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喪失の茜色
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由紀子が死んだ。
屋上から飛び降りた。
ぐちゃぐちゃの血みどろになって死んだ。
狂ったように笑いながら死んだ。
由紀子は飛び降りたまま笑顔で笑っていた。
アスファルトにうつぶせに倒れ伏した由紀子の体はとても小さくて、手足は糸のついた人形のように、くしゃりとあらぬ方向に曲がっていた。
白い制服のワイシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていった。
頭から流れ出した血は凄まじい形相でかっと見開いた真っ赤な目を伝い、まるで血の涙を流しているようだった。
それなのに…それなのに。
由紀子は確かに笑っていたのだ!
信じられない!
そんなはずない!
時刻は既に夕方の6時を回っている。校内に残っていた生徒や教職員達は事情聴取の為に体育館に集められ、順番に警察からの質問に応じていた。
事件をグラウンドから目撃した生徒達はユニフォームやトレーナーやジャージから着替える事すら出来ず、今はてんでバラバラに散って刑事達の呼び出しを待っている状態だった。
部活の吹奏学部。校庭でクラリネットの練習中だった鈴木貴子は、突然の親友の死に際して何をしてよいやらわからずに、今もただ茫然自失していた。
死体を最初に見つけたのも貴子だった。
最初は何が起こったのか、まるでわからなかった。
『きゃははは!あはははははっ!
あーはっはっはっはっはっはっはっ…!』
調子の外れたおかしな笑い声が、どこからか聞こえてきた。
女子達が普段、冗談を言いあったり、ふざけあったりして盛り上がって笑っている時の声などとは明らかに調子が違っていた。
おかしくて堪らないのか、甲高い笑い声はやむ事なく続いた。
「おい!アレ、何だ!?」
「マジかよ!ありゃ人だ!屋上の金網に誰か人が座ってるぞ!…おい、誰か止めろ!」
「ありゃ女だ!何やってんだよ、あいつ!」
「チクショウ! 誰か先生を呼んでこい! 屋上へ急げ!死ぬ気だぞ、あの女!」
野球部の男子達とサッカー部の男子達のがなり立てるそんな声がいきなりグラウンドから聞こえてきた。
気合いの入ったいつもの練習の時の声ではなく、明らかに動揺し、切羽詰まった慌ただしい空気がそこにはあった。
貴子はそこで始めて、そのおかしな笑い声が自分の遥か真上、頭上の方から聞こえてくるのだと気付いた。
上を見上げるとそこに…
由紀子がいた。
由紀子が笑っていた。
屋上の金網に座り、赤いチェック柄の制服のスカートを風になびかせ、おかしくて堪らないとでもいうように由紀子は足をバタバタさせ、手を叩いて笑っていた。
ガリガリガチャガチャと金網が厭な音を立てるのがこちらまで聞こえてくるようだった。
校舎の中から、教室の窓から、校庭から、グラウンドから…あちこちからその異常な光景を見た生徒達の悲鳴が上がった。
それでも由紀子はまるでそんなものは目に入っていないかのように狂ったような声で笑い続けた。
そして次の瞬間…。
ガシャンと一際大きな音が聞こえた気がした。
座ったまま金網を、両足で思いきり蹴り上げ、由紀子は何もない空中へと飛んだ。
信じられない事にその動きには、まったく抵抗や躊躇いなどなかった。
『今そこに行くからね』とでも言うように笑顔を浮かべ、大声で笑いながら…。
貴子は全身が金縛りにあったように身動き一つとれず、かといって目を背ける事すら出来ずにその異様な光景をただ見つめていた。
そして…。
…………
…あとの記憶は自分でもはっきりしない。
突然の悪夢のような出来事に、あちこちから上がる女生徒達の引き裂くような悲鳴。
生々しい死の瞬間といきなり現れた死体に失神する者もいた。
誰かが嘔吐したのか吐瀉物の嫌な匂いと音がした。
正体をなくしたかのように泣き出したり喚いたりする女生徒達。
慌てて駆け付けた、ジャージ姿の体育教師の植田と担任の山内が、由紀子の死体の周りに集まってくる生徒達を叱りつけ、がなり立てている。
一瞬で学園はパニックになった。
貴子はそうした罵声や悲鳴や怒号、泣き叫び、混乱する悲痛な声共をぼんやりと麻痺した意識の片隅で、どこか別世界で起こった出来事のように聞いていた。
警察からの事情聴取も半分以上はぼんやりと質問に応じていた。
今思えば果たして警察にとっては有力な情報提供者だったかどうかは疑問だった。そしてそれは貴子だけではないはずだ。
そして…。
気がつけば貴子はこんな所にいる。いつ頃から体育館になどいたのだろう…?
