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表面上、穏やかな時間が流れていた。
夜会の後、従兄上、ラーデンブルク公爵、クリントヴォルト侯爵、ブラウゼンベッター辺境伯と面会した以外は、特に大きな出来事はない。
意外な事に、レニ宛の招待状も、届いていない。
あの日、夜会に出席していたのは、高位貴族の当主夫妻。
情勢がどう動くか、様子見していると考えるのが、妥当だろう。
従兄上に、イルザ襲撃犯が収監されたままである事を聞いたが、面会する事を躊躇している。
イルザを殺害した犯人。
その男の顔を見た時、自分がどのような行動を取るのか、不安だった。
レニは、熱こそ下がったものの、未だ、万全の体調とは言えない。
だから、レニが、元気になったら。
…それが、言い訳に過ぎない事は、自分が一番よく判っている。
「旦那様、ラファエル・メルツ様から先触れを頂いております」
「来たか」
あの後、他国要人として招かれていたラファエルについて、簡単に調べてみた。
ラファエルは、マイヤード公国の貿易部門の責任者になっていた。
今回のダーレンドルフ訪問は、貿易強化の為だと言う。
大学時代、考古学討論会で知り合ったラファエルだが、彼の専攻は考古学ではなく、経済学。
考古学討論会に参加したのは、発掘品の資産的価値に興味があったからだと聞いた。
一度きりのつもりが、予想以上に私達の話を聞くのが面白くて、参加し続けたのだと笑っていた。
月一で行われる討論会は、日によってテーマが異なっていた為、参加は必須ではなく、関心のある回にだけ参加する事も可。
籍のあるメンバーは五十名程で、頻繁に顔を出していたのは、そのうちの三分の一程度だったと思う。
大学の考古学専攻のメンバーが中心となってはいたものの、ラファエルのように他学部の学生や、イルザのように学外の人物、また、卒業生も出入りしていた。
ラファエルは、人付き合いの苦手な私とは違い、人当たりが良くて、背景の異なる彼等の誰とでも、直ぐに打ち解けられる男だった。
その彼が、イルザに関して、私には言えなかった事がある、とはどういう事なのか。
不穏な言葉にざわめく自分と、冷静に受け止めようとしている自分が混在している。
「レニ」
レニは、熱が下がってから、自室へと戻った。
少し寂しい、と言う気持ちは、私の立場で許される言葉ではない。
医師の診立て通り、疲れが出たのだろう。
熱こそ下がったものの、本調子とは言えず、アネットがベッドから出る事を許さない。
アネットは未婚だが、年代で言うとレニの母親と同世代だ。
レニに対して、女主人に対する以上の思い入れがあるのを、言動の端々に感じられる。
恐らく、長い付き合いの私よりも、彼女はレニを優先する気がする。
だが、それでいい。
レニには、レニの絶対的な味方が、もっと必要だ。
「ジークムント様」
レニの私室を訪問した私を、レニはベッドに半身を起こした状態で出迎えた。
手元には、読みかけの本がある。
レニが倒れて以降、私は日に何度か、彼女の部屋を訪れて、顔を見ている。
レニの為、などと気持ちを押し付けるつもりはない。
飽くまで、私の心の安寧の為だ。
「今夜、友人が我が家を訪れるんだ。先日の夜会で挨拶した、ラファエル・メルツと言う男だよ。だから、晩餐は一人で取って貰えるかな?」
「私は、ご挨拶せずともよろしいのですか?」
「うん。貴方が元気な時ならお願いするけれど…今は、無理して欲しくない」
「承知致しました」
伝えなければならない事は、これだけ。
けれど、立ち去りがたくて躊躇する私に、レニが気遣うような視線を向けた。
「ジークムント様、何か、気掛かりな事がございますか?」
そして、そっと、細い指先で私の手を取る。
陽だまりのような温もりに、自分の手が冷え切っていた事に、初めて気が付いた。
「…まぁ、ジークムント様…随分と冷えていらっしゃいます。やはり、何かご心配な事が…?」
じわじわと伝わる熱。
その熱を離し難くて、彼女の指先を握り込むと、レニは一瞬、驚いた顔を見せたが、安心させる為か、繋いだ指先に力を込めてくれた。
迷い子と手を繋ぐ時のような、力強さで。
「ジークムント様は、先日、家族とは分かち合うものだ、と教えてくださいました。…無理は申しませんが、私に伺える事でしたら、仰ってください」
