婚約者を喪った私が、二度目の恋に落ちるまで。

緋田鞠

文字の大きさ
23 / 26

<22>

しおりを挟む
***

「嘘、だった…」
 私を、愛している、と言った言葉も。
 私は、そのままでいいのだ、と言った言葉も。
 兄を亡くして動揺する私に、目に涙を一杯溜めて、二人で乗り越えましょう、と言った言葉も。
 全て、嘘だった。
 レニに、イルザとの思い出を語るうちに。
 ラファエルに、私に見えていなかったイルザの姿を聞くうちに。
 うっすらと、疑惑に感じていた事が、決定的に白日の下に曝け出された。
 頭では、冷静に受け止めている。
 やはり、そうだったのか、と思っている。
 エリマル・ロットマンの言葉を疑う事は、なかった。
 降り積もった小さな違和感が全て、解消されてしまった。
 それどころか、ロットマンは、大きな秘密を打ち明けた。
 兄を、イルザの希望で亡き者にしたのだ、と。
 私はこれまで、兄が亡くなったのが、イルザの思惑によるものだとは、考えた事もなかった。
 あれは、不幸な事故だったのだと、ずっと信じていたから。
 なのに…彼女は、公爵夫人なりたさに、兄の命を望んだのだと言う。
 あり得ない、とは、もう言えなかった。
「でも、全てが嘘ではありません」
 じっと私の話を聞いていたレニは、そう言った。
「ジークムント様の想いは、本物だったのですから」
 本物。
 あぁ、そうだ。
 私は、イルザを愛していた。
 本当に、愛していたんだ。
 けれど、愛と言う言葉に目を眩ませて、本当の彼女は見えていなかった。
 だからこそ、私は、愛する兄を喪った。
 私が、彼女の思惑に気づいていなかったせいで。
「ジークムント様に見えていたイルザ様は、彼女の仮面だったのかもしれません。けれど、誰かを愛したジークムント様は、間違ってなんかいません。お兄様の事は、大変な不幸でした。でも、悪いのは手を下した犯人であって、ジークムント様ではありません」
 懸命に言い募るレニの姿に、兄を殺したのは私だ、と荒れ狂い、騒めいていた気持ちが、次第に落ち着いてくる。
 冷静に振る舞っているようで、レニは、何とか私を慰めようと、言葉と心を尽くしてくれているのが判ったからだ。
「…レニ。続きを話してもいいかな」
「続き、ですか?」

***

 エリマル・ロットマンは。
 彼は、私に、イルザは自分のものだと伝える為だけに、従兄上に思わせぶりな言伝をしたらしい。
「…私の兄を殺害した件について、自白はしたのか?」
「いいえ?尋ねられませんでしたから」
 ロットマンは、私がイルザについて何も言わない事に、戸惑っているようだった。
「そうか…」
 背後に黙って控えている牢番を見て、
「では、この一件も適切な処理を」
と依頼する。
「面会は以上だ。後は、沙汰を待つように」
「…っ!待て!貴方は、イルザが僕のものと知っても、何も言わないのか!」
「イルザは、誰のものでもない」
「…!」
「エリマル・ロットマン。確かに、私が見ていたのはイルザの上辺に過ぎなかったのだろう。彼女の本質を知ってなお、愛したか、と問われると、即答出来ない。そして…少なくとも、今の私は、彼女を選ばない」
「な…っ!」
「あれから、九年だ。私には、大切な人がいる。イルザに永遠の愛を捧げられなかったと悔いていたが…お前の言葉で、それで良かったのだと思えた。もう、これからは、永遠の愛、なんて大仰おおぎょうな事を言うのは止める。日々を積み重ねていければ、それでいい。今日、愛おしいと思った気持ちが、明日も続くように願う。それだけだ」
「イルザを裏切るのか…?!」
「面白い事を言うね。彼女は、最初から私を裏切っていたのだろう?」
「っ」
「そして、お前もまた、裏切られたわけだ。だが、例え、どんな理由があろうとも、殺人を正当化する理由など、一つもない」
 背を向けた私を、背後から、ロットマンの支離滅裂な叫び声が追って来る。
 彼は、何と言えば満足したのだろう。
 イルザは私のものだ!と対抗すれば、良かったのだろうか。
 だが、私にはもう、イルザへの情が、欠片も残っていそうになかった。
 彼女への盲目な想いは擦り切れて、ボロボロになっている。
 永遠の愛。
 肉体を失くしたとしても、永劫に続く想い。
 私のイルザへの想いは、そう言うものだと思っていた。
 けれど、違った。
 自分自身の事ですら、完全に理解する事が出来ないのに、他人の全てを知っていると思う傲慢さを知った。
 愛とは、何と一方的なものだったのか。

