幸せは、歩いて来ない。ならば、迎えに行きましょう。

緋田鞠

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「ぃた…」
 ずきり、と、打ち付けた後頭部の痛みで、意識が浮上した。
 ぼんやりと目を開けると、見覚えのない天井がある。
 クロスではなく、正方形の木の板が格子状に貼られている天井は、新婚旅行のパンフレットで見た海外の高級ホテルのようだ。
 あの頃は、夫もまだ、私に優しかった。
「あ、れ…?」
 私は…。
 そう、確か、投げつけられた花瓶を避け損ねて転倒、家具の角に頭を打ち付けて…。
「何処、ここ…」
 病院、だろうか。
 視界に入るのは、病院の大部屋のベッドを囲むカーテンとは随分と赴きが違う布製の仕切り。
 紗のように薄い白い布には、全面に繊細な刺繍が施されている。
 消毒液の匂いはせず、医療機器の電子音、慌ただしく行きかう看護師のサンダルの音なども、聞こえない。
 随分と、静かだ。
「まぁ、お目覚めになりましたか?」
 レースカーテンのように向こう側の影が透けて見える仕切り越しに、声が掛けられた。
「只今、先生をお呼びして参りますね」
 先生、と言うからには、やはり、病院か。
 と言う事は、夫が救急車を呼んでくれたのだろうか?
 流石の彼も、目の前で怪我人が出たら、無視する事は出来なかったようだ。
 その程度の人の心は、まだ持ち合わせていたらしい。
「いたた…」
 起き上がろうとして力を入れると、後頭部だけではなく、背中も痛んだ。
 ベッドについた右手に何やら違和感を覚えて、目を遣る。
「…何、これ」
 カサカサに乾いた四十と思えない肌が、そこにあった。
 水仕事で指先が荒れ、毎日の家事で節が太くなる一方で、皮が張り付くように骨張った指とは比べるべくもない。
 健康的で、女性らしい柔らかな手だ。
「え…?」
 聞こえた声に、思わず喉を押さえる。
 声も、違う。
 年齢を重ねるごとに低く細くなっていった声は、掠れてはいるものの、若々しい。
「ミカエラ!」
 ガチャ、と扉を開く音がして、バタバタと幾つか足音が続く。
 低く、何処か焦ったような男性の声。
「いいか、帳を開けるぞ」
 返事をする前に、シャッとカーテンが開かれた。
「何をしてる、まだ体を起こしては駄目だろう」
 …誰。
 そう、思っているのに。
「ノーレイン閣下…」
 無意識に、名を呼んでいた。
 男性が、不機嫌そうに僅かに口元を引き結ぶ。
 栗色の短髪は、無造作に櫛を通されただけだが、艶がある。
 目尻の切れ上がった瞳の色は、深い深いコバルトブルー。
 削げたようにシャープな頬と、高い鼻梁、薄い唇。
 驚く程に、整った容姿だ。
 精悍な顔立ちは禁欲的で冷たく見えるけれど、どれだけ彼が不愛想でも、ご婦人方は放っておかないだろう。
 左頬に残る傷跡すら、彼の容貌を損なうものではなく、却って惹き立てているように見える。
 長身で肩幅が広く、胸板の厚みはシンプルな白いシャツの上からでもよく判る。
 此処まで鍛え上げられた体を持つのは、彼が自ら剣を持ち、騎士団の先頭で戦う人だからだ。
「…心配した」
 一見、不機嫌に見える位に表情のない彼だが、声は労りに満ちている。
「…ご無沙汰、しております。その上、多大なるご迷惑を、お掛け致しました…」
 口が、勝手に動いて言葉を紡いだ。
 言葉が途切れがちになるのは、声が掠れているからだ。
「迷惑な訳があるか。…十年振りの再会が、思いもよらぬものになったのは確かだが」
 滅多に長文を話さない彼にしては、長い言葉だった。
「ミカエラ、体の痛みはどうだ?お前は、五時間も目を覚まさなかった」
 名を呼ばれて、じわり、じわり、とインクが白い紙に滲むように記憶が蘇って来る。
 そう…私は、ミカエラ・ウェインズ。
 そして、目の前で私の顔を見透かすようにじっと見つめているのは、ダリウス・ノーレイン様。