体育館の片隅で膝を抱え、放心したようにただ床の一点だけを見つめて動かない貴子に、誰一人声をかける者などいなかった。
ひょっとしたら自分も気が狂れてしまったのかもしれない。
ここにいる全ての人達こそが実は本当の狂人で、まともなのは死んでしまった由紀子だけだったのかもしれない。
だって、ここには悲しみや混乱に沈んだふりをしている人達ばかりではないか。
由紀子の突然の死を悼み、悲しみ、真に嘆いているのなら、なぜそんなに迷惑そうに警察の質問に応じるのだろう?
なぜ時計や携帯電話ばかり、ちらちらと気にするのだろう?
なぜ死んだ人の噂を、何時間と経たないうちに、平気で誰かと話の種にしてしまえるのだろう?
これじゃあ由紀子が可哀想だ。
由紀子が死んだというのに無表情で無関心で無気力で。
中身が実は何もない、綺麗な服やアクセサリーやウィッグで、さも美しく飾り立てて見せているだけの、がらんどうのマネキン人形みたいな人達ばかりだ。
思考は淀み、感情は深い闇の彼方へと手を伸ばし、気がつけば貴子はそんな事ばかり考えていた。
体中が自分のものではなくなったような、そんな底知れぬ無力感と脱力感を貴子は同時に味わっていた。
その時だった。
「ねぇ…あなた達、ウチの由紀子を知らない?」
そんな声が体育館の入口の方から聞こえた。ひどく緩慢な動作で貴子は首だけを動かして、そちらを振り返った。
あれは…おばさん?
由紀子の母親だった。
由紀子の家に忘れ物を届けた時に、一度だけ会った事がある。一見厳しそうだけど、綺麗で毅然とした女性の魅力に溢れたお母さんだった。
「由紀子が帰ってこないのよ…由紀子ったらどうしちゃったのかしら…?帰りが遅くなるなら家に電話すればいいのに…」
由紀子の母親は、ふらふらと覚束ない足取りで、そこら中の生徒達に同じ質問を繰り返している。
質問された生徒達は、ある者は気味悪そうに後ずさり、ある者は痛々しい眼差しを向け、またある者は今度は母親の噂まで、ひそひそと囁きあっている。そんなモノなど目に入らないかのように、おかまいなしに携帯電話をいじっている生徒もいた。
「ねぇ教えてちょうだい。由紀子はどこ?どこに行ったの?ウチの娘が家に帰ってこないんです。まだなんです。どこにもいないんです。教えてほしいの」
貴子はひたすらに小さく、哀れなその姿に思わず目を背けていた。
下腹の辺りから何か嫌なモノがせり上がってくるような、そんな得体の知れない不快感を覚えた。
もはや凜として厳しく、そして美しかった、かつての面影はまるでない。
たった数時間で生きた人間がここまで変貌するものなのかと信じられない気持ちになった。
そしてもう一つ…。
…目だ。
目が違うのだ。
焦点の合っていない、薄暗くぼんやりとした双眸に微かに宿る目の光。何かふとしたきっかけで崩壊してしまいそうな、不気味な静けさと危うさをたたえている。
「ねぇ由紀子はどこなの?誰か知らない?ねぇ…」
「川島さん!」
年若いスーツ姿の担任の山内と、白衣を着た保健室の校医である間宮先生が、慌てて体育館に駆け付けてきた。
おそらく由紀子の母親は保健室かどこかで休ませられていたのだろう。
生徒達への配慮か、これ以上の騒ぎはたくさんだとでもいうような困った表情で担任の山内は由紀子の母親(厚子という名前だったはずだ)の腕をとった。
灰色のスーツを颯爽と着て、サラサラとした黒髪が印象的な童顔な顔立ち。この若い現国の教師は、一部の生徒達には絶大な人気があった。
「さあ川島さん、あちらに行きましょう。ここには娘さんはいませんよ…」
「そうですよ、ここでは何ですから、お母さんもあちらでお休みになってらして下さい」
山内の後を受けるように、保健の先生らしく柔らかな微笑を浮かべて間宮愛子も川島厚子の背中に手を添えた。
こちらは赤い縁取りの眼鏡とつり目がちの目元が印象的な西洋風の顔立ちをした美人である。肉感的なプロポーションで男子生徒達には特に人気のある、若い校医だ。
まるで精神病棟に検査入院した患者に接する時のような扱いだ。貴子はそう感じた。
「あら、そうなの?
