ストップ!おっさん化~伯爵夫人はときめきたい~

緋田鞠

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 ――…時は、三時間程、遡る。

「…ねぇ」
「何だ」
「私、まどろっこしいのは嫌い、って話、したかしら」
「…聞いたな」
「この紙は、契約の終了に伴う報酬、と言う認識でいいの?それとも、」
 アーヴァインが、ヴィヴィアンを憎からず想ってくれている事は、判っていた。
 あんなにも甘やかされて、欠片も好意に気づかない程に鈍感ではない。
 その好意が、これまで、ヴィヴィアンが『燕希望者』の男性達から受けたのとは、異なる種類のものだと言う事も。
 だが、同時に、躊躇も感じていた。
 このまま、アーヴァインは、この気持ちをなかった事にするつもりなのかもしれない。
 彼は、第二王子。
 好ましくない相手の求婚から逃げて来たとは言え、単なる好意だけで衝動的に行動出来る立場ではない。
 アーヴァインがない事にするのなら、ヴィヴィアンも、離れがたく思うこの気持ちに蓋をしよう。
 己の気持ちを押し付けられる相手でも、関係でもない事位、判っている。
 だから、最後にせめて、どうするつもりなのか、聞かせて欲しい。
 確認の為に投げかけたヴィヴィアンの問いに、
「ヴィヴィアン」
 アーヴァインの腕に、力が入る。
 年末の寒空の下、背中に感じるアーヴァインの体温に、ヴィヴィアンの心臓が、一つ大きく音を立てた。
「俺は――君を、愛してる」
 耳元に落とされた、アーヴァインの低く艶めいた声。
 つん、と、ヴィヴィアンの鼻の奥が熱くなった。
 あぁ。
 生まれて初めて聞いた。
 このたった一言が、こんなにも胸を騒がせ、震わせるのか。
「…直球ね」
 なのに、返せた言葉は、可愛げの欠片もないもので。
「まだるっこしいのは、嫌いなんだろう?」
「そう…だけど」
「…本当は、もっと凝ったシチュエーションで言いたかったんだけどな。ヴィヴィアンは、海を見た事あるか?」
「ないわね。国内の色々な所に連れて行かれたけど、海はまだ」
「じゃあ、海を第一候補にしよう。冬の厳しい海よりも、春の穏やかな海がいい」
「私、まだ、何も言ってないわ」
「けど、俺の事、好きだろ?」
 言葉は自信に満ちているのに、何処か恐れるような震えを帯びた声に、ヴィヴィアンは、アーヴァインの腕の中で身動ぎをする。
「…凄い自信なのね」
 初めて会った時と同じ言葉を返すと、思い出したのか、背後のアーヴァインが小さく息を飲み、彼もまた、あの時と同じ台詞を口にした。
「おや、ご興味がない…?」
 それは、彼にとっても、二人の出会いは特別なものだったのだと、忘れられない記憶なのだと、示すもので。
「貴方が女性の目を惹きつける事に異論はありませんわ。…そして、私が貴方に心惹かれている事にも」
「ヴィヴィアン…!」
 感極まり、ぎゅっと彼女を抱く腕に力を入れたアーヴァインの吐息が首筋を掠めて、ぞわりとした、けれど不快ではない感触に、ヴィヴィアンは首を竦める。
 気持ちを落ち着かせるように、胸の前で交差されたアーヴァインの腕に、そっと手を重ね、
「海ではなくて、今じゃなくちゃいけない理由があるのでしょう?」
と尋ねた。
「流石、ヴィヴィアン。話が早い」
「お世辞はいいから。時間は、余りない筈よ」
「そうだな。…実は、かなり切羽詰まってる。今も、ナシエルに頼み込んで時間を作って貰ってる状態だ」
「お姫様が参加してるのって、やっぱり貴方狙いよね?」
「国賓として参加すれば、こっちは存在を無視出来ないからな。…あいつは、大舞踏会の最後に、俺との婚約を強引に発表するつもりらしい」
「……はぁ?!」
 想定の斜め上を行くリンジーの行動に、ヴィヴィアンは声を殺しながら叫ぶ、と言う器用な事をした。
 国境を跨いで逃げ出す程に拒まれている相手との婚約を、リンデンバーグの全貴族当主が集まる中で発表?
