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ガランドゥ 2話 『祈らぬ司祭』
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【9】
藍川が地面を這う概怪の下へ向かう。
「さて、問題はこいつだ」
「中々キモいですけど……興味深いですね」
「お前……案外学者向きかもな」
口の複数付いた気味の悪い腕。粳部にはそれが先に戦っていたあの大きな概怪の中に居たという事実が理解できない。何故、あれの体内に隠れていたのか。それともあれに食べられていたのか。知識の乏しい粳部には判断できない。
「さっき心に触れて分かった。逃げたデカブツがこの概怪を食わされてた」
「く、食わされた?同族を食べるんですか?」
「自発的にはやらない。これは人為的だ」
藍川が概怪を足で突つくと震え、奇妙な鳴き声がか細く聞こえる。彼は口元を手で覆い険しい表情をした。粳部には考えの及ばないことがこの世には多い。
「……人為的ってどういうことです?」
「誰かが概怪に概怪を食わせてアレを作った……目的は知らん」
「何が何だか……」
理解できない生態と目的に困惑していると、粳部はふと前進する概怪の先に視線が行く。概怪がゆっくりと這う先にあったのは散らばる複数のボタン。辺りを見渡すと点々と落ちており、彼女はその中で一つ見知ったボタンを見つける。
彼女がそれを拾い上げた。
「私の財布のボタンだ……ヤバイ!財布だけ再生してない!?」
「……でもお前、何で肉だけじゃなく服まで再生するんだ?」
「それは私にも……噛まれた時にやられましたね」
どういうわけか、粳部の着用した衣服であれば再生は可能だった。昨日の実験ではコインを持ってそのコインだけを破壊する実験を行ったが、手に持ったコインは再生しなかった。恐らく衣服だけは再生可能なのだろう。
「とにかく、これ捕まえて一旦外に出ましょうよ」
そう言って粳部が概怪を掴み取ろうと近寄った時、彼がそれを手で制止する。
「待て、確認する」
「確認?」
そう言うと藍川は概怪の口に手を突っ込みその中身を探る。粳部は目的が分からず一瞬困惑するが、内容物を調べたいのかもしれないと推測して納得した。
「うおっ!?」
「……あったぞ」
彼は拳を握ったまま口から引き抜くと、黒い墨汁のような液体を払って手を開く。そこからジャラジャラと金属が落ち、彼女は最初は何も分からなかったものの並べていくとすぐにそれが何か分かった。
「これって……」
「ボタンだな」
床に転がっているのはシャツのボタン、財布のボタン、鞄のボタン。材質や形状、大きさ関係なく様々なボタンが奴の胃袋の中に入っていたのだ。
その中でシャツの布が残っているボタンがあった。血の赤が染みているが。
「このボタン……シャツの」
藍川は汚れてない手を懐に突っ込むと一枚の写真を取り出す。
「似てないか?」
それは行方不明者の写真。コンビニの防犯カメラに映っていた時と同じシャツであり、解像度は低いものの色も似ている。つまり、被害者が確定したのだ。
「あっ!」
「当たりだ。これが原因かもな」
「原因って……ボタンがですか?」
「俺の服にボタンはない。先頭の俺を無視した理由はそれだろ」
粳部が今まで見ていた世界は藍川の世界と全てが違う。職員や彼が襲われず、粳部や被害者が襲われた原因はシンプルにボタンの有無であった。理屈は不明だが事実として彼らは襲われている。
藍川は耳元の無線に手を当てて谷口に呼び掛けた。
「谷口?谷口聞こえるか」
『襲われたようですね。今話しかけようかと思ってました』
「……ラジオか。谷口を呼んだんだが」
この不安定で特殊な空間でもラジオの権能は機能する。原理は不明だが、音が出る機械であれば無条件にジャックできるわけだ。大きな音が通路に響く。
「シャッターに引きずり込まれた。概怪は分裂して逃亡、一体は確保」
『逃げられましたか……』
藍川は再び概怪の口に手を突っ込み物体を取り出す。やはりボタンだ。
「攻撃条件は分かったが、問題は逃げたもう一体だ」
『また珍しい事例を引きましたね……』
「あと、対象の等級はγ+相当だ。で、谷口は?」
γ+ということは染野と同格。重傷を負ってΩ+の力を発揮できず権能を自由に使えない藍川、不死身とはいえ戦い慣れていない粳部。不死身の彼女は問題ないが、彼がこれ以上傷付かないような戦い方をできるか粳部は不安だった。
『それなんですが……谷口さんから通路が消えて連絡が取れないって』
「えっ!?じゃあもしかして……逃げ道ない感じ?」
万全でない状況で最悪の相手と当たってしまった。自分が足を引っ張らないか心配な彼女にとって、この状況は彼を人質に取られたようなもの。未熟な彼女は今以上の無茶を要求されている。
「取り敢えず、拘束部隊を周辺に待機だ。すぐに片付ける」
