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「年が明けたら、本邸に戻る」
今期の社交界に突如として現れた黒衣の美丈夫の正体は、第二王子だった。
国王の挨拶が終わり、大舞踏会の名の通り、ダンスを待つまでの時間。
衝撃が冷めやらぬ人々のざわめきの中で、不意に投げかけられた言葉に、ヴィヴィアンは咄嗟に反応出来なかった。
「…さようでございますか」
漸く、返した一言は、トビアスのお気に召さなかったらしい。
「何故、もっと喜ばない?」
何故、喜ぶと思ったのか。
「…領地にお戻りの前伯爵様ご夫妻も、お喜びの事でしょう」
両親の尻拭いと言う形での、トビアスの結婚だ。
息子と、『契約相手』であるヴィヴィアンとの不仲を嘆いていた前伯爵夫妻は、諸手を上げて喜ぶ筈だ。
二人の間に子が出来、クレメント家と真の意味で結ばれれば、彼等の生活も、豊かになると信じているのだから。
義理の両親の事を、『前伯爵様ご夫妻』と、敢えて他人行儀に呼んだにも関わらず、トビアスは、ヴィヴィアンとの心の距離に気づかない。
「私も、伯爵家当主としての責を、果たせねばなるまい」
トビアスの顔には、己の不幸に酔っている者特有の陶酔感が滲み出ていた。
確かに、彼は、彼自身の責任ではない事態の収拾を任された。
己の支払い能力以上に散財し、家を傾ける程の借金をしたのは、トビアスの両親だ。
彼には心に決めた相手がいたと言うのに、家を存続させる為に見も知らぬ相手と結婚せざるを得なかった。
だが、スタンリーは、選択肢を提示しただけで、ヴィヴィアンとの結婚を強要したわけではない。
最終的に選んだのは、とうに成人していたトビアス自身。
であるならば、彼は、己の選択の責任を取って、ヴィヴィアンと向き合わねばならなかった。
この五年の間、一切の責任を放棄し、それどころか、ヴィヴィアンに当たり散らすように負担を掛け、彼が嫌う両親と同じように散財しておきながら、今になって『責を果たさねば』とは。
本人にとっては、断腸の思いの決断なのだろうが、余りにも対面する相手の心を考えていない。
いや、そもそも、ヴィヴィアンにも心があるのだ、と言う事実にすら、気づいていないのだろう。
「…お戻りのお日にちが決まりましたら、ご一報くださいませ」
「何だ、宴でも開くつもりか」
「いいえ、それまでに、荷物をまとめて、本邸を出ますので」
「……は?」
本気で、意味を理解出来ていなさそうなトビアスに、ヴィヴィアンは、子供に教えるように優しく噛み砕いて説明する。
「旦那様が本邸にお戻りと言う事は、エニエール男爵令嬢もご一緒なさるのでしょう?外聞もございますし、同じ屋根の下と言うわけには参りません」
「い、いや、彼女とはもう、関係がない」
「…まぁ…納得して頂けたのですか?」
「あれが納得しようがしまいが、問題なかろう。私が、戻ると決めたのだ」
「では、いつ、エニエール男爵令嬢が本邸にいらっしゃるか、判らないと言う事ですのね」
「む、だが、」
「ご存知ないかもしれませんが、三週間程前に、わたくし、エニエール男爵令嬢に、初めてお会いしておりますの。詳細は、ランドリック侯爵様にお尋ね頂ければ判るかと思います。侯爵様の夜会での出来事ですから」
トビアスの顔色が、悪くなった。
アイリーンがヴィヴィアンを襲撃した事を知っていながら、例え、本心ではなかろうと、謝罪どころか、ヴィヴィアンの心配も口にしない男。
「エニエール男爵令嬢とのお付き合いは、十年を越えるのでしたかしら。女性として最も輝く日々を共に過ごされたのですもの、離れがたく思われるのは当然の事です。あの方の仰る通り、わたくしに伯爵夫人の名は相応しくありません。どうぞ、あの方に差し上げてくださいませ」