ごめんなさいねぇ。…全くあのコも困ったコね。本当にどこへ行ったのかしら?…帰ったらきつく叱っておかないと。
この間も晩御飯の時にね、
『お母さんは黒魔術があったら信じる?』
なんて、いきなり言い出したんですよ」
貴子は内心ドキリとした。
厚子の口調はあまりにのんびりとしていたが、その思いがけない言葉が飛び出した事に驚いた。
あまりに馬鹿げた話だが、今のこの悪夢のような状況を作り出したのであれば、正にそう呼ぶのがふさわしいように思えたからだ。
そしてもう一つ…。
黒魔術…。
その言葉はけっして普通の人には馴染みのある言葉ではない。しかし少なくとも、この学園の生徒なら一度くらいは聞いた事があるはずだからである。
時計塔の魔術師。
そう呼ばれている、学校の奇妙な噂があるのだ。
よくある怪談話の類なのだとは人づてに聞いて知っているが、貴子も詳しくは知らなかった。この学園はミッション系の学園だから、そんな話もあるのだろうなと思っていた程度だ。
由紀子の口から母親である厚子に黒魔術などという耳慣れない話が伝わったのだとすれば、由紀子はその噂について何か調べていた可能性が高い。
というのも。
吹奏学部にいる、割と地味でおとなしい貴子に比べ、由紀子は学園の新聞部に所属していた。二年で副部長という立場である為か、学園でも割と顔の知られた活発な女子で通っていた。
短いショートカットの貴子とは違って長い髪をいつも後ろで一つに束ね、ユラユラと馬の尻尾のように垂らしては、いつもパタパタと記事を書く為に取材と称して話題集めに学園中を駆け回っていた。
おとなしく控え目な貴子と活発でずけずけと物を言う由紀子。
性格は180度違うのに二人は仲がよく、気がつけばいつも一緒にいた。
一年の時に緊張しながら迎えた二学期初めの席替え。
本来なら男子が隣になるはずだったのに、男女の人数比でなぜか隣同士になってしまった事。しかも最後尾の窓側に女子が二人。
教壇側からは嫌でも浮いて見える妙な構図に席についた瞬間、あまりに可笑しくて二人だけでなく、クラス中が揃って笑っていた。
それまではお互いただのクラスメートだったのに、それ以来、貴子と由紀子の間には奇妙な友情が生まれた。
一緒に学校帰りにプリクラを撮ったり、ファーストフード店に行ってハンバーガーを食べたり、ドーナツを食べたり、ケーキバイキングにも行った。休みの日には一緒に洋服を見に行ったりもした。
恋愛映画を二人で観に行って、ラストシーンに大泣きした貴子を由紀子が肩を抱いて慰めてくれた事もあった。二人でその映画の感想を映画会社の人に話していたら、なぜかカメラが回っていてテレビの宣伝用のCMにちゃっかり二人が映っていて、しばらくの間、その話をクラスや部活の皆に、からかわれたりもした。
何をするでもなく、街を行くカッコイイ男の人を眺めては好きな男子の話で盛り上がってみたり。
由紀子とは、ずっとこの関係が続くと思っていた。由紀子も同じだったはずだ。
それなのに…。
もう由紀子はいない…。
寂しい。とてもとても寂しい…。
ぽっかりと胸に隙間が出来たような虚無感と身体が引き裂かれそうな堪らない切なさと喪失感をこの時、貴子は始めて意識した。
貴子はもう一度、厚子の方を窺った。
貴子に訪れた、この胸の空白が、厚子に訪れるのは一体いつの事なのだろう?