***

「レニ。…ごめんね。貴方が望む永遠の愛を、私は持っていなかった。嘘を、吐いてしまった」
 私の謝罪を聞いたレニは、虚を衝かれたような顔をした。
「嘘…」
 口の中で小さく繰り返して、私が、「全て嘘だった」と言った真意に気づいたらしい。
「まさか…私が、母の為に、永遠の愛を信じさせて欲しい、と言ったから…だから、ジークムント様は、イルザ様を想い続けていらした、のですか…?」
 どんな顔をすればいいのか判らず、結果として、不格好な笑みになると、レニは、眉を下げて泣きそうな顔をした。
「…イルザの思い出話をするうちに、違和感が段々大きくなってきたんだ。本当にイルザは、私を愛してくれていたのだろうか?いや、愛してくれるから愛する、と言うのは、傲慢ではないだろうか?彼女の何処を、私は愛していたのだろう?全て、と昔は答えていたのに、今は、その言葉を嘘と感じる…これは、愛なんだろうか?」
 私の独白を、レニは唇を噛んで聞いている。
「でも、レニは、私がイルザを愛しているからこそ、私の事を信頼してくれている。イルザへの愛に疑問を持っている、なんて…とても言えなかった」
「ごめんなさい」
「貴方が謝る事じゃない」
「私の余計な言葉が、ジークムント様に負担となっていたのでしたら、謝罪すべきです」
「…違うんだ、レニ」
「違う…?」
 言葉を切って、レニの顔を正面から見据えた。
「私は…イルザ以上に大切なものを見つけてしまった。けれど、それは…余りにも一方的な私の想いで…いや、見返りが欲しいわけじゃない。想いを返して欲しいわけじゃない。でも、私は、愛し方を間違えていた。正しく愛せないのに、どうすれば、幸せに出来るのか、自信がない。この想いが負担になるのでは、と思うと、素直に自分の気持ちとして受け入れていいのだと、胸を張れない」
 しどろもどろな私の言葉を、聞き逃さぬようにじっと耳を傾けるレニの姿に、抑え難い愛おしさが込み上げる。
 それは、過去、イルザに感じていた焦燥にも似た恋情とは違っていた。
 ただただ、温かな、心の奥底から湧き出す愛おしさ。
 あぁ。
 他の誰が、此処まで真摯に私に向き合ってくれただろう。
「レニ」
「はい」
「私は…貴方を、愛している」
 レニが、大きく目を見張ったまま、固まった。
「…ごめんね。夫婦にはなれない、と言ったのに、だからこそ、安心してくれていたのに…貴方を、愛してしまった」
 家族として、慈しもうと思っていた。
 大切に、したいと思っていた。
 レニの嫌がる事は、決してしない。
 ただ穏やかに、暮らして欲しい。
 見返りを望んだりなんか、しない。
 幸せに、なって欲しい。
 そう、願っていたのに…レニを知れば知るだけ、想いが募る。
 その細い指先に触れたい。
 薄い肩を抱き寄せたい。
 滑らかな頬に口づけたい。
 柔らかな髪を指に絡めて、そして…。
 ぐっと、手を握り締める。
 名ばかりの夫である私には、レニに触れる資格など、ない。
 レニは、私が彼女に決して触れないと信じているからこそ、安心してこの家で暮らしているのに。
「この、家で、暮らすのが、嫌ならば…ラーデンブルク公爵が、レニを引き受けると名乗り出てくださっている。公爵に後見をお願いしてもいいし、ご子息のローレンス殿と養子縁組をして、ラーデンブルク公爵家に入ってもいい」
 私と夫婦である事に耐えられないようなら、婚姻の解消も考えていた。
 王命での結婚だろうと、養子を迎えなくてはいけなかろうと、関係ない。
 レニに、負担を掛けたくない。
 レニの顔から目を逸らして、少し早口でそう言った途端。
「な…んで…ですか」
 震える声で、レニが、私の言葉を押し留めた。
「何で、勝手に決めるんですか。どうして、私の気持ちを聞いてくださらないのですか」
「レニ、」
「ジークムント様は、私が何を考えていても、関係ないとおっしゃるんですか」
「違、」
「どうして、『一緒に幸せになろう』と言ってくださらないんですか!」
 悲鳴のような、叫び。
「心が、温かくなる事、癒される事が、『好き』と言う事ではないのですか…?私の、この想いは…っ私は、私は、ジークムント様のお役に立ちたくて、だから、頑張ったのに…!家族だって、分かち合おうって…だから…!」
 レニの目から、涙が零れ落ちたのを見て、反射的に彼女を抱き寄せた。
 『好き』。
 初めて、レニが好きだと言ってくれたもの。
 それが、私…?
「…ごめん…」
「謝罪を頂きたいのではありません!」
「うん…ごめんね…」
「ジークムント様!」
「愛してるよ、レニ」
 込み上げる想いに突き動かされるように、知らず、私の頬にも、涙が零れ落ちていた。
 イルザを喪った時に、涙は枯れ果てた。
 成人男性が泣く機会なんて、愛する人を喪った時以外にないからだ、と思っていたけれど、違ったらしい。
 大きく心を動かされた時にも、涙は流れるものだった。
 互いに泣きながら、固く固く抱き締め合う。
 僅かな隙間すら、許せない、と言うように。
 レニは、涙の浮かんだ瞳で私を見上げて、胸元に頬を擦り寄せると、
「…これからも、お側にいて、いいですか…?私は…ジークムント様の、妻ですか…?」
と、小さく尋ねた。
「これまでも、これからも、レニは私の妻だ。…私は、永遠の愛を誓う事は、しない。出来ない。けれど…毎日、貴方を幸せにする努力を続けていきたい」
「私も…互いの想いが共にある限り、ジークムント様をお支え致します」
 立会人も参列者もいない、二人だけの結婚式。
 約束、とも、誓い、とも、言わない。
 けれど、これは確かに、二人だけの儀式だった。
「レニ」
 名を呼ぶと、顔を上げる。
 腫れた瞼。
 赤い瞳。
 決して、絵のように美しいとは言えない泣き顔が、誰よりも愛おしい。
「一緒に、幸せになろう」
 初めての口づけは、涙の味がした。