「…私と、別れられると思っているのか」
「ブライトン伯爵夫人の名を、相応しい方にお渡しするだけです」
「私と別れて、どうする気だ。あの黒衣のお方は、お前の手が届く方ではなかった事が判っただろうに。まさか、本気で想われているなんて、身の程知らずな勘違いをしてはいないだろう?」
ヴィヴィアンは、絶えず浮かべていた微笑を、僅かに深いものにした。
「…まぁ、わたくしの事を、案じてくださいますの?」
「当たり前だ。お前は、私の妻なのだから」
「そのお言葉、結婚式の日に伺いたかったものです」
ひんやりと温度の感じられないヴィヴィアンの言葉に、トビアスは初めて、彼女が本気で怒っている事に思い至ったらしい。
「…私の、妻になれるのだ。嬉しくないのか」
「そも、トビアス・ブライトン様。貴方は、わたくしの名を、ご存知ですか」
ヴィヴィアンとトビアスの周囲の人々が、聞き耳を立てている事に、焦り顔のトビアスは、気づかない。
「な、まえ、」
「えぇ」
「何故、今、此処で名を呼ぶ必要がある?お前が私の妻である事に変わりはなかろう」
「覚えていらっしゃらないのですね」
飽くまで淡々と、ヴィヴィアンは事実を指摘する。
ぐ、と言葉に詰まったトビアスは、楽団の奏でる音楽が変わった事に、安堵の息を零した。
「ほら、踊ってやるから、機嫌を直せ」
強引に組もうとしたトビアスの手が腕に触れ、ヴィヴィアンは、びくりと肩を竦めた。
これまでは、心を無にして、嫌悪感をやり過ごしていたのに、自制心が上手く働かない。
トビアスとは全く違う、こちらに気を配る人の手を、知ってしまったから。
鳥肌の立った腕を抱え込むようにして、ヴィヴィアンは後退った。
「結構です。わたくしは場を外しますので、どうぞ、お一人で」
「おい!」
そのまま、くるりと踵を返し、小走りで人々の隙間を縫って、一路、バルコニーを目指す。
背後から、トビアスが引き留める声がするが、名を呼ばれないのだから、気づかない振りをして構わないだろう。
一年で最も寒い大舞踏会の夜。
敢えて、ダンスが始まる前から、涼みに出る者もない。
通常の夜会と違って、出会いを求める場でもないから、人目を忍ぶ男女が屋外に出る可能性も低い。
するりとバルコニーの扉を抜けたヴィヴィアンは、きん、と冷えた夜気に、瞬く星が美しくて、思わず、深く息を吐いた。
真っ白な吐息が、空へと昇っていく。
「…まだ、契約は終わっていないわ」
そうだ。
アーヴァインから、契約終了を告げられるまで、二人の演技は続く。
最初から、契約期間は大舞踏会まで、と言われているのだから、今夜一晩、周囲のあらゆる好奇の視線に、耐えなければ。
今夜さえ、乗り切れば。
アーヴァインは約束を違えるような男ではないから、トビアスとの離縁を進めてくれるだろう。
彼は、その力がある、と言っていたが、それはその筈。
王族なのだから、山程あるトビアスの不貞の証拠を積み上げれば、簡単な事だ。
何しろ、恋愛結婚至上主義の国。
妻を蔑ろにし、虐げる夫に同調する者はいない。
トビアスは、五年添うた妻の名すら、言えないのだから。
ブライトン伯爵家との縁が切れれば、次は実家だ。
スタンリーは、ヴィヴィアンの次の嫁ぎ先を検討するだろうが、幾ら、スタンリーがやり手の商人であっても、一度、離縁した娘を売りつける先が、即座に見つかるとは思えない。
その間に、リンデンバーグを離れる準備を進めなくては。
ブライトン伯爵家から出て行く時の荷物は、開梱しない方がいい。
いや、サーラの王都まで、陸路で一ヶ月掛かると聞くから、そもそも、大荷物は持っていかない方がいいか。