「すぐにって!?」
『了解、お願いします』
そう言うと音声が途絶えラジオとの通信が終わる。藍川は足下の概怪を小脇に抱えて立ち上がり、今度は彼らが概怪を追い込むターンがやってきた。
「……俺だけでも何とかできるぞ」
「そんな頼り切りの女が、自分で元の体に戻ろうと考えると思います?」
粳部にはまだ知らないことがある。恐怖に怯えることもあるかもしれない。だが、彼女は逃げようとは思わない。忘れ物を取り返すまでは帰る場所なんてありはしないのだ。
「……考えて欲しくないんだがな」
寂しげな通路。蛍光灯の灯りは薄暗く、とても信頼に足るものではない。一寸先は闇というほどではないが、進むことに不安を覚えてしまうのは確かだ。概怪の音と気配はどこにもなく、二人は敵の位置を分からないまま進む。
「指輪……してましたっけ」
二人が別れ道を右に曲がった時、彼女は彼の薬指に嵌められた光る物の存在に気が付く。銀色に光る誓いの輪。
「ああ、これは俺の祭具だよ」
「おしゃれなですね。運命はいい仕事しましたよ」
「祭具を出さなければ権能は行使できない。指輪でも我慢だな」
彼からすれば納得がいっていないらしい。シンプルな装飾の銀色の指輪。美しい意味を持ったその指輪が指に宿った瞬間、人の尊厳を踏みにじる権能が発動する。誓いの指輪に似合わない汚れたおぞましい力が。
「……谷口さんも司祭みたいですけど、どんな祭具なんです?」
「ホイッスルだ。権能は……まあ言わないでおく」
祭具の形状は人によって様々だ。染野の祭具は白い手袋、藍川は指輪、谷口はホイッスル。人によっては刀や斧といった武器の形をした祭具もあるが、武器でも何でもない形をした祭具も人によってはある。
だが、結局は殴り合いが一番強い。
「等級がΩらしいですけど、相当強いんじゃないですか?」
「俺達のとっておきの切り札だよ」
二人は左へ曲がる。足音は二人分から増えることも減ることもなく、異常な空間だけが延々と続いている。だが、概怪のお膝元だというのに概怪の気配も音も一切しないのだ。
彼が何かに勘付いたような顔で足を止め、それに伴い粳部も止まる。
「粳部、何メートル歩いた?」
「そんなの分からないくらい歩きましたよ」
「俺達が入ったシャッターの先は、改札口に続く地下道だ」
「え?」
約四百メートルほどの長さの地下道。数年前に藍川が利用した際はシャッターが降りておらず、何の問題もなく改札まで導いてくれていた。複数の出口への分岐で初めての利用者は困惑したかもしれないが、慣れれば普通の地下道だ。
だというのにこれは。
「こんなに遠いわけがない!」
瞬間、通路の奥から腕が飛び出す。彼は弾こうとした腕を掴まれたが、力任せに振り払いその手で叩き折った。粳部の方にも腕は向かうが、現れた黒い怪物がそれを掴んでへし折る。
「逃がすか!」
藍川は権能を発動し、その動きを止めにかかる。だがしかし、心に触れた瞬間にそれは逃げ出した。彼の権能は通用しなかった。
概怪が腕を引っ込めて暗がりに消える。音はどこまでも続く通路に反響して消え、先程までと同じように辺りは静まり返った。そこには気配も残っていない。
「追わないんですか!?」
「……相手の心がかなり弱い。俺の権能が効きにくい」
「さっきは効いたのに?」
「さっきは二つの概怪が混じっていた。分かれた今は無理だ」
敵を確かに追い込んでいたというのに、肝心な時に権能が通用しない。神様にコントロールされているのかと思うほど、異様に運が悪い。藍川が権能を使うことができない相手、それは自分よりも心が弱い相手。
だが、泣き言を言っている場合ではない。
「しかし、一度だけ心に触れられた。これだけでもめっけもんだよ」
「何か分かったんですか」
「ああ、この地下道は迷路と化してる」
それは駅の構造上の欠陥というわけではない。ただ単に、あの腕の概怪が迷路にしてしまっているだけだ。ここに入らない限り、普通は誰も死にはしないだろう。通りがかるだけで襲ったりはしないのだ。
今回の問題は、ボタンを捕食する概怪を取り込んだことに原因がある。
「四百メートル以上歩いているが、改札に着いてないだろ」
「迷路ですし、何か正解のルートがあるんじゃ?」
「……出口がランダムにシャッフルされるそうだ」
今まで歩いてきた道にヒントはなく、これから歩く道も全てはランダムだ。この地下道が無限に続くような感覚に囚われる藍川だが、負傷している以上それはきっと永遠ではない。その血が尽きる時が彼の最後だ。
「……右の道に戻るか」
「分からない以上、試すしかないですからね」
二人は来た道を引き返し、先ほど曲がらなかった右への道を選ぶ。粳部は変わらない通路のデザインに気が滅入り始めていた。
足音だけが響く。概怪がこちらに来てくれることを願っているというのに。
「……これじゃ、正解かどうか」
