幸せは、歩いて来ない。ならば、迎えに行きましょう。

緋田鞠

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 ノーレイン家での波乱のお茶会の後、どうなったかと言うと。
 私は、ダリウス様に挨拶する事なくウェインズ家に送り届けられ、後日、破けたドレスの代わりが贈られて来た。
 我が家で仕立てたものよりも数段上等なものだったけれど、ノーレイン公爵邸以外にお呼ばれする事のない私が袖を通す事はなく、気づいたら小さくなっていた。
 また、私の顔には、右のこめかみから目尻に向かって、小指の先程の大きさの傷跡が残った。
 刃物でスパンと切れた傷ではなく、枝によってギザギザと裂かれた傷だったからだろう。
 周囲よりも白く浮いているものの、余程近くで注視しなければ気づかないし、お化粧や髪で幾らでも隠せるから、私自身は気にしていないのだけれど、世間様的には「傷物」になった。
 だから、なのかどうか、十代も半ばになり、周囲のご令嬢に婚約者が決まり始める年齢になっても、婚約の打診は一つもなかった。
 そもそも、父は社交がからっきしだったので、ウェインズ家に適齢期を迎えた娘がいる、との情報すら、出回っていたかどうかもあやしい。
 その上、ウェインズ家は名誉爵位の為、相手方にうま味はない。
 爵位を継がない貴族の三男、四男ならば、割り切って手を挙げてくれるのでは、なんて考えは、甘かった。
 その頃、ハーヴェイ王太子殿下がご結婚なさった。
 体調を崩されていると噂されていたものの、無事に成人なさった翌年、カタリナ・メディセ公爵令嬢と婚儀を挙げられたのだ。
 同年、ノーレイン公爵家ご嫡男ユリシーズ様が、従妹であるアラベラ王女殿下とご結婚。
 王家の慶事が、続いた。
 王家には、ハーヴェイ王太子殿下の他に王子はない為、王太子殿下ご夫妻に王子殿下がお生まれになるまで、第二位のユリシーズ様と、第三位のダリウス様の王位継承権が繰り下がる事はない。
 …頭では判っていたつもりだったけれど、ハーヴェイ王太子殿下のご成婚時に、改めて王位継承権の話題が出て、ダリウス様は雲の上の人だったのだな、と実感する事となった。
 何故、ご令嬢方やサディアス様が私の存在を気に掛けたのか、これ以上なくはっきりと理解させられたのだ。
 国としての変化はありつつも、父ランドンとサディアス様は相変わらず仲が良く、交流は続いていた。
 しかし、家族ぐるみと言えるような付き合いはなくなり、寄宿舎生活を送られているダリウス様との交流は、年に一度、ダリウス様のお誕生パーティに家族で招待されて、お祝いの挨拶をする時だけになった。
 ダリウス様は士官学校で多忙な毎日を送られていたのだし、お茶会でのサディアス様とダリウス様の会話を聞いていなければ、寂しさの反面、当然の事だと受け止めていたと思う。
 けれど、意図的に交流が制限されている、と知ってしまった私の気持ちは、もっと複雑なものだった。
 幼馴染とは言え、互いに婚約者のいない身だ。
 特に、ダリウス様はご婚約者の選定に慎重にならなければいけないお立場だ。
 ノーレイン家の後継者と、王家の後継者は、切っても切れない関係にある。
 次代の王が何方になるかで、ダリウス様の将来も大きく変わってしまう。
 ハーヴェイ王太子殿下が即位し、ユリシーズ様がノーレイン公爵位を継ぎ、ダリウス様が伯爵位か子爵位を授爵する、と言う未来か。
 ハーヴェイ王太子殿下に何事かが起き、ユリシーズ様が即位し、ダリウス様がノーレイン公爵位を継ぐ、と言う未来か。
 …即位前のお二人に何事かが起き、ダリウス様が即位する、と言う未来か。
 彼の妻となる女性は、子爵夫人になる可能性も、王妃になる可能性もある。
 お立場がどうなろうと彼の隣に立つ事を望む婚約者を選ばなければならないダリウス様に、要らない詮索をされるような人間が近づくのは望ましくない。
 何も気づいていない父に、
「ダリウス様と遊べなくて、残念だなぁ」
と言われても、
「忙しいんだし、男の付き合いってものもあるんだよ」
なんて、適当な言葉で、曖昧に笑みを返すしかなかった。
 そんな中だった。
 和平協定を結んでいた隣国ボーディアンが、一方的に協定を破棄し、国境へと向かって進軍して来たのは。
 サディアス様が大怪我を負われながらも、マスカネル王国が勝利を収めた『マグノリアの奇跡』から三十年後。
 ボーディアンは、国力の回復と共に、再び、戦端を切ろうとした。
 そこで、国が考えたのが、『マグノリアの奇跡』の英雄であるサディアス様のご子息ダリウス様を、王立騎士団北方軍の団長としてボーディアンとの国境に送り出す、と言うもの。