必要最低限の品だけ。
いざと言う時に一人でも運べるよう、厳選した品を、トランク一つ分位に収めるのがいい。
商会を立ち上げるには元手が必要だから、出来るだけ小さくて高価な宝石を持って行こう。
「ヴィヴィアン」
名を呼ばれると同時に、冷え切った肩が、温かな温もりに包まれた。
同時に香る、いつしか慣れ親しんだ香り。
人肌の温もりが移った上着に、ヴィヴィアンは、自分の体が芯まで凍えていた事に、漸く気づいた。
「折角仕立て直したのに、見せないつもりか?」
低く艶やかな声。
この声を聞くと、ホッと落ち着くのに、心の奥の深い所が、ざわざわと落ち着かない。
「…貴方の香水は、何処の物なのかしら。ずっと考えているのに、判らないのよ」
「別に、珍しい物じゃない。確か、アシュリー・バーナンのものだ」
「あそこに、こんな香りの香水があった…?似てるとは思うけど、イメージが違うのよね」
「香水は、つける人間によって、香りが変わるだろ」
あぁ…と、ヴィヴィアンは頷いた。
「じゃあ、この香りは貴方だけの物なのね」
香水の銘柄を聞いて、どうしたかったのか、ヴィヴィアン自身にも判らない。
けれど、香りは人の記憶と直結していると聞くから、これからも、彼の事を思い出すのでは、と思ったのだ。
思い出したい、と思ったのか、思い出したくない、と思ったのか、どちらだろうか。
「今日の主役の一人が、こんな所で何をしてるの」
「最重要任務についた所だ」
「お姫様は?」
「ナシエルに押し付けて来た」
「アーヴァイン殿下、って呼ぶべき?」
「アーヴァインでもコンラートでも、好きに呼んでくれ。別に偽名じゃない。コンラートは、ミドルネームだ」
「アーヴァイン・コンラート・リンデンバーグ?」
「そう言う事だな」
そこで、漸くヴィヴィアンは、アーヴァインを振り返った。
「折角、作った礼装なのに、私がちゃんと見る前に脱いじゃったわね」
真っ白なドレスシャツに、黒のトラウザーズ。
トラウザーズと共布のカマーベルトは、リンデンバーグで流行している幅広の形だが、上背があるアーヴァインによく似合っている。
「上着なら、そこにある。拘ってた刺繍が近くで見られて、いいじゃないか」
「こんなに暗かったら、手元にあっても見えないわ」
普段通りの、軽口の応酬。
少しでも、そこから外れたら、夢が覚めてしまいそうで、怖い。
「じゃあ、」
アーヴァインが、こくり、と喉を鳴らした。
「明るい所に、行くか?」
それは、全国の貴族当主が集まり、王族がいるこの場で、二人の関係に、名を付けると言う事か。
そうでもしないと、リンジーは諦めないし、ジゼルも疑念を持ち続けるだろう。
だが。
「…言った筈よ、引き返せなくなる、って。貴方に、不名誉な傷がつく」
「何を指して不名誉と言ってるのか推測は出来るが、今更、守るべき名誉もない。…知ってるんだろ、第二王子の噂」
「…」
ヴィヴィアンは口を閉ざし、前に向き直る。
沈黙は、肯定だ。
社交界で披露されるまで、名も、容姿も伏せられる王族の子供達。
だが、第二王子の噂は、王宮に出仕する貴族の間に、まことしやかに流れていた。
ヴィヴィアンの父は、商人。
ただの地方貴族ならばともかく、情報こそ商売道具の彼が知らないわけがない。
アーヴァインは、頑なに口を開かないヴィヴィアンを、背後から緩く抱き締めた。
長い腕が、囲うように閉じ込める。
少しでも身動ぎすれば、容易に解ける温かな檻は、ヴィヴィアンを逃がさない為なのか、彼女を温める為なのか。
「…俺が、第二王子だから、拒むのか?」
「違うわ。私が、クレメント男爵の娘でブライトン伯爵の妻だから、拒むのよ」
