暁の魔術師

久浄 要

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悪意と豪雨

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16

玄関のガラス扉を開け、校舎に入ったとほぼ同時にノイズのようなザアッという雨音が貴子の周囲を襲った。

貴子は強風のせいで開閉しづらくなったガラス扉を、力いっぱい両手で閉めた。

恐ろしく風が強い。

ギョオオッという未知の獣が放つ遠吠えにも似た強風がガタガタと校舎中の窓という窓を細かく振動させているようだった。

窓ガラスにはいくつも雨の滴がぶつかり、みるみるうちに流れ落ちては透明な景色が歪んだ。

灰色の絵の具を幾重にも塗り重ねたような黒雲が空一面を覆い隠した、夕立ちというにはあまりに突然な六月の豪雨だった。

ゴロゴロと俄かに唸りを上げ始めた空の向こう側で今しも雷鳴がピシャリと白い閃光を放ち、どこかに落ちるのではないかと貴子は不安になった。小さい頃から雷は大の苦手だった。

カメラのフラッシュのようなあの網膜を一瞬で眩ませるような白い閃光も。たとえ遠くにいても間を置いてから訪れる耳を引き裂くような強烈なあの音も、あの時間差も体の芯を貫かれるようで本能的に怖い。雷は大嫌いだった。

貴子はおどおどと暗い校舎の内部を見渡した。先ほど時計塔の時刻は午後4時42分を指していた。

まだ夕刻だというのに薄暗く、僅かに湿り気を帯びた校舎の冷たい空気が貴子の心を不安と焦燥へ駆り立てた。

普段は見慣れているはずの校舎の壁や天井までが、なんだか未知の生物の胎内にでもいるようで気味が悪かった。

低い姿勢で薄暗い廊下の向こう側に目を凝らすと、各学年毎に等間隔に仕切られた広いスペースの靴棚が見える。

玄関ホールから死角となる廊下の角の暗がりに潜み、二人は息を殺して入口の方を油断なく窺った。

例の事件の影響が未だに尾を引いているのか、それともまた何か別の事件でも起こったのか、部活もなく今日も早々に放校となった放課後の校舎。ザッと見渡しただけだったが、表に人影はなかった。

雨宿りの目的で、わざわざ校内に入ってくるような部外者がいるとは思えない。

ボーガンなどという目立つ凶器で襲撃してきた人物が何者かは知らないが、この位置なら確実に相手を確かめられるはずだ。相手にとっても、この突然のどしゃ降りの雨は予期せぬ事態のはずだった。

