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いよいよ、大舞踏会当日。
ジュノからの宿題に対する答えは、実はまだ、出ていない。
コンラートが『特別な存在』かどうか、と言う問いに対する答えならば、出ている。
彼は、特別だ。
だが、どう言う意味で特別なのか、と言う問いには、答えられそうにない。
ヴィヴィアンは、この恋愛結婚至上主義の国で、淡い初恋すらないままに、自分を疎む夫と政略結婚した。
以来、声を掛けて来る男は、ヴィヴィアンの資産を狙う『燕希望者』ばかり。
自分に求められているのは、財布機能だけと思えば、心も乾くし、おっさんにもなろうと言うものだ。
そんな中で、ヴィヴィアンの性格を汲み取り、契約を持ち掛け、協力者となったコンラートは、初めて、ヴィヴィアンと対等の立場で言葉を交わしてくれた男性だった。
伯爵夫人の仮面を外した素の儘のヴィヴィアンを、面白がってくれた人。
ともすると、小賢しいと言われてしまうヴィヴィアンの知識に、感心してくれた人。
女が商売など、と決めつけて蔑まず、可能性を見出してくれた人。
ヴィヴィアンの体と心を、何よりも守ろうとしてくれた人。
そんな人が、特別にならない筈がない。
この想いは、恋なのか。
それを、問われている。
恋、と言う気持ちが、ヴィヴィアンにはよく判らない。
ドキドキして、ときめいて、きゅんっとして。
コンラートといる時に、それらの気持ちが全くなかった、と言えば、嘘になる。
だが、ヴィヴィアンが何よりもコンラートに抱いたのは、安心感だった。
彼が隣にいるだけで、「大丈夫」だと思える。
何が大丈夫なのかは、判らない。
ただただ、安心出来るのだ。
自分の好みなんてない、と言い切ったヴィヴィアンに、
「だが、ヴィヴィアンは、自分の気持ちを口に出せるようになっただろ?」
と、気づかせてくれた。
「他人からすれば、取るに足らない小さな事であっても、自分の気持ちを大事にする経験が、今の俺達には必要なんじゃないだろうか」
と、不足しているものを、これから先、経験していけばいい、と、提案してくれた。
心が欠けた人間である事に、何処か劣等感を持っていたヴィヴィアンを、否定せず、共に成長していこう、と同じ目線で語り掛けてくれた彼の隣は、居心地がいい。
自分を取り繕う必要も、心の内側で何を考えているのか隠す必要も、ない。
あるがままに立ち、あるがままに語る心地良さを知ってしまえば、ヴィヴィアンの気持ちや行動を制限するトビアスやスタンリーの下で、生きていきたいとは思えない。
だが。
コンラートに恋をしている、と認められないのは、彼の言葉が気になっているからだ。
大舞踏会で、リンデンバーグの社交界に披露されるのだ、と話していたコンラート。
はっきりとした年齢を尋ねた事はないが、ヴィヴィアンより年下と言う事はないだろうから、サーラで生活していた為に、成人しても社交界に出る経験がなかったのだろう。
彼は、その場で明かされる事情と素性を知れば、ヴィヴィアンが離れる、と恐れているように見えた。
そう。
コンラートは、確かに恐れていた。
敵対勢力だとか、当主の座だとか、政略の駒として動かされるだけのヴィヴィアンには、随分と重い言葉だ。
だが、コンラートにとっては、それらは身近な言葉なのだろう。
それを思えば、彼の抱える事情も知らないまま、安易に、慕っている、だなんて、浮かれた事を言えなかった。
ジュノも言っていたように、ヴィヴィアンは、己の能力で出来る範囲外に、手を伸ばす勇気がない。
コンラートの事情と言うものが、ヴィヴィアンの手には余るものだった場合、どうしていいのか判らない。
…そして、コンラートの様子を見る限り、恐らく、それは途方もなく大きな事情なのだ。
三週間。