「そうか…」
拒む、と言ったのに、ホッとしたような溜息が、ヴィヴィアンの耳元に落とされた。
「上着の隠し」
アーヴァインに短く指示されて、ヴィヴィアンは、肩から掛けられた彼の上着を探る。
カサリ、と、紙が触れる音がした。
「なぁに、これ」
「君を解放するもの。ブライトン伯爵に渡してくれ」
「…判った」
約束を、一つ守ってくれたと言う事だ。
「…ねぇ」
「何だ」
「私、まどろっこしいのは嫌い、って話、したかしら」
「…聞いたな」
「この紙は、契約の終了に伴う報酬、と言う認識でいいの?それとも、」
「ヴィヴィアン」
アーヴァインの腕に、力が入る。
背中に感じるアーヴァインの体温に、ヴィヴィアンの心臓が、一つ大きく音を立てた。
「俺は――」
***
大広間に面するバルコニーの扉が、開いた。
建物内に入ってくる二人の男女を見て、ある者は眉を顰め、ある者は訝し気な顔をし、ある者は悲しそうに眉尻を下げ、ある者は目を輝かせた。
ヴィヴィアンは、借りていた上着をアーヴァインに返すと、王族に対する最上級の礼を執る。
「お見苦しい所を、お見せ致しました」
「いや……すまない」
それきり、何事もなかったかのように別れる二人。
彼等の断片的な会話から、周囲は勝手な想像を巡らせる。
ヴィヴィアンへの恋を貫けない事への謝罪なのでは。
ヴィヴィアンを待たせる事への謝罪なのでは。
二人の恋は、終わったのか。
どちらが、拒んだのか。
それとも、話し合ってお互いに納得尽くの別離なのか。
そもそも、二人の関係は、本当に始まっていたのか。
いや、あれだけ親密だったのだから、そう容易に終わるような想いではないだろう。
ひそひそと交わされる声など、聞こえないように、ヴィヴィアンは微笑みを浮かべ、前を向いて歩く。
その瞳には、何かを決意した強い光が、煌めいていた。
今期の社交界に突如として現れた黒衣の美丈夫の正体は、第二王子だった。
国王の挨拶が終わり、大舞踏会の名の通り、ダンスを待つまでの時間。
衝撃が冷めやらぬ人々のざわめきの中で、不意に投げかけられた言葉に、ヴィヴィアンは咄嗟に反応出来なかった。
「…さようでございますか」
漸く、返した一言は、トビアスのお気に召さなかったらしい。
「何故、もっと喜ばない?」
何故、喜ぶと思ったのか。
「…領地にお戻りの前伯爵様ご夫妻も、お喜びの事でしょう」
両親の尻拭いと言う形での、トビアスの結婚だ。
息子と、『契約相手』であるヴィヴィアンとの不仲を嘆いていた前伯爵夫妻は、諸手を上げて喜ぶ筈だ。
二人の間に子が出来、クレメント家と真の意味で結ばれれば、彼等の生活も、豊かになると信じているのだから。
義理の両親の事を、『前伯爵様ご夫妻』と、敢えて他人行儀に呼んだにも関わらず、トビアスは、ヴィヴィアンとの心の距離に気づかない。
「私も、伯爵家当主としての責を、果たせねばなるまい」
トビアスの顔には、己の不幸に酔っている者特有の陶酔感が滲み出ていた。
確かに、彼は、彼自身の責任ではない事態の収拾を任された。
己の支払い能力以上に散財し、家を傾ける程の借金をしたのは、トビアスの両親だ。
彼には心に決めた相手がいたと言うのに、家を存続させる為に見も知らぬ相手と結婚せざるを得なかった。
だが、スタンリーは、選択肢を提示しただけで、ヴィヴィアンとの結婚を強要したわけではない。
最終的に選んだのは、とうに成人していたトビアス自身。
であるならば、彼は、己の選択の責任を取って、ヴィヴィアンと向き合わねばならなかった。
この五年の間、一切の責任を放棄し、それどころか、ヴィヴィアンに当たり散らすように負担を掛け、彼が嫌う両親と同じように散財しておきながら、今になって『責を果たさねば』とは。
