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エトとの交渉は、ラウレンスよりサスキアに一任された。
真実を知る人間が増えれば増えるほど、秘密が漏洩する可能性が増えるからだ。
まず、サスキアは、王宮に報酬を求めるエトに宛てて、国王の代理人として手紙を書いた。
エトは、ダーレイキン語が読めない。
話すほうも片言で、マリウスとの交渉は彼よりももう少しダーレイキン語を解する部下が担当していたと聞いた。
この大陸にある四つの国は、国土が険しい地形で分断されているからなのか、それぞれ、まったく異なる言語を話す。
アクセラルを間に挟んでいるダーレイキンとウォボトでは、文字の形すらまったく違う。
そのため、サスキアはウォボト語で、今回の報酬としてマリウスが約束した金貨の受け渡し方法を記したあと、今後も契約を続けたいとの意向を記した。
ラウレンスの要望はこうだ。
引き続き、エトに国境駐留部隊の指揮官を務めてほしいこと。
受け入れるならば、以下の報酬を用意していること。
・ダーレイキン王国の伯爵位
・王家直轄領ダイヤルトの下賜
・ダーレイキン王立軍の要職
望むならば、ウォボトの家族も呼び寄せていいこと。
ただし、条件として、ダーレイキンの侯爵令嬢であるサスキア・ボスフェルトと婚姻を結び、領地経営に関して彼女から学ぶこと。
平民の傭兵が相手と考えれば、破格の条件だろう。
それに加えて、叙爵された場合のメリット、ダイヤルトの持つ資産的価値、将来的に見込まれる収益etc.も、事実のみを綴っていく。
ウォボト人相手ならば、言葉は飾るよりも簡潔に述べたほうがいい。
争いの絶えない歴史を持つ国だからか、彼らは婉曲的な話し方を嫌う。
(あぁ、ついでに結婚相手の紹介でもしておこうかな)
サスキア・ボスフェルト。
二十歳。
婚姻歴なし。
中肉中背、赤髪青瞳。
ウォボト語の日常会話に加え、読み書きが可能。
侯爵家の後継者教育を受けてきたため、ダーレイキンの貴族事情に慣れ、領地経営にも自信あり。
結婚相手に望むもの――互いの尊重。
エトに恋人がいても、構わない。
正妻の座を差し出すわけにはいかないし、子をクラーセンの嫡子として扱うこともできないけれど、実質的な妻の役目を果たすことは黙認する。
この結婚を受け入れれば、エトは叙爵されるわけだが(もちろん、アクセラル侵攻以前にクラーセン男爵位を得ていたように、日付を偽装する。国家ぐるみの偽装だ)、家の存続は義務ではないため、サスキアとの間に子を作る必要はない。
ただし、エトが望むのであれば、サスキアが子を産むことは受け入れる。
サスキアに恋人はおらず、これまでにも異性との交際経験はないため、托卵の可能性は心配しなくていい。
必要ならば、純潔証明も提出する。
そんなことを、きわめて事務的に書いた。
ダーレイキン人であれば、あまりに露骨な言葉に気が遠くなる文章だけれど、ウォボト語の読み書きができるからといって、サスキアがウォボトの習俗に通じているわけではない。
本職の外交官を通さずにことを進めるためには、そこは目をつぶってもらわねば。
王都からアクセラルとの国境まで、馬で一週間。
返事は二週間と少ししてから届いた。
部下たち十名を、王立軍に騎士の身分として正式に受け入れること。
戦況が落ち着き次第、部下たちにもダーレイキンの永住権を許可すること。
ダーレイキンで得た収入の一部を、ウォボトに送金すること。
『以上の点を契約条件に加えるのであれば、提示された条件をすべて受け入れ、契約を継続する』
契約条件を受け入れる――つまり、結婚を受け入れる、との返事はあったものの。
エトからサスキア個人に宛てた言葉は、何もなかった。
それから、何度、王都と国境で手紙のやりとりをしただろう。
アクセラルがおとなしくしている間に、と、サスキアとエトの結婚の準備は、速やかに進められた。
エルヴィンは、突然決まった結婚と表向きのストーリーに思うところがあったのか厳しい顔をしていたものの、サスキアが、
「お父様。見ようによっては、私はこれまで通りの道を行けるのです。旦那様は王立軍の要職に求められている方ですし、領地経営はおそらく、私に一任してくださるかと。でしたら、貴族の妻としてにこにこ社交するよりも、そちらの方がずっと得意ですし、楽しいです」
と話したところ、渋々ながら頷いた。
ボスフェルトの領地とダイヤルトは王都を挟んで反対側になるので、馬車で二日ほどかかるのもエルヴィンにとっては懸念だったようだが、もっと遠方に嫁ぐ可能性もあることを思えば、サスキアの能力を生かせる嫁ぎ先であるのは事実だった。