 ノーレイン公爵、その人だ。
 十年分の年を重ねた彼は、記憶の中の青さが抜けて、年齢相応の落ち着いた空気を纏っている。
「…五時間?今、五時間と仰いましたか?」
 記憶の断絶は、一瞬だった筈だ。
 いや、昏倒している間に、ミカの四十年の人生を生きたのだから、一瞬と言う事はないのか。
 二人分の記憶が鮮明に蘇って、思わず、くらりと眩暈を覚えると、ダリウス様が私の肩を支えてくれた。
「だから、まだ寝ていろと言っただろう」
 乱暴な言葉とは裏腹に優しい手つきで、そのまま、そっと体を横たえられる。
 私は、ダリウス様の公爵襲爵祝いの夜会に呼ばれて。
 そして…。
「申し訳ございません、閣下。わたくし、記憶が混同しているようで…一体、何が起きたのでしょう?」
「…もう、あに様とは呼んでくれないのか?」
 何処か、切なそうな声に、曖昧に笑みを返す。
 過ぎた日々を、思い起こして。
「ダリウス様、目を覚まされたばかりのご婦人に、そのように質問ばかりなさるものではありませんよ。ウェインズ夫人、まずは、診察を致しましょう」
 ダリウス様の背後に控えていた壮年の男性医師に促されて、ダリウス様は気まずそうな顔をした。
 そんな顔をすると、幼い頃、共に遊んだ時分の彼が蘇る。
「…そうだな。では、また」
 軽く手を振って慌ただしく部屋を去る彼に、私が目覚めたと聞いて、執務を中断して顔を出してくれたのだろう、と推測する。
 あれから五時間も経っていれば、既に真夜中だろう。
 けれど、ダリウス様ならば、昏倒した知り合いを放ってそのまま、休むような事はしない。
 私の知る彼は、そう言う人だ。
 真面目で、苛烈で、けれど、懐に入れた人間には、とことん情の深い人。
 胸に感じる痛みに気づかない振りをして、私は、医師の診察を受けた。

***

 長い長い夢を、見ていたようだ。
 ヤマグチ・ミカと言う名の、一人の女性の人生の夢を。
 彼女が、私の前世と呼ばれるものだったのか、それともミカの記憶に潜り込み、その人生を追体験してしまったのか、定かではない。
 けれど、余りにも生々しい感情は、ミカエラ・ウェインズと言う殻の内側に、ヤマグチ・ミカをべっとりと張り付けてしまった。
 ミカの苦しみと絶望が、錘のようにずっしりと心の内側にわだかまっている。
 けれど、ミカエラである私は、ほんの少し、彼女よりも客観的に状況を見られる。
 彼女は、夫と義理の両親に不条理に扱われながら、そこから逃げ出す事も出来ず、「どうしてこんな事に」と嘆きながら生きていた。
 「こんなに尽くしているのに、どうして愛してくれないの」と苦しんでいた。
 最後の記憶は、転倒して頭を家具の角に打ち付けた事。
 ミカは、打ち所が悪くて亡くなったのだろう。
 ミカの人生と、私の人生とは違う。
 だが、何か符号のようなものを感じるのは、私が現在、二十五歳だからだ。
 ミカはずっと、
「もしも、二十五の夏に戻れるのなら」
と考えていた。
 どれだけ尽くそうとも歩み寄らない夫を、今度は選ばない、と言う意思でもって。
 あの二十五の夏に同じ選択をしなければ、幸せになれる筈だ、と固く信じていた。
 いや、信じたがっていた。
 私がミカの人生を今この時、追体験したのは、二十五歳と言う年齢が鍵になっているのだろうか。
 残念な事に、ミカエラ・ウェインズの人生における二十五歳は、ヤマグチ・ミカの人生における二十五歳と大差ない充実度だ。
 私が結婚したのは、二十三歳の時。
 ミカの世界よりも平均寿命の短いこの国の貴族女性の結婚適齢期は、成人する十八歳から五年程。
 婚約さえ結んであれば、実際の結婚は適齢期を幾つか過ぎる事もあるけれど、二十代も半ばを過ぎると、行き遅れ扱いだ。
 私は、マスカネル王国の多くの貴族同様、紹介された相手と結婚した。
 ウェインズ家は、私の父ランドンが軍功を挙げて爵位を授与された男爵家だ。
 領地もなく、王都の小ぢんまりとした屋敷で、貴族とは名ばかりの生活を送っている。