奥に進むとそこは再び別れ道。あと何回これを繰り返せば終点に辿り着けるのか。迷宮の出口を見つけ、そこで概怪と決着を着けなければない。
その時、藍川の傷口から血が噴き出て足が止まる。治りかけだった古い傷口が裂けてしまったのか、これでまた傷が一からぶり返してしまった。粳部を心配して無理をした結果、遂に彼の体の限界が近付く。
「鈴先輩!」
「まだ死にしはない。大丈夫だ、大丈夫な筈なんだ」
再び藍川は足を踏み出す。痩せ我慢と書かれた藍川の背中を見つめる彼女は、何を考えているのだろうと彼は思っていた。愚かさに怯えているのか、ここに来たことを後悔するのか。だが、権能なしでは粳部の心は分からない。
今度も二人は右の道を進む。
「……無茶ですよ」
「ッ!来るぞ!」
不意に暗闇から腕が飛び出し、藍川の首をめがけて愚直に進む。出血で感覚が鈍っている彼だが根性でそれを弾き、その腕を掴んだ。だが、彼にやり返すように二本の腕が飛んでいく。
「ええい!」
しかし、背後から飛び出した粳部と怪物が腕を弾き、彼の掴んだ腕を引っ張る。彼は奥に居る概怪を引きずり出そうと力を込めた。だが概怪もそれを察し、自分の腕を自ら切り落として再び暗闇に消える。
「これじゃイタチごっこですよ!」
「分かってる!だが道については運なんだ!」
「でも……ん?」
その時、何かに気が付いた粳部が足を止める。
「そうだ……別に出口を探す必要はないんですよ」
「ん?出口を探さんことには……」
「概怪を釣り上げるんですよ!私を囮にして!」
彼女の言うことに藍川が焦る。彼女が不死身であることは彼も重々承知だった。しかし数秒後に不死身の効果が切れ、不意打ちで本当に死んでしまう可能性はあるのだ。それに、藍川は粳部に傷付いて欲しくなかった。
「お前何言ってるんだ!?」
「いや、正確には私が囮じゃなくて!私の怪物を囮にするんです!」
「怪物を囮に……できるのか?」
「怪物は腕が伸ばせますから、奥に伸ばして釣り上げます!」
極めて合理的な作戦だ。実質脱出できない迷宮に人を捕らえ、暗がりから遠距離攻撃を仕掛けて持久戦を強いる概怪。ならば、概怪を暗がりから釣りあげて接近戦に持ち込むというのは最適解に近い。
「どこまで伸ばせるかは分からないですけど」
「……やっぱり、お前は適性あるよ」
「あんまり嬉しくないですけどね……」
「まあ、俺の命の恩人になるかもしれないんだ。喜べよ」
「えへへ……じゃあ、やりますね」
粳部が意識を集中する。空間を引き裂くようにして黒い怪物が現れると、その腕を遠くの暗がりまで伸ばしていく。殆ど反乱していたというのに、突然粳部にすんなりと従う黒い怪物。この不安定ささえなければ安心できるのに。
その時、伸ばし続けていた怪物の腕が止まり、突然震え始める。
「つ、釣れました!こっちに引っ張りますよ!」
「よくやった!仕留めるぞ!」
黒い怪物が大きく腕を振り、伸ばした腕を縮めていくと遂に概怪が顔を出す。無理やり引きずり出された概怪は抵抗できずに彼らへと向かい、藍川は黒い怪物の想像を絶するパワーに驚愕する。
だが藍川も動き、概怪の口に持っていた概怪を放り込んだ。
「何で食べさせちゃうんですか!?」
「これで俺の権能が適用できる。ここからが本番だぞ」
準備は既に完了している。藍川の権能は自分よりも心が弱い相手には効果がない。最初に遭遇した概怪には通用したが、それは概怪のメンタルが藍川を上回っていた為に通用したのだ。これで全ては元通り。
藍川は構えを取り、自身の権能を発動する。
『停止!』
権能を使った反動の苦痛が押し寄せ、立っていられず膝を着く藍川。今回は相当な反動で耐え切れず、彼は苦しみのあまり悶え苦しむ。
「はあ……はあ……!」
「鈴先輩!?」
「早くやれえ!」
「ッ!?」
粳部が覚悟を決めると概怪を蹴り飛ばす。概怪がよろめくその先に黒い怪物が現れる、思い切り殴り抜けた。吹き飛ぶ巨体に押し潰される粳部だが、怪力で巨体をどかして跳び上がると壁を蹴り、概怪から瞬時に距離を置く。その不死身さに藍川すら恐怖した。
心への干渉が終わり、概怪も藍川も動き出す。
「おりゃああ!」
「行くぞ!」
その時、概怪が変形すると小さな十字架のような形に変わる。凝縮された概怪の体から飛び出す腕の槍は、以前よりも圧倒的な速度と威力だった。躱し切れずに突き刺さる粳部と全てを回避して進む藍川。凝縮されたことで概怪の速度が上がり、彼の拳を全て回避して数多の腕を至近距離から浴びせる。
直撃する直前、藍川の権能が発動した。
『自滅』
藍川に向かっていた腕の槍は折れ曲がり、その全てが概怪に突き刺さる。痛みから暴れる概怪に彼は肘打ちを叩き付け、概怪の背後に回った粳部も殴りかかった。姿勢を崩す概怪に黒い怪物が殴り、その腕を伸ばすと概怪の全身を包み込む。完全に抑え込んだように見えたが、黒い怪物を数多の腕の槍が貫いた。
「お、抑え込めません!」