貴子は今しも血に飢えた殺人者が玄関ドアを開け、無理矢理校舎に入って来るような気配に胸をざわつかせながら、先ほどの悪夢のような出来事を思い出していた。

貴子をいきなり襲った矢は花園の周囲にある木々の合間から、木立の隙間を縫うように飛んできた。

つまり襲撃者は、まだ外にいる事になるのだ。

しかし、貴子の命を狙う不信な輩どころか、誰かが玄関からやって来る様子はまったくない。

豪雨と暴風に吹き荒れる修羅場と化した表の景色とは対称的に、校内は不気味なほどの沈黙に包まれている。

「おかしいわ…。誰も来ない…」

「うん…。どこかに行っちゃったのかな?」

貴子は近くのガラス窓から外の様子を覗こうと身を乗り出そうとした。

「バカ!」

隣にいた女は鋭く叫ぶと、慌てて貴子の頭を無理矢理低い位置に下げさせた。

「覗いちゃ駄目よ!
相手はボーガンを持ってるのよ! 外から射抜かれたりしたらどうするの! ほとぼりが覚めるまで表には出ない方がいいわ」

「けど…けど、このままじゃ私達だって!」

「しっ! 静かに…!まだ校内に人が残ってるかもしれないでしょ?
何かあってから騒げばいいわ。今、先生とかに見つかったら、かえって厄介だよ」

「う、うん…。迷惑かけて本当にゴメンね。それと…助けてくれてありがとう、奈美…」

貴子は自分を助けてくれた髪の長い女…クラスメートの沢木奈美へと改めて声をかけた。

傍らの奈美は貴子に向かってそっと微笑むと、今のやりとりが誰かに聞かれていないかどうか、もう一度油断なく周囲を警戒しながら貴子を自分の背中でかばうようにした。

貴子は背中越しの奈美の横顔を見た。

教室でも普段はあまり結んだりしているのを見た事がない、ストレートの長い髪。

すらっとした身長とスレンダーな体格といい、ポニーテールにしていると本当に由紀子と見間違えるほどだ。

しかし当たり前だが、こうして間近でよくよく見れば由紀子と奈美では、まるでタイプが違う。二人とも活発でハキハキした話し方をする所はよく似ているが、女性らしい柔らかな雰囲気を纏った由紀子に比べ、奈美は動きや仕草が俊敏で、雰囲気もよりしなやかな印象を受ける。

さすが空手部のマネージャーだ。とっさに貴子を庇ってくれたあの身のこなしといい、運動神経は抜群にいい方だろう。

あの時。

明らかに貴子に向けて放たれた一条の矢。

総身が粟立つような、冷たく容赦のない剥き出しの悪意をそこに感じ、改めて貴子は戦慄する。

ようやく実感してきた恐怖に、今頃になっておかしくなったように膝がガタガタと笑い、身体は小刻みに震えている。

奈美が助けてくれなければ、本当にどうなっていたかわからない。襲撃者を確かめようと言い出したのも奈美だ。

「動揺しちゃ駄目。つけ込まれたらヤバいし。こんなふざけた事する奴なんか許しちゃおかないわ。貴子…アンタも落ち着いて相手が誰か確かめるのよ。…ね?』

まるでいつぞやの勇樹のように頼もしいクラスメートはそう言って微笑むと、貴子の手をギュッと握って勇気づけてくれたのだった。

「ゴメンね…。全然関係ない奈美を危ない目に合わせて…」

「また謝る。さっきからこれで三回目。貴子の悪い癖だよ、そういうトコ」

「うん…。ゴメン…」

「ほら、またぁ」

奈美は呆れたように笑った。

いつも通りの奈美の笑顔につられて貴子もつい状況を忘れて笑ってしまった。休み時間の教室にいるようだった。

奈美の笑顔に勇気づけられ、貴子は幾分かホッとした。

互いの息遣いと、少し穏やかになった雨の音が、シトシトと断続的に聞こえてくる。

外は相変わらず風が強い。窓から見える中庭の木々が、頼りなげに大きく揺れている。

貴子はふうっと溜め息をついた。

ホッとすると、何もできない自分がなんだか無性に情けなく感じてきた。

…なんでこんな事になっちゃったんだろう?

最初は由紀子の死がどうしても信じられなかった。心のどこかで由紀子がいなくなった事を認めたくなかった。

それでも割り切らなければと、せめて由紀子が死んだ原因が知りたくなって…。

だから由紀子の記憶をしっかり留めておきたいという勇樹に協力しようと思ったのだ。

強い仲間に共感する事で、また新たな道が見えてくるんじゃないかと願いながら。

浅はかだった。そして、迂闊だった。

まさか、自分がこんな形で事件の当事者になってしまうなど思いもしなかった。

貴子は今や、由紀子のもう一つの貌を知ってしまっている。知らなくてもよかった事だった。知らずにいれば、傷はそれなりに深く、それなりに悲しんではいたかもしれない。けれど、いつも通りの日常を送れているはずだった。

由紀子を知りたいと思う気持ちが今や、由紀子への不信感に変わってしまっている。

売春している生徒達の事を知ってしまったばかりに、逃れようのない、救いのない現実が待っていて、そして、いつの間にか思考の袋小路に追い詰められている。

では、貴子が完全な傍観者のままでいたら、こうはならなかっただろうか?