 こんな情けない男を、何故、レニが選んでくれたのか、判らない。
 そう言うとレニは、
「ジークムント様は、私の世界に色をくださいました」
と、微笑んだ。
 母と二人きりの世界から、母が喪われて十年以上。
 その間、レニは、ただ生きていただけだった。
 自死は神に許されていないから死ねなかった、と言うわけではない。
 何故なら、レニは、神と言う存在を知らなかったからだ。
 自死、と言う言葉すら知らなかったから漫然と呼吸をしていただけで、心臓は動いているけれど、本当に「生きて」いたのか、と問われると、甚だ疑問だ、と、自嘲するように笑う。
 彼女の日々は、積み重ねた年月の長さと比較にならない薄っぺらさなのだ、と。
「けれど、きっかけは何であれ、ジークムント様と出会った事で、私の世界は変わりました。新たな知識を得る喜び、お役に立てる喜び、人と会話する喜び…その全てを、ジークムント様が与えてくださったのです」
 レニの世界の中で、日一日と、私の存在が大きくなっていったと言う。
 決定打となったのは、母からの手紙を読んで激しく狼狽したレニに、「家族なのだから、分かち合おう」と言った事だった。
 それまでのレニにとって、「家族」とは、辞書的な意味しか持たないものだった。
『お願いだ。私の傍に、いて欲しい』
 私の切望に、レニは、生まれて初めて、「此処にいていいんだ」と思えたと言った。
「ジークムント様と、お話がしたい。ジークムント様の、お役に立ちたい。ジークムント様に、笑って欲しい。ジークムント様を、幸せにしたい…」
 当初は、感謝の気持ちだと思っていたそれは、次第に、レニ自身の希望へと繋がっていく。
 私と共に過ごす時間こそ、レニの最も欲しいものだと言われて、どうして、喜ばずにいられようか。
「私は、王命によって娶らざるを得なかった飾りの妻です。ですから、そう私が願う事を、ジークムント様はお望みではないでしょう。けれど、名ばかりであっても妻なのだから、私の立場で出来る全てを、したい、と心を決めていました」
 私が、裏で何か動いている事に、気づいていた。
 イルザとの思い出話を、しなくなった事も。
 レニ自身、私からイルザの話を聞く時に、心に引っ掛かった事があるのだそうだ。
「ジークムント様が傷つく位なら、真実など明かされなければいい、と思っていましたが…」
「それは違う。私は、己の恋情に盲目的に支配され、私を案じる人々の言葉を聞かなかった愚か者だ。けれど、前に進む勇気を得られた。例え遅きに失したとしても、真実を知る事が出来て良かったと思うよ」
 白々と明けていく空を見ながら、ソファでレニと肩を寄せ合って語り合う時間は、居心地がいい。
 私達は、これまで互いに遠慮して口に出せなかった話に、夢中になった。
 ふわ、と、小さく欠伸したレニの頭が、こくり、と船を漕ぐ。
「こんな時間まで、悪かった。まだ、体調が万全ではないのだから、今日はゆっくり休んでいてくれ」
と声を掛けると、瞼の落ちかかったレニが、力の抜けた笑みを見せた。
「ジークムント様…」
「うん?」
「すき…」
 そのまま、すぅ、と眠りに落ちたレニの顔が、まともに見られない。
 私は今、みっともなく、赤面している事だろう。
 けれど…こんな幸せを、嘗て経験した事はなかったのだから、仕方がない。
「…私もだよ」
 レニには、聞こえていないだろう。
 抱き上げた彼女の体をベッドに横たえ、耳元で囁く。
 あぁ、私は今、幸福だ。
しおりを挟む
感想 25

