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笑う死者
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6月13日。
その日、聖真学園高校の校舎の周辺は、正に蜂の巣を突いたような喧騒に包まれていた。
時刻は午後6時12分。
もはや宵闇が迫る時刻だというのに、辺りは一向に静かになる気配を見せなかった。
事件現場となったのは、校舎の正面入口のほぼ真正面にあたる場所だった。
校舎の屋上から真下へと望む校庭前のコンクリートの舗装道路の部分から半径50メートル以内のその地点には、既に黄色地に黒い文字の警戒色で『KEEP OUT 立ち入り禁止』の封鎖用ロープが張られている。
多くの警察官や教師達が、校門から我先にと情報を集めようと、今しも校舎になだれ込もうとしているマスコミや報道陣、帰宅の途についていたはずの生徒達や、野次馬な周辺住民への対応に苦慮していた。
放課後に起こった事件だけに学園に残っていた生徒達は残らず事情聴取の為に学園内に留め置かれる事となった。
その為、校門にごった返す人混みの中には生徒達の保護者の姿も見られ、彼らが乗りつけてきた自家用車が交通渋滞を招き、場の収拾はさらに混乱を究めた。
警察官達の一部には交通整理にあたる者もいた。
ニュースや刑事ドラマなどでよく見掛ける、紺色の作業服に帽子を被った鑑識課員達や、スーツを着た刑事達の姿も既に見える。
乱舞するパトカーの赤色灯の光。
報道陣のカメラのフラッシュ。
見知った人間の突然の死に、泣き出す女生徒達の悲痛な声。
ひそひそと聞こえてくる人々の噂。
心配げに校舎の方を窺っている様子の保護者達。
事故現場の付近だろうとおかまいなしに、はしゃぎ回っている近所の子供達。
黙々と作業を進める鑑識課員と警察官。
まるでおかしな縁日にでも来たような騒ぎだな…。
警視庁捜査一課、強行犯係の刑事である花屋敷優介は、現場の慌ただしい空気の中にあって不謹慎にもそう感じてしまった。
綺麗で優しげな名前とは似ても似つかない、花屋敷の大柄な体格と終始不機嫌とも取れる特徴的で無骨な顔立ちは、一年365日、殺害現場がラブホテルの一室であろうと場末のスナックだろうと、どの現場であっても目立っていた。
私服を着ている時など、花屋敷は警官に職務質問された経験もあるほどだ。
花屋敷の警察学校時代のあだ名は、何を隠そう『力也』である。
不本意にも厳つい顔立ちで有名な芸能人にそっくりであった為だ。
花屋敷の元に事件発生の呼び出しを告げる電話があってから、既に30分ほどが経過している。
平日に、たまたま非番で今日は夜の街にでも繰り出そうかと自宅の安アパートの布団の上で安眠中だった彼は、今や、ささやかな刑事の休日を邪魔された腹いせも手伝って、いつもの三割増しの不機嫌な表情で現場に来ていた。
おかげでインタビューに応じてほしいという、騒がしいマスコミへの対応や年頃の生徒達への聞き込みなどという繊細さを要する(と思われる)作業にはあたらずに済んだ。
事件性が認められなければ所轄の目黒警察署に任せて本庁に帰る身の上とはいえ、初動捜査を円滑に進める上では実に適切な役割分担であったかもしれない。
現場に到着して速やかに花屋敷は上司であり、班長でもある本庁側責任者の磯貝警部の元を訪れ、すぐさま現場検証の支援にあたる事になった。
そして花屋敷は今、死んだ女生徒が最後に地上に立っていたであろう屋上にいる。
高さ2メートルはある、テニスコートのフェンスのような金網を乗り越え、地上25メートルはある、高さ三階の鉄筋コンクリートの校舎のこの屋上から、女生徒は飛び降りたようだ。
花屋敷は金網越しに遥か眼下の地上を見下ろした。
物言わぬ女生徒の死体と痛々しい肉片は既に片付けられ、現場の周辺は相変わらず騒然としていた。
上の方から望めば確かに、不謹慎にもお祭りの縁日に見えなくもない光景ではある。