最後に、コンラートと顔を合わせてから、三週間が経った。
途中で、完成した礼装を受け取って来た、と言う手紙は届いたけれど、返信を宛てる先は判らなかった。
互いの繋がりは、夜会だけ。
次に、どの夜会に出席するかを伝えていたから会えただけで、ヴィヴィアンからコンラートへ連絡する手段は、一切ない。
本当に何一つ、ヴィヴィアンは、コンラートの事を知らない。
彼の内面を僅かばかりに覗き見ただけで、二人の関係を表す言葉は、何もない。
トビアスと離縁する方法も判らず、現在もブライトン伯爵夫人と言う肩書のまま。
例え、離縁を申し立てても、クレメント家に連れ戻されるだけの現状で、一歩を踏み出す事は出来ない。
大舞踏会が終わったら。
そうしたら、何かが変わるのだろうか。
コンラートの抱える事情に怯まなければ、これからも、彼と会う機会があるのだろうか。
「どれだけ待たせる気だ」
「…申し訳ございません」
大舞踏会であっても、トビアスとは、現地集合現地解散だ。
全国の貴族当主夫妻が一堂に会する場だけに、車寄せは大渋滞を起こしていた。
長い車列の先で、漸く、ヴィヴィアンが馬車から降りると、国家行事に相応しいとは到底言えない、不機嫌そのものの顔のトビアスが待っていた。
招待状は、夫婦連名で届く。
例え、どれ程、彼が腹を立てた所で、ヴィヴィアンを置いて入場する事は出来ない。
いつものように、くるりと踵を返したトビアスは、さっさと先に行こうとして、何か思い出したように、ヴィヴィアンに肘を差し出した。
「…旦那様?」
これまでの五年間、碌にエスコートなどされた事がない相手の行動に、ヴィヴィアンは思わず、戸惑うような声を上げる。
「どうした。エスコートしてやると言うんだ。さっさとしろ」
ヴィヴィアンを、『正式な妻』として扱う為の第一歩、と言った所か。
ぐ、と反論を飲み込んで、ヴィヴィアンは目を伏せると、トビアスの肘にそっと指先を軽く添える。
触れるか触れないか、と言う微妙な距離は、互いに心が通い合った男女では、決してありえない。
ましてや、夫婦ならば。
夫をこれ以上、激高させず、それでいて、決して触れたいわけではないのだ、との無言のアピールに、トビアスの暴言が聞こえて眉を顰めていた人々が、くすりと小さく笑い声を立てた。
己が笑われたのだとも気づかず、トビアスは、これで妻と離縁させられる事はない、と、安心して会場に入っていったのだった。
王宮の夜会は久し振りだ。
全国から集まっているだけに、ヴィヴィアンがここ暫く出席していた小規模の夜会とは、比べ物にならない。
今日のヴィヴィアンは、コンラートが作り直してくれた天鵞絨のドレスを着ていた。
白に仄かに銀が輝く天鵞絨を、装飾は控えめに、光沢が判りやすいよう、ラインに拘って仕立てている。
胸元は大きく開き、上身頃と手首まで覆う袖は、ぴったりと体に添っている。
スカート部分は、フレアに仕立て、襞山が装飾灯の灯りに銀色に光っていた。
身に着けた装飾品は、ハーフアップにした銀髪に添えた紅玉の髪飾りと、同じく紅玉の首飾りのみ。
いっそシンプルな装いだが、濃色や暖色の多い広間では、銀色の髪と相まって、大変、目立つ。
隣に立つ夫トビアスの、濃紫の礼装と並ぶと、些か、バランスが悪い。
いつもは、トビアスを惹き立てるよう、主張の控えめなドレスを選ぶし、豊かな胸を嫌う彼の為に、屋内でも違和感のないレースやオーガンジーのマントを羽織る事で、体のラインを隠している。
例え、年に数度しか会わなくとも、それらの配慮にトビアスが気づいてくれていたならば、ここまで、関係が拗れる事はなかったのかもしれない。
確かに、不平不満を言われるのが面倒、と言う理由で、ヴィヴィアンが自主的にしてきた配慮だ。
勝手にした事なのだから、気づかずとも仕方ない、と割り切ってもいた。