…いや、望む望まないに関わらず、人は完全な傍観者にはなりきれないのかもしれない。

貴子はそう思い始めている。客観的に何かを知ろうとする行為はきっと、自分自身が主体にどう影響を及ぼすかまで視野に入れて臨まなければ、貴子のように主体自体に飲み込まれてしまうという事だろう。

凄く怖かった。

命を狙われるという現実的な暴力と恐怖の前には、貴子はあまりに非力で無力だ。

子供のように誰かに手を引いてもらわなければ一歩も前に進めず足踏みばかりしている自分が凄くもどかしくて、貴子は自分が情けなくなった。

「いつも勇樹や奈美や由紀子に…誰かに守ってもらってばかり…。私って多分クラスで一番、鈍臭い女だよね…」

シュンとしょげながら膝を抱え、壁に凭れて震えている。まるで嵐に怯えながら穴の中で震えている小動物のようだった。

奈美は背中越しに黙って聞いていたが、ゆっくりと振り返ると優しげに微笑んで貴子の頭にポンポンと手を乗せた。

温かい奈美の手のひらの感触は、貴子に束の間の安心感を与えてくれた。

「よしよし。アンタはアタシが守ったげるからね。貴子…私や勇樹は関係ないだとか自分は鈍臭い女だとか、そんな風に言わないの。友達や誰かに貸しを作ったり頼ったりするのはそんなに悪い事?強がったって怖いものは怖いんだし、それが普通で当たり前なんだよ。それに…ほら、見て」

奈美はそう言って自分の足元を指差した。黒いハイソックスを履いた奈美の人形のような白い足が小さく震えていた。

「アタシだって怖いの…。本当ならこんなトコ、すぐにでも逃げ出したいくらいだよ」

「だったらどうして!?
わざわざ危ない事に関わらなくたって…」

思わず声が大きくなってしまった貴子の唇に、再び人差し指を立てて奈美は制止した。貴子は慌てて口を塞いだ。

「関わった以上、今さらほっとけないよ。それに私にだってちゃんと貴子や勇樹って仲間がいるでしょ?ねぇ貴子、強いとか弱いとか関係ないんだよ。一人じゃ大変だけどさ。二人ならなんとかなる。怖いけど大丈夫だよ」

「奈美…」

「貴子、私ね…」

奈美は貴子の隣に同じようにして、体育座りをした。

「一年生の終わり頃、勇樹と由紀子に助けられた事があるんだ。あの二人には、借りがあるの。だから貴子を助けたって訳でもないんだけどさ…」

「…何かあったの?」

聞いてしまってから、貴子は思わず後悔した。

何気なく尋ねた質問に奈美は僅かに表情を曇らせ、目を伏せた。あまり思い出したくない事なのかもしれない。

「それは…さすがに貴子にも今は言えないよ。けど、その時思ったんだ。やっぱり友達っていいもんだよなぁって。
警察の厄介になってる、あのバカから電話がきた時はアタシもさすがに驚いたけど、急いで来れて本当によかったよ。アタシでも誰かの役に立てるんだなって思うと何か
カッコイイしさ」

「…ちょっと待って!…警察!? えっ…? 奈美、まさか勇樹に何か…」

「須藤達の事、聞いてないの?」

「須藤君…? …あ!」

また叫びそうになって貴子は今度は両手で自分の口を塞いだ。貴子は声を潜めた。

「そういえば須藤君、学校に来てなかった…。街でひどい喧嘩した人達がいて、誰か退学処分になるかもしれないって皆が噂してたの…。何かの冗談だと思ってたのに…。…まさか、勇樹も?」

「あのバカは喧嘩に巻き込まれただけだって。夕方頃、あいつから電話が来たのね。
学校がヤバいとか、貴子が学校にいるかもしれないから助けてやれとか、とにかくテンパってる感じでさ。訳がわかんないなりに貴子がヤバいってのは、何となく通じたから急いで来てみたの」

