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***
「嘘、だった…」
私を、愛している、と言った言葉も。
私は、そのままでいいのだ、と言った言葉も。
兄を亡くして動揺する私に、目に涙を一杯溜めて、二人で乗り越えましょう、と言った言葉も。
全て、嘘だった。
レニに、イルザとの思い出を語るうちに。
ラファエルに、私に見えていなかったイルザの姿を聞くうちに。
うっすらと、疑惑に感じていた事が、決定的に白日の下に曝け出された。
頭では、冷静に受け止めている。
やはり、そうだったのか、と思っている。
エリマル・ロットマンの言葉を疑う事は、なかった。
降り積もった小さな違和感が全て、解消されてしまった。
それどころか、ロットマンは、大きな秘密を打ち明けた。
兄を、イルザの希望で亡き者にしたのだ、と。
私はこれまで、兄が亡くなったのが、イルザの思惑によるものだとは、考えた事もなかった。
あれは、不幸な事故だったのだと、ずっと信じていたから。
なのに…彼女は、公爵夫人なりたさに、兄の命を望んだのだと言う。
あり得ない、とは、もう言えなかった。
「でも、全てが嘘ではありません」
じっと私の話を聞いていたレニは、そう言った。
「ジークムント様の想いは、本物だったのですから」
本物。
あぁ、そうだ。
私は、イルザを愛していた。
本当に、愛していたんだ。
けれど、愛と言う言葉に目を眩ませて、本当の彼女は見えていなかった。
だからこそ、私は、愛する兄を喪った。
私が、彼女の思惑に気づいていなかったせいで。
「ジークムント様に見えていたイルザ様は、彼女の仮面だったのかもしれません。けれど、誰かを愛したジークムント様は、間違ってなんかいません。お兄様の事は、大変な不幸でした。でも、悪いのは手を下した犯人であって、ジークムント様ではありません」
懸命に言い募るレニの姿に、兄を殺したのは私だ、と荒れ狂い、騒めいていた気持ちが、次第に落ち着いてくる。
冷静に振る舞っているようで、レニは、何とか私を慰めようと、言葉と心を尽くしてくれているのが判ったからだ。
「…レニ。続きを話してもいいかな」
「続き、ですか?」
***
エリマル・ロットマンは。
彼は、私に、イルザは自分のものだと伝える為だけに、従兄上に思わせぶりな言伝をしたらしい。
「…私の兄を殺害した件について、自白はしたのか?」
「いいえ?尋ねられませんでしたから」
ロットマンは、私がイルザについて何も言わない事に、戸惑っているようだった。
「そうか…」
背後に黙って控えている牢番を見て、
「では、この一件も適切な処理を」
と依頼する。
「面会は以上だ。後は、沙汰を待つように」
「…っ!待て!貴方は、イルザが僕のものと知っても、何も言わないのか!」
「イルザは、誰のものでもない」
「…!」
「エリマル・ロットマン。確かに、私が見ていたのはイルザの上辺に過ぎなかったのだろう。彼女の本質を知ってなお、愛したか、と問われると、即答出来ない。そして…少なくとも、今の私は、彼女を選ばない」
「な…っ!」
「あれから、九年だ。私には、大切な人がいる。イルザに永遠の愛を捧げられなかったと悔いていたが…お前の言葉で、それで良かったのだと思えた。もう、これからは、永遠の愛、なんて大仰な事を言うのは止める。日々を積み重ねていければ、それでいい。今日、愛おしいと思った気持ちが、明日も続くように願う。それだけだ」
「イルザを裏切るのか…?!」
「面白い事を言うね。彼女は、最初から私を裏切っていたのだろう?」
「っ」
「そして、お前もまた、裏切られたわけだ。だが、例え、どんな理由があろうとも、殺人を正当化する理由など、一つもない」
背を向けた私を、背後から、ロットマンの支離滅裂な叫び声が追って来る。
彼は、何と言えば満足したのだろう。
イルザは私のものだ!と対抗すれば、良かったのだろうか。
だが、私にはもう、イルザへの情が、欠片も残っていそうになかった。
彼女への盲目な想いは擦り切れて、ボロボロになっている。
永遠の愛。
肉体を失くしたとしても、永劫に続く想い。
私のイルザへの想いは、そう言うものだと思っていた。
けれど、違った。
自分自身の事ですら、完全に理解する事が出来ないのに、他人の全てを知っていると思う傲慢さを知った。