けれど、気づく気もないどころか、ヴィヴィアンならば、幾らでも踏みつけていいと思っている男相手に心を砕き続ける事に、疲れた。
心は目に見えないけれど、確かにすり減るものなのだ。
ヴィヴィアンは、トビアスと共にいる時に習い性になっている控えめな微笑を浮かべたまま、さり気なく、会場を見渡した。
入場は爵位が下の者から行われるので、現時点で集まっているのは、男爵から伯爵までの地位にある者が多い。
遠くに、ジュノと彼女の夫フレッドの姿が見える。
武術大会で同席したアマンダとエッダ、そして彼女達の夫と話しているようだ。
父であるスタンリー・クレメント男爵と、母リズの姿も見える。
父は、いつものように、この場を利用して商談しているのだろう。
コンラートの姿は、会場にない。
彼は恐らく、高位貴族だろうから、いない事に不思議はない。
この場を利用して、代替わりを報告する家も多い。
新年から代替わりをする貴族は、開会時の挨拶は現当主が参加し、次期当主は開会宣言後に加わるから、途中参加なのかもしれない。
――そこまで考えて、ヴィヴィアンは重大な事実に気が付いた。
大舞踏会に参加するのは、当主夫妻と、代替わりを控えていれば次期当主。
だが、コンラートは、「当主の座は狙っていない」と話していた。
彼は、どのような名目で大舞踏会に参加するのか。
特例で、顔繋ぎの為に王族の側近が参加すると聞いた事があるから、その枠だろうか。
考えがまとまらないまま、最後の招待客である前国王の弟クロッカード公爵が、杖をついた妻と共に所定の位置についた事で、それまで、静かに奏でられていた楽団の音色が、変わる。
王族が入場するのだ。
「リンデンバーグ王国に栄光あれ」
厳かな宣言に合わせ、大広間を埋め尽くした人々が、衣擦れの音と共に、一斉に頭を下げた。
ヴィヴィアンの視界に入るのは、前列に並ぶ人々の衣装の裾と、靴の踵のみ。
「面を上げよ」
どっしりと重い国王の声に、ゆるゆると頭を上げたヴィヴィアンは、貴族達の前に一段高く設えられた壇上に並ぶ王族の姿を見て、目を大きく見開いた。
中央に、エイデン国王陛下。
ヴィヴィアンから見て右手に、イグナス王太子殿下、ジゼル王太子妃殿下、まだ十代と思われる青年。
左手に、ラウル王弟殿下、サーラからの国賓であるリンジー王女殿下。
眩い金髪のリンデンバーグ王族と比べると、リンジーの金茶の髪は、確かに暗く見える。
だが、それよりももっと目を惹くのは、夜空を閉じ込めた黒。
リンジーをエスコートするように傍らに立つ、一際背が高い彼は――…。
「…コンラート…」
小さなヴィヴィアンの呟きは、誰の耳にも届かなかっただろう。
動揺から声を漏らした人物が、余りにも多かった故に。
「今宵は、一年の平和を寿ぐ舞踏会。皆の息災の報せに、安堵しておる。また、二つの喜びを分かち合える事を、心より嬉しく思う。我が息子、第二王子アーヴァインが、見識を深める為に滞在していた妻の母国サーラより、十年振りに帰還した。そして、王太子イグナスの息子ナシエルが、成人を迎えた。二人は共に、本日の大舞踏会を持って、リンデンバーグの社交界に披露となる」
あの日、二人で相談しながら仕立てた礼装を纏ったコンラートが、『アーヴァイン』の名で紹介された事に、ヴィヴィアンは衝撃を受ける。
アーヴァイン。
リンジーが恋い慕う、男の名前。
亡くなった王妃は、サーラの王女だった。
コンラート、いや、アーヴァインは、『母方の親戚』がサーラに呼んでくれた、と話していたが、それはつまり、サーラの王族と共に暮らしていたと言う事だ。
アーヴァインは、王子。
サーラ国内で、王城以外に安心して滞在出来る場所など、ないだろう。
だからこそ、共に暮らしていたリンジーの求婚から逃れる為には、リンデンバーグに戻らざるを得なかったのだ。