「攻撃スタイルが変わったな!手を緩めるな!」
黒い怪物は塵となって霧散し、中から飛び出した腕の槍は収束して粳部の腹に突き刺さる。そのまま飛ばされて彼女は壁に釘付けにされるが、概怪が接近し至近距離から更に腕で串刺しにする。歴代最悪の痛みに彼女の意識が揺らぐ。
「があああああっ!?」
『トラウマ』
権能が発動し金切り声を上げる概怪。暴れ回る概怪は自分を刺したり壁を刺したりと混乱し、伸びた腕の一つは藍川の足を貫く。足を振ってそれを折り後退する彼だが、足の怪我からか迫る槍を避け切れずにいくつか刺さっていく。
刹那、激昂した粳部が奮起した。
「やったなあああ!?」
粳部は自分の体に槍が突き刺さるのも気にせずに進み、全力で概怪を殴りぬける。概怪が飛んでいくと二人の体から槍が抜けた。その途端に凝縮されていた概怪の体が元の大きさに戻り、その巨体が粳部を食い潰そうと襲い掛かる。
「今だ粳部!」
「自業自得だ!」
『停止』
彼の権能で概怪が静止する。瞬間、粳部の背後に現れた黒い怪物は大量の槍を概怪に射出した。概怪のやり方を真似て粳部が黒い怪物にやらせた大技。概怪の全身に槍が突き刺さり、遂に動きを停止したそれは粳部へと倒れていく。
彼女を押し潰して事態は収束した。
【11】
「粳部、粳部!」
「……鈴先輩?」
バタバタと走る誰かの足音と、どこかで赤く点滅する光が粳部の眠りを妨げる。彼女が文句の一つでも言おうかと意識を揺り動かすと、視界の夜空に全てを持っていかれた。
驚いて粳部が飛び起きる。
「ここは?」
「全部終わってもう外だ。拘束部隊が概怪を運搬してるよ」
「……トドメ、刺せてたっすか?」
「ああ、助かったよ本当に」
疲れ気味の笑みを見せる藍川。彼女の助力は無駄にはならなかったらしい。粳部は役立たずで終わらなかったことを安堵する。激しい戦闘で彼の傷を増やしてしまったものの、生きているのだからそれでいい。
ふと、二人は近付いてくる誰かに気が付く。
「全身ミンチから再生できたか。いよいよ概怪の類いだな粳部」
「えっ?」
「谷口……怪我人は楽で良いよな」
「嫌味か、勘弁してくれ」
こうして彼と面と向かって話すと少し久しい気分になる粳部。あの迷路をずっと歩き続けることは、粳部が考えている以上に危険なことだったのかもしれない。彼女が時間の感覚を取り戻し始める。
「概怪を運搬してた時、壁からミンチになったお前が出て……」
「谷口!」
「すまん。で、生存者だが……輸送時に胃から見つかったぞ」
「まだ生きてたか!」
概怪の輸送時、中身を軽く調べた時に胃から数人の遺体と生存者一人が見つかっていた。体内がある程度物理法則を無視しているおかげで、縮んだりしても特に影響がなかったようだ。
「だが、酸で溶けてたり腕が千切れてたりと悲惨だ」
「そんな……その人もう、おしまいじゃ」
「……この場合は蓮向かいの医療班が最善を尽くす」
「生存者はまだいい。しかし、死人はもう無理だ」
これがあの高給の理由なのだと彼女はようやく理解する。一歩間違えれば死人に、運が良くても全身が溶けた生存者に。どんな職員も高給で雇われているが、彼女にはこの額ではその命に見合っていると到底思えなかった。
「そりゃ、子供でも採用しますよ。司祭なんですから」
残酷なものだ。特に、蓮向かいが向き合わなければならない現実は。
谷口が話を再開する。
「例の概怪なんだが、デカい腕の方はこの地区の概怪じゃなかった」
「やっぱりそうか……」
「……まさか」
それは話していた概怪が移動をしているという情報に繋がるのではないだろうかと粳部が考える。彼女の身に起きた異変のような、謎の変化がどこかで。
「隣の地区で観測されていた『招き手』だ。突然の失踪でお手上げだった」
「ボタンの概怪を食わされて、ここに移動したんすか?」
「そう考えるのが自然だが、如何せん経緯が分からない」
経緯。何かに心を動かされ体が突然走り出す。そんなことが概怪にあるのだろうか。人間らしいことなんて。しかし、心というのが何か引っかかる粳部。
その時、聞き慣れない快活な足音が響く。
「目撃箇所は私が盗聴してましたが、突然概怪の音が消えたんですよね」
「……えっ、誰ですか?」
「誰って、お前は今日も話しただろ?」
「話した?話したって……」
彼女には目の前に現れた金髪の女に欠片も見覚えがない。だが、彼女は今日も話している。そして、粳部はその挑発的な声色に聞き覚えがあった。何故か、どこかで彼女と何度か話をしたような気がするのだ。
「ああ、対面は初めてでしたね。初めまして」
「そうだ、粳部にはまだ顔を見せてなかったよな」
「ちょっと!誰なんですかこの人!」
「いつも皆を盗聴してる性格の悪い女ですよ」
女は粳部に近付いて目の前で足を止める。腰に差した日本刀が揺れていた。
「どうも、あなたの町のラジオちゃんです」