愛とは、何と一方的なものだったのか。
***
「レニ。…ごめんね。貴方が望む永遠の愛を、私は持っていなかった。嘘を、吐いてしまった」
私の謝罪を聞いたレニは、虚を衝かれたような顔をした。
「嘘…」
口の中で小さく繰り返して、私が、「全て嘘だった」と言った真意に気づいたらしい。
「まさか…私が、母の為に、永遠の愛を信じさせて欲しい、と言ったから…だから、ジークムント様は、イルザ様を想い続けていらした、のですか…?」
どんな顔をすればいいのか判らず、結果として、不格好な笑みになると、レニは、眉を下げて泣きそうな顔をした。
「…イルザの思い出話をするうちに、違和感が段々大きくなってきたんだ。本当にイルザは、私を愛してくれていたのだろうか?いや、愛してくれるから愛する、と言うのは、傲慢ではないだろうか?彼女の何処を、私は愛していたのだろう?全て、と昔は答えていたのに、今は、その言葉を嘘と感じる…これは、愛なんだろうか?」
私の独白を、レニは唇を噛んで聞いている。
「でも、レニは、私がイルザを愛しているからこそ、私の事を信頼してくれている。イルザへの愛に疑問を持っている、なんて…とても言えなかった」
「ごめんなさい」
「貴方が謝る事じゃない」
「私の余計な言葉が、ジークムント様に負担となっていたのでしたら、謝罪すべきです」
「…違うんだ、レニ」
「違う…?」
言葉を切って、レニの顔を正面から見据えた。
「私は…イルザ以上に大切なものを見つけてしまった。けれど、それは…余りにも一方的な私の想いで…いや、見返りが欲しいわけじゃない。想いを返して欲しいわけじゃない。でも、私は、愛し方を間違えていた。正しく愛せないのに、どうすれば、幸せに出来るのか、自信がない。この想いが負担になるのでは、と思うと、素直に自分の気持ちとして受け入れていいのだと、胸を張れない」
しどろもどろな私の言葉を、聞き逃さぬようにじっと耳を傾けるレニの姿に、抑え難い愛おしさが込み上げる。
それは、過去、イルザに感じていた焦燥にも似た恋情とは違っていた。
ただただ、温かな、心の奥底から湧き出す愛おしさ。
あぁ。
他の誰が、此処まで真摯に私に向き合ってくれただろう。
「レニ」
「はい」
「私は…貴方を、愛している」
レニが、大きく目を見張ったまま、固まった。
「…ごめんね。夫婦にはなれない、と言ったのに、だからこそ、安心してくれていたのに…貴方を、愛してしまった」
家族として、慈しもうと思っていた。
大切に、したいと思っていた。
レニの嫌がる事は、決してしない。
ただ穏やかに、暮らして欲しい。
見返りを望んだりなんか、しない。
幸せに、なって欲しい。
そう、願っていたのに…レニを知れば知るだけ、想いが募る。
その細い指先に触れたい。
薄い肩を抱き寄せたい。
滑らかな頬に口づけたい。
柔らかな髪を指に絡めて、そして…。
ぐっと、手を握り締める。
名ばかりの夫である私には、レニに触れる資格など、ない。
レニは、私が彼女に決して触れないと信じているからこそ、安心してこの家で暮らしているのに。
「この、家で、暮らすのが、嫌ならば…ラーデンブルク公爵が、レニを引き受けると名乗り出てくださっている。公爵に後見をお願いしてもいいし、ご子息のローレンス殿と養子縁組をして、ラーデンブルク公爵家に入ってもいい」
私と夫婦である事に耐えられないようなら、婚姻の解消も考えていた。
王命での結婚だろうと、養子を迎えなくてはいけなかろうと、関係ない。
レニに、負担を掛けたくない。
レニの顔から目を逸らして、少し早口でそう言った途端。
「な…んで…ですか」
震える声で、レニが、私の言葉を押し留めた。
「何で、勝手に決めるんですか。どうして、私の気持ちを聞いてくださらないのですか」
「レニ、」
「ジークムント様は、私が何を考えていても、関係ないとおっしゃるんですか」
「違、」
「どうして、『一緒に幸せになろう』と言ってくださらないんですか!」
悲鳴のような、叫び。
「心が、温かくなる事、癒される事が、『好き』と言う事ではないのですか…?私の、この想いは…っ私は、私は、ジークムント様のお役に立ちたくて、だから、頑張ったのに…!家族だって、分かち合おうって…だから…!」
レニの目から、涙が零れ落ちたのを見て、反射的に彼女を抱き寄せた。
『好き』。
初めて、レニが好きだと言ってくれたもの。
それが、私…?