 そんな事をされたら、アーヴァインの逃げ道は完全に塞がれる。
 単なる貴族の婚約ではなく、王族同士の婚約だ。
 婚約を否定しようものなら、国同士の関係が悪化してしまう。
 そこまで理解した上で、このような暴挙に出ようとしているのか。
「直前でも、思いとどまってくれればいいんだけどな…あいつの性格じゃ、きっと、やらかす」
「え、何、本当に理解出来ないんだけど」
「言っただろ。何を言っても、あいつには通じない。…ほんと、怖いぞ。同じ言語を話してるのに、全く会話にならないんだ」
「あぁ…うん、怖いわよね…笑顔で、『そうね!貴方の言う通りだわ!』って真逆に進まれるのって…」
「ジゼル義姉上に呼び出されたんだよな。すまない。防げなかった」
「正直、寿命が縮んだわ」
 まさか、また、こんなに気の置けない会話を出来る日が来るとは。
「…そう言う緊急事態なもんだから、全てをすっ飛ばして頼む。結婚してくれ」
「すっ飛ばした分を、何処かで補填してね。いいわよ」
「そうだよな、急過ぎるよな…、って、え。いい、って…え、つまり、」
「いいわよ。貴方と結婚する」
「ほんとか、ヴィヴィアン!」
「こんな事、冗談で言えないでしょ」
 頬が赤いのは、暗いバルコニーならば見えない筈だ。
 背後で、「マジか」「夢じゃないよな」と呟くアーヴァインの腕を、ぽんぽん、と叩いて気を引く。
「現時点で、何一つ解決してないのは判ってるわよね?」
「あぁ、判ってる。だが、この手紙をブライトン伯爵に渡せば、一つ、解決する」
「実家は?」
「ランドリック侯爵が、ヴィヴィアンを養女に迎えてくれる」
「未来形ね」
「何しろ、大舞踏会の最中に動くからな。下準備はしてあるが、ジゼル義姉上とリンジーに察知されて妨害を受けるわけにいかなかった。今日なら、目を盗んで動ける」
「…時間との勝負って事ね」
 トビアスと別れて独身に戻り、クレメント家からランドリック家に養女に行けば、既婚者と言う障害も、爵位の低さと言う障害も、取り敢えずは消える。
 形だけでも整えれば、リンジーが爆弾発言をしそうになったら、『婚約した』と宣言出来る。
 だが、これは詭弁に過ぎない。
 人々の心の内に、成金男爵家の娘であり、夫に冷遇された伯爵夫人の姿は、残る。
 実際の過去まで消す事は、誰にも出来ない。
 障害は数えきれない程に多く、乗り越えるには苦労する筈だ。
「…本当にいいのか、ヴィヴィアン。このまま、サーラに行く事も出来るんだぞ。勿論、その場合も手を貸す」
「どう言う意味?」
「さっきも言ったように、俺は第二王子だ。王宮での噂は最悪なもので、それを払拭する事を諦めて、国外に逃げた」
「噂は、根も葉もないものでしょ」
「何で判る」
「別々に見てたから、これまで気づかなかったんだわ。でも、並ぶと、貴方と陛下ってそっくりよ」
「え」
「陛下の方が、お優しそうだけど」
 くすり、と笑いながら付け足された言葉に、アーヴァインは、「おい」と突っ込みながらも、胸の中をじわじわと温める気持ちに、頬を緩めた。
 たった一言で、心がほぐれたのが判った。
 あぁ、まただ。
 ヴィヴィアンはいつも、欲しい言葉をくれる。
「人の噂も七十五日、って言うのに、噂一つで何十年と疑惑を持たれるなんて、王族って面倒ね…」
「確かに面倒だな。ヴィヴィアンは、面倒が嫌いだろ。…判ってるのか?俺への同情だけで受けていい話じゃない」
「あのね、同情なんかで動く面倒な事はしないわ。仕方ないじゃない…貴方を失う事の方が、嫌なのよ」
「…っだから、君のそう言う所が…っ」
 手練手管ではないだけに、不意打ちを食らったアーヴァインは、真っ赤になって口を噤んだ後、
「前々から考えてたんだが…ナシエルも成人した事だし、王籍を離れようと思ってる」
と、付け加えた。
「それもいいんじゃない?でも、じゃあ、これから、どうするの?」
「クロッカード公爵…大叔父上の所には、後継がいなくてな。大叔父上が臣籍に下る事で興された家だから、まだ、歴史はないに等しい。ラウル叔父上が養子に行く案もあったが、あの方は、兄上以上に体が弱くて、結婚どころか、王城から出られる身じゃない。だから、その話は数十年前に流れてる。このまま、一代で終わると言うのもありなんだが、父上に諸々含めて相談した所、俺が養子に行くと言う手もある、と言われた。義姉上は、俺が王籍にある以上、何を言おうと、どう振る舞おうと、安心する事はないだろう。父親のサンテリオ公爵と違って、あの人は本気で兄上とナシエルを案じているだけだから、対処に困る」
「そう…」