「……あの人実体あったんですか!?」
「人のこと何だと思ってんですかね……」
藍川が地面を這う概怪の下へ向かう。
「さて、問題はこいつだ」
「中々キモいですけど……興味深いですね」
「お前……案外学者向きかもな」
口の複数付いた気味の悪い腕。粳部にはそれが先に戦っていたあの大きな概怪の中に居たという事実が理解できない。何故、あれの体内に隠れていたのか。それともあれに食べられていたのか。知識の乏しい粳部には判断できない。
「さっき心に触れて分かった。逃げたデカブツがこの概怪を食わされてた」
「く、食わされた?同族を食べるんですか?」
「自発的にはやらない。これは人為的だ」
藍川が概怪を足で突つくと震え、奇妙な鳴き声がか細く聞こえる。彼は口元を手で覆い険しい表情をした。粳部には考えの及ばないことがこの世には多い。
「……人為的ってどういうことです?」
「誰かが概怪に概怪を食わせてアレを作った……目的は知らん」
「何が何だか……」
理解できない生態と目的に困惑していると、粳部はふと前進する概怪の先に視線が行く。概怪がゆっくりと這う先にあったのは散らばる複数のボタン。辺りを見渡すと点々と落ちており、彼女はその中で一つ見知ったボタンを見つける。
彼女がそれを拾い上げた。
「私の財布のボタンだ……ヤバイ!財布だけ再生してない!?」
「……でもお前、何で肉だけじゃなく服まで再生するんだ?」
「それは私にも……噛まれた時にやられましたね」
どういうわけか、粳部の着用した衣服であれば再生は可能だった。昨日の実験ではコインを持ってそのコインだけを破壊する実験を行ったが、手に持ったコインは再生しなかった。恐らく衣服だけは再生可能なのだろう。
「とにかく、これ捕まえて一旦外に出ましょうよ」
そう言って粳部が概怪を掴み取ろうと近寄った時、彼がそれを手で制止する。
「待て、確認する」
「確認?」
そう言うと藍川は概怪の口に手を突っ込みその中身を探る。粳部は目的が分からず一瞬困惑するが、内容物を調べたいのかもしれないと推測して納得した。
「うおっ!?」
「……あったぞ」
彼は拳を握ったまま口から引き抜くと、黒い墨汁のような液体を払って手を開く。そこからジャラジャラと金属が落ち、彼女は最初は何も分からなかったものの並べていくとすぐにそれが何か分かった。
「これって……」
「ボタンだな」
床に転がっているのはシャツのボタン、財布のボタン、鞄のボタン。材質や形状、大きさ関係なく様々なボタンが奴の胃袋の中に入っていたのだ。
その中でシャツの布が残っているボタンがあった。血の赤が染みているが。
「このボタン……シャツの」
藍川は汚れてない手を懐に突っ込むと一枚の写真を取り出す。
「似てないか?」
それは行方不明者の写真。コンビニの防犯カメラに映っていた時と同じシャツであり、解像度は低いものの色も似ている。つまり、被害者が確定したのだ。
「あっ!」
「当たりだ。これが原因かもな」
「原因って……ボタンがですか?」
「俺の服にボタンはない。先頭の俺を無視した理由はそれだろ」
粳部が今まで見ていた世界は藍川の世界と全てが違う。職員や彼が襲われず、粳部や被害者が襲われた原因はシンプルにボタンの有無であった。理屈は不明だが事実として彼らは襲われている。
藍川は耳元の無線に手を当てて谷口に呼び掛けた。
「谷口?谷口聞こえるか」
『襲われたようですね。今話しかけようかと思ってました』
「……ラジオか。谷口を呼んだんだが」
この不安定で特殊な空間でもラジオの権能は機能する。原理は不明だが、音が出る機械であれば無条件にジャックできるわけだ。大きな音が通路に響く。
「シャッターに引きずり込まれた。概怪は分裂して逃亡、一体は確保」
『逃げられましたか……』
藍川は再び概怪の口に手を突っ込み物体を取り出す。やはりボタンだ。
「攻撃条件は分かったが、問題は逃げたもう一体だ」
『また珍しい事例を引きましたね……』
「あと、対象の等級はγ+相当だ。で、谷口は?」
γ+ということは染野と同格。重傷を負ってΩ+の力を発揮できず権能を自由に使えない藍川、不死身とはいえ戦い慣れていない粳部。不死身の彼女は問題ないが、彼がこれ以上傷付かないような戦い方をできるか粳部は不安だった。
『それなんですが……谷口さんから通路が消えて連絡が取れないって』
「えっ!?じゃあもしかして……逃げ道ない感じ?」
万全でない状況で最悪の相手と当たってしまった。自分が足を引っ張らないか心配な彼女にとって、この状況は彼を人質に取られたようなもの。未熟な彼女は今以上の無茶を要求されている。
「取り敢えず、拘束部隊を周辺に待機だ。すぐに片付ける」
「すぐにって!?」
『了解、お願いします』
そう言うと音声が途絶えラジオとの通信が終わる。藍川は足下の概怪を小脇に抱えて立ち上がり、今度は彼らが概怪を追い込むターンがやってきた。