「…ごめん…」
「謝罪を頂きたいのではありません!」
「うん…ごめんね…」
「ジークムント様!」
「愛してるよ、レニ」
込み上げる想いに突き動かされるように、知らず、私の頬にも、涙が零れ落ちていた。
イルザを喪った時に、涙は枯れ果てた。
成人男性が泣く機会なんて、愛する人を喪った時以外にないからだ、と思っていたけれど、違ったらしい。
大きく心を動かされた時にも、涙は流れるものだった。
互いに泣きながら、固く固く抱き締め合う。
僅かな隙間すら、許せない、と言うように。
レニは、涙の浮かんだ瞳で私を見上げて、胸元に頬を擦り寄せると、
「…これからも、お側にいて、いいですか…?私は…ジークムント様の、妻ですか…?」
と、小さく尋ねた。
「これまでも、これからも、レニは私の妻だ。…私は、永遠の愛を誓う事は、しない。出来ない。けれど…毎日、貴方を幸せにする努力を続けていきたい」
「私も…互いの想いが共にある限り、ジークムント様をお支え致します」
立会人も参列者もいない、二人だけの結婚式。
約束、とも、誓い、とも、言わない。
けれど、これは確かに、二人だけの儀式だった。
「レニ」
名を呼ぶと、顔を上げる。
腫れた瞼。
赤い瞳。
決して、絵のように美しいとは言えない泣き顔が、誰よりも愛おしい。
「一緒に、幸せになろう」
初めての口づけは、涙の味がした。
こんな情けない男を、何故、レニが選んでくれたのか、判らない。
そう言うとレニは、
「ジークムント様は、私の世界に色をくださいました」
と、微笑んだ。
母と二人きりの世界から、母が喪われて十年以上。
その間、レニは、ただ生きていただけだった。
自死は神に許されていないから死ねなかった、と言うわけではない。
何故なら、レニは、神と言う存在を知らなかったからだ。
自死、と言う言葉すら知らなかったから漫然と呼吸をしていただけで、心臓は動いているけれど、本当に「生きて」いたのか、と問われると、甚だ疑問だ、と、自嘲するように笑う。
彼女の日々は、積み重ねた年月の長さと比較にならない薄っぺらさなのだ、と。
「けれど、きっかけは何であれ、ジークムント様と出会った事で、私の世界は変わりました。新たな知識を得る喜び、お役に立てる喜び、人と会話する喜び…その全てを、ジークムント様が与えてくださったのです」
レニの世界の中で、日一日と、私の存在が大きくなっていったと言う。
決定打となったのは、母からの手紙を読んで激しく狼狽したレニに、「家族なのだから、分かち合おう」と言った事だった。
それまでのレニにとって、「家族」とは、辞書的な意味しか持たないものだった。
『お願いだ。私の傍に、いて欲しい』
私の切望に、レニは、生まれて初めて、「此処にいていいんだ」と思えたと言った。
「ジークムント様と、お話がしたい。ジークムント様の、お役に立ちたい。ジークムント様に、笑って欲しい。ジークムント様を、幸せにしたい…」
当初は、感謝の気持ちだと思っていたそれは、次第に、レニ自身の希望へと繋がっていく。
私と共に過ごす時間こそ、レニの最も欲しいものだと言われて、どうして、喜ばずにいられようか。
「私は、王命によって娶らざるを得なかった飾りの妻です。ですから、そう私が願う事を、ジークムント様はお望みではないでしょう。けれど、名ばかりであっても妻なのだから、私の立場で出来る全てを、したい、と心を決めていました」
