ストップ!おっさん化~伯爵夫人はときめきたい~

緋田鞠

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「ヴィヴィアン!私の月の女神。今宵も貴方に会えるなんて、光栄です」
「まぁ、コンラート卿。こんばんは。貴方もいらしていたのですね」
 コンラートは、整った顔に蕩けそうな笑みを浮かべ、さっとヴィヴィアンにエスコートの為の腕を差し出した。
 ヴィヴィアンは、その腕に軽く手を触れて、彼のエスコートを受ける。
「到着したばかりで、喉が渇いてはいませんか?何かご希望はありますか?」
「大丈夫ですわ、お気遣い有難うございます」
 すっかり見慣れた光景に、周囲の人々は遠巻きに二人の様子を窺っている。
 今年の社交期に、突如現れた黒髪黒衣の美丈夫コンラートは、ブライトン伯爵夫人に骨抜きだ、と言うのが、専らの噂だった。
 コンラートは、様々な夜会に顔を出すが、男性陣と社交するのみで、女性に声を掛ける事はない。
 どれだけ熱い視線を送られても、目を合わせる事もなければ、ダンスに誘う事もない。
 唯一の例外が、ヴィヴィアン・ブライトン伯爵夫人だ。
 ヴィヴィアンと夜会で遭遇すると、上品に微笑んでいた筈の彼は笑み崩れ、甲斐甲斐しく彼女への奉仕を始める。
 だが、ヴィヴィアンの愛人と言うわけでもなさそうだ、と言うのが、社交界での統一見解だった。
 何しろ、ヴィヴィアンはどれだけコンラートが彼女に尽くそうとも、一定以上の距離を許さない。
 笑みこそ浮かべているものの、明らかに儀礼的なもので、一線を越えた男女らしい親しみのあるものではない。
 こうなって来ると、コンラートがヴィヴィアンを落とすのが先か、ヴィヴィアンが貞淑を守りきるのか、と言う点が、人々の注目を集める事になる。
 恋愛結婚を推奨されるリンデンバーグ王国において、ヴィヴィアン・ブライトンが、典型的な政略結婚の下、結婚当初から夫に疎まれている、と言うのは、社交界で広く知られているだ。
 何しろ、ブライトン伯爵は結婚前から今に至るまで、ずっと同じ女性を社交の場に伴っているのだ。
 アイリーン・エニエール男爵令嬢は、本来であれば妻が立つ場所に当然の顔で立ち、あたかも自分が正妻であるかのように振る舞っている。
 一方、書類上の正妻であるヴィヴィアンはこれまで、大舞踏会などのどうしても外せない王宮主催の夜会以外で、社交の場に出て来る事はなく、その珍しい色合いもあって、『社交界の秘花』と呼ばれていた。
 その彼女が、突如として今年は積極的に夜会に参加し、尚且つ、謎の美青年コンラートを翻弄しているように見えるのだから、注目されないわけがない。
 当初、夫に相手にされない寂しい彼女が一夜の火遊びをしているのだと思っていた人々は、十人いれば十人が美形だと頷くコンラートすら袖にするヴィヴィアンに、次第に考えを改めるようになっていた。
 ――…勿論、これらは全て、コンラートとヴィヴィアンの思惑通り、である。
 コンラートは、決して振り向いてはくれない女性に想いを寄せる青年を演じ、ヴィヴィアンは、彼女を粗略に扱う夫ですら裏切らない貴族女性の鑑を演じているのだ。
「コンラート卿!先日伺った件なのだが、」
 人々の目を十分に惹き付けながら、ヴィヴィアンをエスコートしていたコンラートに、声を掛ける男性がいた。
「あぁ、こんばんは、ランドリック侯爵。失礼、今は、」
「あら、よろしいのですよ、コンラート卿。貴方は貴方の社交をなさってくださいませ。その為にいらしたのでしょう?」
「…判りました、ヴィヴィアン。では、後程、ダンスにお誘いしてもよろしいですか?」
「えぇ」
 名残を惜しむコンラートとあっさり別れ、いつものように壁際を目指すヴィヴィアンを、若いご令嬢が幾人も取り囲む。
「よい晩ですね、ブライトン伯爵夫人」
「えぇ、こんばんは、皆様」
 彼女達の中のリーダー格であるご令嬢が、ちら、と、ランドリック侯爵を中心とした男性貴族と話し込んでいるコンラートに視線を遣ると、思い切ったようにヴィヴィアンに話し掛ける。
「ブライトン夫人。あの、コンラート卿は素敵ですわね」
 コンラートは、頑なに家名を名乗らない。
 ヴィヴィアンに対してだけではなく、言葉を交わした全員に対してだ。
 「本来なら、私は大舞踏会でリンデンバーグの社交界に顔見せする事になっているのです。それまではお忍びと言う事で、家名はご容赦を」と、困ったように笑う彼を、それ以上、追及出来る者はいなかった。
 彼の所作や身に付けているものを見れば、彼が高位の貴族である事に疑いはない。
 高位貴族で、貴族家当主夫妻が出席する大舞踏会に出るような人物なら、広く社交界で知られている筈なのに、誰も知らないと言う事は、訳ありと言う事だ。
「えぇ、そうですわね」
 ヴィヴィアンは、何処かそわそわした様子の令嬢達に、にこやかに微笑んで見せる。
「えぇと…ブライトン夫人は、コンラート卿とはどちらでお知り合いに…?」