果たしてそんな時は来るのだろうか?
彼女は未だに悪夢のような現実を受け止めきれないのか、酩酊した時のような足取りでフラフラと間宮に付き添われ、体育館から出ていった。
「鈴木、大丈夫か?」
突然かけられた自分を呼ぶ声に、貴子は恐る恐る体育座りのまま上を見上げた。
「先生…」
担任の山内が心配そうな表情を浮かべて貴子を見つめていた。クラスメートの何人かも貴子を心配げに見つめている。誰かに気遣ってもらうという、そのごく当たり前な優しさに、貴子は涙が出そうになった…。
貴子の心は今ようやく正常な機能を取り戻そうとしていた。
「私なら大丈夫です…」
貴子は泣きたい気持ちをこらえ、ようやくそれだけ呟くように言った。しばらくぶりに声を出したせいか、声が裏返った。
「そうか…。強いな、お前…。
警察の人から今、聞いたんだが、今日の所は事情聴取は終わりにするそうだ。お前ももう家に帰って大丈夫だぞ」
「はい…」
貴子は立ち上がり、山内に軽く一礼した。長く膝を抱えて座っていたせいか、足がひどく痺れて体がよろけた。
「誰か家から迎えに来てくれる人はいるのか? なんだったら家の方には俺が…」
「いえ…携帯がありますから平気です…」
「そうか…気をつけて帰れよ。明日の臨時の全校集会で皆には伝えるそうだが、無理して来なくてもいいからな…。今、表門はテレビやマスコミの取材で大変な事になってるから、まだ家族の人を呼んでないなら、職員用の西側の通用門から出るといい」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ…」
貴子は山内にそう言って、未だざわめく体育館を後にした。
クラリネットを部室に返し、二階の自分の教室に置いた鞄を取りに戻り、学園西側に位置する裏門と呼ばれている、職員用の通用門から出る頃には、周囲は既に茜色に染まり、真っ赤な夕日が沈みかけていた。
貴子はもう一度、校舎の方を振り返る。時計塔の針は6時29分を指していた。
「由紀子…」
そっと呟く。風に消え入るようなか細い声で、貴子は親友の名を呼んだ。
『貴子、一緒に帰ろ!』
瞼を閉じて、目を開けば、いつものように由紀子が笑いながら自分の名前を呼んで駆けてくる。
そんな悲しい妄想を抱いた。
「由紀子…」
由紀子はもういない…。
跳ね回るように動き回る躍動感の塊のようなその体も、パタパタとよく動く後ろ髪も、右の頬に笑窪を作りながら笑う可愛い仕草も、貴子の名前を呼ぶ元気で明るいあの声も…。
由紀子はもういない…。
「うぅ…うっ…由紀子…。由紀子ぉッ…!」
一度堪えた涙がじわりと貴子の目を伝った。ぐにゃりと周囲の景色が歪んだ。
世界が予め決められたモノであるなら…。
自分で見て、聞いて、嗅いで、触れて、感じているこの世界のすべてが、実は嘘のように儚い夢のようなものなのだとしたら。
人の運命は不可逆的な時間の流れに支配され、ただ人それぞれの命が漂うようにして生きている事になる。
悪夢ならいっそ覚めてしまえばいい…。
いい夢ならずっと見続けていたい…。
こんなのあんまりじゃないか…!