私が、裏で何か動いている事に、気づいていた。
イルザとの思い出話を、しなくなった事も。
レニ自身、私からイルザの話を聞く時に、心に引っ掛かった事があるのだそうだ。
「ジークムント様が傷つく位なら、真実など明かされなければいい、と思っていましたが…」
「それは違う。私は、己の恋情に盲目的に支配され、私を案じる人々の言葉を聞かなかった愚か者だ。けれど、前に進む勇気を得られた。例え遅きに失したとしても、真実を知る事が出来て良かったと思うよ」
白々と明けていく空を見ながら、ソファでレニと肩を寄せ合って語り合う時間は、居心地がいい。
私達は、これまで互いに遠慮して口に出せなかった話に、夢中になった。
ふわ、と、小さく欠伸したレニの頭が、こくり、と船を漕ぐ。
「こんな時間まで、悪かった。まだ、体調が万全ではないのだから、今日はゆっくり休んでいてくれ」
と声を掛けると、瞼の落ちかかったレニが、力の抜けた笑みを見せた。
「ジークムント様…」
「うん?」
「すき…」
そのまま、すぅ、と眠りに落ちたレニの顔が、まともに見られない。
私は今、みっともなく、赤面している事だろう。
けれど…こんな幸せを、嘗て経験した事はなかったのだから、仕方がない。
「…私もだよ」
レニには、聞こえていないだろう。
抱き上げた彼女の体をベッドに横たえ、耳元で囁く。
あぁ、私は今、幸福だ。
「嘘、だった…」
私を、愛している、と言った言葉も。
私は、そのままでいいのだ、と言った言葉も。
兄を亡くして動揺する私に、目に涙を一杯溜めて、二人で乗り越えましょう、と言った言葉も。
全て、嘘だった。
レニに、イルザとの思い出を語るうちに。
ラファエルに、私に見えていなかったイルザの姿を聞くうちに。
うっすらと、疑惑に感じていた事が、決定的に白日の下に曝け出された。
頭では、冷静に受け止めている。
やはり、そうだったのか、と思っている。
エリマル・ロットマンの言葉を疑う事は、なかった。
降り積もった小さな違和感が全て、解消されてしまった。
それどころか、ロットマンは、大きな秘密を打ち明けた。
兄を、イルザの希望で亡き者にしたのだ、と。
私はこれまで、兄が亡くなったのが、イルザの思惑によるものだとは、考えた事もなかった。
あれは、不幸な事故だったのだと、ずっと信じていたから。
なのに…彼女は、公爵夫人なりたさに、兄の命を望んだのだと言う。
あり得ない、とは、もう言えなかった。
「でも、全てが嘘ではありません」
じっと私の話を聞いていたレニは、そう言った。
「ジークムント様の想いは、本物だったのですから」
本物。
あぁ、そうだ。
私は、イルザを愛していた。
本当に、愛していたんだ。
けれど、愛と言う言葉に目を眩ませて、本当の彼女は見えていなかった。
だからこそ、私は、愛する兄を喪った。
私が、彼女の思惑に気づいていなかったせいで。
「ジークムント様に見えていたイルザ様は、彼女の仮面だったのかもしれません。けれど、誰かを愛したジークムント様は、間違ってなんかいません。お兄様の事は、大変な不幸でした。でも、悪いのは手を下した犯人であって、ジークムント様ではありません」
懸命に言い募るレニの姿に、兄を殺したのは私だ、と荒れ狂い、騒めいていた気持ちが、次第に落ち着いてくる。
