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追われる夢を見た。
正確には、逃げている夢だ。
何から逃げていたのかは、判らない。
夢の中で、私は必死に、逃げ続けていた。
走り、隠れ、怯えて背後を振り返りながら、息を切らして逃れようとしていた。
目覚めは唐突で、大きく吸い込んだ息と同時に、目が明いた。
背中に寝汗をびっしょりと掻いて、はぁはぁと息を切らして。
「はぁ…」
汗ばんだ額を、掌で押さえる。
昨夜聞いたラファエルの話が原因なのは、考えずとも判った。
…今の私は、レニと、同じだ。
愛してくれている、と信じていた相手が、心の中では純粋に愛してくれていたわけではなかった。
そう言う、事だ。
そして、私が薄々、それに気が付いていたのも、レニと同じ。
だが、レニは、一人で乗り越えてしまった。
例え、母親に別の思惑があったとしても、自分に見せられた姿を愛していた気持ちは、自分だけのものだ、と胸を張っていたレニ。
私は…胸を張れそうにない。
イルザの言葉の嘘を、一つ一つ見つけ出しては、追い詰められている。
私がイルザに抱いていた想いが、どんどんあやふやになっていく。
違う、悪いのはイルザではなく、彼女に理想を見た私だ。
見たいものだけを見ようとした、私なんだ。
レニに、会いたい。
彼女の顔が、見たい。
けれど、きっと最悪の顔色をした私は、彼女を心配させてしまうだろう。
…いや、朝食で顔を合わせなければ、もっと彼女を心配させる。
それは嫌だ。だが…。
どうすべきか躊躇しながら、侍従を呼ぶ為のベルを手に取った。
結局、私は、レニの顔を見ると言う誘惑に勝てなかった。
アネットの許可が漸く下りて、レニは食事の間まで、移動する事が出来るようになっている。
顔色も、倒れた時と比べれば雲泥の差だ。
「おはようございます、ジークムント様」
「おはよう」
朝の挨拶を交わした後、レニは私の顔をじっと見て、眉を下げた。
「余り、お休みになれませんでしたか?」
「…少し、夢見が悪くて…」
「ご体調は?」
「お腹は空いてるから、そこまで悪くないと思う」
レニは、何か言いたげに口を開いたが、一日の始まりには相応しくないと考えたのだろう。
「ジークムント様が、お話なさりたい時に、お聞かせください。…私は、いつでもお待ちしておりますから」
そう言うに留めた。
「うん…有難う」
そうだ。
いつまでも、足踏みをしているわけにはいかない。
私は、前を向いて、歩き出さなければならないのだ。
執務を午前で切り上げて、馬車で一時間半程要する王都の北端にある牢獄塔へと向かった。
自宅軟禁では済まない犯罪を犯した貴族と、身分を問わず、殺人などの重罪を犯した極悪犯が収監されている場所だ。
レニの祖父…エアハルト伯爵とその家族も、処刑までの間、収監されていたと聞く。
それを思うと、胸の重さが一層、増したように感じられた。
従兄上には、先日の面会の後、牢番へと渡す書状を頂いている。
決心が鈍らないうちに、会っておきたかった。
イルザを殺害した犯人、エリマル・ロットマンに。
「卿、どうぞ、こちらへ。足元にお気をつけください」
牢番は、牢獄塔の中で面会者の名を呼ぶ事はない。
また、身分が漏れないよう、爵位で呼ぶ事もない。
牢獄塔に収監されているのは、重犯罪者。
彼等が世間に戻る事はまずないが、誰が誰に面会に来たのか、と言う情報に、足を掬われる事もある。
「こちらが、お探しの男です」
エリマル・ロットマンは、塔の最上部にある死刑囚が収監される牢にいた。
金属の格子からは、内部が全て覗けてしまい、何も秘す事は出来ない。
監視が常についているわけではないが、見回りが来る度に、全てを曝け出すのは、大きな精神的負担だろう。
彼は…本来ならば、既に死刑となっていた人物だ。
従兄上から聞いた話では、ロットマン本人も、死刑を受け入れていると聞く。