「レニ…」
自分でも、心がざわめく理由が判らない。
そんな曖昧な感情を、レニに伝えてもいいものなのか。
だが。
「ラファエルが…」
ぽろ、と言葉が零れ落ちた。
「はい、本日、お会いになるメルツ卿ですね」
レニの穏やかな声に、後押しされるように。
「先日の夜会で、こう言っていたんだ。イルザと結婚していなくて、安心した、と」
レニは、何も言わずに、じっと私の顔を見上げた。
「そして、学生時代に私に言えなかった事を伝えたい、と…どう受け止めても、いい話だとは思えない。私に見えていたイルザと、周囲の人間に見えていたイルザの姿は、違うのではないか、と思うと…」
情けなくも、声が掠れる。
「怖くて」
レニは成人しているとは言え、十以上、年下の女性だ。
その彼女に、弱い自分の姿を見せるのは、恐ろしい。
けれど、レニの目には、憐憫も侮蔑も浮かんではいなかった。
「人が他人に見せる姿は、一つとは限らないのでは、と思うのです」
「と言うと…?」
「私が今、お話しているジークムント様と、王宮でお仕事をなさっているジークムント様は、恐らく、違うお顔をなさっているのではないでしょうか」
「うん…そうだと思う。外では、アーベルバッハ公爵として、きちんとしなくては、と気を張っているから。ただでさえ、私は頼りなく見えるようだし」
「私の知るジークムント様は、とても頼りになる方ですが、そう思われる方もいらっしゃるのですね。きっと、それと同じ事なのでは、と。私がこれまで接して来た人々は、数としては決して多くはございません。けれど、バーデンホスト邸に仕える者達が、私に見せた顔と、父に見せる顔、そして、親しい者同士で見せる顔が、違っていた事は知っています」
レニの言葉に、頷く。
体は一つであっても、求められる役割に合わせて見せる顔、見える顔が違うのは判る。
「違ってはいたけれど、そのいずれもが、彼等の一部であったのは事実だと思うのです」
「うん…」
つまり、イルザが私に見せていた顔と、周囲の人々に見せていた顔は、必ずしも一致していたわけではない、と言う事か。
誰しも、恋人と家族、友人、それ以外の人々に見せる姿は違う筈だ。
だが、その差異が、想像以上のものだったら…?
…だから、兄や従兄上達は、イルザとの結婚に難色を示したのだろうか。
爵位の差、国の違いと言うだけではなく。
彼等には、私の知らないイルザの顔が、見えていたと言う事なのか。
「ジークムント様、私は…」
一瞬躊躇ったレニは、自嘲するような笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「母に愛されていた、とお話した事がありますが…手紙を読む前から、薄々、判っていたのです。母が、純粋に私を愛してくれていただけではない事を」
「レニ…」
「気づいたのは、最近の事です。ジークムント様とご家族のお話を聞いていて、少しずつ」
家族の数だけ、関係性も違う。
理想も違うし、環境も違う。
環境の整っている公爵家と、屋敷に閉じ込められているマルグリット夫人と。
当然、違う環境ならば違う関係になるのは判るのだが、そもそも、根底にある感情が違うのではないか、と気づいたのだと言う。
「母が、体調の良い時に、色々と指導してくれたのは確かです。けれど、その機会は決して多くはありませんでした。母は体調が悪いのだから、と当たり前に思っていましたが、どれだけお忙しくとも、日に一度は顔を見せて、私の様子を尋ねてくださるジークムント様程には、私を気に掛けてくれてはいなかったのではないか、と…いつしか、思うようになりました。母に、私への情がなかったとは思いません。母親ならば、子を愛さねばならない。父親にも愛されていると、信じさせなければならない、と信念を持って行動した母は、凄い人だとも思います」
マルグリット夫人が、自身の憎しみをレニにぶつけず、父親であるバーデンホスト侯爵をひたすらに立て続けたのは、レニの幼い心を守り、自尊心を育てなくてはならないと思っていたからだろう。
子を思う一方で、深く傷つける内容の手紙を遺したのは、愛憎乱れる気持ちを、抑えきれなかったからなのか。
「信頼出来る人が出来たら」読むように指示したのは、最後の良心か。