もっとも、そこに人々の笑顔などない。
夕闇迫る学園には今、都会の日常に突如として穿たれた非日常への恐怖心と、被害者の孤独な死に対する憐憫や同情。そして悲しみの仮面に素顔を隠した様々な好奇の視線があるだけだ。
花屋敷は暗鬱とした思いで視線を逸らした。
「花屋敷、そちらに何か遺留品の類はあったか?」
屋上の現場検証を指揮していた班長の磯貝省吾警部は、白い手袋を嵌め直しながら、ちょうど生徒が飛び下りた地点を記した白いチョークで描かれた場所にいる花屋敷の方へと歩いてきた。
白髪混じりのグレーの髪をオールバックにして口ヒゲを蓄えた、年の頃はおよそ50ぐらい。鷲のような鼻と鋭い目つきが印象的な背の高い紳士風の男である。そのダンディな風貌と面倒見のよい性格で、署内の女性警官達にもファンが多いと聞く。
花屋敷の現場勤務の経験は一から十までこのマシーンのように精密かつ冷静で、優秀な警部に叩き込まれたといっていい。プライベートでも一人身の花屋敷と離婚したばかりの磯貝警部は馬が合った。
確かちょうど飛び降りた生徒と同じ年頃の一人娘がいるようだが、詳しくは知らない。元の奥さんとの事は磯貝警部から話さない限りは聞かない事にしていた。
職場の上司と部下という間柄を越え、今では公私ともに二人はある種の信頼関係で結ばれているといってもよかった。
「ああ警部、お疲れ様です。
残念ながら手掛かりになるような物はここには何もありませんね。遺書の類も見当たりませんし…。今、石原に教室にある被害者の私物品をあたらせています」
「そうか…休みの所、呼び出して本当にすまなかったな、花屋敷」
「いえ…自宅待機も仕事のうちですから」
「まったく、難儀そうな事件だな。
花屋敷、石原が戻り次第、簡単だが今後の指示を出す。今回は所轄と共同で、正式な捜査会議は明日以降にもつれそうだ。
それとな…まだ未確認情報ではあるんだが、もし今回の事件に他殺の線もあるとなると、本庁の方は別の責任者を寄越すらしい」
磯貝警部は僅かに声を潜めた。花屋敷は目を丸くする。
「…え?所轄主導で、警部が我々の指揮を取る捜査協力じゃないんですか?」
花屋敷は今や刑事ドラマではお馴染みの所轄と本庁の軋轢というヤツが大の苦手だった。人事異動が多い警察官の現実はドラマほど極端ではないにせよ、他所の現場ではなんにせよ気は遣う。
刑事ドラマなどではよく所轄の刑事達にとっては、生え抜きのキャリアを擁する本庁組という連中はエリート集団で、目の上のたん瘤のような煙たい存在である方がストーリーの展開上都合がいいらしい。法廷ミステリーで主人公の弁護士や検事のライバルキャラクターが、嫌味なエリートといった風体で描かれるのと同じだ。
現場への対応の仕方が所轄と本庁のやり方ではまるで違うのは事実だ。これは事件の大小という意味ではなく、凶悪な事件ほど警視庁のような規模の大きい組織力が必要というだけの話だ。
マスコミや報道関係への対応といった外面だけはよくて事件捜査は所轄の刑事達に任せきり。細かい指示は二の次という、絵に描いたような出世第一主義の手合いなど現実にはなかなかいないものなのだ。要するに階級社会というものの印象から受ける、やっかみ感情から生まれた副産物のような設定なのだろう。
事件解決となれば手柄は丸ごと頂いて本庁へと凱旋していく。これも誤りだ。所轄側にとって警視庁側はあくまで捜査協力という名目でやって来る。
いきなり有象無象の手下を連れて大挙して押しかけて好き放題荒らし回り、奪うだけ奪って山へと帰っていく山賊のような迷惑な連中と思われている節があるが、実際そんなことはない。
今回の花屋敷達のように班長を擁する、比較的小規模な班構成で捜査協力に回ることも多い。
事件は呆れるほど多い。
要するに忙しいのだ。
「ああ、キャリア出身の若い警視が俺の代わりだそうだ。今回は俺も駒の一つであり補佐だよ。合流するのは明日以降だろうが、飛び降りた生徒を見たという目撃証言の多数がアレではな…時間の問題だろう」