そして、ヴィヴィアンと契約したもう一つの理由である『当主の座を狙っていないとの意思表示』。
第二王子である彼が言う当主の座とは、つまり、国王の座…。
ヴィヴィアンの脳裏に、一週間前のお茶会が蘇る。
ジゼルに呼ばれた、リンジーと三人だけのお茶会。
あの不可思議なお茶会は、アーヴァインと親しくしていたヴィヴィアンへの、牽制だったのだ。
サーラ王族であるリンジーがアーヴァインを慕っているのだから、諦めろ、と言う圧力。
姪可愛さもあるだろうが、ジゼルは、息子ナシエルに確実に王の座を継がせる為、アーヴァインを国外に追い出したかったのだろう。
体の弱いイグナスが、国王の重責を担う前に儚くなってしまえば、幾らナシエルが成人していようと、アーヴァインが玉座に座る可能性が高まる。
彼を貶めようとする敵対勢力、とは、第一王子の系譜を王の座に就けたい人々だったのか。
思わず、俯いたヴィヴィアンは、強い視線を感じて、顔を上げた。
壇上のリンジーが、勝ち誇った顔で、こちらを見ている。
彼女の隣に立つアーヴァインは、いつも通りの貴公子の笑みを浮かべていたが、ヴィヴィアンと目が合った瞬間、ほんの僅かに苦しそうな色を滲ませた。
きっと、ヴィヴィアン以外の誰にも判らない。
彼の完璧な笑顔の仮面を、初見で見破ったヴィヴィアン以外には。
『大舞踏会で、俺はリンデンバーグの社交界に、正式に出る事になる。今日、言えなかった俺の事情も、明かされるだろう。もし…もし、君が、全てを知った上で、また俺に会ってくれると言うなら、また、こうして共に、出掛けてはくれないだろうか』
アーヴァインには、判っていたのだ。
成金男爵の娘で、伯爵夫人であるヴィヴィアンが、第二王子と言う秘密を持つ彼の手を、取れる筈もない事が。
ジュノからの宿題に対する答えは、実はまだ、出ていない。
コンラートが『特別な存在』かどうか、と言う問いに対する答えならば、出ている。
彼は、特別だ。
だが、どう言う意味で特別なのか、と言う問いには、答えられそうにない。
ヴィヴィアンは、この恋愛結婚至上主義の国で、淡い初恋すらないままに、自分を疎む夫と政略結婚した。
以来、声を掛けて来る男は、ヴィヴィアンの資産を狙う『燕希望者』ばかり。
自分に求められているのは、財布機能だけと思えば、心も乾くし、おっさんにもなろうと言うものだ。
そんな中で、ヴィヴィアンの性格を汲み取り、契約を持ち掛け、協力者となったコンラートは、初めて、ヴィヴィアンと対等の立場で言葉を交わしてくれた男性だった。
伯爵夫人の仮面を外した素の儘のヴィヴィアンを、面白がってくれた人。
ともすると、小賢しいと言われてしまうヴィヴィアンの知識に、感心してくれた人。
女が商売など、と決めつけて蔑まず、可能性を見出してくれた人。
ヴィヴィアンの体と心を、何よりも守ろうとしてくれた人。
そんな人が、特別にならない筈がない。
この想いは、恋なのか。
それを、問われている。
恋、と言う気持ちが、ヴィヴィアンにはよく判らない。
ドキドキして、ときめいて、きゅんっとして。
コンラートといる時に、それらの気持ちが全くなかった、と言えば、嘘になる。
だが、ヴィヴィアンが何よりもコンラートに抱いたのは、安心感だった。
彼が隣にいるだけで、「大丈夫」だと思える。
何が大丈夫なのかは、判らない。
ただただ、安心出来るのだ。
自分の好みなんてない、と言い切ったヴィヴィアンに、
「だが、ヴィヴィアンは、自分の気持ちを口に出せるようになっただろ?」
と、気づかせてくれた。
「他人からすれば、取るに足らない小さな事であっても、自分の気持ちを大事にする経験が、今の俺達には必要なんじゃないだろうか」
と、不足しているものを、これから先、経験していけばいい、と、提案してくれた。