その時、時計塔の鐘が一日の最後を告げる、澄み切った音を周囲に響かせた。
冷たく、啜り泣くような風が吹いていく…。
茜色に彩られた周囲の景色が涙で滲んで…。
貴子は世界が見えなくなってしまった。
由紀子が死んだ。
屋上から飛び降りた。
ぐちゃぐちゃの血みどろになって死んだ。
狂ったように笑いながら死んだ。
由紀子は飛び降りたまま笑顔で笑っていた。
アスファルトにうつぶせに倒れ伏した由紀子の体はとても小さくて、手足は糸のついた人形のように、くしゃりとあらぬ方向に曲がっていた。
白い制服のワイシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていった。
頭から流れ出した血は凄まじい形相でかっと見開いた真っ赤な目を伝い、まるで血の涙を流しているようだった。
それなのに…それなのに。
由紀子は確かに笑っていたのだ!
信じられない!
そんなはずない!
時刻は既に夕方の6時を回っている。校内に残っていた生徒や教職員達は事情聴取の為に体育館に集められ、順番に警察からの質問に応じていた。
事件をグラウンドから目撃した生徒達はユニフォームやトレーナーやジャージから着替える事すら出来ず、今はてんでバラバラに散って刑事達の呼び出しを待っている状態だった。
部活の吹奏学部。校庭でクラリネットの練習中だった鈴木貴子は、突然の親友の死に際して何をしてよいやらわからずに、今もただ茫然自失していた。
死体を最初に見つけたのも貴子だった。
最初は何が起こったのか、まるでわからなかった。
『きゃははは!あはははははっ!
あーはっはっはっはっはっはっはっ…!』
調子の外れたおかしな笑い声が、どこからか聞こえてきた。
女子達が普段、冗談を言いあったり、ふざけあったりして盛り上がって笑っている時の声などとは明らかに調子が違っていた。
おかしくて堪らないのか、甲高い笑い声はやむ事なく続いた。
「おい!アレ、何だ!?」
「マジかよ!ありゃ人だ!屋上の金網に誰か人が座ってるぞ!…おい、誰か止めろ!」
「ありゃ女だ!何やってんだよ、あいつ!」
「チクショウ! 誰か先生を呼んでこい! 屋上へ急げ!死ぬ気だぞ、あの女!」
野球部の男子達とサッカー部の男子達のがなり立てるそんな声がいきなりグラウンドから聞こえてきた。
気合いの入ったいつもの練習の時の声ではなく、明らかに動揺し、切羽詰まった慌ただしい空気がそこにはあった。
貴子はそこで始めて、そのおかしな笑い声が自分の遥か真上、頭上の方から聞こえてくるのだと気付いた。
上を見上げるとそこに…
由紀子がいた。
由紀子が笑っていた。
屋上の金網に座り、赤いチェック柄の制服のスカートを風になびかせ、おかしくて堪らないとでもいうように由紀子は足をバタバタさせ、手を叩いて笑っていた。
ガリガリガチャガチャと金網が厭な音を立てるのがこちらまで聞こえてくるようだった。
校舎の中から、教室の窓から、校庭から、グラウンドから…あちこちからその異常な光景を見た生徒達の悲鳴が上がった。
それでも由紀子はまるでそんなものは目に入っていないかのように狂ったような声で笑い続けた。
そして次の瞬間…。
ガシャンと一際大きな音が聞こえた気がした。
座ったまま金網を、両足で思いきり蹴り上げ、由紀子は何もない空中へと飛んだ。
信じられない事にその動きには、まったく抵抗や躊躇いなどなかった。
『今そこに行くからね』とでも言うように笑顔を浮かべ、大声で笑いながら…。
貴子は全身が金縛りにあったように身動き一つとれず、かといって目を背ける事すら出来ずにその異様な光景をただ見つめていた。
そして…。
…………
…あとの記憶は自分でもはっきりしない。
突然の悪夢のような出来事に、あちこちから上がる女生徒達の引き裂くような悲鳴。
生々しい死の瞬間といきなり現れた死体に失神する者もいた。
誰かが嘔吐したのか吐瀉物の嫌な匂いと音がした。
正体をなくしたかのように泣き出したり喚いたりする女生徒達。
慌てて駆け付けた、ジャージ姿の体育教師の植田と担任の山内が、由紀子の死体の周りに集まってくる生徒達を叱りつけ、がなり立てている。
一瞬で学園はパニックになった。
貴子はそうした罵声や悲鳴や怒号、泣き叫び、混乱する悲痛な声共をぼんやりと麻痺した意識の片隅で、どこか別世界で起こった出来事のように聞いていた。
警察からの事情聴取も半分以上はぼんやりと質問に応じていた。
今思えば果たして警察にとっては有力な情報提供者だったかどうかは疑問だった。そしてそれは貴子だけではないはずだ。
そして…。
気がつけば貴子はこんな所にいる。いつ頃から体育館になどいたのだろう…?