「皆様と変わりませんわ。夜会で、ダンスに誘って頂いたのです」
 コンラートは、ヴィヴィアン以外の女性をダンスに誘わない。
 だが、ヴィヴィアンは素知らぬ振りで、自分が特別なわけではない、と強調する。
「それで、その、親しいご関係に…?」
「まぁ」
 ヴィヴィアンはころころと、笑い飛ばした。
「一人で夜会に出席し、壁の花となっていたわたくしを、案じてくださっているだけですわ。わたくしの夫に不要な心配を掛けぬよう、紳士的に接してくださいますし…お優しい方ですから、同じ立場の方がいらしたら、同じ事をなさるでしょう」
「で、ですが、『私の月の女神』と」
「お世辞がお上手よね。揶揄ってらっしゃるのよ」
 ヴィヴィアンは、うふふ、と、本気にしていない顔で笑う。
「あの…でしたら、ブライトン夫人は、わたくし達がコンラート卿にお声掛けしても、お気を悪くなさいませんか…?」
「わたくし達、もっとあのお方の事を知りたいのです」
 懸命に言い募る令嬢達に、ヴィヴィアンは優雅に微笑んで見せた。
「わたくしに断る必要はありませんわ。コンラート卿を縛るものは、何もございませんもの。あのお方のお心は、あのお方ただお一人のもの。ですが…年長者として、一つだけ。あのお方は、大舞踏会まではご自身の家名を明かせないご事情がおありとの事。勿論、わたくしも、あのお方の事はお名前以外に存じません。ですから、お声を掛けるのはともかく、その先を望むのは、大舞踏会を終えてからがよろしいかと」
 大舞踏会まで、あと一ヶ月半。
 その位なら問題ない、と、令嬢達は互いの顔を見交わして頷く。
 筋は通した、と言う顔をしている彼女達に、ヴィヴィアンは表情を一変させる。
「マクレーン侯爵令嬢がお召しのドレスは、夕焼けのように素敵な茜色ですのね。カナルから来たと言う新しい染料でしょうか?」
「まぁ!ご存知なのですね。えぇ、父が懇意にしている商会で伝手がございまして」
「オニール伯爵令嬢のネックレスに使用されている藍玉も、何て優美なのでしょう。このように大きなものは、お目に掛かった事がございませんわ」
「うふふ、エダンから来た商人が持っていたのです。一目惚れしてしまったのですわ」
 ヴィヴィアンは、取り巻く令嬢達の装いを一頻り褒め、彼女達をいい気分にさせた後に、僅かに憂いの滲む顔で微笑んだ。
「どうか、美しく装えば『美しい』と、『よく似合っている』と、心からの賛辞を贈る殿方と、添ってくださいませね」
 『わたくしは、どれ程、装おうとも、夫に褒められる事はございませんから』。
 そう、心の声が聞こえた気がして、彼女達はハッとした顔を見せる。
 色素の薄いヴィヴィアンの憂いを帯びた表情は、同性である彼女達をも、どきりとさせた。
 ちら、と一瞬、切な気にコンラートのいる方に視線を送り、ヴィヴィアンは気を取り直したように、晴れやかに笑ってみせる。
 その顔は、「ヴィヴィアンは、コンラートを意識していないわけではない。けれど、将来ある身である彼を思えば、立場上、応えるわけにはいかないのだ」と、彼女達に思わせるに十分なもので。
 トビアスとアイリーンの恋を、政略結婚と言う形でヴィヴィアンが妨害した、と聞いていた彼女達にとって、これまでは、ヴィヴィアンが悪役だった。
 だが、実際には、トビアス達は不義の仲ながら堂々と社交の場に出ており、ヴィヴィアンは正妻と言う名以外の全てを奪い取られている。
 ヴィヴィアンと言葉を交わし、彼女が噂されるような悪女ではないと判れば、残るのは、振り回され、踏みつけられているヴィヴィアンへの同情だ。
 同時に、ヴィヴィアンへの同情は、彼女を苦しめる夫トビアスと、愛人アイリーンへの敵意を増す事になる。
 何しろ、人の恋路を邪魔するお方は、馬に蹴られて大怪我なさいませ、と言うお国柄。
 結果として、恋愛結婚至上主義の国で育った若いご令嬢達は、自身の抱くコンラートへの淡い好意よりも、今、目の前で互いに互いを想いながらも結ばれない男女への同情を、強くした。
 ――…勿論、これらも、コンラートとヴィヴィアンの思惑通り、である。
 ヴィヴィアンがコンラートに応える素振りを見せないからと言って、他の女性が鈴なりになって彼に纏わりつくようでは、コンラートの望みは果たせない。
 飽くまでも、結ばれたわけではないが、二人の間に割り込むのは余りにも無粋だ、と周囲に思わせる必要があるのだ。
 同時に、周囲が勝手に受け取っただけで、そのような事実はない、と言うラインに留める事を忘れてはならない。
「ブライトン夫人…そうですわね、わたくし達、心を添わせる事の出来る殿方との出会いを、探したいと思います」
「えぇ、幸い、父にも『焦る必要はない』と言われておりますし…何だか、目が覚めた気が致します」
「まぁ。わたくしの話が、皆様のご参考になったのでしたら、嬉しいわ」

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