本人にとっては、断腸の思いの決断なのだろうが、余りにも対面する相手の心を考えていない。
いや、そもそも、ヴィヴィアンにも心があるのだ、と言う事実にすら、気づいていないのだろう。
「…お戻りのお日にちが決まりましたら、ご一報くださいませ」
「何だ、宴でも開くつもりか」
「いいえ、それまでに、荷物をまとめて、本邸を出ますので」
「……は?」
本気で、意味を理解出来ていなさそうなトビアスに、ヴィヴィアンは、子供に教えるように優しく噛み砕いて説明する。
「旦那様が本邸にお戻りと言う事は、エニエール男爵令嬢もご一緒なさるのでしょう?外聞もございますし、同じ屋根の下と言うわけには参りません」
「い、いや、彼女とはもう、関係がない」
「…まぁ…納得して頂けたのですか?」
「あれが納得しようがしまいが、問題なかろう。私が、戻ると決めたのだ」
「では、いつ、エニエール男爵令嬢が本邸にいらっしゃるか、判らないと言う事ですのね」
「む、だが、」
「ご存知ないかもしれませんが、三週間程前に、わたくし、エニエール男爵令嬢に、初めてお会いしておりますの。詳細は、ランドリック侯爵様にお尋ね頂ければ判るかと思います。侯爵様の夜会での出来事ですから」
トビアスの顔色が、悪くなった。
アイリーンがヴィヴィアンを襲撃した事を知っていながら、例え、本心ではなかろうと、謝罪どころか、ヴィヴィアンの心配も口にしない男。
「エニエール男爵令嬢とのお付き合いは、十年を越えるのでしたかしら。女性として最も輝く日々を共に過ごされたのですもの、離れがたく思われるのは当然の事です。あの方の仰る通り、わたくしに伯爵夫人の名は相応しくありません。どうぞ、あの方に差し上げてくださいませ」
「…私と、別れられると思っているのか」
「ブライトン伯爵夫人の名を、相応しい方にお渡しするだけです」
「私と別れて、どうする気だ。あの黒衣のお方は、お前の手が届く方ではなかった事が判っただろうに。まさか、本気で想われているなんて、身の程知らずな勘違いをしてはいないだろう?」
ヴィヴィアンは、絶えず浮かべていた微笑を、僅かに深いものにした。
「…まぁ、わたくしの事を、案じてくださいますの?」
「当たり前だ。お前は、私の妻なのだから」
「そのお言葉、結婚式の日に伺いたかったものです」
ひんやりと温度の感じられないヴィヴィアンの言葉に、トビアスは初めて、彼女が本気で怒っている事に思い至ったらしい。
「…私の、妻になれるのだ。嬉しくないのか」
「そも、トビアス・ブライトン様。貴方は、わたくしの名を、ご存知ですか」
ヴィヴィアンとトビアスの周囲の人々が、聞き耳を立てている事に、焦り顔のトビアスは、気づかない。
「な、まえ、」
「えぇ」
「何故、今、此処で名を呼ぶ必要がある?お前が私の妻である事に変わりはなかろう」
「覚えていらっしゃらないのですね」
飽くまで淡々と、ヴィヴィアンは事実を指摘する。
ぐ、と言葉に詰まったトビアスは、楽団の奏でる音楽が変わった事に、安堵の息を零した。
「ほら、踊ってやるから、機嫌を直せ」
強引に組もうとしたトビアスの手が腕に触れ、ヴィヴィアンは、びくりと肩を竦めた。
これまでは、心を無にして、嫌悪感をやり過ごしていたのに、自制心が上手く働かない。
トビアスとは全く違う、こちらに気を配る人の手を、知ってしまったから。
鳥肌の立った腕を抱え込むようにして、ヴィヴィアンは後退った。
「結構です。わたくしは場を外しますので、どうぞ、お一人で」
「おい!」
そのまま、くるりと踵を返し、小走りで人々の隙間を縫って、一路、バルコニーを目指す。