 ダリウス様のお母君フェリシア様は、ボーディアンとの国境を守るキャンビル辺境伯家のご令嬢だった。
 ダリウス様にとって、母方の祖父君である辺境伯閣下と共闘する事は、至極当然だ、と言うのが国の主張だ。
 その時、ダリウス様は十九歳。
 成人を迎えながらも、ご結婚どころかご婚約者もいらっしゃらなかったのは、ハーヴェイ王太子殿下ご夫妻にお子様がいらっしゃらない事も理由の一つだったと思うけれど、ご自身が戦地へと向かわれる意味を、よく理解なさっていたからなのだろう。
 お見送りには、私も伺った。
 お見送りと言っても、ノーレイン公爵家にも、ダリウス様にも、尊重しなければならない家はたくさんある。
 だから、大勢の見送りの端の方で、目立たないように立っていただけだ。
 軍馬にまたがり、北へと向かう騎士団の紺色の制服が、昇り始めた朝日に金色に光った事を覚えている。
 士官学校を首席で卒業されたダリウス様は、十九歳と言う異例の若さで一軍の長を任されながらも、その重圧に惑う様子もなく、堂々と歩みを進めていらした。
 サディアス様もまた、成人して直ぐに長のお役目を務められた事も、理由にあるかもしれない。
 ――彼の馬が一瞬、足を止めたのは、私の前だった。
 馬上から私を見下ろして、
「…ミカエラ。幸せになれ」
 そう、周囲に聞こえない位に小さな声で、告げて。
 朝日の逆光で、その時のダリウス様の表情は見えなかった。
 無言で頭を下げながら、私はその言葉だけを胸に、それからの十年を歩んで来たのだ。
 夫マイルズとの縁談が持ち上がったのは、女学校を十八で出て、病に伏せがちな母の代わりに家政を担っていた私に、二十三歳になっても婚約者がいなかった為。
 領地も資産もなく、傷物令嬢で容姿に優れているわけでもなく、適齢期も終わりを迎え若さすら失っていく私に、今後、求婚者が現れると思われなかった為だ。
 父の弟嫁であるサヴァンナ様から紹介されたマイルズは一つ上で、如何にも遊び慣れた風情の優男だった。
 裕福な商家の次男坊として、懐にも時間にも余裕のあった彼は、あちこちをふらふらしては浮名を流していたらしい。
 女癖の悪い甥の事を心配したサヴァンナ叔母様に、名誉爵位の男爵だろうと、貴族の一員になれば落ち着く筈だ、との思惑の元、引き合わせられたのだが、初対面の印象は、そう悪いものではなかった。
 マイルズは遊び慣れているだけあって、女性との会話にも如才なく、ごく普通な私の容姿を上手に褒め、将来の家庭像についても前向きに話していたから、彼となら、それなりの結婚生活が送れるのではないか、と縁談を承諾した。
 病床の母を安心させたかったのも、大きな理由だ。
 婚前の異性関係など、清算さえしてくれれば、問題ではなかった。
 最初から、恋愛結婚は望んでいない。
 男爵家の娘に相応しい相手と、相応しい生活を送れれば、それで良かった。
 それこそがきっと、『幸せ』と言う事なのだろうから。
 私は、ダリウス様に『幸せになれ』と言われているのだ。
 『幸せ』に、ならねばならない。
 けれど、結婚した途端に、マイルズは私を蔑ろにするようになる。
 異性との交友などダリウス様を除いてなかったし、彼の本性を見極められなかったのだ、と言われれば、その通り。
 最初の躓きは、初夜だった。
 貴族の娘らしく、「旦那様に全てをお任せする」心積もりで閨を迎えた私を見て、彼はこう言い放った。
「実家の為に貴族の身分が欲しくて結婚したけどさ、お前、俺の好みじゃないんだよな」
「…え…」
「俺はもっと、守ってやりたい感じの、可愛い儚い子がいいんだよ。お前、真逆だろ?」
「それは…見た通りですけれど…」
 ヒールを履いたら、マイルズと大して身長が変わらない私が、儚く見えるわけもない。
 だが、そんな事は、初対面の時点で判っていただろうに。
「男心は、お前が思ってるより繊細なわけ。俺に抱いて欲しかったら、精一杯媚びてみせろよ」
「…」
「そしたら、何とか目ぇ瞑って抱いてやるからさ」
 私は無言で、寝室を後にした。
 心に大きな溝を刻んで以来、私達夫婦が共寝する事はない。
 共に暮らしていても、顔を合わせる事もない。
 互いに、相手こそ歩み寄ってくるべきだ、と考えていたせいもある。
 それでも、離縁せずに二年間、夫婦のままでいるのは、病に伏せていた母の最期の願いが私の結婚だった事、母の死に衝撃を受けた父が気鬱に陥ってしまった事が大きい。
 父に、この上、娘の離縁と言う衝撃まで与えたくなかった。