彼女は、レニが手紙を読む日が来ると思えなかったのかもしれない。
同時に、例え、心折れ、膝をついたとしても、傍で支える人がいれば、レニが立ち上がれると信じたかったのではないか。
心折れ、倒れ伏した彼女自身の、あり得たかもしれない未来を仮託するように。
「手紙を読んで…母に私の存在を否定されたような気持ちになって、恐怖に襲われましたが…よくよく落ち着いて考えると、血が繋がっていようと他人です。私とは、別の人間なのです。自分自身ですら、自分を完璧に愛せるわけではないのですもの。他人である母が、絶対的に愛してくれている、と思い込むのは、きっと傲慢だったのです。母親だから、血縁だから、愛してくれるわけではない。だって、血の繋がった父は、私に関心がありません。私を愛するのも、私を憎むのも、母の一つの側面。一人の人が、複数の顔を持つ、と言うのは、至極、自然に感じます」
レニの表情は、落ち着いている。
彼女は、じっとベッドで休みながら、考えを巡らせ続けていたのか。
「…私は、母の本心を知っても、母を嫌いにはなれません。そして、それでいいのだと思っています。私に見せていた母の一面を、私は愛していた。それで、いいのです。私自身の気持ちは、他の誰かに縛られるものではないのですから。あの時…激しい衝撃を覚えたのは、母に憎まれていたからではありません。私が母を愛する事を、拒まれたと思ったからです。でも、違います。母がどう思おうと関係ない。私の気持ちは、私だけのものです」
レニは。
憎むのではなく、許す事を選んだ。
どうして、彼女はこんなにも、強く立っているのか。
「ですから、」
レニの指先に、力が籠る。
「メルツ卿の目に、どのようなイルザ様の姿が見えていたのであろうと、ジークムント様がイルザ様に抱かれていた想いを否定するものではありません。ジークムント様の想いは、ジークムント様だけのものです」
あぁ。
「そう、だね…うん、そうだ」
心が、ふわりと軽くなった。
そうだ。
私の気持ちは、誰も否定する事は出来ない。
私の気持ちは、私のものだ。
「有難う、レニ…ラファエルの顔を、きちんと見られそうだよ」
謝意を述べると、レニは、優しく微笑んだ。
夜会の後、従兄上、ラーデンブルク公爵、クリントヴォルト侯爵、ブラウゼンベッター辺境伯と面会した以外は、特に大きな出来事はない。
意外な事に、レニ宛の招待状も、届いていない。
あの日、夜会に出席していたのは、高位貴族の当主夫妻。
情勢がどう動くか、様子見していると考えるのが、妥当だろう。
従兄上に、イルザ襲撃犯が収監されたままである事を聞いたが、面会する事を躊躇している。
イルザを殺害した犯人。
その男の顔を見た時、自分がどのような行動を取るのか、不安だった。
レニは、熱こそ下がったものの、未だ、万全の体調とは言えない。
だから、レニが、元気になったら。
…それが、言い訳に過ぎない事は、自分が一番よく判っている。
「旦那様、ラファエル・メルツ様から先触れを頂いております」
「来たか」
あの後、他国要人として招かれていたラファエルについて、簡単に調べてみた。
ラファエルは、マイヤード公国の貿易部門の責任者になっていた。
今回のダーレンドルフ訪問は、貿易強化の為だと言う。
大学時代、考古学討論会で知り合ったラファエルだが、彼の専攻は考古学ではなく、経済学。
考古学討論会に参加したのは、発掘品の資産的価値に興味があったからだと聞いた。
一度きりのつもりが、予想以上に私達の話を聞くのが面白くて、参加し続けたのだと笑っていた。
月一で行われる討論会は、日によってテーマが異なっていた為、参加は必須ではなく、関心のある回にだけ参加する事も可。
籍のあるメンバーは五十名程で、頻繁に顔を出していたのは、そのうちの三分の一程度だったと思う。
大学の考古学専攻のメンバーが中心となってはいたものの、ラファエルのように他学部の学生や、イルザのように学外の人物、また、卒業生も出入りしていた。
ラファエルは、人付き合いの苦手な私とは違い、人当たりが良くて、背景の異なる彼等の誰とでも、直ぐに打ち解けられる男だった。
その彼が、イルザに関して、私には言えなかった事がある、とはどういう事なのか。
不穏な言葉にざわめく自分と、冷静に受け止めようとしている自分が混在している。