――ラウレンスから極秘で結婚を持ち掛けられてから、二ヶ月後。
サスキアは、未来の夫と一度も会うことのないまま、結婚式当日を迎えた。
「お嬢様、お綺麗です……っ」
感動した様子の侍女たちに、サスキアはにっこりと笑顔を見せる。
「ありがとう」
(馬子にも衣裳っていうものね)
エトから契約を了承する手紙が来てからすぐに手配した婚礼衣装は、時間がないこともあり、レースや刺繍を極力排したシンプルなものだった。
サスキアの赤い髪が映える純白の絹は光沢があり、マーメイドラインのドレスは女性らしい曲線を描いている。
腰までの長いベールは、サスキアの亡くなった母が使用したものだ。
肖像画でしか知らない母が身に着けていたものを、無言でエルヴィンが差し出してきたときには、少し驚いた。
「……アルベルティナに、よく似てきたな」
その言葉に、どんな意味が含まれているのかはわからない。
けれど、悪い意味ではないのだろう。
新しい妻を娶ったとはいえ、ボスフェルトの家でアルベルティナの話が禁忌になっているわけではないのだから。
国境から一週間かかるため、前線を容易に離れられないエトは、結婚式まで一度も王都に顔を出すことはなかった。
必要なやりとりはすべて手紙で済ませ、軍の指揮官に任命される際に必要な礼装用の軍服もまた、サスキアの指示のもと、現地で採寸された数字だけで作られた。
サスキアは事前に完成した軍服を見たが、数多くの軍服を作ってきた職人が、
「こんなに体格のご立派な方は初めてです」
と感嘆するくらい、大きなものだった。
(私の旦那様は、熊なのかしら?)
当日朝、王都に到着したエトはまず、サスキアが用意しておいた軍服に袖を通し、王宮で伯爵位の授与と国境駐留部隊指揮官の任命を受けることになっていた。
通常、叙爵や陞爵といった貴族の序列に関する事柄は、人々が多く集まる場で大々的に知らされるものだが、戦時下ということもあり、非公開で行われることに決まった。
何分、『エト』という人物について、何もわかっていない中での大博打。
可能な限り、厄介ごとは避けたいのがラウレンスの本音だ。
もしも、エトが想像以上に厄介な人物であったとしても、非公開の場であればどうとでも隠蔽できる。
そのため、サスキアは婚約者でありながら、『夫』の晴れの舞台に立ち会うことはなかった。
午後。
わずかな立会人のみを招き、サスキアとエトの婚礼が行われた。
時間が限られているせいで、式前に挨拶をすることもできず、本番で初めて、二人は顔を合わせた。
文化が異なるウォボトとダーレイキンでは、国教も違う。
二人とも、とくに信仰する神はないため、彼らの結婚は立会人に誓約を述べる異例の形式で行われた。
立会人を務めたのは、王太子である第一王子ブレフト。
伯爵の結婚式に国王が立ち会うと目立ちすぎる、という理由からだったが、王太子でも十二分に目立つ。
しかし、申し入れを受けて半眼になったサスキアの抗議が受け入れられることはなかった。
ダーレイキン王家としては、たとえ、内輪のみの式であっても、横槍を入れられることなく、国が認めた婚姻であると強調したいのだから。
「エト・クラーセン。そなたは、サスキア・ボスフェルトを妻とし、肩を並べ、手と手を取り、その喜びも苦しみも分かち合い、ともに幸い溢れる人生を送ることを誓うか」
「はい」
ダーレイキン語での問いに、短く答える。
初めて聞いた夫の声は、低く、ざらついていた。
(雷みたいな声ね)
互いに立会人であるブレフトの方を向いているため、サスキアからエトの顔は見えない。
身長差のせいで肩を並べている実感は薄く、ただただ、右側から圧を感じるばかりだ。
「サスキア・ボスフェルト。そなたは、エト・クラーセンを夫とし、肩を並べ、手と手を取り、その喜びも苦しみも分かち合い、ともに幸い溢れる人生を送ることを誓うか」
「はい、誓います」
躊躇いも照れもなく、はっきりと答えると、ブレフトはホッとしたようだった。
「では、誓いの口づけを」
ダーレイキンの結婚式では、ごく自然な流れ。
しかし、ブレフトの言葉がわからなかったのか、エトは戸惑うようにぴくりと肩を動かした。
そのため、サスキアは小声のウォボト語で翻訳する。
≪誓いの口づけをしてください≫
今度ははっきりと、エトの肩が動く。
サスキアが誘うようにエトに体を向けると、ベール越しにじっと彼がこちらを見つめているのがわかった。
(ウォボトの婚礼では、誓いの口づけがないの? あぁ、それとも、契約結婚なのに、なぜ、そのようなパフォーマンスが必要なのか、という意味かしら?)