「ええ、いかがわしい噂で世間に注目される事件なんて、お偉方にとってはさぞかし美味しい餌に見える事なんでしょうね…。名目は若手のキャリアに現場経験を積ませるといったところですか。まあよくある話ですが」
二人は揃って不機嫌な顔を隠そうともしなかった。
理由は簡単である。
この事件が、ただの自殺などであるはずがないからだ。
飛び降りた女生徒は、ここミッション系私立高校、聖真学園高校の2年B組の生徒で名前は川島由紀子という17才の少女である。
死亡推定時刻は多数の目撃証言などから既にはっきりしており、これは午後5時37分。
放課後のグラウンドで部活の練習中だった野球部とサッカー部、テニス部の生徒達が甲高いおかしな笑い声とトタン板が落ちた時のような乾いた音を聞いている。
墜落途中の川島由紀子を目撃したという生徒達もいた。
近隣の住民の中にも音や声こそ聞いていないが、学園の屋上から墜落していく人影を見たという同じ証言が得られた。
この学園の屋上部分は他の学校とは違い、やや風変わりな構造になっている。
屋上入口のドアとちょうど反対側には、やたらと豪奢で大きな時計塔の入口があり、この近くで彼女は墜落した為に時刻まで正確に覚えられていた訳である。
またこの時計塔はこの学園の名物でもあるらしく、近隣の住民にも時間を知らせる為に作られたというだけあってやたらと目立つ。
内部は学園資料館も兼ねており、学校という環境にあっては通常は自殺防止の為に屋上などは立入禁止にする所だが、この学園に限ってはそういった処置はとられていなかったようだ。
聖真学園の校舎は鉄筋コンクリート製。
死体があった場所は三階建ての校舎の前にある、グラウンドと校舎のちょうど中間にある道路のど真ん中。
そこに川島由紀子は倒れていた。
「警部」
「…ん? なんだ花屋敷」
花屋敷は重苦しい沈黙を破って上司に呼びかけた。殺伐とした現場の雰囲気にあてられたのか、些か厭な気分だった。厄介な身内の事よりも今はできる事から片付けていきたい気分だった。
「…警部は今回の事件を、正直どう考えているんですか?
これから自殺しようとする人間が狂ったように笑いながら金網を乗り越え、屋上から飛び降りるなんて異常な行動、普通じゃ考えられません」
花屋敷は鑑識班が指紋を採取するのに用いたと思われる、金網についたアルミの粉をフッと吹き飛ばした。
太陽は西へと傾きかけている。
鮮やかな茜色の空にキラキラと舞い、軌跡を描くようにしてアルミ粉は風に散っていった。
磯貝警部は部下の気安い口調を別に咎めるでもなく、僅かに目尻を下げ、ふうっと息をつくと花屋敷の方に改めて目を向けた。
既に刑事の顔ではなく、一人の年長者の顔になっている。花屋敷や気心の知れた部下達にはよく見せる彼の気さくな人柄がよく滲み出ている表情だと思う。
「そうだな…。
予断は禁物だが、通報の内容を聞いて俺がまず最初に考えたのは、薬物による幻覚症状ではないかという事だな」
「薬物…ですか?
しかし…いくら最近の高校生が大人びているといっても死んだのは17才。それもどこにでもいそうな普通の女の子ですよ?」
「おいおい、刑事が思い込みで物を言ってもらっては困るな、花屋敷。普通の人間などいるか? 最近のガキ共のやんちゃぶりをお前も知らない訳じゃないだろう?」
「まぁ…そりゃそうですが…」
「援助交際という名の売春にカツアゲと称した恐喝。ケンカやホームレス狩りなどの傷害沙汰。窃盗に放火、無免許運転に飲酒運転。挙げ句の果ては家族殺し。数えあげればキリがないほどだ。
連中はある意味で半端な大人なんだよ。大人であって大人でない。子供であって子供じゃない。俺の娘など女のクセに親を親とも、自分を女だとも思わんような喋り方をするぞ。何度注意しても直そうともせん。逆にこっちがからかわれるほどだ」
磯貝は僅かに微笑みながら最後はそう言った。娘の事を話す時だけは、優しい父親の表情に戻る。
「しかし仮に薬物だとしても何を使用したと考えられますか?