「レニ」
レニは、熱が下がってから、自室へと戻った。
少し寂しい、と言う気持ちは、私の立場で許される言葉ではない。
医師の診立て通り、疲れが出たのだろう。
熱こそ下がったものの、本調子とは言えず、アネットがベッドから出る事を許さない。
アネットは未婚だが、年代で言うとレニの母親と同世代だ。
レニに対して、女主人に対する以上の思い入れがあるのを、言動の端々に感じられる。
恐らく、長い付き合いの私よりも、彼女はレニを優先する気がする。
だが、それでいい。
レニには、レニの絶対的な味方が、もっと必要だ。
「ジークムント様」
レニの私室を訪問した私を、レニはベッドに半身を起こした状態で出迎えた。
手元には、読みかけの本がある。
レニが倒れて以降、私は日に何度か、彼女の部屋を訪れて、顔を見ている。
レニの為、などと気持ちを押し付けるつもりはない。
飽くまで、私の心の安寧の為だ。
「今夜、友人が我が家を訪れるんだ。先日の夜会で挨拶した、ラファエル・メルツと言う男だよ。だから、晩餐は一人で取って貰えるかな?」
「私は、ご挨拶せずともよろしいのですか?」
「うん。貴方が元気な時ならお願いするけれど…今は、無理して欲しくない」
「承知致しました」
伝えなければならない事は、これだけ。
けれど、立ち去りがたくて躊躇する私に、レニが気遣うような視線を向けた。
「ジークムント様、何か、気掛かりな事がございますか?」
そして、そっと、細い指先で私の手を取る。
陽だまりのような温もりに、自分の手が冷え切っていた事に、初めて気が付いた。
「…まぁ、ジークムント様…随分と冷えていらっしゃいます。やはり、何かご心配な事が…?」
じわじわと伝わる熱。
その熱を離し難くて、彼女の指先を握り込むと、レニは一瞬、驚いた顔を見せたが、安心させる為か、繋いだ指先に力を込めてくれた。
迷い子と手を繋ぐ時のような、力強さで。
「ジークムント様は、先日、家族とは分かち合うものだ、と教えてくださいました。…無理は申しませんが、私に伺える事でしたら、仰ってください」
「レニ…」
自分でも、心がざわめく理由が判らない。
そんな曖昧な感情を、レニに伝えてもいいものなのか。
だが。
「ラファエルが…」
ぽろ、と言葉が零れ落ちた。
「はい、本日、お会いになるメルツ卿ですね」
レニの穏やかな声に、後押しされるように。
「先日の夜会で、こう言っていたんだ。イルザと結婚していなくて、安心した、と」
レニは、何も言わずに、じっと私の顔を見上げた。
「そして、学生時代に私に言えなかった事を伝えたい、と…どう受け止めても、いい話だとは思えない。私に見えていたイルザと、周囲の人間に見えていたイルザの姿は、違うのではないか、と思うと…」
情けなくも、声が掠れる。
「怖くて」
レニは成人しているとは言え、十以上、年下の女性だ。
その彼女に、弱い自分の姿を見せるのは、恐ろしい。
けれど、レニの目には、憐憫も侮蔑も浮かんではいなかった。
「人が他人に見せる姿は、一つとは限らないのでは、と思うのです」
「と言うと…?」
「私が今、お話しているジークムント様と、王宮でお仕事をなさっているジークムント様は、恐らく、違うお顔をなさっているのではないでしょうか」
「うん…そうだと思う。外では、アーベルバッハ公爵として、きちんとしなくては、と気を張っているから。ただでさえ、私は頼りなく見えるようだし」
「私の知るジークムント様は、とても頼りになる方ですが、そう思われる方もいらっしゃるのですね。きっと、それと同じ事なのでは、と。私がこれまで接して来た人々は、数としては決して多くはございません。けれど、バーデンホスト邸に仕える者達が、私に見せた顔と、父に見せる顔、そして、親しい者同士で見せる顔が、違っていた事は知っています」
レニの言葉に、頷く。
体は一つであっても、求められる役割に合わせて見せる顔、見える顔が違うのは判る。
「違ってはいたけれど、そのいずれもが、彼等の一部であったのは事実だと思うのです」
「うん…」
つまり、イルザが私に見せていた顔と、周囲の人々に見せていた顔は、必ずしも一致していたわけではない、と言う事か。
誰しも、恋人と家族、友人、それ以外の人々に見せる姿は違う筈だ。
だが、その差異が、想像以上のものだったら…?