たとえ、真実が契約結婚であったとしても、世間にはエトが乞うてサスキアを娶った、と思わせる流れにしなくてはならない。
そのためには、なんの瑕疵もない式を執り行う必要がある。
この場にいるほとんどの人間は、契約結婚と知らないのだから。
わずかに顔を伏せ、じっとエトが動くのを待っていると、大きな影で目の前が暗くなった。
サスキアの顔を覆い隠していたベールが、サスキアの顔など一つかみにできてしまいそうな手により、時間をかけて慎重に引き上げられる。
まるで、わずかにでも爪を引っかければ、引き裂いてしまうかのように慎重に。
目の前に、彼女自身がこの日のために手配した王立軍将官の真っ黒な礼装用軍服を飾る金のブレードが見える。
続いて、エトはゆっくりと身を屈め――サスキアの丸い額に、そっと唇を押し当てた。
乾いた、けれど、確かな温もりに、サスキアの胸の奥で、ことり、と何かが動く音がした。
「これで、エト・クラーセンとサスキア・ボスフェルトが夫婦となったことを認める」
厳かなブレフトの声に、サスキアは伏せていた顔を上げ、夫となった人の顔を見上げた。
思っていたよりもずっと遠い顔に、どんな表情が浮かんでいたのかは、すぐに彼が視線を逸らしたため、見えなかった。
けれど、浅黒い肌、襟足で切り揃えられたゆるく波打つ黒髪に縁取られた引き締まった首筋、がっしりとした肩幅に分厚い胸板だけは、記憶に残った。
(この人が、私の旦那様……)
サスキアの、契約夫。
真実を知る人間が増えれば増えるほど、秘密が漏洩する可能性が増えるからだ。
まず、サスキアは、王宮に報酬を求めるエトに宛てて、国王の代理人として手紙を書いた。
エトは、ダーレイキン語が読めない。
話すほうも片言で、マリウスとの交渉は彼よりももう少しダーレイキン語を解する部下が担当していたと聞いた。
この大陸にある四つの国は、国土が険しい地形で分断されているからなのか、それぞれ、まったく異なる言語を話す。
アクセラルを間に挟んでいるダーレイキンとウォボトでは、文字の形すらまったく違う。
そのため、サスキアはウォボト語で、今回の報酬としてマリウスが約束した金貨の受け渡し方法を記したあと、今後も契約を続けたいとの意向を記した。
ラウレンスの要望はこうだ。
引き続き、エトに国境駐留部隊の指揮官を務めてほしいこと。
受け入れるならば、以下の報酬を用意していること。
・ダーレイキン王国の伯爵位
・王家直轄領ダイヤルトの下賜
・ダーレイキン王立軍の要職
望むならば、ウォボトの家族も呼び寄せていいこと。
ただし、条件として、ダーレイキンの侯爵令嬢であるサスキア・ボスフェルトと婚姻を結び、領地経営に関して彼女から学ぶこと。
平民の傭兵が相手と考えれば、破格の条件だろう。
それに加えて、叙爵された場合のメリット、ダイヤルトの持つ資産的価値、将来的に見込まれる収益etc.も、事実のみを綴っていく。
ウォボト人相手ならば、言葉は飾るよりも簡潔に述べたほうがいい。
争いの絶えない歴史を持つ国だからか、彼らは婉曲的な話し方を嫌う。
(あぁ、ついでに結婚相手の紹介でもしておこうかな)
サスキア・ボスフェルト。
二十歳。
婚姻歴なし。
中肉中背、赤髪青瞳。
ウォボト語の日常会話に加え、読み書きが可能。
侯爵家の後継者教育を受けてきたため、ダーレイキンの貴族事情に慣れ、領地経営にも自信あり。
結婚相手に望むもの――互いの尊重。
エトに恋人がいても、構わない。
正妻の座を差し出すわけにはいかないし、子をクラーセンの嫡子として扱うこともできないけれど、実質的な妻の役目を果たすことは黙認する。
この結婚を受け入れれば、エトは叙爵されるわけだが(もちろん、アクセラル侵攻以前にクラーセン男爵位を得ていたように、日付を偽装する。国家ぐるみの偽装だ)、家の存続は義務ではないため、サスキアとの間に子を作る必要はない。