「……俺だけでも何とかできるぞ」
「そんな頼り切りの女が、自分で元の体に戻ろうと考えると思います?」
粳部にはまだ知らないことがある。恐怖に怯えることもあるかもしれない。だが、彼女は逃げようとは思わない。忘れ物を取り返すまでは帰る場所なんてありはしないのだ。
「……考えて欲しくないんだがな」
寂しげな通路。蛍光灯の灯りは薄暗く、とても信頼に足るものではない。一寸先は闇というほどではないが、進むことに不安を覚えてしまうのは確かだ。概怪の音と気配はどこにもなく、二人は敵の位置を分からないまま進む。
「指輪……してましたっけ」
二人が別れ道を右に曲がった時、彼女は彼の薬指に嵌められた光る物の存在に気が付く。銀色に光る誓いの輪。
「ああ、これは俺の祭具だよ」
「おしゃれなですね。運命はいい仕事しましたよ」
「祭具を出さなければ権能は行使できない。指輪でも我慢だな」
彼からすれば納得がいっていないらしい。シンプルな装飾の銀色の指輪。美しい意味を持ったその指輪が指に宿った瞬間、人の尊厳を踏みにじる権能が発動する。誓いの指輪に似合わない汚れたおぞましい力が。
「……谷口さんも司祭みたいですけど、どんな祭具なんです?」
「ホイッスルだ。権能は……まあ言わないでおく」
祭具の形状は人によって様々だ。染野の祭具は白い手袋、藍川は指輪、谷口はホイッスル。人によっては刀や斧といった武器の形をした祭具もあるが、武器でも何でもない形をした祭具も人によってはある。
だが、結局は殴り合いが一番強い。
「等級がΩらしいですけど、相当強いんじゃないですか?」
「俺達のとっておきの切り札だよ」
二人は左へ曲がる。足音は二人分から増えることも減ることもなく、異常な空間だけが延々と続いている。だが、概怪のお膝元だというのに概怪の気配も音も一切しないのだ。
彼が何かに勘付いたような顔で足を止め、それに伴い粳部も止まる。
「粳部、何メートル歩いた?」
「そんなの分からないくらい歩きましたよ」
「俺達が入ったシャッターの先は、改札口に続く地下道だ」
「え?」
約四百メートルほどの長さの地下道。数年前に藍川が利用した際はシャッターが降りておらず、何の問題もなく改札まで導いてくれていた。複数の出口への分岐で初めての利用者は困惑したかもしれないが、慣れれば普通の地下道だ。
だというのにこれは。
「こんなに遠いわけがない!」
瞬間、通路の奥から腕が飛び出す。彼は弾こうとした腕を掴まれたが、力任せに振り払いその手で叩き折った。粳部の方にも腕は向かうが、現れた黒い怪物がそれを掴んでへし折る。
「逃がすか!」
藍川は権能を発動し、その動きを止めにかかる。だがしかし、心に触れた瞬間にそれは逃げ出した。彼の権能は通用しなかった。
概怪が腕を引っ込めて暗がりに消える。音はどこまでも続く通路に反響して消え、先程までと同じように辺りは静まり返った。そこには気配も残っていない。
「追わないんですか!?」
「……相手の心がかなり弱い。俺の権能が効きにくい」
「さっきは効いたのに?」
「さっきは二つの概怪が混じっていた。分かれた今は無理だ」
敵を確かに追い込んでいたというのに、肝心な時に権能が通用しない。神様にコントロールされているのかと思うほど、異様に運が悪い。藍川が権能を使うことができない相手、それは自分よりも心が弱い相手。
だが、泣き言を言っている場合ではない。
「しかし、一度だけ心に触れられた。これだけでもめっけもんだよ」
「何か分かったんですか」
「ああ、この地下道は迷路と化してる」
それは駅の構造上の欠陥というわけではない。ただ単に、あの腕の概怪が迷路にしてしまっているだけだ。ここに入らない限り、普通は誰も死にはしないだろう。通りがかるだけで襲ったりはしないのだ。
今回の問題は、ボタンを捕食する概怪を取り込んだことに原因がある。
「四百メートル以上歩いているが、改札に着いてないだろ」
「迷路ですし、何か正解のルートがあるんじゃ?」
「……出口がランダムにシャッフルされるそうだ」
今まで歩いてきた道にヒントはなく、これから歩く道も全てはランダムだ。この地下道が無限に続くような感覚に囚われる藍川だが、負傷している以上それはきっと永遠ではない。その血が尽きる時が彼の最後だ。
「……右の道に戻るか」
「分からない以上、試すしかないですからね」
二人は来た道を引き返し、先ほど曲がらなかった右への道を選ぶ。粳部は変わらない通路のデザインに気が滅入り始めていた。
足音だけが響く。概怪がこちらに来てくれることを願っているというのに。
「……これじゃ、正解かどうか」
奥に進むとそこは再び別れ道。あと何回これを繰り返せば終点に辿り着けるのか。迷宮の出口を見つけ、そこで概怪と決着を着けなければない。