であるにも関わらず、私の心の弱さで、悪戯に執行までの日々を伸ばさせてしまった。
その時間、彼が、犯した罪と向き合ってくれていた事を、望んでしまう。
「エリマル・ロットマン、面会だ」
その男は、暗い牢獄の中、こちらに背を向けて床に座り込み、石壁をじっと見つめていた。
九年分、伸ばされた髪は、手入れがされるわけでもなく、ボサボサと背の中程まで覆っている。
音が聞こえにくいのか、何かに集中していたのか、名を呼ばれても反応せず、牢番が三度呼んだ所で、鈍い動きで頭を巡らせ、初めて、私の存在に気が付いた。
「……あぁ」
間延びしたような声と、少し垂れた瞳に、十年前の記憶が蘇る。
薄暗い塔内では、色をはっきりと判別出来ないが、恐らく、髪は白っぽく色の抜けた茶色。
瞳は青と緑が混ざったような複雑な色だった。
覚えている。
伸び放題の髭に顔が覆い隠され、体形が著しく変わっているが、確かに、彼は、討論会の席にいた――。
「レニ…」
帰宅したのは、深夜。
レニの出迎えはない。
牢獄塔に行く事を決めた時、私を気にせず先に休むように言伝を送ったのだから、当然の事だ。
軽い食事を取り、湯浴みをし、普段飲まない寝酒を飲んだ。
けれど、心のざわつきが収まらず、とうに寝ていると判っているのに、レニの私室まで足を運んでしまった。
扉の隙間から灯りが漏れてはいないかと、僅かばかりの希望を持っていたけれど、部屋は静謐に満ちている。
扉をノックしようとして、余りにも常識外れな行動に躊躇した。
例え、愛し合う夫婦であったとしても、許される行為ではないだろう。
ましてや、名ばかりの夫である私では。
明日。
明日の朝、彼女の顔を見れば、一人で抱え込めない感情も、制御出来るだろうか。
暗い廊下で、首を一つ横に振って踵を返した時。
「…ジークムント様…?」
扉の向こうから、細い声が聞こえて思わず駆け寄る。
「レニ」
「やっぱり、ジークムント様ですね?お待ちください、今、開けますから」
寝起きとは思えないレニのしっかりした声に、今朝方、伝えてくれたように、いつでも私が訪れられるよう、起きていてくれたのだと確信する。
「ごめん…こんな、遅い時間に」
扉を開けて招き入れてくれたレニに、小さく謝罪すると、レニは夜着の上から羽織ったカーディガンを押さえて、首を横に振った。
「いいえ。まだ、休んでおりませんでしたから、問題ありません」
「お茶かお酒をお召し上がりになりますか?」と聞かれ、断ると、レニは何も言わずにソファへと誘ってくれる。
拳一つ分を空けて隣り合わせで腰を下ろしたレニは、体をこちらに斜めに向けて、そっと私の右手を取った。
「…レニ?」
「あぁ、やっぱり、冷えてらっしゃいますね」
両手で、温めるように包み込まれると、じわじわと伝わる熱に、混乱した胸のうちが、少しずつ落ち着いてくるのが判った。
…あぁ。
彼女は、あの晩の私の行動を、真似てくれているのか。
それは恐らく、彼女の痛みを少しでも、和らげる事が出来ていたと言う証左なのだろう。
そのまま、ただじっと黙って私の言葉を待つ彼女に、何から切り出そう、と考える間もなく、言葉が転げ落ちた。
「…全てが、嘘だった」
「…嘘?」
「嘘、だったんだ…」
ぽつり、ぽつり、と、切れ切れに言葉を綴る。
閊え、上擦りながらも、懸命に説明する私の言葉を、レニは静かな目で、ただ黙って受け止めてくれた。
そこには、憐憫も、憤怒もない。
凪いだ湖面のように静かな眼差しは、これこそが、「受け止める」と言う事なのだと、私に教えてくれる。
一息吐いた頃には、空は白み始めていた。
「でも、全てが嘘ではありません」
レニは、そう言った。
「え?」
「ジークムント様の想いは、本物だったのですから」
***
全ての始まりは、タナート王国の辺境地を預かるキルヒホッフ男爵家の一人娘であるイルザが、
「私は、こんな所で終わる娘ではないわ」
と思った事からだった。