背後から、トビアスが引き留める声がするが、名を呼ばれないのだから、気づかない振りをして構わないだろう。
一年で最も寒い大舞踏会の夜。
敢えて、ダンスが始まる前から、涼みに出る者もない。
通常の夜会と違って、出会いを求める場でもないから、人目を忍ぶ男女が屋外に出る可能性も低い。
するりとバルコニーの扉を抜けたヴィヴィアンは、きん、と冷えた夜気に、瞬く星が美しくて、思わず、深く息を吐いた。
真っ白な吐息が、空へと昇っていく。
「…まだ、契約は終わっていないわ」
そうだ。
アーヴァインから、契約終了を告げられるまで、二人の演技は続く。
最初から、契約期間は大舞踏会まで、と言われているのだから、今夜一晩、周囲のあらゆる好奇の視線に、耐えなければ。
今夜さえ、乗り切れば。
アーヴァインは約束を違えるような男ではないから、トビアスとの離縁を進めてくれるだろう。
彼は、その力がある、と言っていたが、それはその筈。
王族なのだから、山程あるトビアスの不貞の証拠を積み上げれば、簡単な事だ。
何しろ、恋愛結婚至上主義の国。
妻を蔑ろにし、虐げる夫に同調する者はいない。
トビアスは、五年添うた妻の名すら、言えないのだから。
ブライトン伯爵家との縁が切れれば、次は実家だ。
スタンリーは、ヴィヴィアンの次の嫁ぎ先を検討するだろうが、幾ら、スタンリーがやり手の商人であっても、一度、離縁した娘を売りつける先が、即座に見つかるとは思えない。
その間に、リンデンバーグを離れる準備を進めなくては。
ブライトン伯爵家から出て行く時の荷物は、開梱しない方がいい。
いや、サーラの王都まで、陸路で一ヶ月掛かると聞くから、そもそも、大荷物は持っていかない方がいいか。
必要最低限の品だけ。
いざと言う時に一人でも運べるよう、厳選した品を、トランク一つ分位に収めるのがいい。
商会を立ち上げるには元手が必要だから、出来るだけ小さくて高価な宝石を持って行こう。
「ヴィヴィアン」
名を呼ばれると同時に、冷え切った肩が、温かな温もりに包まれた。
同時に香る、いつしか慣れ親しんだ香り。
人肌の温もりが移った上着に、ヴィヴィアンは、自分の体が芯まで凍えていた事に、漸く気づいた。
「折角仕立て直したのに、見せないつもりか?」
低く艶やかな声。
この声を聞くと、ホッと落ち着くのに、心の奥の深い所が、ざわざわと落ち着かない。
「…貴方の香水は、何処の物なのかしら。ずっと考えているのに、判らないのよ」
「別に、珍しい物じゃない。確か、アシュリー・バーナンのものだ」
「あそこに、こんな香りの香水があった…?似てるとは思うけど、イメージが違うのよね」
「香水は、つける人間によって、香りが変わるだろ」
あぁ…と、ヴィヴィアンは頷いた。
「じゃあ、この香りは貴方だけの物なのね」
香水の銘柄を聞いて、どうしたかったのか、ヴィヴィアン自身にも判らない。
けれど、香りは人の記憶と直結していると聞くから、これからも、彼の事を思い出すのでは、と思ったのだ。
思い出したい、と思ったのか、思い出したくない、と思ったのか、どちらだろうか。
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「お姫様は?」
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「アーヴァインでもコンラートでも、好きに呼んでくれ。別に偽名じゃない。コンラートは、ミドルネームだ」
「アーヴァイン・コンラート・リンデンバーグ?」
「そう言う事だな」
そこで、漸くヴィヴィアンは、アーヴァインを振り返った。