 マイルズは、実家のボクストン商会の役員として名を連ねているので、父が騎士を辞めた今、その給与がウェインズ家に入るのも正直に言って有難い。
 マイルズとの結婚の為に雇用した使用人達の給与は、そこから出ているからだ。
 彼等は、マイルズの世話だけではなく、家の中全般を整えてくれるので、大いに助かっている。
 末端ではあっても、ウェインズ家は貴族。
 平民にとって貴族の地位は利用価値が高いらしく、マイルズもウェインズの名で稼いでいるのだから、お互い様だと思っている。
 …けれど。
 私が夫の事を何も知らないせいで、ノーレイン公爵家にご迷惑をお掛けしてしまった。
「ウェインズ夫人、頭を打ってらっしゃるので、念の為、本日はこちらでお休みください」
 医師にそう声を掛けられて、ハッと彼の顔を見る。
 つい、記憶をぼんやりと思い返してしまったけれど、その様子が、頭を打ったせいだと思われてはいないだろうか。
「頭と言うのは、人体にとって大切な場所ですから。出血が止まっていても、中で問題が起きる事があるのですよ。あぁ、脅しているわけではないのですが、せめて、一晩は様子見させてください。ご自宅には、ダリウス様が遣いをやったようですから、ご安心を」
「…有難うございます。あの…夫は」
「あ~…私は、詳しくは存じ上げないのです、申し訳ございません。明日の朝、ダリウス様が時間を取ると仰っていましたから、その際にご説明頂ける事でしょう」
「承知致しました。有難うございます」
 では、と、辞去する医師に頭を下げて、私は再び、柔らかな寝台に沈み込んだ。



 翌朝。
 私は、久し振りに爽快な気分で目が覚めた。
 貴族のものとしては小振りな自宅では、夜中に帰宅する夫、彼の出迎えでばたつく使用人達の立てる物音、寝付けず廊下を徘徊する父の足音で、眠りが浅かった。
 家政を一手に引き受けている女主人として、家長の役割が重荷となっている父の代理として、常に気を張っていたのもあるかもしれない。
 公爵邸でも、警備の観点から夜中であろうと人は動いている筈だけれど、彼等が足音一つ立てずに動けるのか、それとも、部屋の壁が分厚くて音が響く事もないのか、いつになく深く眠れたらしい。
 私が起きた事に気が付いたのだろうか。
 扉が、静かにノックされた。
「おはようございます、ウェインズ夫人」
 ノックにいらえを返すと、大きな包みを捧げ持った女性が、静々と入室する。
「あら…もしかして、レベッカさん…?」
「はい。ご無沙汰しております」
 私がダリウス様と遊んでいた時分に、お茶をよく淹れてくれていたのが、彼女だった。
 あの頃、まだ侍女になって二、三年目位だった筈だから、今は四十歳前後――ミカと同年代だ。
「どうぞ、昔のようにミカエラと呼んでくださいませ。何だか、お恥ずかしいですわ」
「でしたら、ご要望にお応えしまして、ミカエラ様。こちらは、旦那様からでございます。急な事で、お召し物をご用意する事が叶いませんでした。大奥様が、お若い時分にお召しだったドレスを是非、との事です」
 旦那様、と言われて、咄嗟にサディアス様の顔を思い浮かべたけれど、今のノーレイン公爵家の当主は、ダリウス様だ。
 その昔は、『ダリウス坊ちゃま』と呼ばれていたのに、今では旦那様なのか、と何だか感慨深いものがある。
 私は、熊のようだと言われた父に似て、女性の中では長身な方だ。
 その為、着替えを借りるにしても、一般的な婦人用ではなかなか丈が合うものがない。
 けれど、武勇を誇るキャンビル辺境伯家のご令嬢だったフェリシア様も、私と同じ位の身長でいらっしゃるから、フェリシア様のドレスであれば、恐らく、着られる。
 …問題は、公爵夫人がお召しだったドレスを貸して頂くなんて、恐れ多い、と言う事で。
「まぁ…有難うございます。でも、よろしいのでしょうか」
「ノーレイン家がお招きしましたのに、ご不便をお掛けするわけにはいかないとの事でございますので、どうぞ、お受け取りくださいませ。お着替えは、わたくしがお手伝いさせていただきます」
 レベッカさんの手を借りて、こんな事がなければ一生触れる事もなかったであろう上質な手触りのドレスに袖を通す。
 ブルーグレーのドレスは、若いご令嬢には些か地味かもしれないけれど上品で、フェリシア様であれば、今でもお似合いになりそうだ。
「朝餐の間で、旦那様がお待ちでございます」
 癖っ毛を丁寧に編み込んでまとめてくれたレベッカさんに頷いて、案内されるがままに、公爵邸を進んだ。
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