イルザは、美しい娘だった。
人々に容姿を褒めそやされて成長した彼女は、いつしか、「自分は、王族にこそ相応しい」と思うようになる。
当時、タナート国内で、架空の王国の王族男子が、身分の隔たる令嬢と恋に落ち、幼い頃に定められた婚約者を捨て、真実の愛を選ぶと言う恋愛小説が流行っていたのだと言う。
だが、イルザの手にあるのは、彼女の美貌のみ。
辺境の地では、王都の夜会に招かれる機会もない。
そこでイルザは、ただ白馬の王子様を田舎で待っていても、出会うわけがない、と王都の大学に通う幼馴染――エリマル・ロットマンを頼って、単身、王都へと赴く。
貴族街でそれとなく出会いを演出し、伝手を作っては夜会に潜り込むものの、下級貴族のイルザが王族に見える機会等、ない。
辺境でこそ比肩する令嬢はいなかったけれど、王都であれば、唯一無二と言える程の美貌でもない。
イルザは、現実を知った。
彼女がそれで、大人しく実家に帰る娘ならば、良かったのだろう。
しかし、彼女は、高位の貴族に嫁ぎ、周囲の人々に持て囃される夢を、諦めたわけではなかった。
イルザは、次にロットマンが参加している考古学討論会に目をつける。
この会ならば、大学に籍がなくとも、問題なく潜り込めるし、夜会に参加するには、毎回、ドレスや装飾品を用意しなくてはならなかったので、大変だったのだ。
王都の夜会で、少々目立ってしまったイルザは――辺境の男爵令嬢が、紹介されたわけでもないタナートの高位貴族に、手当たり次第に声を掛けていたのだから、それは悪い意味で目立つだろう――、相手を留学生に絞る。
留学生ならば、タナート国内の噂が余り届かないし、いずれは国に帰るのだから、多少何かがあったとしても、噂が沈静するのも早いだろう、との思惑があった。
男性側だって、留学先の令嬢に手を出したなんて事が国元に知れたら、問題になる。
彼等は口を堅く噤んでくれる筈だ、との、安心感もあった。
婚約出来ずとも、交際中に貢いでくれそうなら、それはそれでいい。
出来るだけ裕福で、金払いのいい、見栄えのする男。
下心を綺麗に隠して、相手の自尊心を擽り、心を開かせ、懐に飛び込んでいく。
イルザの思惑を理解した上で乗る相手だと、少しばかり、面白くない。
こちらが主導権を握らなくては。
そんな中で知り合ったのが、私――ジークムント・アーベルバッハだった。
アーベルバッハと言えば、タナートでも知られた公爵家、金は持っているし、吝嗇家でもない。
自信のなさが透けて見える気弱な私は、遊び相手としてはつまらない事この上ないが、格好の『獲物』だった。
人付き合いの経験値が低い私は、イルザの本心に一切気づく事はなく、彼女のくれる甘い言葉に心を許し、彼女を唯一の理解者と定めて、恋に溺れていく。
結婚の話が出た時、イルザは、これで漸く、自分に相応しい公爵夫人と言う身分が手に入る、と歓喜したと言う。
…公爵夫人。
そう、イルザは、私が公爵家の人間ではあるものの、兄が既に爵位を継いでいる事を、知らなかったのだ。
イルザがそれを知ったのは、ダーレンドルフに着いてからだった。
兄とその婚約者に紹介されて初めて、私が『ただの高位貴族』であり、『次期公爵ではない』事を知ったイルザ。
その上、あっさり彼女を信用した私と違い、イルザを厳しい目で見る兄に、様々な理由をつけて婚約を反対された彼女は、ロットマンに手紙で相談する。
『ジークと結婚したいのに、彼のお兄様が私を認めてくれないの』
裕福な商家の出で、貴族との交流も多いロットマンは、あれこれと、助言したそうだ。
ダーレンドルフの情勢を、学んでみては。
高位貴族のマナーは、男爵家のそれよりも厳格だろう。再確認しては。
兄の婚約者と、親しくなってみては。
確かに、イルザは故郷の友人とよく手紙の遣り取りをしていた。
差出人の名が女性名だったから、気に掛けた事はなかったが、何と言う事はない、ロットマンが偽名を使っていたのだ。