幻覚症状を起こして実際に気が狂れてしまうほどの薬物となると、高校生が入手するには無理があるんじゃありませんか?」
「それでも可能性はゼロではなかろう? シャブにヘロイン、アッパー系のラブドラッグの中毒症状という線もありうる。
インターネットで拳銃の部品が買えて、爆弾や毒ガスの製造法やレシピまで転がっているサイトもある時代だぞ。どんな隠れた入手ルートがあるかはわからんさ。
…まぁ、現時点では本当にまだ何もわからんな。心配しなくとも鑑識の結果を待てば自ずと答えは見えてくる。証拠のない憶測は推理とも呼べない想像だからな」
磯貝警部はそう言って、下の様子へと気を配った。
校内で事情聴取を終えたばかりの生徒達が自宅へと帰っていくようだった。報道局のカメラが一斉にそちらへと矛先を向けるのが上から見えた。
これで渋滞と人混みも多少は緩和されるだろう。
その時だった。
「花屋敷先輩!」
という鈴を転がすような場違いな若い女性の声が花屋敷を呼びとめた。その声に屋上で作業をしていた鑑識の何人かが一斉にそちらの方を振り向いた。
クリーム色のジャケットに黒いレザーのタイトスカートを着た小柄な女性がこちらに近づいてくる。
皆が一斉に自分へと奇異の視線を向けているのに気付いたのか、女性は罰が悪そうにぺろりと舌を出して、恥ずかしそうに花屋敷の元へと足早に駆けてきた。
花屋敷より四つほど年下のこの女性は、磯貝警部や花屋敷と同じく本庁捜査一課強行犯係の女刑事で花屋敷の所轄時代の後輩であり、現在はコンビで捜査にあたる事が多い石原智美である。
ショートボブで一重まぶたの化粧っ気の少ない、全体的に小作りで童顔な日本人形のような愛くるしい顔立ちをしている。刑事らしくジャケットを着てはいるが非常に小柄で、一見すると高校生くらいにしか見えない幼い顔立ちをした女性である。
ショートボブの髪をなびかせて彼女は花屋敷の元へとやってきた。急いでいたらしく、彼女は大きく息をついて花屋敷を見上げた。
大柄で上背のある柔道選手のような体格の花屋敷と一緒にいると、石原の小柄な体格はますます際立って小さく見える事だろう。
「所轄の現場で騒がしい真似はするな、石原」
磯貝警部は困ったように石原をたしなめた。石原は悪戯が見つかった時の子供のように、バツの悪い表情で上司の顔色を窺った。
「すみません、警部。急いでいたもので…つい。でも、それなりの収穫は見込めたんですよ?」
そう言って若い彼女は自らをフォローすると、川島由紀子の遺留品とおぼしき物を入れたビニール袋を磯貝警部と花屋敷によく見えるように目の前に差し出した。
「これが彼女のクラスの教室にあったものか…。確か2年B組の教室は下の二階だったな。どこにあった?」
磯貝警部は指紋がつかないように防水処置が施された、証拠品保存用の透明なビニール袋を受け取るとジッパーを開封し、中身を取り出した。
中には被害者の私物と思われる、俗にプリ帳と呼ばれるプリクラがたくさん張ってある手帳と、年頃の女生徒が好みそうな、かわいらしいウサギのキャラクターのストラップが付いた青いスライドタイプの携帯電話が入っていた。
「遺書はあいにくと見当たりませんでしたけど、その手帳と携帯電話が彼女の机の中にありました。
教室にあったのは茶色の学生鞄が一つきりで、机の横にぶら下がってました。これの中身なんですが教科書に参考書にノート、後は昼食の弁当箱といった類です。今、鑑識の方々に写真を撮ってもらっています」
「やはり自殺にしては妙だな。遺書がないのもそうだが、年頃の女生徒が携帯電話や手帳まで教室に置いてくってのはな…」
「はい。急ぎの用事があったにせよ、放課後に誰が見るかもわからない机の中にケータイを置いていくというのは不自然ですよね」
「いずれ事故か自殺の両方の線で捜査を進めていく感じだろうな。まあ、とりあえずは一歩前進といった所か」
花屋敷はひとしきり感慨を述べつつ石原を労ったが、彼女の顔色はいまひとつ冴えなかった。
「…どうしたんだよ? そいつに何かマズい事でも書かれてあったのか?」
「花屋敷、これを見ろ」