ただし、エトが望むのであれば、サスキアが子を産むことは受け入れる。
サスキアに恋人はおらず、これまでにも異性との交際経験はないため、托卵の可能性は心配しなくていい。
必要ならば、純潔証明も提出する。
そんなことを、きわめて事務的に書いた。
ダーレイキン人であれば、あまりに露骨な言葉に気が遠くなる文章だけれど、ウォボト語の読み書きができるからといって、サスキアがウォボトの習俗に通じているわけではない。
本職の外交官を通さずにことを進めるためには、そこは目をつぶってもらわねば。
王都からアクセラルとの国境まで、馬で一週間。
返事は二週間と少ししてから届いた。
部下たち十名を、王立軍に騎士の身分として正式に受け入れること。
戦況が落ち着き次第、部下たちにもダーレイキンの永住権を許可すること。
ダーレイキンで得た収入の一部を、ウォボトに送金すること。
『以上の点を契約条件に加えるのであれば、提示された条件をすべて受け入れ、契約を継続する』
契約条件を受け入れる――つまり、結婚を受け入れる、との返事はあったものの。
エトからサスキア個人に宛てた言葉は、何もなかった。
それから、何度、王都と国境で手紙のやりとりをしただろう。
アクセラルがおとなしくしている間に、と、サスキアとエトの結婚の準備は、速やかに進められた。
エルヴィンは、突然決まった結婚と表向きのストーリーに思うところがあったのか厳しい顔をしていたものの、サスキアが、
「お父様。見ようによっては、私はこれまで通りの道を行けるのです。旦那様は王立軍の要職に求められている方ですし、領地経営はおそらく、私に一任してくださるかと。でしたら、貴族の妻としてにこにこ社交するよりも、そちらの方がずっと得意ですし、楽しいです」
と話したところ、渋々ながら頷いた。
ボスフェルトの領地とダイヤルトは王都を挟んで反対側になるので、馬車で二日ほどかかるのもエルヴィンにとっては懸念だったようだが、もっと遠方に嫁ぐ可能性もあることを思えば、サスキアの能力を生かせる嫁ぎ先であるのは事実だった。
――ラウレンスから極秘で結婚を持ち掛けられてから、二ヶ月後。
サスキアは、未来の夫と一度も会うことのないまま、結婚式当日を迎えた。
「お嬢様、お綺麗です……っ」
感動した様子の侍女たちに、サスキアはにっこりと笑顔を見せる。
「ありがとう」
(馬子にも衣裳っていうものね)
エトから契約を了承する手紙が来てからすぐに手配した婚礼衣装は、時間がないこともあり、レースや刺繍を極力排したシンプルなものだった。
サスキアの赤い髪が映える純白の絹は光沢があり、マーメイドラインのドレスは女性らしい曲線を描いている。
腰までの長いベールは、サスキアの亡くなった母が使用したものだ。
肖像画でしか知らない母が身に着けていたものを、無言でエルヴィンが差し出してきたときには、少し驚いた。
「……アルベルティナに、よく似てきたな」
その言葉に、どんな意味が含まれているのかはわからない。
けれど、悪い意味ではないのだろう。
新しい妻を娶ったとはいえ、ボスフェルトの家でアルベルティナの話が禁忌になっているわけではないのだから。
国境から一週間かかるため、前線を容易に離れられないエトは、結婚式まで一度も王都に顔を出すことはなかった。
必要なやりとりはすべて手紙で済ませ、軍の指揮官に任命される際に必要な礼装用の軍服もまた、サスキアの指示のもと、現地で採寸された数字だけで作られた。
サスキアは事前に完成した軍服を見たが、数多くの軍服を作ってきた職人が、
「こんなに体格のご立派な方は初めてです」
と感嘆するくらい、大きなものだった。
(私の旦那様は、熊なのかしら?)