そう言うと、奈美は貴子にではなくやや遠くを見るような目で豪雨に霞む表の景色へと視線を投げかけた。

「もう大事な友達を失くすのなんて、イヤだからさ…」

「奈美…」

長い睫毛に縁取られた意志の強そうな切れ長の瞳と、きゅっと結ばれた淡い唇。

優しげな眼差しの中にもどこか毅然とした強さが窺える奈美の横顔が、その時の貴子の目には凄く頼もしく、そして綺麗に映った。

不意につんと鼻の奥が熱くなり、目の前がぼやけそうになって貴子は慌てて鼻を啜った。

気がつけば、泣きそうになってばかりいる。

勇樹といい奈美といい、そして死んでしまった由紀子といい、貴子はなぜかこうした人達に引き寄せられる性質があるらしい。

プラス思考の人。温かい雰囲気を持った人。生を謳歌しているような明るい人。なんと呼んだって構わない。貴子とは真逆のタイプ。

ともすれば、ふとした事で暗い気持ちになり、気がつけば躁と鬱の間を行きつ戻りつしているような貴子のような不安定な人間に、トモダチはいつだって勇気をくれる。

『一人じゃない』

温かく、かけがえのないそんな言葉をかけられているように笑顔で手を差し伸べられ、支えられているような優しい気持ちになれる。

もちろんお互い言葉にしている訳ではない。けれど、なんとなく伝わる、言葉だけでは伝えきれない気持ち。そんな繋がりが凄く大切に思えた。

普段、学校で一緒の同じクラス。同じ女子。同じ仲間。普段はたいして意識しない癖に、そんな些細な繋がりや絆が今の貴子には凄く頼もしく、そして心強く思えた。

貴子は力強く頷いた。

奈美の言う通りだった。

由紀子が死んだ理由も、自分がなぜ狙われるのかも何も分からないまま、ただ事件に関わったばかりに殺されてしまうというのでは堪ったもんじゃない。

たとえ脅しだとしても、彼女達のこんなやり方だけは許せない。

「奈美、勇樹は電話でなんて言ってたの?」

「『事情聴取で動けないから大至急、確かめてほしい事がある』って。まさか、こんな事になってるなんてね…。
…でね、さっきも言ったけど勇樹ったら凄くテンパっててさ、電話でも一条先輩にはくれぐれも気をつけろ、とか貴子が危ないかもしれないなんて言うのよ。
アタシにしたら寝耳に水でしょ? あのバカが何でいきなりそんな事言い出したのか、さっぱりでさ。とにかく急げってそれはしつこく言うから、とりあえず来てはみたんだけど…」

「やっぱり…」

由紀子の親友とはいえ、貴子を巻き込んでしまった事を勇樹も気にかけていたのだろう。

貴子に直接電話してこなかったのが少し気になったが、勇樹には感謝しなければいけない。

「その様子じゃ、こんな物騒な事をする奴に心当たりがあるみたいね。聞かせてくれない?」

「うん…」

貴子は奈美に今までのいきさつを話した。

勇樹と二人で手分けして由紀子の死の原因を探っていた事。

由紀子が取材していたのは過去に学園の時計塔で起こった忌まわしい殺人事件かもしれないという事。その過程で由紀子は売春組織についても調べていたらしい事。

売春している連中はどういう訳かダチュラにローズ、リリーといった花の名前をコードネームのようにして互いを呼び合っていた事。

なんらかの形で由紀子はそのメンバーに関わっていて、メンバー内ではローズと呼ばれ、彼女達をサポートしていた節があるらしい事。

そして、図書室で図らずも売春組織の話をメンバー本人達の口から、貴子が盗み聞きしてしまった事。その事から連中のリーダーと思われる人物は、信じられない事だが、あの生徒会長の一条明日香である可能性が高い事。

二日前から、そして今現在も貴子を狙っていると思われる不審な出来事の数々。

もしかしたら、それは彼女の差し金かもしれない事。

貴子はできるだけ自分の感情や気持ちは交えずに、なるべく事実だけに沿って今までの経緯を説明するよう努めた。その方が自分自身も状況を整理しやすいと考えたからだ。

小声で説明している間、奈美は終始無言で貴子のたどたどしい説明にも神妙に頷いたり、逐一相槌を打ったりして、真剣に聞いてくれていた。

一条明日香の名前が出てくる下りになると奈美は形のよい眉をやや潜め、苦虫を噛み潰したような、やや困惑気味の表情を浮かべた。

「信じられない…。噂には聞いてたけど、本当にウリみたいな事をこの学園で平気でやってる連中がいるなんて…」

最低、と呟くと奈美は居心地が悪そうに暗い廊下へと視線を落とした。貴子も同様に俯いた。

自分達がしている訳でもないのに、二人はなぜか後ろめたい気持ちになった。

理由はわかっている。偏見と差別に満ち満ちた世間の偏った視線というものを、貴子も奈美も気にしてしまうからだ。

これはもう思い込みというより、呪いにかかったような感覚に近いのかもしれない。

女子高生は好きな事を自分たちの気の向くまま、どこまでも追いかける奔放で気ままな存在。裏を返せば性的な事には興味津々。金さえ出せば何でもする。そんな馬鹿馬鹿しい偏見が平気でまかり通るような風潮が世間にはあるのだ。