6月13日の部分に赤い×印が刻まれている。
「今日の日付ですね」
磯貝は真剣な表情で頷くと、今度は手帳のスケジュール欄の方を開いて花屋敷に渡して見せた。
「これは…」
そこには几帳面で丁寧な、女子高生らしい丸文字でこう書かれてあった。
『17時に時計塔。魔術師。例の件を確かめる。これが事実なら狂ってる。
この学園が危ない』
暮れなずむ茜色の空。
血のように赤い夕暮れ。
花屋敷達のいる屋上を冷たく湿った風が一陣、吹き抜けていった。
6月13日。
その日、聖真学園高校の校舎の周辺は、正に蜂の巣を突いたような喧騒に包まれていた。
時刻は午後6時12分。
もはや宵闇が迫る時刻だというのに、辺りは一向に静かになる気配を見せなかった。
事件現場となったのは、校舎の正面入口のほぼ真正面にあたる場所だった。
校舎の屋上から真下へと望む校庭前のコンクリートの舗装道路の部分から半径50メートル以内のその地点には、既に黄色地に黒い文字の警戒色で『KEEP OUT 立ち入り禁止』の封鎖用ロープが張られている。
多くの警察官や教師達が、校門から我先にと情報を集めようと、今しも校舎になだれ込もうとしているマスコミや報道陣、帰宅の途についていたはずの生徒達や、野次馬な周辺住民への対応に苦慮していた。
放課後に起こった事件だけに学園に残っていた生徒達は残らず事情聴取の為に学園内に留め置かれる事となった。
その為、校門にごった返す人混みの中には生徒達の保護者の姿も見られ、彼らが乗りつけてきた自家用車が交通渋滞を招き、場の収拾はさらに混乱を究めた。
警察官達の一部には交通整理にあたる者もいた。
ニュースや刑事ドラマなどでよく見掛ける、紺色の作業服に帽子を被った鑑識課員達や、スーツを着た刑事達の姿も既に見える。
乱舞するパトカーの赤色灯の光。
報道陣のカメラのフラッシュ。
見知った人間の突然の死に、泣き出す女生徒達の悲痛な声。
ひそひそと聞こえてくる人々の噂。
心配げに校舎の方を窺っている様子の保護者達。
事故現場の付近だろうとおかまいなしに、はしゃぎ回っている近所の子供達。
黙々と作業を進める鑑識課員と警察官。
まるでおかしな縁日にでも来たような騒ぎだな…。
警視庁捜査一課、強行犯係の刑事である花屋敷優介は、現場の慌ただしい空気の中にあって不謹慎にもそう感じてしまった。
綺麗で優しげな名前とは似ても似つかない、花屋敷の大柄な体格と終始不機嫌とも取れる特徴的で無骨な顔立ちは、一年365日、殺害現場がラブホテルの一室であろうと場末のスナックだろうと、どの現場であっても目立っていた。
私服を着ている時など、花屋敷は警官に職務質問された経験もあるほどだ。
花屋敷の警察学校時代のあだ名は、何を隠そう『力也』である。
不本意にも厳つい顔立ちで有名な芸能人にそっくりであった為だ。
花屋敷の元に事件発生の呼び出しを告げる電話があってから、既に30分ほどが経過している。
平日に、たまたま非番で今日は夜の街にでも繰り出そうかと自宅の安アパートの布団の上で安眠中だった彼は、今や、ささやかな刑事の休日を邪魔された腹いせも手伝って、いつもの三割増しの不機嫌な表情で現場に来ていた。
おかげでインタビューに応じてほしいという、騒がしいマスコミへの対応や年頃の生徒達への聞き込みなどという繊細さを要する(と思われる)作業にはあたらずに済んだ。
事件性が認められなければ所轄の目黒警察署に任せて本庁に帰る身の上とはいえ、初動捜査を円滑に進める上では実に適切な役割分担であったかもしれない。
現場に到着して速やかに花屋敷は上司であり、班長でもある本庁側責任者の磯貝警部の元を訪れ、すぐさま現場検証の支援にあたる事になった。
そして花屋敷は今、死んだ女生徒が最後に地上に立っていたであろう屋上にいる。
高さ2メートルはある、テニスコートのフェンスのような金網を乗り越え、地上25メートルはある、高さ三階の鉄筋コンクリートの校舎のこの屋上から、女生徒は飛び降りたようだ。
花屋敷は金網越しに遥か眼下の地上を見下ろした。