だが、それらの助言を、イルザが聞き入れる事はなかった。
ただ、ひたすらに、『どうすれば、公爵様に認めて頂けるかしら。受け入れられなくて悲しいわ。もしも、私が公爵家の一員となれば、貴方を呼び寄せてロットマン商会を支援出来るのに、今のままでは無理ね…』と繰り返すばかり。
…それで、ロットマンは気が付いたのだと言う。
イルザは暗に、兄ディートリヒを排除して欲しい、と、ロットマンに頼んでいるのだ、と言う事に。
ロットマンは、動いた。
兄の行動を調べ、馬車で視察中の兄を追跡し、休憩している隙を見て、馬車の車輪を留めるねじを一本、緩めた。
目的地に先回りし、街道に目立たぬ程度の穴を開け、馬か車輪が足を取られるよう細工した。
決して確実な方法ではなかった筈なのに、不幸にも、兄は馬車の事故で命を落とした…――。
イルザは、兄の死を知って、ロットマンにこう手紙を送った。
『こんな事故が起きてしまうなんて、驚いたわ。お兄様の事は、とても残念だけれど、私とジークで公爵家を守っていくから、きっとご安心されている事でしょう』
しかし、いつまで経っても、ロットマンを呼び寄せる、と言う話にならない。
ロットマンは、それまでのイルザとの関係から、呼び寄せる=恋人として傍にいられる、と理解していた。
「貴方の将来の仕事の為に、貴族との繋がりを広げておくわ」と言われて、王都でのイルザの生活を世話し、知り合いの貴族に紹介した。
「一時的に交際するのも、全ては貴方との将来の為。心は貴方と共にあるわ」と言われて、イルザが貴族令息の間を渡り歩くのを、我慢して見守った。
「高位貴族であるジークに見初められたから、貴方と結婚出来なくなってしまったわ。でも、公爵夫人なら、夫以外の恋人がいても不思議じゃないもの。だから、これからも傍にいてくれるでしょう?」
形に残らない口約束の言葉を信じていたロットマンは、兄が亡くなり、私がアーベルバッハの爵位を継ぐ事が確定した時点で、イルザにこう切り出された。
「不幸な事故だと思っていたのに、貴方が、ジークのお兄様を殺したんですって?それを知ったら、ジークが貴方に何をするか、怖いわ…。ジークには内緒にしてあげるから、もう二度と、私の前に顔を出してはダメよ。貴方の命が危ないの。私にこれ以上、心配させないでね」
イルザと長い付き合いのロットマンには、判っていた。
彼女にとって、全ての人間は、彼女をより輝かせる為の駒に過ぎないのだと。
何故、自分だけは違うと思い込めたのか。
付き合いの長さか。
彼女の為に費やした労力か。
彼女の醜さを知った上で愛しているからか。
けれど、イルザには、関係なかった。
残るような証拠は、何一つない。
ただ、イルザは言葉で、ロットマンを動かしただけ。
公爵夫人となる事が確定したイルザにとって、ロットマンは、彼女の悪意を知る危険人物となっていた。
「貴方の兄君に婚約者様がいらっしゃらなければ、イルザは貴方から兄君に乗り換えた事でしょうね。けれど、それをするには、障害が多すぎた。だから、手っ取り早く、排除する事にしたんですよ。障害は、排除。イルザの考えをよく知るそれまでの僕なら、彼女に迷惑を掛けない為に、自死を選んだ事でしょう」
ロットマンは、頬のこけた顔で、目だけを爛々と見開いて、そう言った。
「でも、どうして僕が、イルザを諦める必要があるんです?彼女の為に、僕は何でもやってきた。汚い事も、悍ましい事も、彼女が望むから!僕が望むのはイルザ唯一人。なのに、それすら、諦める?何の為に?欲しいものはこの手で掴み取れ、と僕に教えたのはイルザです。だから、掴み取った。それだけの話ですよ」
昏い目をしたロットマンは、うっそりと嗤った。
「僕が殺したのだから、イルザは僕のものです。えぇ、貴方にだって渡しませんよ、ジークムント・アーベルバッハ卿。彼女の偽りの姿に気づかず、上辺しか愛さなかった貴方なんかに、渡す筈もない!彼女は、永劫に、僕のものだ!」