 父には私の他に子はなく、また、マスカネル王国では女性の襲爵が認められていない事から、父の爵位を私が継ぐ事はない。
 領地を有し、領民の生活に責任のある家では、婿養子となった人物が暫定的に爵位を継ぐ事が出来るけれど、ウェインズ家は名誉爵位である為、入り婿の夫マイルズがウェインズ男爵を名乗る事もない。
 唯一、子孫に爵位を引き継ぐ方法は、父が存命の間に、私が男児を授かる事。
 そうすれば、直系男子として私達の代を飛ばし、孫が爵位を受け継ぐ事になる。
 だが、このまま、私がマイルズとの間に男児を授からなければ、国に爵位を返上しなければならない。
 辛うじて、死ぬまでは貴族籍を所持出来るけれど、爵位のない貴族の収入など、たかが知れている。
 …私とマイルズは、結婚して二年経っても、子がいない。
 ミカと同じく、子がない事で、夫に責められる日々だ。
 貴族は貴族同士で結婚する事が多いけれど、父は元々平民だし、男爵の中でも下から数えた方が早い我が家の入り婿となってくれる貴族の子息はいなかった。
 マイルズは、父の弟嫁であるサヴァンナ様の甥で、裕福な商家の次男と言う平民だった。
 ウェインズ家よりも裕福な暮らしをしていた生家での生活を忘れられず、さりとて、折角得た貴族の地位を捨て平民に戻る恥に耐え難く、彼はその鬱憤を私にぶつけ、外に女性を作る事で晴らしている。
 共寝しないのだから、子が出来ないのは当たり前なのだけれど、ミカの夫同様、マイルズは、子が出来ない責任は女性だけにあると思っている。
 「俺に抱きたいと思わせないお前のせいだ」と堂々と言い切る類の男だ。
 夫との仲は良好とは言えない為、本当は、ダリウス様の襲爵祝いにも、夫婦で参加したくはなかった。
 四年前にお亡くなりになったダリウス様のお父君サディアス様は、コーネリアス先王陛下の弟君だった。
 そのサディアス様のお命を、国境線を巡って争っていた隣国ボーディアンとの戦場で守った従騎士が、平民だった父だ。
 サディアス様は当時、王弟であり王位継承権第一位でありながら、最前線に立ち続け、兵を鼓舞されていた。
 兵力に劣るマスカネル王国が、ボーディアン兵を自国に踏み込ませる事なく、国境で踏みとどまる事が出来たのは、サディアス様がその場にいらしたからだ。
 ボーディアンは四十年前、大軍を率いて国境に進軍した。
 そして、サディアス様をお守りする為に、マスカネル兵は死に物狂いで応戦した。
 結果として、後に『マグノリアの奇跡』と呼ばれるこの戦役で、マスカネルは勝利を収め、大打撃を受けたボーディアンと和平協定を結ぶ事になる。
 だが、この時、サディアス様は敵将の手により、大怪我を負われていた。
 本来ならば、高貴な方のお傍に近寄れる筈もない父がお守り出来たのは、それだけ、現場が混沌としていたからだ。
 即死は免れたものの身動きが取れないサディアス様を、文字通り、体を盾にし、向かい来る敵兵を切り捨てて自陣まで連れ帰った父の働きに報いる為、先王陛下は、父を男爵へと叙してくださった。
 これにより、父は貴族の末席に座す事となったのだ。
 以降も、サディアス様は何かと父を気に掛けてくださって、長く交流は続いた。
 先王陛下に王子殿下がお生まれになった後、サディアス様はお子様方と共に臣籍へと下り、ノーレイン公爵を名乗るようになる。
 その頃、漸く遅い結婚をし、娘を授かった父は、折に触れて幼い私を連れて、ノーレイン公爵邸にお邪魔していた。
 貴族社会のしがらみがなく、言葉に裏表のない父とだから、サディアス様は、気楽に付き合う事が出来たのだろう、と今ならば判る。
 けれど、幼い私は当時、よく遊んでくれた四つ年上のダリウス様と自分の身分の隔たりを、理解する事が出来なかった。
 だからこそ、末子で兄と呼ばれてみたかったダリウス様の求めるままに、「あに様」と呼んでいたのだ。
 ダリウス様は今や、公爵閣下。