体育館の片隅で膝を抱え、放心したようにただ床の一点だけを見つめて動かない貴子に、誰一人声をかける者などいなかった。
ひょっとしたら自分も気が狂れてしまったのかもしれない。
ここにいる全ての人達こそが実は本当の狂人で、まともなのは死んでしまった由紀子だけだったのかもしれない。
だって、ここには悲しみや混乱に沈んだふりをしている人達ばかりではないか。
由紀子の突然の死を悼み、悲しみ、真に嘆いているのなら、なぜそんなに迷惑そうに警察の質問に応じるのだろう?
なぜ時計や携帯電話ばかり、ちらちらと気にするのだろう?
なぜ死んだ人の噂を、何時間と経たないうちに、平気で誰かと話の種にしてしまえるのだろう?
これじゃあ由紀子が可哀想だ。
由紀子が死んだというのに無表情で無関心で無気力で。
中身が実は何もない、綺麗な服やアクセサリーやウィッグで、さも美しく飾り立てて見せているだけの、がらんどうのマネキン人形みたいな人達ばかりだ。
思考は淀み、感情は深い闇の彼方へと手を伸ばし、気がつけば貴子はそんな事ばかり考えていた。
体中が自分のものではなくなったような、そんな底知れぬ無力感と脱力感を貴子は同時に味わっていた。
その時だった。
「ねぇ…あなた達、ウチの由紀子を知らない?」
そんな声が体育館の入口の方から聞こえた。ひどく緩慢な動作で貴子は首だけを動かして、そちらを振り返った。
あれは…おばさん?
由紀子の母親だった。
由紀子の家に忘れ物を届けた時に、一度だけ会った事がある。一見厳しそうだけど、綺麗で毅然とした女性の魅力に溢れたお母さんだった。
「由紀子が帰ってこないのよ…由紀子ったらどうしちゃったのかしら…?帰りが遅くなるなら家に電話すればいいのに…」
由紀子の母親は、ふらふらと覚束ない足取りで、そこら中の生徒達に同じ質問を繰り返している。
質問された生徒達は、ある者は気味悪そうに後ずさり、ある者は痛々しい眼差しを向け、またある者は今度は母親の噂まで、ひそひそと囁きあっている。そんなモノなど目に入らないかのように、おかまいなしに携帯電話をいじっている生徒もいた。
「ねぇ教えてちょうだい。由紀子はどこ?どこに行ったの?ウチの娘が家に帰ってこないんです。まだなんです。どこにもいないんです。教えてほしいの」
貴子はひたすらに小さく、哀れなその姿に思わず目を背けていた。
下腹の辺りから何か嫌なモノがせり上がってくるような、そんな得体の知れない不快感を覚えた。
もはや凜として厳しく、そして美しかった、かつての面影はまるでない。
たった数時間で生きた人間がここまで変貌するものなのかと信じられない気持ちになった。
そしてもう一つ…。
…目だ。
目が違うのだ。
焦点の合っていない、薄暗くぼんやりとした双眸に微かに宿る目の光。何かふとしたきっかけで崩壊してしまいそうな、不気味な静けさと危うさをたたえている。
「ねぇ由紀子はどこなの?誰か知らない?ねぇ…」
「川島さん!」
年若いスーツ姿の担任の山内と、白衣を着た保健室の校医である間宮先生が、慌てて体育館に駆け付けてきた。
おそらく由紀子の母親は保健室かどこかで休ませられていたのだろう。
生徒達への配慮か、これ以上の騒ぎはたくさんだとでもいうような困った表情で担任の山内は由紀子の母親(厚子という名前だったはずだ)の腕をとった。
灰色のスーツを颯爽と着て、サラサラとした黒髪が印象的な童顔な顔立ち。この若い現国の教師は、一部の生徒達には絶大な人気があった。
「さあ川島さん、あちらに行きましょう。ここには娘さんはいませんよ…」
「そうですよ、ここでは何ですから、お母さんもあちらでお休みになってらして下さい」
山内の後を受けるように、保健の先生らしく柔らかな微笑を浮かべて間宮愛子も川島厚子の背中に手を添えた。
こちらは赤い縁取りの眼鏡とつり目がちの目元が印象的な西洋風の顔立ちをした美人である。肉感的なプロポーションで男子生徒達には特に人気のある、若い校医だ。
まるで精神病棟に検査入院した患者に接する時のような扱いだ。貴子はそう感じた。
「あら、そうなの?