冷静に振る舞っているようで、レニは、何とか私を慰めようと、言葉と心を尽くしてくれているのが判ったからだ。
「…レニ。続きを話してもいいかな」
「続き、ですか?」
***
エリマル・ロットマンは。
彼は、私に、イルザは自分のものだと伝える為だけに、従兄上に思わせぶりな言伝をしたらしい。
「…私の兄を殺害した件について、自白はしたのか?」
「いいえ?尋ねられませんでしたから」
ロットマンは、私がイルザについて何も言わない事に、戸惑っているようだった。
「そうか…」
背後に黙って控えている牢番を見て、
「では、この一件も適切な処理を」
と依頼する。
「面会は以上だ。後は、沙汰を待つように」
「…っ!待て!貴方は、イルザが僕のものと知っても、何も言わないのか!」
「イルザは、誰のものでもない」
「…!」
「エリマル・ロットマン。確かに、私が見ていたのはイルザの上辺に過ぎなかったのだろう。彼女の本質を知ってなお、愛したか、と問われると、即答出来ない。そして…少なくとも、今の私は、彼女を選ばない」
「な…っ!」
「あれから、九年だ。私には、大切な人がいる。イルザに永遠の愛を捧げられなかったと悔いていたが…お前の言葉で、それで良かったのだと思えた。もう、これからは、永遠の愛、なんて大仰な事を言うのは止める。日々を積み重ねていければ、それでいい。今日、愛おしいと思った気持ちが、明日も続くように願う。それだけだ」
「イルザを裏切るのか…?!」
「面白い事を言うね。彼女は、最初から私を裏切っていたのだろう?」
「っ」
「そして、お前もまた、裏切られたわけだ。だが、例え、どんな理由があろうとも、殺人を正当化する理由など、一つもない」
背を向けた私を、背後から、ロットマンの支離滅裂な叫び声が追って来る。
彼は、何と言えば満足したのだろう。
イルザは私のものだ!と対抗すれば、良かったのだろうか。
だが、私にはもう、イルザへの情が、欠片も残っていそうになかった。
彼女への盲目な想いは擦り切れて、ボロボロになっている。
永遠の愛。
肉体を失くしたとしても、永劫に続く想い。
私のイルザへの想いは、そう言うものだと思っていた。
けれど、違った。
自分自身の事ですら、完全に理解する事が出来ないのに、他人の全てを知っていると思う傲慢さを知った。
愛とは、何と一方的なものだったのか。
***
「レニ。…ごめんね。貴方が望む永遠の愛を、私は持っていなかった。嘘を、吐いてしまった」
私の謝罪を聞いたレニは、虚を衝かれたような顔をした。
「嘘…」
口の中で小さく繰り返して、私が、「全て嘘だった」と言った真意に気づいたらしい。
「まさか…私が、母の為に、永遠の愛を信じさせて欲しい、と言ったから…だから、ジークムント様は、イルザ様を想い続けていらした、のですか…?」
どんな顔をすればいいのか判らず、結果として、不格好な笑みになると、レニは、眉を下げて泣きそうな顔をした。
「…イルザの思い出話をするうちに、違和感が段々大きくなってきたんだ。本当にイルザは、私を愛してくれていたのだろうか?いや、愛してくれるから愛する、と言うのは、傲慢ではないだろうか?彼女の何処を、私は愛していたのだろう?全て、と昔は答えていたのに、今は、その言葉を嘘と感じる…これは、愛なんだろうか?」
私の独白を、レニは唇を噛んで聞いている。