物言わぬ女生徒の死体と痛々しい肉片は既に片付けられ、現場の周辺は相変わらず騒然としていた。
上の方から望めば確かに、不謹慎にもお祭りの縁日に見えなくもない光景ではある。
もっとも、そこに人々の笑顔などない。
夕闇迫る学園には今、都会の日常に突如として穿たれた非日常への恐怖心と、被害者の孤独な死に対する憐憫や同情。そして悲しみの仮面に素顔を隠した様々な好奇の視線があるだけだ。
花屋敷は暗鬱とした思いで視線を逸らした。
「花屋敷、そちらに何か遺留品の類はあったか?」
屋上の現場検証を指揮していた班長の磯貝省吾警部は、白い手袋を嵌め直しながら、ちょうど生徒が飛び下りた地点を記した白いチョークで描かれた場所にいる花屋敷の方へと歩いてきた。
白髪混じりのグレーの髪をオールバックにして口ヒゲを蓄えた、年の頃はおよそ50ぐらい。鷲のような鼻と鋭い目つきが印象的な背の高い紳士風の男である。そのダンディな風貌と面倒見のよい性格で、署内の女性警官達にもファンが多いと聞く。
花屋敷の現場勤務の経験は一から十までこのマシーンのように精密かつ冷静で、優秀な警部に叩き込まれたといっていい。プライベートでも一人身の花屋敷と離婚したばかりの磯貝警部は馬が合った。
確かちょうど飛び降りた生徒と同じ年頃の一人娘がいるようだが、詳しくは知らない。元の奥さんとの事は磯貝警部から話さない限りは聞かない事にしていた。
職場の上司と部下という間柄を越え、今では公私ともに二人はある種の信頼関係で結ばれているといってもよかった。
「ああ警部、お疲れ様です。
残念ながら手掛かりになるような物はここには何もありませんね。遺書の類も見当たりませんし…。今、石原に教室にある被害者の私物品をあたらせています」
「そうか…休みの所、呼び出して本当にすまなかったな、花屋敷」
「いえ…自宅待機も仕事のうちですから」
「まったく、難儀そうな事件だな。
花屋敷、石原が戻り次第、簡単だが今後の指示を出す。今回は所轄と共同で、正式な捜査会議は明日以降にもつれそうだ。
それとな…まだ未確認情報ではあるんだが、もし今回の事件に他殺の線もあるとなると、本庁の方は別の責任者を寄越すらしい」
磯貝警部は僅かに声を潜めた。花屋敷は目を丸くする。
「…え?所轄主導で、警部が我々の指揮を取る捜査協力じゃないんですか?」
花屋敷は今や刑事ドラマではお馴染みの所轄と本庁の軋轢というヤツが大の苦手だった。人事異動が多い警察官の現実はドラマほど極端ではないにせよ、他所の現場ではなんにせよ気は遣う。
刑事ドラマなどではよく所轄の刑事達にとっては、生え抜きのキャリアを擁する本庁組という連中はエリート集団で、目の上のたん瘤のような煙たい存在である方がストーリーの展開上都合がいいらしい。法廷ミステリーで主人公の弁護士や検事のライバルキャラクターが、嫌味なエリートといった風体で描かれるのと同じだ。
現場への対応の仕方が所轄と本庁のやり方ではまるで違うのは事実だ。これは事件の大小という意味ではなく、凶悪な事件ほど警視庁のような規模の大きい組織力が必要というだけの話だ。
マスコミや報道関係への対応といった外面だけはよくて事件捜査は所轄の刑事達に任せきり。細かい指示は二の次という、絵に描いたような出世第一主義の手合いなど現実にはなかなかいないものなのだ。要するに階級社会というものの印象から受ける、やっかみ感情から生まれた副産物のような設定なのだろう。
事件解決となれば手柄は丸ごと頂いて本庁へと凱旋していく。これも誤りだ。所轄側にとって警視庁側はあくまで捜査協力という名目でやって来る。
いきなり有象無象の手下を連れて大挙して押しかけて好き放題荒らし回り、奪うだけ奪って山へと帰っていく山賊のような迷惑な連中と思われている節があるが、実際そんなことはない。
今回の花屋敷達のように班長を擁する、比較的小規模な班構成で捜査協力に回ることも多い。
事件は呆れるほど多い。
要するに忙しいのだ。
「ああ、キャリア出身の若い警視が俺の代わりだそうだ。今回は俺も駒の一つであり補佐だよ。合流するのは明日以降だろうが、飛び降りた生徒を見たという目撃証言の多数がアレではな…時間の問題だろう」
