニは、私と結婚するまで、屋敷の外に一歩たりとも出た事がありません」
「では、前夫人がお亡くなりになるまで、バーデンホスト侯爵が別邸で暮らしていたと言うのは…」
「事実です。月に一度程度、本邸に顔を出していたようですが、滞在時間は半刻程度だったとか。レニの実母が亡くなって三日後、バーデンホスト侯爵はウルリーケ夫人とリアーヌ嬢を伴って、本邸に移りました。レニは、それまでの子供部屋から、屋根裏部屋に居室を移して、ひっそりと暮らしていたのです」
…あぁ。
事実だけを淡々と伝えるつもりが、私情が籠ってしまった。
クリントヴォルト侯爵は、何事か考えている様子だったが、眉を顰めて首を振った。
「…では、あの噂も、事実でしょうか」
「噂、とは?」
「バーデンホスト家の抱えた負債に、前夫人の持参金を充てた、と言う…」
「…さぁ、どうなのでしょう。ですが、レニの手元に、母親の遺産が全くないのは事実です。彼女も、その母も、一歩も屋敷から表に出ず、社交界に顔を出した事もないのに」
「全く、ですか?」
「えぇ。レニが嫁ぐ際に持っていたのは、小さなトランク一つだけでしたから」
「バーデンホスト家からの持参金は…」
「ありません。バーデンホスト侯爵からは、リアーヌ嬢の婚姻で物入りだと伺っております」
「…」
クリントヴォルト侯爵は、眉間の似合わぬ皺を揉むように右手を当てると、ふぅ、と溜息を吐いた。
「…バーデンホスト侯爵には、アーベルバッハ公爵家と言う格上にレニ夫人を嫁する為、多額の持参金を用意せねばならなかった、と伺っております。先方から婚約のお話を頂いたのは一年前ですから、本来ならば婚約式を執り行わねばならない所ですが…新生活の用意に物入りだ、と、モリツに求められた持参金の額が、その、当初の話よりも増額されまして…予定していなかった為になかなか用意が整わず、婚約こそ王宮に申請したものの、公表出来ない状況だったのです。漸く、目途が立ちそうではあるのですが…」
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「…ギュンターは、まともな挨拶もせずに、ご令嬢…失礼、今は貴殿の奥方でしたか。その方を蔑ろにしたと言う事ですな?」
ブラウゼンベッター辺境伯と言葉を交わしたのは初めてだが、国境を守る武人である辺境伯は、いかめしい顔の眉間に一層の皺を刻んで、唸るようにそう言った。
「私が収集した情報によれば、縁談相手を誤認するよう誘導したのは、バーデンホスト侯爵のようですから、ギュンター殿に一概に責任があるとも思いません」
「だが、想定していたご令嬢ではなかったとは言え、そのような態度、許せるものではない」
着古したお仕着せを纏う鳥ガラのように痩せ細った少女を、「婚約者だ」と紹介されたギュンターは、動揺の余り、退席した。
「妻が紹介を受ける前に、ギュンター殿は退席されましたから、妻本人は、特に気に病んではいないのです。ただ…その後が」
実際、レニは調査報告書を見るまで、彼が婚約者だったと言う実感がなかった。
「あぁ…」
ブラウゼンベッター辺境伯は、苦々しい顔で溜息を吐く。
顔合わせの席からただ退席し、縁談を拒否しただけなら、まだ良かったのだろう。
だが、彼は、自分の行動を正当化する為に、社交の場でレニを声高に否定した。
「実際の所、最も大きな影響を与えたのは、妻の妹であるリアーヌ・バーデンホスト嬢の発言ですが、そのきっかけとなったのがギュンター殿の発言である事は、事実です」
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カトリン嬢と相思相愛だったのに、無理矢理引き裂かれた悲恋、と言うギュンターの言葉の影響で、新たな縁談を求めているカトリン嬢は、縁組に苦戦していると聞いた。
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恐らく、ブラウゼンベッター辺境伯は、夜会の様子を見て、思っていた以上にファルク家の評判が下がってしまっている事に気が付いたのだろう。
ブラウゼンベッター辺境伯は、信義に厚く臣を大切にする御仁と聞く。
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それには、良い点も悪い点もある。
良い点としては、関心を持つ人間が増える事で、レニの味方、または、味方とまでは言えずとも敵対しない人物が増える事。
社交界が全て敵となっていた事を思えば、大きな進歩だ。
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バーデンホスト家に疑惑の目が向けられれば、レニとマルグリット夫人、そしてエアハルト家の名誉回復も、難題ではないだろう。
悪い点としては、彼女の一挙手一投足が注視される事。
ただでさえ、人の目に慣れていないレニが、常に人々の監視下に置かれる緊張感は、想像も出来ない。
先日の夜会は、レニの社交界デビューに丁度いいと思ったが、一度、公の場に出た以上、今後、夜会の招待は増えるだろうし、レニ個人を茶会に招待したい、と言う話も出て来るだろう。
問題は、私が同伴出来ない場に、いつ、どのようなタイミングで参加すべきか。
レニに全面的に味方してくれるご夫人がいればいいのだが、現状は、その前段階。
一度招待されれば、レニの事だ。
アーベルバッハ家の女主人としての役割を果たそうと、全力で励むだろう。
何かトラブルがあったとしても、私を慮って、秘密にする事が容易に想像出来てしまう。
「…もう少し、頼って欲しいんだがな…」
レニにとって私は、何なのだろうか。
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「…そうか」
私は、レニに甘えて欲しいのか。
彼女を、守りたい。
彼女を、幸せにしたい。
その気持ちは、最初に彼女を拒んだ私には、分不相応なもの…。
取り戻せない時間に、私は、きつく唇を噛んだ。
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