制服姿で街を歩いていたら、怪しげな男が突然声をかけてきた、という経験は貴子にもある。

貴子はたまに、世の中がひどく歪んで見える時がある。

セクハラや痴漢といった性犯罪がなくならないのも、考えてみれば当たり前な気がした。

どうして男は勝手な思い込みが多いのだろう? 売春であれ何であれ、どうした所で買う側の人間が悪いに決まっているのだ。

男の視線に立つと、世の中はどうしても歪んで見えてしまうような気がする。

男も女も閉鎖的になって恋愛に臆病になったり、男女で殊更慎重になったりする背景には、そうした個人が感じている世間のズレがあるせいなのかもしれない。

生意気にも、貴子はそう感じてしまう。

そして、女もそうだ。

たとえ金銭目的であれ興味本位であれ、好きでもない男と性行為に及ぶ女の気持ちなど、痩せっぽちで地味な貴子にはやはり理解できない。たとえ貴子が人も羨むような美貌やスタイルの持ち主だったとしても、それは変わらないだろうと思う。

性的な興味があるかないか、自分に女としての魅力があるかないかは別にして、貴子は少なくとも自分を今が旬のJK…女子高生だとブランド品のように軽く考えて簡単に自分の身体を売りたいとは思わないし、そんな事で始まる色恋沙汰など断固として嫌だ。たとえ貧乏でも、そうした事が好きでも躊躇するだろう。

買う奴も売る奴も勝手だ。

全体を歪めているのは結局は数の力なのだ。

援助交際は確かによくある話なのかもしれないし、この学園だけの話じゃないというのもわかる。それだけに余計に腹が立つ。

「でもさ、なんで一条先輩が…? あの人までウリに関わってるっていうの?」

「うん…私も信じられないよ。でもね…最近一条先輩がちょくちょくB組の教室に来て由紀子を呼んだりしてた事あったじゃない? 奈美は覚えてない?」

「うん…何回か先輩を見た事はあるよ。クラス中、騒いでたしさ。でも新聞部の事とかで来てたのかもしれないじゃない。相手は生徒会の役員なんだよ?」

奈美はあくまで懐疑的だ。

無理もない。彼女の立場なら確かに無理もないのだが…。

「うん…わかってる。
自分が凄く馬鹿な事言ってるなって。でも私、あの人どことなく怖いの…。
あんな綺麗な顔して何でも出来る感じなのに、なんか捉えどころがないっていうか…。うまく言えないんだけど、何だか出来過ぎてるっていうか…」

「そりゃ彼女をやっかみ半分で見たらそう思うのかもしれないし、アンタを全く信用しない訳でもないんだけどさ…。
…でも、どうして?一条先輩の家ってお金持ちだし、成績も優秀だしモデル並みに美人だし、生徒会で何人も人を動かしてるしさ。将来有望で非の打ち所のない、作り物みたいに完璧なお嬢様じゃん?
…だいたい、彼女が売春する必要なんてどこにあるのよ?よりによってそんな雲の上の人が売春組織のリーダーだなんて言い出すの、アンタくらいよ」

否定されると自信がなくなってくる。貴子は力なく押し黙ったまま俯いた。

確かにこの二日間で貴子の身の回りに起こっている事はあの時、図書室で起こった状況から推察しただけの、いわゆる貴子の想像にしか過ぎない。真に彼女が誰かに下した指示によるものなのかどうかは、本当に分からないのだ。

事件にも、そもそも彼女は関わっているのだろうか?