心が欠けた人間である事に、何処か劣等感を持っていたヴィヴィアンを、否定せず、共に成長していこう、と同じ目線で語り掛けてくれた彼の隣は、居心地がいい。
自分を取り繕う必要も、心の内側で何を考えているのか隠す必要も、ない。
あるがままに立ち、あるがままに語る心地良さを知ってしまえば、ヴィヴィアンの気持ちや行動を制限するトビアスやスタンリーの下で、生きていきたいとは思えない。
だが。
コンラートに恋をしている、と認められないのは、彼の言葉が気になっているからだ。
大舞踏会で、リンデンバーグの社交界に披露されるのだ、と話していたコンラート。
はっきりとした年齢を尋ねた事はないが、ヴィヴィアンより年下と言う事はないだろうから、サーラで生活していた為に、成人しても社交界に出る経験がなかったのだろう。
彼は、その場で明かされる事情と素性を知れば、ヴィヴィアンが離れる、と恐れているように見えた。
そう。
コンラートは、確かに恐れていた。
敵対勢力だとか、当主の座だとか、政略の駒として動かされるだけのヴィヴィアンには、随分と重い言葉だ。
だが、コンラートにとっては、それらは身近な言葉なのだろう。
それを思えば、彼の抱える事情も知らないまま、安易に、慕っている、だなんて、浮かれた事を言えなかった。
ジュノも言っていたように、ヴィヴィアンは、己の能力で出来る範囲外に、手を伸ばす勇気がない。
コンラートの事情と言うものが、ヴィヴィアンの手には余るものだった場合、どうしていいのか判らない。
…そして、コンラートの様子を見る限り、恐らく、それは途方もなく大きな事情なのだ。
三週間。
最後に、コンラートと顔を合わせてから、三週間が経った。
途中で、完成した礼装を受け取って来た、と言う手紙は届いたけれど、返信を宛てる先は判らなかった。
互いの繋がりは、夜会だけ。
次に、どの夜会に出席するかを伝えていたから会えただけで、ヴィヴィアンからコンラートへ連絡する手段は、一切ない。
本当に何一つ、ヴィヴィアンは、コンラートの事を知らない。
彼の内面を僅かばかりに覗き見ただけで、二人の関係を表す言葉は、何もない。
トビアスと離縁する方法も判らず、現在もブライトン伯爵夫人と言う肩書のまま。
例え、離縁を申し立てても、クレメント家に連れ戻されるだけの現状で、一歩を踏み出す事は出来ない。
大舞踏会が終わったら。
そうしたら、何かが変わるのだろうか。
コンラートの抱える事情に怯まなければ、これからも、彼と会う機会があるのだろうか。
「どれだけ待たせる気だ」
「…申し訳ございません」
大舞踏会であっても、トビアスとは、現地集合現地解散だ。
全国の貴族当主夫妻が一堂に会する場だけに、車寄せは大渋滞を起こしていた。
長い車列の先で、漸く、ヴィヴィアンが馬車から降りると、国家行事に相応しいとは到底言えない、不機嫌そのものの顔のトビアスが待っていた。
招待状は、夫婦連名で届く。
例え、どれ程、彼が腹を立てた所で、ヴィヴィアンを置いて入場する事は出来ない。
いつものように、くるりと踵を返したトビアスは、さっさと先に行こうとして、何か思い出したように、ヴィヴィアンに肘を差し出した。
「…旦那様?」
これまでの五年間、碌にエスコートなどされた事がない相手の行動に、ヴィヴィアンは思わず、戸惑うような声を上げる。
「どうした。エスコートしてやると言うんだ。さっさとしろ」
ヴィヴィアンを、『正式な妻』として扱う為の第一歩、と言った所か。
ぐ、と反論を飲み込んで、ヴィヴィアンは目を伏せると、トビアスの肘にそっと指先を軽く添える。
触れるか触れないか、と言う微妙な距離は、互いに心が通い合った男女では、決してありえない。
ましてや、夫婦ならば。