ごめんなさいねぇ。…全くあのコも困ったコね。本当にどこへ行ったのかしら?…帰ったらきつく叱っておかないと。
この間も晩御飯の時にね、
『お母さんは黒魔術があったら信じる?』
なんて、いきなり言い出したんですよ」
貴子は内心ドキリとした。
厚子の口調はあまりにのんびりとしていたが、その思いがけない言葉が飛び出した事に驚いた。
あまりに馬鹿げた話だが、今のこの悪夢のような状況を作り出したのであれば、正にそう呼ぶのがふさわしいように思えたからだ。
そしてもう一つ…。
黒魔術…。
その言葉はけっして普通の人には馴染みのある言葉ではない。しかし少なくとも、この学園の生徒なら一度くらいは聞いた事があるはずだからである。
時計塔の魔術師。
そう呼ばれている、学校の奇妙な噂があるのだ。
よくある怪談話の類なのだとは人づてに聞いて知っているが、貴子も詳しくは知らなかった。この学園はミッション系の学園だから、そんな話もあるのだろうなと思っていた程度だ。
由紀子の口から母親である厚子に黒魔術などという耳慣れない話が伝わったのだとすれば、由紀子はその噂について何か調べていた可能性が高い。
というのも。
吹奏学部にいる、割と地味でおとなしい貴子に比べ、由紀子は学園の新聞部に所属していた。二年で副部長という立場である為か、学園でも割と顔の知られた活発な女子で通っていた。
短いショートカットの貴子とは違って長い髪をいつも後ろで一つに束ね、ユラユラと馬の尻尾のように垂らしては、いつもパタパタと記事を書く為に取材と称して話題集めに学園中を駆け回っていた。
おとなしく控え目な貴子と活発でずけずけと物を言う由紀子。
性格は180度違うのに二人は仲がよく、気がつけばいつも一緒にいた。
一年の時に緊張しながら迎えた二学期初めの席替え。
本来なら男子が隣になるはずだったのに、男女の人数比でなぜか隣同士になってしまった事。しかも最後尾の窓側に女子が二人。
教壇側からは嫌でも浮いて見える妙な構図に席についた瞬間、あまりに可笑しくて二人だけでなく、クラス中が揃って笑っていた。
それまではお互いただのクラスメートだったのに、それ以来、貴子と由紀子の間には奇妙な友情が生まれた。
一緒に学校帰りにプリクラを撮ったり、ファーストフード店に行ってハンバーガーを食べたり、ドーナツを食べたり、ケーキバイキングにも行った。休みの日には一緒に洋服を見に行ったりもした。
恋愛映画を二人で観に行って、ラストシーンに大泣きした貴子を由紀子が肩を抱いて慰めてくれた事もあった。二人でその映画の感想を映画会社の人に話していたら、なぜかカメラが回っていてテレビの宣伝用のCMにちゃっかり二人が映っていて、しばらくの間、その話をクラスや部活の皆に、からかわれたりもした。
何をするでもなく、街を行くカッコイイ男の人を眺めては好きな男子の話で盛り上がってみたり。
由紀子とは、ずっとこの関係が続くと思っていた。由紀子も同じだったはずだ。
それなのに…。
もう由紀子はいない…。
寂しい。とてもとても寂しい…。
ぽっかりと胸に隙間が出来たような虚無感と身体が引き裂かれそうな堪らない切なさと喪失感をこの時、貴子は始めて意識した。
貴子はもう一度、厚子の方を窺った。
貴子に訪れた、この胸の空白が、厚子に訪れるのは一体いつの事なのだろう?