正確には、逃げている夢だ。
何から逃げていたのかは、判らない。
夢の中で、私は必死に、逃げ続けていた。
走り、隠れ、怯えて背後を振り返りながら、息を切らして逃れようとしていた。
目覚めは唐突で、大きく吸い込んだ息と同時に、目が明いた。
背中に寝汗をびっしょりと掻いて、はぁはぁと息を切らして。
「はぁ…」
汗ばんだ額を、掌で押さえる。
昨夜聞いたラファエルの話が原因なのは、考えずとも判った。
…今の私は、レニと、同じだ。
愛してくれている、と信じていた相手が、心の中では純粋に愛してくれていたわけではなかった。
そう言う、事だ。
そして、私が薄々、それに気が付いていたのも、レニと同じ。
だが、レニは、一人で乗り越えてしまった。
例え、母親に別の思惑があったとしても、自分に見せられた姿を愛していた気持ちは、自分だけのものだ、と胸を張っていたレニ。
私は…胸を張れそうにない。
イルザの言葉の嘘を、一つ一つ見つけ出しては、追い詰められている。
私がイルザに抱いていた想いが、どんどんあやふやになっていく。
違う、悪いのはイルザではなく、彼女に理想を見た私だ。
見たいものだけを見ようとした、私なんだ。
レニに、会いたい。
彼女の顔が、見たい。
けれど、きっと最悪の顔色をした私は、彼女を心配させてしまうだろう。
…いや、朝食で顔を合わせなければ、もっと彼女を心配させる。
それは嫌だ。だが…。
どうすべきか躊躇しながら、侍従を呼ぶ為のベルを手に取った。
結局、私は、レニの顔を見ると言う誘惑に勝てなかった。
アネットの許可が漸く下りて、レニは食事の間まで、移動する事が出来るようになっている。
顔色も、倒れた時と比べれば雲泥の差だ。
「おはようございます、ジークムント様」
「おはよう」
朝の挨拶を交わした後、レニは私の顔をじっと見て、眉を下げた。
「余り、お休みになれませんでしたか?」
「…少し、夢見が悪くて…」
「ご体調は?」
「お腹は空いてるから、そこまで悪くないと思う」
レニは、何か言いたげに口を開いたが、一日の始まりには相応しくないと考えたのだろう。
「ジークムント様が、お話なさりたい時に、お聞かせください。…私は、いつでもお待ちしておりますから」
そう言うに留めた。
「うん…有難う」
そうだ。
いつまでも、足踏みをしているわけにはいかない。
私は、前を向いて、歩き出さなければならないのだ。
執務を午前で切り上げて、馬車で一時間半程要する王都の北端にある牢獄塔へと向かった。
自宅軟禁では済まない犯罪を犯した貴族と、身分を問わず、殺人などの重罪を犯した極悪犯が収監されている場所だ。
レニの祖父…エアハルト伯爵とその家族も、処刑までの間、収監されていたと聞く。
それを思うと、胸の重さが一層、増したように感じられた。
従兄上には、先日の面会の後、牢番へと渡す書状を頂いている。
決心が鈍らないうちに、会っておきたかった。
イルザを殺害した犯人、エリマル・ロットマンに。
「卿、どうぞ、こちらへ。足元にお気をつけください」
牢番は、牢獄塔の中で面会者の名を呼ぶ事はない。
また、身分が漏れないよう、爵位で呼ぶ事もない。
牢獄塔に収監されているのは、重犯罪者。
彼等が世間に戻る事はまずないが、誰が誰に面会に来たのか、と言う情報に、足を掬われる事もある。
「こちらが、お探しの男です」
エリマル・ロットマンは、塔の最上部にある死刑囚が収監される牢にいた。
金属の格子からは、内部が全て覗けてしまい、何も秘す事は出来ない。
監視が常についているわけではないが、見回りが来る度に、全てを曝け出すのは、大きな精神的負担だろう。
彼は…本来ならば、既に死刑となっていた人物だ。
従兄上から聞いた話では、ロットマン本人も、死刑を受け入れていると聞く。
であるにも関わらず、私の心の弱さで、悪戯に執行までの日々を伸ばさせてしまった。