当日朝、王都に到着したエトはまず、サスキアが用意しておいた軍服に袖を通し、王宮で伯爵位の授与と国境駐留部隊指揮官の任命を受けることになっていた。
通常、叙爵や陞爵といった貴族の序列に関する事柄は、人々が多く集まる場で大々的に知らされるものだが、戦時下ということもあり、非公開で行われることに決まった。
何分、『エト』という人物について、何もわかっていない中での大博打。
可能な限り、厄介ごとは避けたいのがラウレンスの本音だ。
もしも、エトが想像以上に厄介な人物であったとしても、非公開の場であればどうとでも隠蔽できる。
そのため、サスキアは婚約者でありながら、『夫』の晴れの舞台に立ち会うことはなかった。
午後。
わずかな立会人のみを招き、サスキアとエトの婚礼が行われた。
時間が限られているせいで、式前に挨拶をすることもできず、本番で初めて、二人は顔を合わせた。
文化が異なるウォボトとダーレイキンでは、国教も違う。
二人とも、とくに信仰する神はないため、彼らの結婚は立会人に誓約を述べる異例の形式で行われた。
立会人を務めたのは、王太子である第一王子ブレフト。
伯爵の結婚式に国王が立ち会うと目立ちすぎる、という理由からだったが、王太子でも十二分に目立つ。
しかし、申し入れを受けて半眼になったサスキアの抗議が受け入れられることはなかった。
ダーレイキン王家としては、たとえ、内輪のみの式であっても、横槍を入れられることなく、国が認めた婚姻であると強調したいのだから。
「エト・クラーセン。そなたは、サスキア・ボスフェルトを妻とし、肩を並べ、手と手を取り、その喜びも苦しみも分かち合い、ともに幸い溢れる人生を送ることを誓うか」
「はい」
ダーレイキン語での問いに、短く答える。
初めて聞いた夫の声は、低く、ざらついていた。
(雷みたいな声ね)
互いに立会人であるブレフトの方を向いているため、サスキアからエトの顔は見えない。
身長差のせいで肩を並べている実感は薄く、ただただ、右側から圧を感じるばかりだ。
「サスキア・ボスフェルト。そなたは、エト・クラーセンを夫とし、肩を並べ、手と手を取り、その喜びも苦しみも分かち合い、ともに幸い溢れる人生を送ることを誓うか」
「はい、誓います」
躊躇いも照れもなく、はっきりと答えると、ブレフトはホッとしたようだった。
「では、誓いの口づけを」
ダーレイキンの結婚式では、ごく自然な流れ。
しかし、ブレフトの言葉がわからなかったのか、エトは戸惑うようにぴくりと肩を動かした。
そのため、サスキアは小声のウォボト語で翻訳する。
≪誓いの口づけをしてください≫
今度ははっきりと、エトの肩が動く。
サスキアが誘うようにエトに体を向けると、ベール越しにじっと彼がこちらを見つめているのがわかった。
(ウォボトの婚礼では、誓いの口づけがないの? あぁ、それとも、契約結婚なのに、なぜ、そのようなパフォーマンスが必要なのか、という意味かしら?)
たとえ、真実が契約結婚であったとしても、世間にはエトが乞うてサスキアを娶った、と思わせる流れにしなくてはならない。
そのためには、なんの瑕疵もない式を執り行う必要がある。
この場にいるほとんどの人間は、契約結婚と知らないのだから。
わずかに顔を伏せ、じっとエトが動くのを待っていると、大きな影で目の前が暗くなった。
サスキアの顔を覆い隠していたベールが、サスキアの顔など一つかみにできてしまいそうな手により、時間をかけて慎重に引き上げられる。
まるで、わずかにでも爪を引っかければ、引き裂いてしまうかのように慎重に。
目の前に、彼女自身がこの日のために手配した王立軍将官の真っ黒な礼装用軍服を飾る金のブレードが見える。
続いて、エトはゆっくりと身を屈め――サスキアの丸い額に、そっと唇を押し当てた。
乾いた、けれど、確かな温もりに、サスキアの胸の奥で、ことり、と何かが動く音がした。
「これで、エト・クラーセンとサスキア・ボスフェルトが夫婦となったことを認める」
厳かなブレフトの声に、サスキアは伏せていた顔を上げ、夫となった人の顔を見上げた。
思っていたよりもずっと遠い顔に、どんな表情が浮かんでいたのかは、すぐに彼が視線を逸らしたため、見えなかった。
けれど、浅黒い肌、襟足で切り揃えられたゆるく波打つ黒髪に縁取られた引き締まった首筋、がっしりとした肩幅に分厚い胸板だけは、記憶に残った。
(この人が、私の旦那様……)
サスキアの、契約夫。
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