果たしてそんな時は来るのだろうか?
彼女は未だに悪夢のような現実を受け止めきれないのか、酩酊した時のような足取りでフラフラと間宮に付き添われ、体育館から出ていった。
「鈴木、大丈夫か?」
突然かけられた自分を呼ぶ声に、貴子は恐る恐る体育座りのまま上を見上げた。
「先生…」
担任の山内が心配そうな表情を浮かべて貴子を見つめていた。クラスメートの何人かも貴子を心配げに見つめている。誰かに気遣ってもらうという、そのごく当たり前な優しさに、貴子は涙が出そうになった…。
貴子の心は今ようやく正常な機能を取り戻そうとしていた。
「私なら大丈夫です…」
貴子は泣きたい気持ちをこらえ、ようやくそれだけ呟くように言った。しばらくぶりに声を出したせいか、声が裏返った。
「そうか…。強いな、お前…。
警察の人から今、聞いたんだが、今日の所は事情聴取は終わりにするそうだ。お前ももう家に帰って大丈夫だぞ」
「はい…」
貴子は立ち上がり、山内に軽く一礼した。長く膝を抱えて座っていたせいか、足がひどく痺れて体がよろけた。
「誰か家から迎えに来てくれる人はいるのか? なんだったら家の方には俺が…」
「いえ…携帯がありますから平気です…」
「そうか…気をつけて帰れよ。明日の臨時の全校集会で皆には伝えるそうだが、無理して来なくてもいいからな…。今、表門はテレビやマスコミの取材で大変な事になってるから、まだ家族の人を呼んでないなら、職員用の西側の通用門から出るといい」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ…」
貴子は山内にそう言って、未だざわめく体育館を後にした。
クラリネットを部室に返し、二階の自分の教室に置いた鞄を取りに戻り、学園西側に位置する裏門と呼ばれている、職員用の通用門から出る頃には、周囲は既に茜色に染まり、真っ赤な夕日が沈みかけていた。
貴子はもう一度、校舎の方を振り返る。時計塔の針は6時29分を指していた。
「由紀子…」
そっと呟く。風に消え入るようなか細い声で、貴子は親友の名を呼んだ。
『貴子、一緒に帰ろ!』
瞼を閉じて、目を開けば、いつものように由紀子が笑いながら自分の名前を呼んで駆けてくる。
そんな悲しい妄想を抱いた。
「由紀子…」
由紀子はもういない…。
跳ね回るように動き回る躍動感の塊のようなその体も、パタパタとよく動く後ろ髪も、右の頬に笑窪を作りながら笑う可愛い仕草も、貴子の名前を呼ぶ元気で明るいあの声も…。
由紀子はもういない…。
「うぅ…うっ…由紀子…。由紀子ぉッ…!」
一度堪えた涙がじわりと貴子の目を伝った。ぐにゃりと周囲の景色が歪んだ。
世界が予め決められたモノであるなら…。
自分で見て、聞いて、嗅いで、触れて、感じているこの世界のすべてが、実は嘘のように儚い夢のようなものなのだとしたら。
人の運命は不可逆的な時間の流れに支配され、ただ人それぞれの命が漂うようにして生きている事になる。
悪夢ならいっそ覚めてしまえばいい…。
いい夢ならずっと見続けていたい…。
こんなのあんまりじゃないか…!
その時、時計塔の鐘が一日の最後を告げる、澄み切った音を周囲に響かせた。
冷たく、啜り泣くような風が吹いていく…。
茜色に彩られた周囲の景色が涙で滲んで…。
貴子は世界が見えなくなってしまった。
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「うそっ! お腹が出て来てる!?」
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