 そして、私はウェインズ男爵に連なるだけの夫人。
 ウェインズ男爵は今現在も父ランドンなので、貴族籍はあっても、私自身は何者でもない。
 末端も末端である私が、公爵邸の門を十年振りにくぐる事となったのは、招待状を受け取った父の名代としてだった。
 王家に連なるノーレイン公爵家ともなれば、招待客は錚々たる面々だ。
 一男爵家が招かれるような場所ではないのだけれど、義理堅いダリウス様は、父を招待してくださった。
 だが、父は二年前に母を亡くして以来、気鬱に苦しんでいる。
 貴族の社交をして来なかった父に、サディアス様以外に友と呼べる人がいないのも影響しているのだろう。
 とうに騎士の職は辞し、滅多に屋敷の外に出る事もない。
 庭にすら出られない父が、人も多く華やかな襲爵祝いの夜会に顔を出せる筈もなかった。
 お祝いのお言葉だけお贈りして欠席する、と言う方法がないわけではないものの、お世話になったノーレイン公爵家のお招きをお断りするなど、誰が許しても父自身が許せない。
 そこで、ダリウス様と面識のある私が、名代として立つ事になったのだ。
 女性が一人で夜会に出るなんて聞いた事がないし、既婚者である以上、夫以外の男性にエスコートを頼むわけにもいかない。
 そもそも、エスコートを頼めるような相手もいない。
 何より、ダリウス様は未婚。
 昔馴染みとは言え、自身は何者でもない私が一人で挨拶したら、周囲からどのような白い目で見られる事か。
 『昔馴染みを理由に公爵閣下にすり寄る恥知らず』程度で済めば、御の字だ。
 下手をすると、ウェインズ家を招待してくださったダリウス様に、ご迷惑をお掛けする事になる。
 普段は私からマイルズに頼み事をする事はないが、共に出席してくれるよう頼むと、彼は二つ返事で了承した。
 流石に、果たさねばならない義理を理解してくれたのだろう、と思い込んでしまった私が悪かったのだ。
 襲爵祝いの夜会で、精一杯の装いを凝らした私達夫婦は、明らかに浮いていた。
 それはそうだろう。
 落ち着いたボルドーのドレスはお気に入りだけれど、昨シーズンの流行りだ。
 見た所、下級貴族で招かれているのは、ウェインズ家ただ一つ。
 周囲には、流行の最先端のドレスに、ふんだんに宝石を使われた装飾品を身につけた方ばかり。
 ウェインズ家は、まともに社交を行って来ていないから、私の顔を知る方など、まずいない。
 あれは誰だ、と訝し気な視線を気にしないよう、背筋だけは伸ばして、挨拶するタイミングを計る。
 心なしか若い女性が多いのは、ダリウス様と面識を得たいと希望しているからか。
 何しろ、十年振りに公の場に出た彼は、国を代表するノーレイン公爵家当主であり、先の戦争の英雄であり、見目麗しい方なのだ。
 縁を繋ぎたいと思う人々が多いのは、当然の事。
「おい、何で、挨拶に行かないんだ。招待されてるんだろ。勿体ぶってんのか?」
 開会から、優に一時間は経っていたが、挨拶の列はまだ途切れそうにない。
 列が向かう先には、襲爵から半年経って漸く披露目の宴を開く事が出来たダリウス様と、お母君のフェリシア様がいらっしゃる。
 遠目からではあるけれど、お二人ともがお元気そうなご様子に、ホッと胸を撫で下ろした。
 列に並ぶ事すらしない私に、苛立たし気に言うマイルズに、答える。
「わたくし達の順番は、最後ですもの。夜会終了までにご挨拶が出来ればいいのだけれど…出席した事は控えが取られているから、万が一、ご挨拶出来なくても仕方ないわね」
「…は?何でだよ?別にいつ行ったっていいだろう?」
 思わず、唖然として彼の顔を見た。
 …まさか、主催者に挨拶出来るのは爵位が上の者から、と言う常識を、知らないのだろうか。
 そう言えば、招かれる事もないから、これまで、マイルズと夜会に出席した事はない。
「なぁ、早い所、俺を公爵に紹介してくれよ。ボクストン商会を売り込むんだからさ」
 あぁ、そうか。