その時、藍川の傷口から血が噴き出て足が止まる。治りかけだった古い傷口が裂けてしまったのか、これでまた傷が一からぶり返してしまった。粳部を心配して無理をした結果、遂に彼の体の限界が近付く。
「鈴先輩!」
「まだ死にしはない。大丈夫だ、大丈夫な筈なんだ」
再び藍川は足を踏み出す。痩せ我慢と書かれた藍川の背中を見つめる彼女は、何を考えているのだろうと彼は思っていた。愚かさに怯えているのか、ここに来たことを後悔するのか。だが、権能なしでは粳部の心は分からない。
今度も二人は右の道を進む。
「……無茶ですよ」
「ッ!来るぞ!」
不意に暗闇から腕が飛び出し、藍川の首をめがけて愚直に進む。出血で感覚が鈍っている彼だが根性でそれを弾き、その腕を掴んだ。だが、彼にやり返すように二本の腕が飛んでいく。
「ええい!」
しかし、背後から飛び出した粳部と怪物が腕を弾き、彼の掴んだ腕を引っ張る。彼は奥に居る概怪を引きずり出そうと力を込めた。だが概怪もそれを察し、自分の腕を自ら切り落として再び暗闇に消える。
「これじゃイタチごっこですよ!」
「分かってる!だが道については運なんだ!」
「でも……ん?」
その時、何かに気が付いた粳部が足を止める。
「そうだ……別に出口を探す必要はないんですよ」
「ん?出口を探さんことには……」
「概怪を釣り上げるんですよ!私を囮にして!」
彼女の言うことに藍川が焦る。彼女が不死身であることは彼も重々承知だった。しかし数秒後に不死身の効果が切れ、不意打ちで本当に死んでしまう可能性はあるのだ。それに、藍川は粳部に傷付いて欲しくなかった。
「お前何言ってるんだ!?」
「いや、正確には私が囮じゃなくて!私の怪物を囮にするんです!」
「怪物を囮に……できるのか?」
「怪物は腕が伸ばせますから、奥に伸ばして釣り上げます!」
極めて合理的な作戦だ。実質脱出できない迷宮に人を捕らえ、暗がりから遠距離攻撃を仕掛けて持久戦を強いる概怪。ならば、概怪を暗がりから釣りあげて接近戦に持ち込むというのは最適解に近い。
「どこまで伸ばせるかは分からないですけど」
「……やっぱり、お前は適性あるよ」
「あんまり嬉しくないですけどね……」
「まあ、俺の命の恩人になるかもしれないんだ。喜べよ」
「えへへ……じゃあ、やりますね」
粳部が意識を集中する。空間を引き裂くようにして黒い怪物が現れると、その腕を遠くの暗がりまで伸ばしていく。殆ど反乱していたというのに、突然粳部にすんなりと従う黒い怪物。この不安定ささえなければ安心できるのに。
その時、伸ばし続けていた怪物の腕が止まり、突然震え始める。
「つ、釣れました!こっちに引っ張りますよ!」
「よくやった!仕留めるぞ!」
黒い怪物が大きく腕を振り、伸ばした腕を縮めていくと遂に概怪が顔を出す。無理やり引きずり出された概怪は抵抗できずに彼らへと向かい、藍川は黒い怪物の想像を絶するパワーに驚愕する。
だが藍川も動き、概怪の口に持っていた概怪を放り込んだ。
「何で食べさせちゃうんですか!?」
「これで俺の権能が適用できる。ここからが本番だぞ」
準備は既に完了している。藍川の権能は自分よりも心が弱い相手には効果がない。最初に遭遇した概怪には通用したが、それは概怪のメンタルが藍川を上回っていた為に通用したのだ。これで全ては元通り。
藍川は構えを取り、自身の権能を発動する。
『停止!』
権能を使った反動の苦痛が押し寄せ、立っていられず膝を着く藍川。今回は相当な反動で耐え切れず、彼は苦しみのあまり悶え苦しむ。
「はあ……はあ……!」
「鈴先輩!?」
「早くやれえ!」
「ッ!?」
粳部が覚悟を決めると概怪を蹴り飛ばす。概怪がよろめくその先に黒い怪物が現れる、思い切り殴り抜けた。吹き飛ぶ巨体に押し潰される粳部だが、怪力で巨体をどかして跳び上がると壁を蹴り、概怪から瞬時に距離を置く。その不死身さに藍川すら恐怖した。
心への干渉が終わり、概怪も藍川も動き出す。
「おりゃああ!」
「行くぞ!」
その時、概怪が変形すると小さな十字架のような形に変わる。凝縮された概怪の体から飛び出す腕の槍は、以前よりも圧倒的な速度と威力だった。躱し切れずに突き刺さる粳部と全てを回避して進む藍川。凝縮されたことで概怪の速度が上がり、彼の拳を全て回避して数多の腕を至近距離から浴びせる。
直撃する直前、藍川の権能が発動した。
『自滅』
藍川に向かっていた腕の槍は折れ曲がり、その全てが概怪に突き刺さる。痛みから暴れる概怪に彼は肘打ちを叩き付け、概怪の背後に回った粳部も殴りかかった。姿勢を崩す概怪に黒い怪物が殴り、その腕を伸ばすと概怪の全身を包み込む。完全に抑え込んだように見えたが、黒い怪物を数多の腕の槍が貫いた。
「お、抑え込めません!」
「攻撃スタイルが変わったな!手を緩めるな!」
黒い怪物は塵となって霧散し、中から飛び出した腕の槍は収束して粳部の腹に突き刺さる。そのまま飛ばされて彼女は壁に釘付けにされるが、概怪が接近し至近距離から更に腕で串刺しにする。歴代最悪の痛みに彼女の意識が揺らぐ。