「折角、作った礼装なのに、私がちゃんと見る前に脱いじゃったわね」
真っ白なドレスシャツに、黒のトラウザーズ。
トラウザーズと共布のカマーベルトは、リンデンバーグで流行している幅広の形だが、上背があるアーヴァインによく似合っている。
「上着なら、そこにある。拘ってた刺繍が近くで見られて、いいじゃないか」
「こんなに暗かったら、手元にあっても見えないわ」
普段通りの、軽口の応酬。
少しでも、そこから外れたら、夢が覚めてしまいそうで、怖い。
「じゃあ、」
アーヴァインが、こくり、と喉を鳴らした。
「明るい所に、行くか?」
それは、全国の貴族当主が集まり、王族がいるこの場で、二人の関係に、名を付けると言う事か。
そうでもしないと、リンジーは諦めないし、ジゼルも疑念を持ち続けるだろう。
だが。
「…言った筈よ、引き返せなくなる、って。貴方に、不名誉な傷がつく」
「何を指して不名誉と言ってるのか推測は出来るが、今更、守るべき名誉もない。…知ってるんだろ、第二王子の噂」
「…」
ヴィヴィアンは口を閉ざし、前に向き直る。
沈黙は、肯定だ。
社交界で披露されるまで、名も、容姿も伏せられる王族の子供達。
だが、第二王子の噂は、王宮に出仕する貴族の間に、まことしやかに流れていた。
ヴィヴィアンの父は、商人。
ただの地方貴族ならばともかく、情報こそ商売道具の彼が知らないわけがない。
アーヴァインは、頑なに口を開かないヴィヴィアンを、背後から緩く抱き締めた。
長い腕が、囲うように閉じ込める。
少しでも身動ぎすれば、容易に解ける温かな檻は、ヴィヴィアンを逃がさない為なのか、彼女を温める為なのか。
「…俺が、第二王子だから、拒むのか?」
「違うわ。私が、クレメント男爵の娘でブライトン伯爵の妻だから、拒むのよ」
「そうか…」
拒む、と言ったのに、ホッとしたような溜息が、ヴィヴィアンの耳元に落とされた。
「上着の隠し」
アーヴァインに短く指示されて、ヴィヴィアンは、肩から掛けられた彼の上着を探る。
カサリ、と、紙が触れる音がした。
「なぁに、これ」
「君を解放するもの。ブライトン伯爵に渡してくれ」
「…判った」
約束を、一つ守ってくれたと言う事だ。
「…ねぇ」
「何だ」
「私、まどろっこしいのは嫌い、って話、したかしら」
「…聞いたな」
「この紙は、契約の終了に伴う報酬、と言う認識でいいの?それとも、」
「ヴィヴィアン」
アーヴァインの腕に、力が入る。
背中に感じるアーヴァインの体温に、ヴィヴィアンの心臓が、一つ大きく音を立てた。
「俺は――」
***
大広間に面するバルコニーの扉が、開いた。
建物内に入ってくる二人の男女を見て、ある者は眉を顰め、ある者は訝し気な顔をし、ある者は悲しそうに眉尻を下げ、ある者は目を輝かせた。
ヴィヴィアンは、借りていた上着をアーヴァインに返すと、王族に対する最上級の礼を執る。
「お見苦しい所を、お見せ致しました」
「いや……すまない」
それきり、何事もなかったかのように別れる二人。
彼等の断片的な会話から、周囲は勝手な想像を巡らせる。
ヴィヴィアンへの恋を貫けない事への謝罪なのでは。
ヴィヴィアンを待たせる事への謝罪なのでは。
二人の恋は、終わったのか。
どちらが、拒んだのか。
それとも、話し合ってお互いに納得尽くの別離なのか。
そもそも、二人の関係は、本当に始まっていたのか。
いや、あれだけ親密だったのだから、そう容易に終わるような想いではないだろう。
ひそひそと交わされる声など、聞こえないように、ヴィヴィアンは微笑みを浮かべ、前を向いて歩く。
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