「ええ、いかがわしい噂で世間に注目される事件なんて、お偉方にとってはさぞかし美味しい餌に見える事なんでしょうね…。名目は若手のキャリアに現場経験を積ませるといったところですか。まあよくある話ですが」
二人は揃って不機嫌な顔を隠そうともしなかった。
理由は簡単である。
この事件が、ただの自殺などであるはずがないからだ。
飛び降りた女生徒は、ここミッション系私立高校、聖真学園高校の2年B組の生徒で名前は川島由紀子という17才の少女である。
死亡推定時刻は多数の目撃証言などから既にはっきりしており、これは午後5時37分。
放課後のグラウンドで部活の練習中だった野球部とサッカー部、テニス部の生徒達が甲高いおかしな笑い声とトタン板が落ちた時のような乾いた音を聞いている。
墜落途中の川島由紀子を目撃したという生徒達もいた。
近隣の住民の中にも音や声こそ聞いていないが、学園の屋上から墜落していく人影を見たという同じ証言が得られた。
この学園の屋上部分は他の学校とは違い、やや風変わりな構造になっている。
屋上入口のドアとちょうど反対側には、やたらと豪奢で大きな時計塔の入口があり、この近くで彼女は墜落した為に時刻まで正確に覚えられていた訳である。
またこの時計塔はこの学園の名物でもあるらしく、近隣の住民にも時間を知らせる為に作られたというだけあってやたらと目立つ。
内部は学園資料館も兼ねており、学校という環境にあっては通常は自殺防止の為に屋上などは立入禁止にする所だが、この学園に限ってはそういった処置はとられていなかったようだ。
聖真学園の校舎は鉄筋コンクリート製。
死体があった場所は三階建ての校舎の前にある、グラウンドと校舎のちょうど中間にある道路のど真ん中。
そこに川島由紀子は倒れていた。
「警部」
「…ん? なんだ花屋敷」
花屋敷は重苦しい沈黙を破って上司に呼びかけた。殺伐とした現場の雰囲気にあてられたのか、些か厭な気分だった。厄介な身内の事よりも今はできる事から片付けていきたい気分だった。
「…警部は今回の事件を、正直どう考えているんですか?
これから自殺しようとする人間が狂ったように笑いながら金網を乗り越え、屋上から飛び降りるなんて異常な行動、普通じゃ考えられません」
花屋敷は鑑識班が指紋を採取するのに用いたと思われる、金網についたアルミの粉をフッと吹き飛ばした。
太陽は西へと傾きかけている。
鮮やかな茜色の空にキラキラと舞い、軌跡を描くようにしてアルミ粉は風に散っていった。
磯貝警部は部下の気安い口調を別に咎めるでもなく、僅かに目尻を下げ、ふうっと息をつくと花屋敷の方に改めて目を向けた。
既に刑事の顔ではなく、一人の年長者の顔になっている。花屋敷や気心の知れた部下達にはよく見せる彼の気さくな人柄がよく滲み出ている表情だと思う。
「そうだな…。
予断は禁物だが、通報の内容を聞いて俺がまず最初に考えたのは、薬物による幻覚症状ではないかという事だな」
「薬物…ですか?
しかし…いくら最近の高校生が大人びているといっても死んだのは17才。それもどこにでもいそうな普通の女の子ですよ?」
「おいおい、刑事が思い込みで物を言ってもらっては困るな、花屋敷。普通の人間などいるか? 最近のガキ共のやんちゃぶりをお前も知らない訳じゃないだろう?」
「まぁ…そりゃそうですが…」
「援助交際という名の売春にカツアゲと称した恐喝。ケンカやホームレス狩りなどの傷害沙汰。窃盗に放火、無免許運転に飲酒運転。挙げ句の果ては家族殺し。数えあげればキリがないほどだ。
連中はある意味で半端な大人なんだよ。大人であって大人でない。子供であって子供じゃない。俺の娘など女のクセに親を親とも、自分を女だとも思わんような喋り方をするぞ。何度注意しても直そうともせん。逆にこっちがからかわれるほどだ」
磯貝は僅かに微笑みながら最後はそう言った。娘の事を話す時だけは、優しい父親の表情に戻る。
「しかし仮に薬物だとしても何を使用したと考えられますか?