「でも、レニは、私がイルザを愛しているからこそ、私の事を信頼してくれている。イルザへの愛に疑問を持っている、なんて…とても言えなかった」
「ごめんなさい」
「貴方が謝る事じゃない」
「私の余計な言葉が、ジークムント様に負担となっていたのでしたら、謝罪すべきです」
「…違うんだ、レニ」
「違う…?」
言葉を切って、レニの顔を正面から見据えた。
「私は…イルザ以上に大切なものを見つけてしまった。けれど、それは…余りにも一方的な私の想いで…いや、見返りが欲しいわけじゃない。想いを返して欲しいわけじゃない。でも、私は、愛し方を間違えていた。正しく愛せないのに、どうすれば、幸せに出来るのか、自信がない。この想いが負担になるのでは、と思うと、素直に自分の気持ちとして受け入れていいのだと、胸を張れない」
しどろもどろな私の言葉を、聞き逃さぬようにじっと耳を傾けるレニの姿に、抑え難い愛おしさが込み上げる。
それは、過去、イルザに感じていた焦燥にも似た恋情とは違っていた。
ただただ、温かな、心の奥底から湧き出す愛おしさ。
あぁ。
他の誰が、此処まで真摯に私に向き合ってくれただろう。
「レニ」
「はい」
「私は…貴方を、愛している」
レニが、大きく目を見張ったまま、固まった。
「…ごめんね。夫婦にはなれない、と言ったのに、だからこそ、安心してくれていたのに…貴方を、愛してしまった」
家族として、慈しもうと思っていた。
大切に、したいと思っていた。
レニの嫌がる事は、決してしない。
ただ穏やかに、暮らして欲しい。
見返りを望んだりなんか、しない。
幸せに、なって欲しい。
そう、願っていたのに…レニを知れば知るだけ、想いが募る。
その細い指先に触れたい。
薄い肩を抱き寄せたい。
滑らかな頬に口づけたい。
柔らかな髪を指に絡めて、そして…。
ぐっと、手を握り締める。
名ばかりの夫である私には、レニに触れる資格など、ない。
レニは、私が彼女に決して触れないと信じているからこそ、安心してこの家で暮らしているのに。
「この、家で、暮らすのが、嫌ならば…ラーデンブルク公爵が、レニを引き受けると名乗り出てくださっている。公爵に後見をお願いしてもいいし、ご子息のローレンス殿と養子縁組をして、ラーデンブルク公爵家に入ってもいい」
私と夫婦である事に耐えられないようなら、婚姻の解消も考えていた。
王命での結婚だろうと、養子を迎えなくてはいけなかろうと、関係ない。
レニに、負担を掛けたくない。
レニの顔から目を逸らして、少し早口でそう言った途端。
「な…んで…ですか」
震える声で、レニが、私の言葉を押し留めた。
「何で、勝手に決めるんですか。どうして、私の気持ちを聞いてくださらないのですか」
「レニ、」
「ジークムント様は、私が何を考えていても、関係ないとおっしゃるんですか」
「違、」
「どうして、『一緒に幸せになろう』と言ってくださらないんですか!」
悲鳴のような、叫び。
「心が、温かくなる事、癒される事が、『好き』と言う事ではないのですか…?私の、この想いは…っ私は、私は、ジークムント様のお役に立ちたくて、だから、頑張ったのに…!家族だって、分かち合おうって…だから…!」
レニの目から、涙が零れ落ちたのを見て、反射的に彼女を抱き寄せた。
『好き』。
初めて、レニが好きだと言ってくれたもの。
それが、私…?