「があああああっ!?」
『トラウマ』
権能が発動し金切り声を上げる概怪。暴れ回る概怪は自分を刺したり壁を刺したりと混乱し、伸びた腕の一つは藍川の足を貫く。足を振ってそれを折り後退する彼だが、足の怪我からか迫る槍を避け切れずにいくつか刺さっていく。
刹那、激昂した粳部が奮起した。
「やったなあああ!?」
粳部は自分の体に槍が突き刺さるのも気にせずに進み、全力で概怪を殴りぬける。概怪が飛んでいくと二人の体から槍が抜けた。その途端に凝縮されていた概怪の体が元の大きさに戻り、その巨体が粳部を食い潰そうと襲い掛かる。
「今だ粳部!」
「自業自得だ!」
『停止』
彼の権能で概怪が静止する。瞬間、粳部の背後に現れた黒い怪物は大量の槍を概怪に射出した。概怪のやり方を真似て粳部が黒い怪物にやらせた大技。概怪の全身に槍が突き刺さり、遂に動きを停止したそれは粳部へと倒れていく。
彼女を押し潰して事態は収束した。
【11】
「粳部、粳部!」
「……鈴先輩?」
バタバタと走る誰かの足音と、どこかで赤く点滅する光が粳部の眠りを妨げる。彼女が文句の一つでも言おうかと意識を揺り動かすと、視界の夜空に全てを持っていかれた。
驚いて粳部が飛び起きる。
「ここは?」
「全部終わってもう外だ。拘束部隊が概怪を運搬してるよ」
「……トドメ、刺せてたっすか?」
「ああ、助かったよ本当に」
疲れ気味の笑みを見せる藍川。彼女の助力は無駄にはならなかったらしい。粳部は役立たずで終わらなかったことを安堵する。激しい戦闘で彼の傷を増やしてしまったものの、生きているのだからそれでいい。
ふと、二人は近付いてくる誰かに気が付く。
「全身ミンチから再生できたか。いよいよ概怪の類いだな粳部」
「えっ?」
「谷口……怪我人は楽で良いよな」
「嫌味か、勘弁してくれ」
こうして彼と面と向かって話すと少し久しい気分になる粳部。あの迷路をずっと歩き続けることは、粳部が考えている以上に危険なことだったのかもしれない。彼女が時間の感覚を取り戻し始める。
「概怪を運搬してた時、壁からミンチになったお前が出て……」
「谷口!」
「すまん。で、生存者だが……輸送時に胃から見つかったぞ」
「まだ生きてたか!」
概怪の輸送時、中身を軽く調べた時に胃から数人の遺体と生存者一人が見つかっていた。体内がある程度物理法則を無視しているおかげで、縮んだりしても特に影響がなかったようだ。
「だが、酸で溶けてたり腕が千切れてたりと悲惨だ」
「そんな……その人もう、おしまいじゃ」
「……この場合は蓮向かいの医療班が最善を尽くす」
「生存者はまだいい。しかし、死人はもう無理だ」
これがあの高給の理由なのだと彼女はようやく理解する。一歩間違えれば死人に、運が良くても全身が溶けた生存者に。どんな職員も高給で雇われているが、彼女にはこの額ではその命に見合っていると到底思えなかった。
「そりゃ、子供でも採用しますよ。司祭なんですから」
残酷なものだ。特に、蓮向かいが向き合わなければならない現実は。
谷口が話を再開する。
「例の概怪なんだが、デカい腕の方はこの地区の概怪じゃなかった」
「やっぱりそうか……」
「……まさか」
それは話していた概怪が移動をしているという情報に繋がるのではないだろうかと粳部が考える。彼女の身に起きた異変のような、謎の変化がどこかで。
「隣の地区で観測されていた『招き手』だ。突然の失踪でお手上げだった」
「ボタンの概怪を食わされて、ここに移動したんすか?」
「そう考えるのが自然だが、如何せん経緯が分からない」
経緯。何かに心を動かされ体が突然走り出す。そんなことが概怪にあるのだろうか。人間らしいことなんて。しかし、心というのが何か引っかかる粳部。
その時、聞き慣れない快活な足音が響く。
「目撃箇所は私が盗聴してましたが、突然概怪の音が消えたんですよね」
「……えっ、誰ですか?」
「誰って、お前は今日も話しただろ?」
「話した?話したって……」
彼女には目の前に現れた金髪の女に欠片も見覚えがない。だが、彼女は今日も話している。そして、粳部はその挑発的な声色に聞き覚えがあった。何故か、どこかで彼女と何度か話をしたような気がするのだ。
「ああ、対面は初めてでしたね。初めまして」
「そうだ、粳部にはまだ顔を見せてなかったよな」
「ちょっと!誰なんですかこの人!」
「いつも皆を盗聴してる性格の悪い女ですよ」
女は粳部に近付いて目の前で足を止める。腰に差した日本刀が揺れていた。
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「人のこと何だと思ってんですかね……」
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