 いやに機嫌よく出席してくれると思ったら、実家の商会を売り込みたくて、彼は私について来たのか。
 ボクストン商会は、裕福な平民向けの商品を取り扱う商会だ。
 扱っている商品は、平民向けの物の中では品質が高い物だし、我が家のように末端の貴族であれば、十分だ。
 けれど。
 相手は、王族に連なるノーレイン公爵。
 懇意にされている商会は、王家御用達だ。ボクストン商会が入り込める場所ではない。
「…ちょっと待って。わたくしは、公爵閣下に襲爵のお祝いとお招きいただいたお礼を述べるだけよ?私的な会話は出来ないわ」
「はぁ?じゃあ、何で、俺がついて来たんだよ」
 声が大きくなるマイルズを、慌てて広間の外に連れ出す。
 端の方にいたとは言え、あのような大声で話されては、衆目を浴びてしまう。
「お父様の名代とは言え、わたくし一人では不都合だからよ」
「親父さんと先々代公爵は、友達だったんだろ?」
「友達だなんて、大きな声で言わないで。不敬だわ。確かに、交流させて頂いていたけれど」
「だったら、息子の公爵だって俺の話を聞いてくれるだろ」
 何故、そう話が飛躍するのか。
「…あのね。確かに、閣下は古い縁を大切にしてくださったけれど、わたくし達はそのご厚意に甘えられる立場にないのよ」
 サディアス様が父を友としてくれたのは、父が騎士であり、彼の方の剣となれたからだ。
 けれど、私は女だし、マイルズは商人で、閣下の剣にはなれない。
 父が騎士を辞した今、ウェインズ家がノーレイン家のお役に立てる事は、何一つないのだ。
 今回、招待して頂いた事だって、身に余るご厚意なのに、それ以上、何を望むと言うのか。
「何だよ、来て損した。ほんっと、役に立たないな、お前は」
 時間の無駄だ、と帰ろうとするマイルズを、思わず、手を伸ばして引き留める。
「待って、挨拶だけは、」
「知らねぇよ!お前の都合なんか」
 思い切り手を振り払われ、力任せに肩を突き飛ばされた。
 まさか、招待先の公爵邸で、いい歳の大人が感情任せの行動を取るとは考えてもいなかった私は、不意を打たれて蹌踉よろめく。
 普段ならば踏みとどまれただろうに、夜会用の履き慣れないヒールで足元が覚束ず、ぐらりと後ろに傾いだ。
 その瞬間。
「…きゃあ!」
 上がった悲鳴は、誰の物だったのか。
 転倒した私は、後頭部を固い何かに打ち付けて、意識を失ったのだった。

***

 医師の診察を受け、彼の質問に答えるうちに、我が身に何が起きたのか、徐々に思い出して来た。
 マイルズに、私に怪我をさせようと言う明確な意思があったわけではないだろう。
 彼は、物事を深く考えない性質だ。
 だが、彼の取った行動で、私は人事不省に陥り、ノーレイン公爵家に多大なるご迷惑を掛けてしまった。
 この先、ウェインズ家にどのような沙汰がくだるのか、と思うと、暗澹たる気持ちになる。
「あぁ、傷口は塞がっていますな。暫く安静にしていれば、開く事もないでしょう」
 医師は、後頭部に貼られたガーゼを外して傷口を検分すると、満足そうに頷いた。
「頭からは、多量の出血をするのですよ。傷口そのものは、大きなものではありません。完治すれば、気になる事はないでしょう」
 その言葉にホッとする。
 傷跡に髪が生えない、と言うのはよく聞く話だ。
 髪を長く伸ばしているから隠す事は出来るだろうが、これ以上、マイルズに傷物と謗られるのは嫌だった。
「それにしても、ダリウス様が取り乱すお姿を拝見するのは、久方振りでした。前回も、ウェインズ夫人…ミカエラ様がお怪我をなさった時でしたな」
 その言葉に、目の前の医師が、まだ青年だった時分を思い出す。
「あの時の…!」
 はしたなくも思わず声を上げると、医師は、にこ、と微笑んだ。
 あれは…そう、今から十五年前になるだろうか。
 懐かしく、そして、苦い思い出が、鮮やかに蘇った。
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