「…ごめん…」
「謝罪を頂きたいのではありません!」
「うん…ごめんね…」
「ジークムント様!」
「愛してるよ、レニ」
込み上げる想いに突き動かされるように、知らず、私の頬にも、涙が零れ落ちていた。
イルザを喪った時に、涙は枯れ果てた。
成人男性が泣く機会なんて、愛する人を喪った時以外にないからだ、と思っていたけれど、違ったらしい。
大きく心を動かされた時にも、涙は流れるものだった。
互いに泣きながら、固く固く抱き締め合う。
僅かな隙間すら、許せない、と言うように。
レニは、涙の浮かんだ瞳で私を見上げて、胸元に頬を擦り寄せると、
「…これからも、お側にいて、いいですか…?私は…ジークムント様の、妻ですか…?」
と、小さく尋ねた。
「これまでも、これからも、レニは私の妻だ。…私は、永遠の愛を誓う事は、しない。出来ない。けれど…毎日、貴方を幸せにする努力を続けていきたい」
「私も…互いの想いが共にある限り、ジークムント様をお支え致します」
立会人も参列者もいない、二人だけの結婚式。
約束、とも、誓い、とも、言わない。
けれど、これは確かに、二人だけの儀式だった。
「レニ」
名を呼ぶと、顔を上げる。
腫れた瞼。
赤い瞳。
決して、絵のように美しいとは言えない泣き顔が、誰よりも愛おしい。
「一緒に、幸せになろう」
初めての口づけは、涙の味がした。
こんな情けない男を、何故、レニが選んでくれたのか、判らない。
そう言うとレニは、
「ジークムント様は、私の世界に色をくださいました」
と、微笑んだ。
母と二人きりの世界から、母が喪われて十年以上。
その間、レニは、ただ生きていただけだった。
自死は神に許されていないから死ねなかった、と言うわけではない。
何故なら、レニは、神と言う存在を知らなかったからだ。
自死、と言う言葉すら知らなかったから漫然と呼吸をしていただけで、心臓は動いているけれど、本当に「生きて」いたのか、と問われると、甚だ疑問だ、と、自嘲するように笑う。
彼女の日々は、積み重ねた年月の長さと比較にならない薄っぺらさなのだ、と。
「けれど、きっかけは何であれ、ジークムント様と出会った事で、私の世界は変わりました。新たな知識を得る喜び、お役に立てる喜び、人と会話する喜び…その全てを、ジークムント様が与えてくださったのです」
レニの世界の中で、日一日と、私の存在が大きくなっていったと言う。
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『お願いだ。私の傍に、いて欲しい』
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「ジークムント様と、お話がしたい。ジークムント様の、お役に立ちたい。ジークムント様に、笑って欲しい。ジークムント様を、幸せにしたい…」
当初は、感謝の気持ちだと思っていたそれは、次第に、レニ自身の希望へと繋がっていく。
私と共に過ごす時間こそ、レニの最も欲しいものだと言われて、どうして、喜ばずにいられようか。
「私は、王命によって娶らざるを得なかった飾りの妻です。ですから、そう私が願う事を、ジークムント様はお望みではないでしょう。けれど、名ばかりであっても妻なのだから、私の立場で出来る全てを、したい、と心を決めていました」
私が、裏で何か動いている事に、気づいていた。
イルザとの思い出話を、しなくなった事も。
レニ自身、私からイルザの話を聞く時に、心に引っ掛かった事があるのだそうだ。
「ジークムント様が傷つく位なら、真実など明かされなければいい、と思っていましたが…」
「それは違う。私は、己の恋情に盲目的に支配され、私を案じる人々の言葉を聞かなかった愚か者だ。けれど、前に進む勇気を得られた。例え遅きに失したとしても、真実を知る事が出来て良かったと思うよ」
白々と明けていく空を見ながら、ソファでレニと肩を寄せ合って語り合う時間は、居心地がいい。
私達は、これまで互いに遠慮して口に出せなかった話に、夢中になった。
ふわ、と、小さく欠伸したレニの頭が、こくり、と船を漕ぐ。
「こんな時間まで、悪かった。まだ、体調が万全ではないのだから、今日はゆっくり休んでいてくれ」
と声を掛けると、瞼の落ちかかったレニが、力の抜けた笑みを見せた。
「ジークムント様…」
「うん?」
「すき…」
そのまま、すぅ、と眠りに落ちたレニの顔が、まともに見られない。
私は今、みっともなく、赤面している事だろう。
けれど…こんな幸せを、嘗て経験した事はなかったのだから、仕方がない。
「…私もだよ」
レニには、聞こえていないだろう。
抱き上げた彼女の体をベッドに横たえ、耳元で囁く。
あぁ、私は今、幸福だ。
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