 公爵夫人だって、ヴィヴィアンからすれば、十分な重責だ。
 けれど、そこまで真剣に、アーヴァインが自分との未来を描いてくれた事が、嬉しかった。
 何も相談せず、計画を話してくれなかった事に思う所が全くないわけではない。
 だが、彼が、最後の最後まで、ヴィヴィアンに逃げ道を残し、未来への選択肢を複数提示しようとしてくれた事は、理解している。
 アーヴァインは、ヴィヴィアンを囲い込む事よりも、自主的な選択を尊重してくれた。
 だからこそ、その想いに応えたい。
「…私は、何処でもいいの。貴方がいるなら、きっと、頑張れる。居場所、って、傍に誰がいるかが重要なんでしょう?」
「ヴィヴィアン…」
 アーヴァインは、こくり、と喉を鳴らした。
 背後から抱き締めていたヴィヴィアンの体を反転させて、彼女の顔を覗き込む。
 ヴィヴィアンは、戸惑うようにアーヴァインを見上げた後、夜闇でも判る程に、顔から胸元まで真っ赤に染めた。
 彼の、余りにも真剣で、想いの籠った熱い眼差しに射抜かれたが故に。
「愛してる。互いの居場所になろう」
「アーヴァイン、でん、か」
「ただの、アーヴァイン、と」
「…アーヴァイン」
 その瞬間、胸の奥底から湧き上がった愛おしさを、アーヴァインは生涯、忘れる事はないだろう。
 ヴィヴィアンは、二人でいる時はいつも、アーヴァインの事を『貴方』と呼んで、名を呼ばずに済ませていた。
 『貴方』と言う言葉に籠められた親密さに浮き立つものもあったが、何処となく物足りない思いがあったのは、事実だ。
「もう一度、呼んで」
「アーヴァイン…?」
 少し潤んだ瞳、小さく開けられた唇、唇から覗く赤い舌。
 衝動に任せて、ヴィヴィアンの唇を奪い取る。
 まだ、大舞踏会は始まったばかり。
 乱すわけにはいかない。
 けれど。
「ん…んむ…っ」
 脳が蕩けそうな甘さに、溺れていく。
 ただ触れるだけの口づけのつもりが、いつしか、深いものへと変わっていった。
 冷えた夜空に、二人が接する隙間から、白い息が上る。
「…っん、んん~…っ」
 鼻にかかった声を幾らでも聞いていられそうで、アーヴァインが思わず、ヴィヴィアンの腰に回した手で、彼女の背中を撫で上げた瞬間。
「っ、このっ、馬鹿王子!」
 ぱちん、と、アーヴァインの頬が、乾いた音を立てた。
 大した痛みはないが、水を差された格好になったアーヴァインは、おずおずとヴィヴィアンの顔を覗き込む。
「……すまない。つい」
「つい、じゃないわよ、つい、じゃ!何なの、シチュエーションだ何だって言っておきながら!」
 熱とは違う意味で潤んだ瞳にアーヴァインがおろおろすると、ヴィヴィアンは、つん、と唇を尖らせて、
「…初めてだったのに…」
と、小さく呟いた。
 結婚式での誓いの口づけすら、トビアスはしなかったのだから。
「ヴィヴィアン、」
 むぅ、と膨れながらも恥ずかしそうなヴィヴィアンに、喜びの余り、再度、顔を寄せようとしたアーヴァインは。
 ヴィヴィアンの両手で、頬を挟まれ、それ以上近づくのを拒まれる。
「駄目。お預け。全部終わるまで、お触り厳禁」
「お預け…」
 叱られた子犬のように、大きな体をしょぼんと丸めたアーヴァインに思わず絆されそうになりながら、ヴィヴィアンはドレスの隠しからハンカチを取り出した。
 照れ隠しのように、わざと乱暴に紅の移った彼の唇を拭う。
「あのね、現状、私はまだ、人妻でしょう?」
「いや、もう、書類上は独身で、」
「それに、私達、知り合ってからまだ、三ヶ月経ってないのよ?普通の恋人とか、普通の婚約者みたいに、一歩ずつ進みたい、と言うのは我儘?」
「いや、我儘じゃない。寧ろ、ヴィヴィアンは、もっと自分の希望を言うべきだと、」
「そうよね?だから、お預け」
「いや、それとこれとは、」
「お預け」
「いや、でも、」
「お預け」
「はい…」

 と、言うわけで。
「(キス一つで取り乱して)お見苦しい所を、お見せ致しました(でも、貴方のせいだからね)」
「いや……(状況も考えずに盛って)すまない」
 互いにしか通じない遣り取りを、周囲がどう捉えるかまでも含めての作戦は、トビアスが素直に婚姻無効を受け入れ、スタンリーがランドリック侯爵の誘いに乗ってヴィヴィアンを養女に出した事で、成功を収めた。
 ほんの少しでも、何かのタイミングがずれていたら失敗する綱渡りの作戦。
 これは、二人の人生を賭けた、一世一代の大勝負だったのだ。
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