あの時、由紀子と最後に会話したのが彼女だという噂があるだけで、事件へ直接どう関わっているのかとなると推論しようがない。

だが貴子は思い出す。

図書室で聞いた、天使のような顔からは想像もつかない、ぞっとするようなあの声を…。

貴子はあの短いやりとりの中で、彼女の内におりのように潜む悪意を確かに垣間見たような気がするのだ。

もちろん、これも貴子の印象による自分勝手な直感でしかない。

しかし…。

学園でも目立った存在ではない貴子のような平凡な女生徒を彼女は名指しで注意してきた。貴子にとっては正に青天の霹靂だ。夢でも見ているとしか思えないような出来事だった。普通なら芸能人に声をかけられたぐらいのドラマチックな出来事なのだろうけど…。

何もかもが突然過ぎて、まるで現実感が伴わなかった。

売春組織にした所で実際に何人いるのかまでは分からないし、貴子は実際に声まで聞いているのだが、相変わらず彼女達は姿なきシルエットのような存在だった。

それにしても。

改めて事実関係を整理して並べてはみたが、由紀子の事件を契機にして、不意に貴子の周辺で様々な不穏な出来事が、立て続けに起こり始めたように思える。

当たり前な日常から非日常の世界にいきなり入り込んでしまったようだ。まるでたった一つしかない時計の歯車が壊れて噛み合わなくなり、いきなり構造全体が歪み始めでもしたかのような…。

待てよ。

…時計?

時計塔。

あの気味の悪い時計塔こそ、過去に忌まわしい事件の起こった場所ではなかったか?

由紀子はその事件を取材していたのだ。おまけにあの時計塔には、七不思議にまつわる禁忌というものまである。

妙なタブーが存在したり、過去に何かしらいわくのある教師達が学園に存在したり、それを告発する悪意ある何者かがいたり、そもそものきっかけはあの時計塔に端を発しているように思えてならなかった。

まさかとは思うのだが、由紀子や過去に死んだ女生徒がそうだったように、あの場所には本当に『時計塔の魔術師』なる怪人が住んでいて、関わった人間は生贄にされる場所だとでもいうのだろうか?

事件と前後するかのように、突然なくなった由紀子の髪留め。

自殺としか判断できないのに、自殺とは到底思えないような、由紀子のあの死に方。

由紀子の笑い声。

見下ろす時計塔。

その時、形のないキーワードが突如として頭の中で重なり、貴子は一つの閃きを得た。

「…そうか! 時計塔だ!」

俯いた姿勢からいきなり叫んだ貴子に、奈美はビクリと驚いて怪訝な顔を向けた。

「びっくりしたぁ…。脅かさないでよ。時計塔がどうしたのよ?」

「…ねぇ奈美、由紀子はどうして屋上なんかから飛び降りたりしたのかな?」

奈美は唐突な貴子の問いかけに、今度は困惑の表情を浮かべた。

「そんなのアタシに聞かれても、わかんないよ…。けど自殺するつもりだったとしたら、やっぱり屋上なんじゃないの?」

当然の返答に、貴子は即座に首を振った。

「違う。由紀子はいきなり自殺なんかしたりしないよ。それに自殺だとしたら、尚更あんな場所から飛び降りたりするのは変だよ」

「どうして? だって屋上だよ? 飛び降りて死ぬつもりだとしたら一番確実な場所なんじゃ…。あ…そっか! 時計塔か!
それで、時計塔なのね?」

「うん…屋上みたいな、あんな場所で自殺するのは凄く変だよ。近くにあんなに高くてもっと危なそうな時計塔があるんだよ?
あそこは校舎の上っていうか…外壁にくっつくようにして建ってるし、外側に階段はあるけど中は見えないんだもん。飛び降りるとしたら、できるだけ目立たないような時計塔の上の階とかで飛び降りると思わない?」

彼女達の言っていたアレとは何だろう?

由紀子が持ち出したモノとは何だろう?