その時間、彼が、犯した罪と向き合ってくれていた事を、望んでしまう。
「エリマル・ロットマン、面会だ」
その男は、暗い牢獄の中、こちらに背を向けて床に座り込み、石壁をじっと見つめていた。
九年分、伸ばされた髪は、手入れがされるわけでもなく、ボサボサと背の中程まで覆っている。
音が聞こえにくいのか、何かに集中していたのか、名を呼ばれても反応せず、牢番が三度呼んだ所で、鈍い動きで頭を巡らせ、初めて、私の存在に気が付いた。
「……あぁ」
間延びしたような声と、少し垂れた瞳に、十年前の記憶が蘇る。
薄暗い塔内では、色をはっきりと判別出来ないが、恐らく、髪は白っぽく色の抜けた茶色。
瞳は青と緑が混ざったような複雑な色だった。
覚えている。
伸び放題の髭に顔が覆い隠され、体形が著しく変わっているが、確かに、彼は、討論会の席にいた――。
「レニ…」
帰宅したのは、深夜。
レニの出迎えはない。
牢獄塔に行く事を決めた時、私を気にせず先に休むように言伝を送ったのだから、当然の事だ。
軽い食事を取り、湯浴みをし、普段飲まない寝酒を飲んだ。
けれど、心のざわつきが収まらず、とうに寝ていると判っているのに、レニの私室まで足を運んでしまった。
扉の隙間から灯りが漏れてはいないかと、僅かばかりの希望を持っていたけれど、部屋は静謐に満ちている。
扉をノックしようとして、余りにも常識外れな行動に躊躇した。
例え、愛し合う夫婦であったとしても、許される行為ではないだろう。
ましてや、名ばかりの夫である私では。
明日。
明日の朝、彼女の顔を見れば、一人で抱え込めない感情も、制御出来るだろうか。
暗い廊下で、首を一つ横に振って踵を返した時。
「…ジークムント様…?」
扉の向こうから、細い声が聞こえて思わず駆け寄る。
「レニ」
「やっぱり、ジークムント様ですね?お待ちください、今、開けますから」
寝起きとは思えないレニのしっかりした声に、今朝方、伝えてくれたように、いつでも私が訪れられるよう、起きていてくれたのだと確信する。
「ごめん…こんな、遅い時間に」
扉を開けて招き入れてくれたレニに、小さく謝罪すると、レニは夜着の上から羽織ったカーディガンを押さえて、首を横に振った。
「いいえ。まだ、休んでおりませんでしたから、問題ありません」
「お茶かお酒をお召し上がりになりますか?」と聞かれ、断ると、レニは何も言わずにソファへと誘ってくれる。
拳一つ分を空けて隣り合わせで腰を下ろしたレニは、体をこちらに斜めに向けて、そっと私の右手を取った。
「…レニ?」
「あぁ、やっぱり、冷えてらっしゃいますね」
両手で、温めるように包み込まれると、じわじわと伝わる熱に、混乱した胸のうちが、少しずつ落ち着いてくるのが判った。
…あぁ。
彼女は、あの晩の私の行動を、真似てくれているのか。
それは恐らく、彼女の痛みを少しでも、和らげる事が出来ていたと言う証左なのだろう。
そのまま、ただじっと黙って私の言葉を待つ彼女に、何から切り出そう、と考える間もなく、言葉が転げ落ちた。
「…全てが、嘘だった」
「…嘘?」
「嘘、だったんだ…」
ぽつり、ぽつり、と、切れ切れに言葉を綴る。
閊え、上擦りながらも、懸命に説明する私の言葉を、レニは静かな目で、ただ黙って受け止めてくれた。
そこには、憐憫も、憤怒もない。
凪いだ湖面のように静かな眼差しは、これこそが、「受け止める」と言う事なのだと、私に教えてくれる。
一息吐いた頃には、空は白み始めていた。
「でも、全てが嘘ではありません」
レニは、そう言った。
「え?」
「ジークムント様の想いは、本物だったのですから」
***
全ての始まりは、タナート王国の辺境地を預かるキルヒホッフ男爵家の一人娘であるイルザが、
「私は、こんな所で終わる娘ではないわ」
と思った事からだった。
イルザは、美しい娘だった。
人々に容姿を褒めそやされて成長した彼女は、いつしか、「自分は、王族にこそ相応しい」と思うようになる。