あなたにおすすめの小説

初恋にケリをつけたい

志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」  そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。 「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」  初恋とケリをつけたい男女の話。 ☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

噂(うわさ)―誰よりも近くにいるのは私だと思ってたのに―

日室千種・ちぐ
恋愛
身に覚えのない噂で、知らぬ間に婚約者を失いそうになった男が挽回するお話。男主人公です。

愛しておりますわ、“婚約者”様[完]

ラララキヲ
恋愛
「リゼオン様、愛しておりますわ」 それはマリーナの口癖だった。  伯爵令嬢マリーナは婚約者である侯爵令息のリゼオンにいつも愛の言葉を伝える。  しかしリゼオンは伯爵家へと婿入りする事に最初から不満だった。だからマリーナなんかを愛していない。  リゼオンは学園で出会ったカレナ男爵令嬢と恋仲になり、自分に心酔しているマリーナを婚約破棄で脅してカレナを第2夫人として認めさせようと考えつく。  しかしその企みは婚約破棄をあっさりと受け入れたマリーナによって失敗に終わった。  焦ったリゼオンはマリーナに「俺を愛していると言っていただろう!?」と詰め寄るが…… ◇テンプレ婚約破棄モノ。 ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇なろうにも上げてます。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

某国王家の結婚事情

小夏 礼
恋愛
ある国の王家三代の結婚にまつわるお話。 侯爵令嬢のエヴァリーナは幼い頃に王太子の婚約者に決まった。 王太子との仲は悪くなく、何も問題ないと思っていた。 しかし、ある日王太子から信じられない言葉を聞くことになる……。

沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ
恋愛
公爵家の令嬢シャルロッテは、政略結婚で財閥御曹司カリウスと結ばれた。 最初は形式だけの結婚だったが、優しく包み込むような夫の愛情に、彼女の心は次第に解けていく。 しかし、蜜月のあと訪れたのは小さな誤解の連鎖だった。 カリウスの秘書との噂、消えた指輪、隠された手紙――そして「君を幸せにできない」という冷たい言葉。 離婚届の上に、涙が落ちる。 それでもシャルロッテは信じたい。 あの日、薔薇の庭で誓った“永遠”を。 すれ違いと沈黙の夜を越えて、二人の愛はもう一度咲くのだろうか。

王妃候補は、留守番中

里中一叶
恋愛
貧乏伯爵の娘セリーナは、ひょんなことから王太子の花嫁候補の身代りに王宮へ行くことに。 花嫁候補バトルに参加せずに期間満了での帰宅目指してがんばるつもりが、王太子に気に入られて困ってます。

処理中です...