…だから、兄や従兄上達は、イルザとの結婚に難色を示したのだろうか。
爵位の差、国の違いと言うだけではなく。
彼等には、私の知らないイルザの顔が、見えていたと言う事なのか。
「ジークムント様、私は…」
一瞬躊躇ったレニは、自嘲するような笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「母に愛されていた、とお話した事がありますが…手紙を読む前から、薄々、判っていたのです。母が、純粋に私を愛してくれていただけではない事を」
「レニ…」
「気づいたのは、最近の事です。ジークムント様とご家族のお話を聞いていて、少しずつ」
家族の数だけ、関係性も違う。
理想も違うし、環境も違う。
環境の整っている公爵家と、屋敷に閉じ込められているマルグリット夫人と。
当然、違う環境ならば違う関係になるのは判るのだが、そもそも、根底にある感情が違うのではないか、と気づいたのだと言う。
「母が、体調の良い時に、色々と指導してくれたのは確かです。けれど、その機会は決して多くはありませんでした。母は体調が悪いのだから、と当たり前に思っていましたが、どれだけお忙しくとも、日に一度は顔を見せて、私の様子を尋ねてくださるジークムント様程には、私を気に掛けてくれてはいなかったのではないか、と…いつしか、思うようになりました。母に、私への情がなかったとは思いません。母親ならば、子を愛さねばならない。父親にも愛されていると、信じさせなければならない、と信念を持って行動した母は、凄い人だとも思います」
マルグリット夫人が、自身の憎しみをレニにぶつけず、父親であるバーデンホスト侯爵をひたすらに立て続けたのは、レニの幼い心を守り、自尊心を育てなくてはならないと思っていたからだろう。
子を思う一方で、深く傷つける内容の手紙を遺したのは、愛憎乱れる気持ちを、抑えきれなかったからなのか。
「信頼出来る人が出来たら」読むように指示したのは、最後の良心か。
彼女は、レニが手紙を読む日が来ると思えなかったのかもしれない。
同時に、例え、心折れ、膝をついたとしても、傍で支える人がいれば、レニが立ち上がれると信じたかったのではないか。
心折れ、倒れ伏した彼女自身の、あり得たかもしれない未来を仮託するように。
「手紙を読んで…母に私の存在を否定されたような気持ちになって、恐怖に襲われましたが…よくよく落ち着いて考えると、血が繋がっていようと他人です。私とは、別の人間なのです。自分自身ですら、自分を完璧に愛せるわけではないのですもの。他人である母が、絶対的に愛してくれている、と思い込むのは、きっと傲慢だったのです。母親だから、血縁だから、愛してくれるわけではない。だって、血の繋がった父は、私に関心がありません。私を愛するのも、私を憎むのも、母の一つの側面。一人の人が、複数の顔を持つ、と言うのは、至極、自然に感じます」
レニの表情は、落ち着いている。
彼女は、じっとベッドで休みながら、考えを巡らせ続けていたのか。
「…私は、母の本心を知っても、母を嫌いにはなれません。そして、それでいいのだと思っています。私に見せていた母の一面を、私は愛していた。それで、いいのです。私自身の気持ちは、他の誰かに縛られるものではないのですから。あの時…激しい衝撃を覚えたのは、母に憎まれていたからではありません。私が母を愛する事を、拒まれたと思ったからです。でも、違います。母がどう思おうと関係ない。私の気持ちは、私だけのものです」
レニは。
憎むのではなく、許す事を選んだ。
どうして、彼女はこんなにも、強く立っているのか。
「ですから、」
レニの指先に、力が籠る。
「メルツ卿の目に、どのようなイルザ様の姿が見えていたのであろうと、ジークムント様がイルザ様に抱かれていた想いを否定するものではありません。ジークムント様の想いは、ジークムント様だけのものです」
あぁ。
「そう、だね…うん、そうだ」
心が、ふわりと軽くなった。
そうだ。
私の気持ちは、誰も否定する事は出来ない。
私の気持ちは、私のものだ。
「有難う、レニ…ラファエルの顔を、きちんと見られそうだよ」
謝意を述べると、レニは、優しく微笑んだ。
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