当時、タナート国内で、架空の王国の王族男子が、身分の隔たる令嬢と恋に落ち、幼い頃に定められた婚約者を捨て、真実の愛を選ぶと言う恋愛小説が流行っていたのだと言う。
だが、イルザの手にあるのは、彼女の美貌のみ。
辺境の地では、王都の夜会に招かれる機会もない。
そこでイルザは、ただ白馬の王子様を田舎で待っていても、出会うわけがない、と王都の大学に通う幼馴染――エリマル・ロットマンを頼って、単身、王都へと赴く。
貴族街でそれとなく出会いを演出し、伝手を作っては夜会に潜り込むものの、下級貴族のイルザが王族に見える機会等、ない。
辺境でこそ比肩する令嬢はいなかったけれど、王都であれば、唯一無二と言える程の美貌でもない。
イルザは、現実を知った。
彼女がそれで、大人しく実家に帰る娘ならば、良かったのだろう。
しかし、彼女は、高位の貴族に嫁ぎ、周囲の人々に持て囃される夢を、諦めたわけではなかった。
イルザは、次にロットマンが参加している考古学討論会に目をつける。
この会ならば、大学に籍がなくとも、問題なく潜り込めるし、夜会に参加するには、毎回、ドレスや装飾品を用意しなくてはならなかったので、大変だったのだ。
王都の夜会で、少々目立ってしまったイルザは――辺境の男爵令嬢が、紹介されたわけでもないタナートの高位貴族に、手当たり次第に声を掛けていたのだから、それは悪い意味で目立つだろう――、相手を留学生に絞る。
留学生ならば、タナート国内の噂が余り届かないし、いずれは国に帰るのだから、多少何かがあったとしても、噂が沈静するのも早いだろう、との思惑があった。
男性側だって、留学先の令嬢に手を出したなんて事が国元に知れたら、問題になる。
彼等は口を堅く噤んでくれる筈だ、との、安心感もあった。
婚約出来ずとも、交際中に貢いでくれそうなら、それはそれでいい。
出来るだけ裕福で、金払いのいい、見栄えのする男。
下心を綺麗に隠して、相手の自尊心を擽り、心を開かせ、懐に飛び込んでいく。
イルザの思惑を理解した上で乗る相手だと、少しばかり、面白くない。
こちらが主導権を握らなくては。
そんな中で知り合ったのが、私――ジークムント・アーベルバッハだった。
アーベルバッハと言えば、タナートでも知られた公爵家、金は持っているし、吝嗇家でもない。
自信のなさが透けて見える気弱な私は、遊び相手としてはつまらない事この上ないが、格好の『獲物』だった。
人付き合いの経験値が低い私は、イルザの本心に一切気づく事はなく、彼女のくれる甘い言葉に心を許し、彼女を唯一の理解者と定めて、恋に溺れていく。
結婚の話が出た時、イルザは、これで漸く、自分に相応しい公爵夫人と言う身分が手に入る、と歓喜したと言う。
…公爵夫人。
そう、イルザは、私が公爵家の人間ではあるものの、兄が既に爵位を継いでいる事を、知らなかったのだ。
イルザがそれを知ったのは、ダーレンドルフに着いてからだった。
兄とその婚約者に紹介されて初めて、私が『ただの高位貴族』であり、『次期公爵ではない』事を知ったイルザ。
その上、あっさり彼女を信用した私と違い、イルザを厳しい目で見る兄に、様々な理由をつけて婚約を反対された彼女は、ロットマンに手紙で相談する。
『ジークと結婚したいのに、彼のお兄様が私を認めてくれないの』
裕福な商家の出で、貴族との交流も多いロットマンは、あれこれと、助言したそうだ。
ダーレンドルフの情勢を、学んでみては。
高位貴族のマナーは、男爵家のそれよりも厳格だろう。再確認しては。
兄の婚約者と、親しくなってみては。
確かに、イルザは故郷の友人とよく手紙の遣り取りをしていた。
差出人の名が女性名だったから、気に掛けた事はなかったが、何と言う事はない、ロットマンが偽名を使っていたのだ。
だが、それらの助言を、イルザが聞き入れる事はなかった。