夫をこれ以上、激高させず、それでいて、決して触れたいわけではないのだ、との無言のアピールに、トビアスの暴言が聞こえて眉を顰めていた人々が、くすりと小さく笑い声を立てた。
己が笑われたのだとも気づかず、トビアスは、これで妻と離縁させられる事はない、と、安心して会場に入っていったのだった。
王宮の夜会は久し振りだ。
全国から集まっているだけに、ヴィヴィアンがここ暫く出席していた小規模の夜会とは、比べ物にならない。
今日のヴィヴィアンは、コンラートが作り直してくれた天鵞絨のドレスを着ていた。
白に仄かに銀が輝く天鵞絨を、装飾は控えめに、光沢が判りやすいよう、ラインに拘って仕立てている。
胸元は大きく開き、上身頃と手首まで覆う袖は、ぴったりと体に添っている。
スカート部分は、フレアに仕立て、襞山が装飾灯の灯りに銀色に光っていた。
身に着けた装飾品は、ハーフアップにした銀髪に添えた紅玉の髪飾りと、同じく紅玉の首飾りのみ。
いっそシンプルな装いだが、濃色や暖色の多い広間では、銀色の髪と相まって、大変、目立つ。
隣に立つ夫トビアスの、濃紫の礼装と並ぶと、些か、バランスが悪い。
いつもは、トビアスを惹き立てるよう、主張の控えめなドレスを選ぶし、豊かな胸を嫌う彼の為に、屋内でも違和感のないレースやオーガンジーのマントを羽織る事で、体のラインを隠している。
例え、年に数度しか会わなくとも、それらの配慮にトビアスが気づいてくれていたならば、ここまで、関係が拗れる事はなかったのかもしれない。
確かに、不平不満を言われるのが面倒、と言う理由で、ヴィヴィアンが自主的にしてきた配慮だ。
勝手にした事なのだから、気づかずとも仕方ない、と割り切ってもいた。
けれど、気づく気もないどころか、ヴィヴィアンならば、幾らでも踏みつけていいと思っている男相手に心を砕き続ける事に、疲れた。
心は目に見えないけれど、確かにすり減るものなのだ。
ヴィヴィアンは、トビアスと共にいる時に習い性になっている控えめな微笑を浮かべたまま、さり気なく、会場を見渡した。
入場は爵位が下の者から行われるので、現時点で集まっているのは、男爵から伯爵までの地位にある者が多い。
遠くに、ジュノと彼女の夫フレッドの姿が見える。
武術大会で同席したアマンダとエッダ、そして彼女達の夫と話しているようだ。
父であるスタンリー・クレメント男爵と、母リズの姿も見える。
父は、いつものように、この場を利用して商談しているのだろう。
コンラートの姿は、会場にない。
彼は恐らく、高位貴族だろうから、いない事に不思議はない。
この場を利用して、代替わりを報告する家も多い。
新年から代替わりをする貴族は、開会時の挨拶は現当主が参加し、次期当主は開会宣言後に加わるから、途中参加なのかもしれない。
――そこまで考えて、ヴィヴィアンは重大な事実に気が付いた。
大舞踏会に参加するのは、当主夫妻と、代替わりを控えていれば次期当主。
だが、コンラートは、「当主の座は狙っていない」と話していた。
彼は、どのような名目で大舞踏会に参加するのか。
特例で、顔繋ぎの為に王族の側近が参加すると聞いた事があるから、その枠だろうか。
考えがまとまらないまま、最後の招待客である前国王の弟クロッカード公爵が、杖をついた妻と共に所定の位置についた事で、それまで、静かに奏でられていた楽団の音色が、変わる。
王族が入場するのだ。
「リンデンバーグ王国に栄光あれ」
厳かな宣言に合わせ、大広間を埋め尽くした人々が、衣擦れの音と共に、一斉に頭を下げた。
ヴィヴィアンの視界に入るのは、前列に並ぶ人々の衣装の裾と、靴の踵のみ。
「面を上げよ」
どっしりと重い国王の声に、ゆるゆると頭を上げたヴィヴィアンは、貴族達の前に一段高く設えられた壇上に並ぶ王族の姿を見て、目を大きく見開いた。
中央に、エイデン国王陛下。