幻覚症状を起こして実際に気が狂れてしまうほどの薬物となると、高校生が入手するには無理があるんじゃありませんか?」
「それでも可能性はゼロではなかろう? シャブにヘロイン、アッパー系のラブドラッグの中毒症状という線もありうる。
インターネットで拳銃の部品が買えて、爆弾や毒ガスの製造法やレシピまで転がっているサイトもある時代だぞ。どんな隠れた入手ルートがあるかはわからんさ。
…まぁ、現時点では本当にまだ何もわからんな。心配しなくとも鑑識の結果を待てば自ずと答えは見えてくる。証拠のない憶測は推理とも呼べない想像だからな」
磯貝警部はそう言って、下の様子へと気を配った。
校内で事情聴取を終えたばかりの生徒達が自宅へと帰っていくようだった。報道局のカメラが一斉にそちらへと矛先を向けるのが上から見えた。
これで渋滞と人混みも多少は緩和されるだろう。
その時だった。
「花屋敷先輩!」
という鈴を転がすような場違いな若い女性の声が花屋敷を呼びとめた。その声に屋上で作業をしていた鑑識の何人かが一斉にそちらの方を振り向いた。
クリーム色のジャケットに黒いレザーのタイトスカートを着た小柄な女性がこちらに近づいてくる。
皆が一斉に自分へと奇異の視線を向けているのに気付いたのか、女性は罰が悪そうにぺろりと舌を出して、恥ずかしそうに花屋敷の元へと足早に駆けてきた。
花屋敷より四つほど年下のこの女性は、磯貝警部や花屋敷と同じく本庁捜査一課強行犯係の女刑事で花屋敷の所轄時代の後輩であり、現在はコンビで捜査にあたる事が多い石原智美である。
ショートボブで一重まぶたの化粧っ気の少ない、全体的に小作りで童顔な日本人形のような愛くるしい顔立ちをしている。刑事らしくジャケットを着てはいるが非常に小柄で、一見すると高校生くらいにしか見えない幼い顔立ちをした女性である。
ショートボブの髪をなびかせて彼女は花屋敷の元へとやってきた。急いでいたらしく、彼女は大きく息をついて花屋敷を見上げた。
大柄で上背のある柔道選手のような体格の花屋敷と一緒にいると、石原の小柄な体格はますます際立って小さく見える事だろう。
「所轄の現場で騒がしい真似はするな、石原」
磯貝警部は困ったように石原をたしなめた。石原は悪戯が見つかった時の子供のように、バツの悪い表情で上司の顔色を窺った。
「すみません、警部。急いでいたもので…つい。でも、それなりの収穫は見込めたんですよ?」
そう言って若い彼女は自らをフォローすると、川島由紀子の遺留品とおぼしき物を入れたビニール袋を磯貝警部と花屋敷によく見えるように目の前に差し出した。
「これが彼女のクラスの教室にあったものか…。確か2年B組の教室は下の二階だったな。どこにあった?」
磯貝警部は指紋がつかないように防水処置が施された、証拠品保存用の透明なビニール袋を受け取るとジッパーを開封し、中身を取り出した。
中には被害者の私物と思われる、俗にプリ帳と呼ばれるプリクラがたくさん張ってある手帳と、年頃の女生徒が好みそうな、かわいらしいウサギのキャラクターのストラップが付いた青いスライドタイプの携帯電話が入っていた。
「遺書はあいにくと見当たりませんでしたけど、その手帳と携帯電話が彼女の机の中にありました。
教室にあったのは茶色の学生鞄が一つきりで、机の横にぶら下がってました。これの中身なんですが教科書に参考書にノート、後は昼食の弁当箱といった類です。今、鑑識の方々に写真を撮ってもらっています」
「やはり自殺にしては妙だな。遺書がないのもそうだが、年頃の女生徒が携帯電話や手帳まで教室に置いてくってのはな…」
「はい。急ぎの用事があったにせよ、放課後に誰が見るかもわからない机の中にケータイを置いていくというのは不自然ですよね」
「いずれ事故か自殺の両方の線で捜査を進めていく感じだろうな。まあ、とりあえずは一歩前進といった所か」
花屋敷はひとしきり感慨を述べつつ石原を労ったが、彼女の顔色はいまひとつ冴えなかった。
「…どうしたんだよ? そいつに何かマズい事でも書かれてあったのか?」
「花屋敷、これを見ろ」
6月13日の部分に赤い×印が刻まれている。
「今日の日付ですね」
磯貝は真剣な表情で頷くと、今度は手帳のスケジュール欄の方を開いて花屋敷に渡して見せた。
「これは…」
そこには几帳面で丁寧な、女子高生らしい丸文字でこう書かれてあった。
『17時に時計塔。魔術師。例の件を確かめる。これが事実なら狂ってる。
この学園が危ない』
暮れなずむ茜色の空。
血のように赤い夕暮れ。
花屋敷達のいる屋上を冷たく湿った風が一陣、吹き抜けていった。
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