ただ、ひたすらに、『どうすれば、公爵様に認めて頂けるかしら。受け入れられなくて悲しいわ。もしも、私が公爵家の一員となれば、貴方を呼び寄せてロットマン商会を支援出来るのに、今のままでは無理ね…』と繰り返すばかり。
…それで、ロットマンは気が付いたのだと言う。
イルザは暗に、兄ディートリヒを排除して欲しい、と、ロットマンに頼んでいるのだ、と言う事に。
ロットマンは、動いた。
兄の行動を調べ、馬車で視察中の兄を追跡し、休憩している隙を見て、馬車の車輪を留めるねじを一本、緩めた。
目的地に先回りし、街道に目立たぬ程度の穴を開け、馬か車輪が足を取られるよう細工した。
決して確実な方法ではなかった筈なのに、不幸にも、兄は馬車の事故で命を落とした…――。
イルザは、兄の死を知って、ロットマンにこう手紙を送った。
『こんな事故が起きてしまうなんて、驚いたわ。お兄様の事は、とても残念だけれど、私とジークで公爵家を守っていくから、きっとご安心されている事でしょう』
しかし、いつまで経っても、ロットマンを呼び寄せる、と言う話にならない。
ロットマンは、それまでのイルザとの関係から、呼び寄せる=恋人として傍にいられる、と理解していた。
「貴方の将来の仕事の為に、貴族との繋がりを広げておくわ」と言われて、王都でのイルザの生活を世話し、知り合いの貴族に紹介した。
「一時的に交際するのも、全ては貴方との将来の為。心は貴方と共にあるわ」と言われて、イルザが貴族令息の間を渡り歩くのを、我慢して見守った。
「高位貴族であるジークに見初められたから、貴方と結婚出来なくなってしまったわ。でも、公爵夫人なら、夫以外の恋人がいても不思議じゃないもの。だから、これからも傍にいてくれるでしょう?」
形に残らない口約束の言葉を信じていたロットマンは、兄が亡くなり、私がアーベルバッハの爵位を継ぐ事が確定した時点で、イルザにこう切り出された。
「不幸な事故だと思っていたのに、貴方が、ジークのお兄様を殺したんですって?それを知ったら、ジークが貴方に何をするか、怖いわ…。ジークには内緒にしてあげるから、もう二度と、私の前に顔を出してはダメよ。貴方の命が危ないの。私にこれ以上、心配させないでね」
イルザと長い付き合いのロットマンには、判っていた。
彼女にとって、全ての人間は、彼女をより輝かせる為の駒に過ぎないのだと。
何故、自分だけは違うと思い込めたのか。
付き合いの長さか。
彼女の為に費やした労力か。
彼女の醜さを知った上で愛しているからか。
けれど、イルザには、関係なかった。
残るような証拠は、何一つない。
ただ、イルザは言葉で、ロットマンを動かしただけ。
公爵夫人となる事が確定したイルザにとって、ロットマンは、彼女の悪意を知る危険人物となっていた。
「貴方の兄君に婚約者様がいらっしゃらなければ、イルザは貴方から兄君に乗り換えた事でしょうね。けれど、それをするには、障害が多すぎた。だから、手っ取り早く、排除する事にしたんですよ。障害は、排除。イルザの考えをよく知るそれまでの僕なら、彼女に迷惑を掛けない為に、自死を選んだ事でしょう」
ロットマンは、頬のこけた顔で、目だけを爛々と見開いて、そう言った。
「でも、どうして僕が、イルザを諦める必要があるんです?彼女の為に、僕は何でもやってきた。汚い事も、悍ましい事も、彼女が望むから!僕が望むのはイルザ唯一人。なのに、それすら、諦める?何の為に?欲しいものはこの手で掴み取れ、と僕に教えたのはイルザです。だから、掴み取った。それだけの話ですよ」
昏い目をしたロットマンは、うっそりと嗤った。
「僕が殺したのだから、イルザは僕のものです。えぇ、貴方にだって渡しませんよ、ジークムント・アーベルバッハ卿。彼女の偽りの姿に気づかず、上辺しか愛さなかった貴方なんかに、渡す筈もない!彼女は、永劫に、僕のものだ!」
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