彼女達が警察に発覚するのを怖れているからには、それは彼女達の決定的な弱みとなるものであり、逆に由紀子にとっては彼女達を告発する為の、何らかの証拠となるものではないのか。

貴子にとって幸いなのは少なくとも由紀子は客をとっていなかった…売春などしていなかったというリリーのあの言葉だ。

これは由紀子は彼女達の完全な仲間ではなかった可能性を示唆している。穿った見方をすれば由紀子は最初から彼女達を裏切るか、告発するつもりで仲間に入ったのかもしれない。それはなくなってしまったモノが彼女達の手元にないか、あるいは足りないかが判明して彼女達が焦っている様子からも窺える。

あるモノとは犯罪性のある物であり、売春の際に利用できる物だ。

目立たない場所に隠せるほど小さなモノではないだろうかという想像もできる。

仮に由紀子がそれを隠し持っていたとして、では由紀子はそれをどこに隠したのだろう?

誰かに預けるには危険過ぎるモノだと取りあえず仮定してみる。

まず新聞部の部室や教室など、人目につくような場所には置けない。誰かに探られる事を考えれば自分の鞄や机の中などは論外だ。

自分も組織とは無関係ではない以上、自分の家にも置いてはおけないだろう。

…では、どうする?

一番安全な隠し場所は?

自分が肌身離さず持っている方法が、一番安全ではないだろうか?

そこで由紀子の髪留めだ。

あのムスカリという赤い髪留めの偏光グラスの部分は亀の甲羅のような形をしていて、アクセサリーにしては大きいし、取り外せるようになっているのだ。

中が空洞になっていてピルケースの代わりにしてる女性もいると、買う時にショップの女性店員も苦笑いしていた。

もし貴子が由紀子の立場だったとして、人知れず何かを隠すとしたら髪留めの中というのは盲点だ。いいアイディアだと思う。

もう一つ仮に…警察も押収していない遺留品がまだあったとする。

捜査の過程で、もしそれが出てきたら、真っ先に売春している少女達を摘発してもよさそうなものなのに、未だにその気配がないのは、それがまだ見つかっていないからではないだろうか?それは由紀子の隠し方が巧妙だからではないのか?

厭な像が形を帯び始め、徐々に得体の知れない絵になって浮かび上がってくるのを感じる。

仮に由紀子が誰かに殺害されたのだとしたら、それはなくなってしまった物と無関係とは思えない。いや、それこそ人一人が死んでしまうだけの動機に成り変わるものではないだろうか?

そして、おそらくそれは、殺害の方法とも無関係ではないのかもしれない…。

人が狂って飛び降りてしまうようなモノ。

人が人でなくなるきっかけを与えるモノ。

もちろん、これらの推論は全て貴子の想像にしか過ぎない。物的証拠など皆無に等しい。しかし…。

「貴子…」

突然黙り込んでしまったのを気遣うように、奈美は貴子を静かに呼んだ。

「さっきは言うの忘れてたんだけど、勇樹が確かめてほしい事があるって言ってたの」

「うん…」

「それが妙な頼み事でさ…。実はね、時計塔を調べてみてほしいっていうの…」

「勇樹が…?」

「うん。すぐに自分も駆けつけるから、その時に説明するからって…」

どうやら勇樹も過去の事件を探りながら、何かに行き当たったのかもしれない。

勇樹と貴子に奈美を加えて、それぞれに持ち寄った内容を今こそ比較検討してみる時が来たのかもしれない。そうした意味では、あの時計塔は最適な場所かもしれなかった。

貴子の推理とも呼べない、この推論を裏付ける、物的証拠があの場所に存在するかもしれない。そう思うと気持ちが徐々に逸る。

貴子一人だけでは不安だ。狙われているし、何より自分の考えに自信がない。

奈美という心強い味方を呼び出してくれた勇樹の英断には感謝だ。警察が引き上げた今こそチャンスかもしれない。

「勇樹ももうすぐ来るんでしょ? …ねぇ奈美、時計塔に…時計塔に行ってみようよ!」

後で思い返せば、この時の貴子はきっと由紀子と同じだったのだ。

ただ、知りたい。

たったそれだけの好奇心に突き動かされるように、何かに導かれて…。

地面を打つノイズのような雨音と誰かの悲鳴にも似た風の音が、窓の外を吹き荒れている。

薄闇が黒々と、学園という名の閉ざされた世界に浸食してくる中、時刻は間もなく夕方の17時を迎えようとしていた。
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