ヴィヴィアンから見て右手に、イグナス王太子殿下、ジゼル王太子妃殿下、まだ十代と思われる青年。
左手に、ラウル王弟殿下、サーラからの国賓であるリンジー王女殿下。
眩い金髪のリンデンバーグ王族と比べると、リンジーの金茶の髪は、確かに暗く見える。
だが、それよりももっと目を惹くのは、夜空を閉じ込めた黒。
リンジーをエスコートするように傍らに立つ、一際背が高い彼は――…。
「…コンラート…」
小さなヴィヴィアンの呟きは、誰の耳にも届かなかっただろう。
動揺から声を漏らした人物が、余りにも多かった故に。
「今宵は、一年の平和を寿ぐ舞踏会。皆の息災の報せに、安堵しておる。また、二つの喜びを分かち合える事を、心より嬉しく思う。我が息子、第二王子アーヴァインが、見識を深める為に滞在していた妻の母国サーラより、十年振りに帰還した。そして、王太子イグナスの息子ナシエルが、成人を迎えた。二人は共に、本日の大舞踏会を持って、リンデンバーグの社交界に披露となる」
あの日、二人で相談しながら仕立てた礼装を纏ったコンラートが、『アーヴァイン』の名で紹介された事に、ヴィヴィアンは衝撃を受ける。
アーヴァイン。
リンジーが恋い慕う、男の名前。
亡くなった王妃は、サーラの王女だった。
コンラート、いや、アーヴァインは、『母方の親戚』がサーラに呼んでくれた、と話していたが、それはつまり、サーラの王族と共に暮らしていたと言う事だ。
アーヴァインは、王子。
サーラ国内で、王城以外に安心して滞在出来る場所など、ないだろう。
だからこそ、共に暮らしていたリンジーの求婚から逃れる為には、リンデンバーグに戻らざるを得なかったのだ。
そして、ヴィヴィアンと契約したもう一つの理由である『当主の座を狙っていないとの意思表示』。
第二王子である彼が言う当主の座とは、つまり、国王の座…。
ヴィヴィアンの脳裏に、一週間前のお茶会が蘇る。
ジゼルに呼ばれた、リンジーと三人だけのお茶会。
あの不可思議なお茶会は、アーヴァインと親しくしていたヴィヴィアンへの、牽制だったのだ。
サーラ王族であるリンジーがアーヴァインを慕っているのだから、諦めろ、と言う圧力。
姪可愛さもあるだろうが、ジゼルは、息子ナシエルに確実に王の座を継がせる為、アーヴァインを国外に追い出したかったのだろう。
体の弱いイグナスが、国王の重責を担う前に儚くなってしまえば、幾らナシエルが成人していようと、アーヴァインが玉座に座る可能性が高まる。
彼を貶めようとする敵対勢力、とは、第一王子の系譜を王の座に就けたい人々だったのか。
思わず、俯いたヴィヴィアンは、強い視線を感じて、顔を上げた。
壇上のリンジーが、勝ち誇った顔で、こちらを見ている。
彼女の隣に立つアーヴァインは、いつも通りの貴公子の笑みを浮かべていたが、ヴィヴィアンと目が合った瞬間、ほんの僅かに苦しそうな色を滲ませた。
きっと、ヴィヴィアン以外の誰にも判らない。
彼の完璧な笑顔の仮面を、初見で見破ったヴィヴィアン以外には。
『大舞踏会で、俺はリンデンバーグの社交界に、正式に出る事になる。今日、言えなかった俺の事情も、明かされるだろう。もし…もし、君が、全てを知った上で、また俺に会ってくれると言うなら、また、こうして共に、出掛けてはくれないだろうか』
アーヴァインには、判っていたのだ。
成金男爵の娘で、伯爵夫人であるヴィヴィアンが、第二王子と言う秘密を持つ彼の手を、取れる筈もない事が。
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すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
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